旧制中学・高校の学制を並べたくなりました

神戸にお住まいの山口先生のお勧めで、氏家斉一郎(1926~2001)談・塩野米松聞き書き「昭和という時代を生きて」(岩波書店・2012年11月15日初版)を読み始めております。

氏家氏といえば、読売新聞の副社長から系列の日本テレビの会長にまで登り詰めた人で、ナベツネこと渡辺恒雄・読売新聞主筆の「片腕」ぐらいの知識しかありませんでしたが、この本を読むと、これまで全く知らなかったことのオンパレードで「へー、そうだったのかあ」と感心しきり、という凡俗な新聞用語が飛び出してくるほどです。

氏家さんは、大正15年(1926年)5月17日、東京生まれ。小生の亡父と同い年でした。(渡辺恒雄さんも同年5月30日生まれ。同い年ながら、氏家さんとは同窓の東京高等学校の1年上だったようです。)この本を読んで、父親の世代が青春時代にどんな時代の空気を吸っていたのかよく分かりました。

まだ、読売新聞社に入社する前の学生時代の話のところを読んでいますが、どうも、旧制の学制が戦後と随分様変わりしたため、読みながら、ここでちょっと整理したい欲望に駆られました。

その前に、「氏家」という名前は非常に変わった名前で、どこかの武将か由緒ある名家と思ってましたが、やはり、「信長公記」に出てくる「美濃の三人衆」の一人・氏家直元(大垣城主)がご先祖さまだったようです。

彼の祖父氏家広雄は帝大を出て弁護士になった人。父貞一郎も東京帝大法学部を出て、財閥「古河合名」の理事を務めた人。彼の従兄弟に当たる氏家純一は、野村ホールディングスの会長と経団連副会長も務めた人で、いわば、華麗なる一族だったんですね。

さて、彼の小学校は、昭和8年に入学した桃園第三尋常小学校(昭和16年から国民学校に名称変更)という公立学校でした。当時は、私立より公立の方が有名中学への進学率が高かったそうです。(他に、本郷の誠之小学校、青山師範附属小学校、番町小学校など)ちなみに、桃園第三小学校の出身者には、津島雄二氏(自民党元津島派会長、作家太宰治の女婿)や私も以前親しくさせて頂いた女優の三田佳子さんもそうなんだそうです。

当時の有名中学とは、旧制の府立中学です。(実は、早稲田中、武蔵中、麻布中、成城中など名門私立中学も既にありました)氏家さんが旧制中学に入学するのは昭和14年(1939年)4月ですが、その年までにあった11の旧制府立中学を並べてみますとー。

・府立一中→都立日比谷高校

・府立二中→都立立川高校

・府立三中→都立両国高校

・府立四中→都立戸山高校

・府立五中→都立小石川高校

・府立六中→都立新宿高校

・府立七中→都立墨田川高校

・府立八中→都立小山台高校

・府立九中→都立北園高校

・府立十中→都立西高校

・府立十一中→都立江北高校

氏家さんが入学した中学は上記のナンバースクールではなく、今は無き東京高等学校尋常科でした。これは、日本初の七年制の官立高校で、東京帝国大学の附属中学・高校の位置付けだったそうです。(90%近くが東大進学)旧制中学は5年制で、成績がよければ4年で卒業。旧制高校は3年制(ところが、戦時体制の昭和18年から2年制)。つまり、普通なら8年で大学(3年制)進学するところを、7年で大学進学するので、相当なエリート校だったのでしょう。

同期に歴史学者になる網野善彦(1928~2004)らがいました。同い年ながら一学年上に渡辺恒雄氏。氏家さんは昭和19年に、そのまま東京高校に進学。渡辺氏は高校を2年で繰上げ卒業し、入隊しますが、昭和20年の敗戦で、氏家さんは召集を免れます。戦後は、旧制高校を2年制にしていたのを3年制に戻す運動にも加わります。

ちなみに、氏家さんの父親は、自分と同じように第一高等学校に行ってほしかったようです。旧制高校の名門ナンバースクールは一高から八高まで8校ありました。

一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)

このほか、ナンバースクール以外で全国に創設された高校で、浦和水戸東京静岡松本福岡広島新潟高校などが東京帝大進学の上位校でした。

何か、今もあまり変わっていないような気がします。

おさらいですが、戦前は、小学校6年~中学5年~高校3年~大学3年(計17年)ということになり、新制の6~3~3~4年(計16年)より1年長いですね。飛び級があったからでしょうか。(他に専門学校や陸軍士官学校、海軍兵学校などのコースもあり)

旧制高校出身者は、もう90歳以上でしょう。できれば、もっとお話が聞きたいと思いました。

銀座で生まれた通信社

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡」(花伝社・2014年7月31日初版)を読み始めました。滅法面白いのでやめられません。

著者の鳥居英晴さんは、あの「日本陸軍の通信諜報戦 北多摩通信所」を書いた人でした。元共同通信記者。このリーフレットのような薄い本を私は2257円(送料・手数料込み)で買ったことを先日のブログに書きましたが、こちらの同盟通信社の本は広辞苑のような分厚い本で800ページ以上もあります。定価は5000円プラス税ですが、ネットでは1万9524円で新本が売られていました。

鳥居氏は、この本を書くために生まれてきたのですね。こちらも、大変読み応えがあります。自分自身、今まで知らなかったことがたくさん書かれていて、色々教えられます。

しょっぱなから、「通信社は銀座で生まれた」とあります。(13ページ)

銀座なら私の庭みたいなもんですから(笑)、猛暑の中、汗を拭き拭き、この本に出てきた通信社や新聞社跡を辿って歩いてみました。ただし、全く、面影も何もなし。記念碑や看板もないので、ここに新聞社や通信社があったことさえ分かりませんでした。

御存知、銀座の象徴とも言うべき4丁目の和光。服部時計店。ここに、銀座に初めて進出した新聞「日新真事誌」の社屋がありました。1873年(明治6年)7月のこと。経営者は、英国人ジョン・レディ・ブラック。彼は1863年(幕末じゃないですか)に来日し、1867年10月(まだ幕末)に横浜で、英字紙ジャパン・ガゼットを創刊しています。

銀座5丁目、銀座中央通りにある「イグジット・メルサ」。以前は「ニューメルサ」と言ってましたが、最近名前を変えたようです。今は中国系企業に買収されたラオックスなどが入り、ほとんど中国人観光客の溜まり場になっています。

ここにあの東京日日新聞社(現毎日新聞)があったというのです!1877年(明治10年)のこと。後に主筆・社長を務めた福地桜痴(源一郎)はこの年に西南戦争を取材しています。福地は歌舞伎座を創設し、劇作するなど演劇界に名を残します。東京日日がここにあったとはねえ。

銀座1丁目1番地にある京橋三菱ビルディングで、今は三菱UFJ銀行などになってますが、ここに、東京日日新聞と同じ年の1877年(明治10年)、読売新聞社の社屋が建っていたというのです。

銀座の端っこ、道を渡ると京橋です。

読売新聞は、今のマロニエ通りにあるビルと、旧プランタン銀座にあったと聞いてましたが、最初はここだったんですか。尾崎紅葉の「金色夜叉」が連載されていた頃の明治期の読売はここにあったんでしょうか。

朝日新聞は1888年(明治21年)、京橋区滝山町4番地(現銀座6丁目の並木通り)に大阪から進出します。

星亨が、自身が発行した自由党系の「めさまし新聞」を大阪朝日の村山龍平に譲渡して、それが「東京朝日新聞」と改題されます。めさまし新聞の社屋が、同じ滝山町にあったのかどうかは不明です。

今はこのように高級ブランドショップと外資系高級ホテルになって、新聞社もすっかり不動産業となっております。写真の中の手前には当時ここで校正係として働いていた石川啄木の石碑が建っているので、ここに朝日新聞があったことが分かります。

文芸欄を創設して小説記者となった夏目漱石もここに通っていました。斜め向かいに、漱石も好きだった「空也もなか」があります。

鳥居氏の本によると、日本最初の近代的通信社とされるのは「時事通信社」(今の時事通信とはまったくの無関係)で、1888年(明治21年)1月4日、京橋区木挽町5丁目4番地で生まれた、といいます。今の銀座6丁目13ということで探しましたが、苦労しました。恐らく、上写真の今の銀座ウォールビルだと思われます。

当時は、この辺りは、三十三間堀川が流れていて、今は埋められて道路になっていますから、昔の地図と見比べて歩いていたら、本当に難儀しました。

ここは、牧久さんの書いた「特務機関長 許斐氏利」にも出てきた、戦後直ぐに東京温泉のあった所だったと思います。どちらも、看板も石碑も何もないので、この本を読んでいなかったら、さっぱり分からなかったことでしょう。

時事通信社は、三井物産初代社長益田孝(鈍翁、茶人としても有名)が出資して社主となった会社で、政府の御用機関だったと言われます。益田は、社内報だった「中外商業新報」(後の日本経済新聞)も発行してますから、ジャーナリズムの世界にかなり食い込んでいたんですね。

銀座8丁目7-3の並木通り角に喫茶店「プロント」がありますが、ここはかつて、「新聞用達会社」があった所でした。同社は、改進党系の郵便報知新聞(後に報知新聞と改題)の社長矢野文雄が1890年(明治23年)1月10日に設立しました。当時の住所は、京橋区日吉町20番地。

この新聞用達会社と先ほどの益田孝の時事通信社が1892年(明治25年)5月9日に合併して「帝国通信社」となるのです。やはり、改進党系ですが、当時は、「国際通信社」と並ぶ二大通信社でした。

この「プロント」の斜め向かい側の銀座8丁目にある、今バー「ブリック」がある辺りに、国民新聞社があったというのです。

国民新聞は、1888年(明治21年)に民友社を起こした徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊。蘇峰も改進党に近い立場だったようです。

銀座6丁目の交詢社。福沢諭吉の提唱でつくられた日本最初の実業家社交クラブ。ここに福沢が創刊した時事新報社がありました。

時事新報、国民新聞、報知新聞は、戦前を代表する新聞でしたが、戦後、いずれも廃刊します。

交詢社通りを有楽町駅に向かった隣の隣のビルは、今、ヴェルサーチェなどが入居していますが、ここには、光永星郎が起こした日本電報通信社(後の電通)が1906年(明治39年)に本社を構えた所でした。

このビルの並木通りを渡った真向かいにホーン商会ビルがあったと言われます。このホーン商会ビルには、米AP通信社と英ロイター通信社などが入居していました。後に同盟通信社を設立する一人、古野伊之助は、新聞広告を見て、AP通信社の給仕としてジャーナリストとしての第一歩をここで踏み出すことになります。

何か、非常に感慨深いものがありますねえ。

国民はなめられている

 東京の調布先生です。
 ワールドカップ・サッカーの観戦で、皆さん、また寝不足のことでしょう。チャップリンが生きていたら、「サッカー狂時代」とかいうタイトルで、面白い風刺映画をつくっことでしょう。
 「渓流斎日乗」の読者の皆さんのようなインテリさんまで、「サッカー汚染」されるのですから、時の為政者安倍首相は「世の中は、チョロい。チョロいもんだよ」と一昨日は、二代目猿翁の稽古場跡の居酒屋「赤坂 うまや」で「忖度部下」と一緒にニンマリと酒を飲んでいるのです。
 そして、昨晩は、東京・赤坂のイタリア料理店「キッチャーノ」で、曽我豪(朝日新聞編集委員)、山田孝男(毎日新聞特別編集委員)、小田尚(読売新聞東京本社調査研究本部客員研究員)、石川一郎(BSジャパン社長)、島田敏男(NHK名古屋放送局長)、粕谷賢之(日本テレビ取締役報道解説委員長)、政治ジャーナリスト田崎史郎(元時事通信)と優雅にも食事しているのです。
 まさか、官房機密費から食事代が出ていないでしょうね。納税者として、曽我、山田、小田、石川、島田、粕谷、田崎の名前は覚えておくことです。特に、国営放送の島田局長は、わざわざ、名古屋から飛んできたんですか。。。国民から視聴料を簒奪している公共放送の幹部が、現場をほっぽり出したりしていいんですかねえ?誰も批判しないので、迂生が指摘しておきます。
 もう一回、まさか、と言いますが、「国民はバカだから新聞を読まない。これで、自民党も安泰、万々歳だ」「ごもっとも、ごもっとも」と茶坊主のような会話を交歓しなかったでしょうね?
 マスコミがスクランブルを組んで、時の最高権力者にこびへつらったのか、為政者が下々の生活を知りたくて昵懇のメディア関係者を呼びつけたのか、どちらか分かりませんが、さぞかし、藤原道長も催したことがないほど和気藹々とした懇親会だったことでしょう。いずれにせよ、国民はなめられているということですよ。
 そういえば、赤坂の居酒屋「うまや」には、昔、貴人と御一緒しませんでしたか? 亡くなった藤間紫さんと市川猿之助(猿翁)の稽古場を改造したお店で、迂生は何度も行きました。

でも、総理大臣が行くには、聊か不釣り合いですよ。若いミーちゃん、ハーちゃんが行って喜ぶような雰囲気です。

 

それから、「昭和シェル」との合併問題で「出光一族」が、賛否で内部対立しているようですね。数年前あった「大塚家具」の親と娘の家族対立みたいな構図です。創業者の出光佐三も、泉下で泣いていると思いますよ。それに、「村上ファンド」やインチキ弁護士、コンサルタント屋、周旋屋なども入り込み、内実は漫画みたいな展開になっていると思います。取材するには面白いと思います。

追河探訪記者がワクワクする素材です(笑)。

海城高校の同窓生と早めの忘年会 社長談義

東銀座「西邑」ひれかつ定食1100円

昨晩は、海城高校時代の友人と早めの忘年会を開いて、タイムマシンに乗って一気に高校生の悪ガキになってきました。

場所は、自著も多数出版している株式評論家の岡本君の行きつけの高田馬場の「梵天」という居酒屋。ここに行くのは3回目ぐらいですが、小生は方向音痴なので、またまた迷ってしまいました(笑)。

JR、西武線、地下鉄東西線の高田馬場駅から5分ぐらいというすぐ近くですが、途中の店前で長い行列があり、「何じゃらほいな」と思っていたら、今や某グルメサイトで、都内のナンバーワンに輝いたとんかつ屋さんの「成蔵」とかいうお店だということが後で分かりました。

私が通りかかったとき、50メールぐらいの行列がありましたが、甘く見ても「2時間待ち」なんだそうです。

何でこのお店のことが分かったかと言いますと、同窓会に参加した田中君の本職が宝石商で、日本全国を越中富山の薬売りのように歩き廻って行商し、数年前に出掛けた広島県福山市で知り合った人から「今度、ウチの息子が東京の高田馬場にとんかつ屋を出しますので宜しくお願いします」と頼まれていたというのです。凄い偶然ですね。

今や、ネットでの評判を見て、海外から観光客も訪れており、長い行列につながっているようです。

高校時代のクラスメートは、男ばっかし50人もいましたが、今回集まったのは8人。いやあ、皆、同級生ですが、年も年ですから、私以外は皆さん、随分と立派になったこと。芸能人が1人、会社社長が2人、会社役員1人、都心にある有名女子学園副校長1人…といった具合です。

銀座「岩戸」 いわしの天麩羅定食890円(いわしの天麩羅は写ってませんが、ボリュームがあって安くて美味しい)

昨日の話で一番驚いたのは、今回参加した3人だけが高校1年5組、担任福島先生の時に同じクラスメートだった木本君が大手百貨店の高島屋の社長になっていたということです。

えっ?あの木本が?

彼はおとなしくて、控えめで目立たず、いるかいないのか分からず、彼と会話した内容も覚えておらず、かすかに名前を記憶しているくらいだったからです。

大変失礼ながら、高校生の彼は、大企業の社長タイプに見えませんでしたねえ。

すると、磯君が「俺なんか、中学時代の同級生が社長になったよ」と言うではありませんか。彼はわざわざ学芸大附属中学から海城高校に進学した変わり種でした(笑)。

「誰なの?」と私。

「読売の山口」

「読売の山口って、あの読売新聞社の山口寿一社長のこと?」

「そうだよ」

ゲッ! これでも、私も業界の端くれの人間ですからね。驚きましたよ。

讀賣新聞を読もう!

par Keiryusai

昨晩は、飛鳥浄御原の料理店「銀座ろくさん亭」で、検非違使と、ブリュンヒルデ以外の8人のワルキューレらとジビエ料理に舌鼓を打ちました。

昼間の神祇官委員会では、野党のミスター年金がしつこく憲法改正の真意を問い詰めてくるので、「それは宰相として発言したのではなく、与党総裁としての信念を述べただけで、詳細は讀賣新聞を読んでもらいたい」と答えておきました。

讀賣新聞に関しては、「御用新聞ではないか」といったピント外れの批判があるようですが、断じて御用新聞ではありません。我が党の機関紙であり、あたくしのお爺さん以来の信念を代弁してくれる世界最大のクオリティーペーパーであります。

刎頸の交わりである讀賣新聞のナベツネ主筆とは、首相になれなかった我が父が毎日新聞記者時代以来の親友であり、あたくしのことを一番理解してくれております。それは、4月の飯田橋グランドパレス内の「千代田」での密約会談で確認されました。

しかし、讀賣新聞以外の新聞やテレビの中には変なことを言う者があまりにも多すぎます。読むに値しません。何でも「反対、反対」と言って済むと思っている。

par Keiryusai

こんな新聞に限って、あたくしが憲法改正に成功すれば、万歳を三唱してくれますからね。満洲事変以後、部数拡大のために、社説を大幅転換した時と同じです。

あたくしの憲法改正の具体策「自衛隊の明記」と「高等教育の無償化」について、「違憲であり、矛盾する。何も、高等教育無償化を憲法に明記する必要はない」と批判する人がいます。

あたくしも、高等教育無償化に関しては、法律に明記して処理すれば済むわけで、わざわざ憲法に明記することもないかとは思いますが、日本維新の会を取り込むためには仕方がない秘策だったわけであります。

東京オリンピックの年に期限を切ったのも同じです。目くらましになりますからね(笑)。

先人が、治安維持法を通したいがために、普通選挙法を表看板に掲げた同じ手口です。いわば、アメとムチでしょうかねえ。

par Keiryusai

それにしても、渓流斎の野郎は気に食わない。あの野郎は何を考えているのでしょうか。

今、唐軍が白村江に迫ってきてます。唐は最近、世界第2位の経済大国になったからといって軍事費を見たこともないほど増強しております。何度も何度も我が国の領海を侵犯しております。

金氏独裁支配の高句麗情勢がこれだけ緊迫している今日、憲法改正は緊喫の課題です。

他の新聞はどうでも良い。とにかく、讀賣新聞を読んで下さい!

「千代田」会談

アジフライ定食

昨晩は、東京・飯田橋のグランドパレス 日本料理店「千代田」で、小新聞主筆、水雷艦長、官房秘書、財界之財界さんらと食事会。

艦長さんの機嫌がすこぶる悪く、引き連れてきた若い水兵さんに対して急に豹変して、今村復興相の如く「おまえ、うるさい」「出て行け」と怒鳴り、その後、スッキリされたのかぐっすりと寝込んでしまいました。

会談の内容は、財界之財界さんから堅く口留めされているので、茲では書けないのが残念です。

共謀罪の話は、出なかったことになっています。

恐らく、誰も知らないでしょうが、この渓流斎ブログは、改編、引越し、中断、消滅、復活…と色々ありましたが、今年で12年目になります。

昨晩の会談でも、殆ど読まれていないことが判明し、これからも、誰容赦なく、気遣いすることなく、誰も読んでいないのなら、備忘録のつもりで続けてみるか、という気持ちを新たにした次第(笑)。

極秘情報 新聞業界の内幕

公開日時: 2007年11月11日 @ 11:20

昨日は、おつなセミナー。ゲストは某マスコミの内幕と昭和史を描いたI氏。こんな面白い話なのに、参加者はわずか十人ちょっとというので、驚いてしまいました。セミナーのメンバーは500人くらいいるんじゃないかと思いますが、出席率の少なさには本当に驚きです。

こういう話は、どうも、色々と差し障ることが多く、著作権やら秘匿の暗黙の了解があるので、色んな事を暈して、備忘録書きにしてしまうことをお許しください。ですから、興味がない人にとってもはつまらないかもしれません。

●日本一の新聞社だった大阪毎日新聞社は、三井系など大阪財閥の資本で創刊されたもので、その後、昭和17年に財団法人毎日会を作り、「社内株」に転換した。

●日本経済新聞社の前身である中外新報も三井系の新聞だった。戦前までは、日経よりも、福沢諭吉の創刊した時事新報の方が権威があり、企業の決算報告等は時事新報に掲載されていた。大隈重信の創刊した報知新聞(今のスポーツ新聞ではない)とライバル紙で、新聞界でも早稲田vs慶応の様相が見られた。

●時事新報は、朝毎読の販売店抗争で徐々に部数が低迷する。福沢の死後、鐘紡社長の武藤山治を招聘して梃入れを諮るが、いわゆる帝人事件にからんだ番町会キャンペーンが遠因で、武藤社長は、テロ攻撃に遭い射殺され、ますます衰退。戦後、この時事新報を買収するのが、産経新聞を創刊した前田久吉。前田は、元々大阪西成区の新聞販売店主だったが、地域のニュースをフォローした南大阪新聞を作り、後に、東の「日本経済新聞」に対抗する西の「産業経済新聞」にまで発展させる。前田は後に新聞経営をやめ、関西テレビや日本電波搭の経営に残りの半生を捧げる。

●新聞販売店の収入の半分以上は折込広告で占める。(1部5円)今や少子高齢化で部数が低迷し、これに拍車をかけて若者が新聞を読まない。マンションが増え、拡張もできない。将来性がないので、新聞店主を目指すより、コンビニ経営をした方がいいという若者が増えることになる。

●新聞社の経営に二つのタイプがある。一つは社主家。(朝日の村山・上野家、読売の正力家、娘婿の小林、関根家、河北新報の一力家、中国新聞の山本家、信濃毎日の小坂家、日本海新聞の田村家)、もう一つは社団法人。(徳島新聞、名古屋タイムズ、共同通信)

●販売の神様:読売の務台光雄、朝日の永井大三

●特にスポーツ新聞と夕刊紙の部数急降下が昨今著しい。原因が、大リーグなど海外のスポーツが入ってきて、締め切りの関係で朝刊のスポーツ氏は一日前の話になってしまう。駅売りのスポーツ紙には色物のページがあるが、家に持って帰れない。オウム真理教の影響で駅にゴミ箱が減ったためだ。

●読売ランドは読売新聞の裏金庫だった。競艇の川崎オートや船橋オートも読売ランド。ゴルフ場は最近もうからなくなったので、社会老人福祉施設を作って売り出す構想。

これらの話はネットでも色々と噂が流れているので新味がないかもしれませんね。

さて、今のようなネット社会で、新聞業界より逸早く痛手を受けているのは旅行業界だそうです。旅行代理店には航空券を販売すると5~7%のマージンがあったそうですが、来年からこのマージンも廃止されるそうです。ということは、旅行代理店で、航空券は販売しなくなってしまうのかもしれません。皆、ネットで直接、航空会社からチケットを購入してしまうからなのです。

要するに「代理店」という社会的役目がだんだん、低下していくということです。アルマーニ、ヴィトン、フェラガモなど何でもいいのですが、ブランドものの輸入代理店も同じです。消費者が直接、ネットで注文してしまうので、代理店はいらなくなってしまうのです。

こうなると、世界最大の広告代理店も安閑とはしていられなくなりますね。

テレビも今までのように高給で胡坐をかいている時代は終わることでしょう。「私家版・ユダヤ文化論」を書いた内田樹氏が、先日、毎日新聞紙上に、フジテレビの株がこの7年間で293万円から23万円にまで、10分の1以上も値下がった、と呆れています。「テレビには先がない」とまで公言しておられます。そして、どうしてこういう情報は報道されないのか、と怒りながら、疑問を投げ掛けております。

色々、本当に最近、時代は目まぐるしく動いています。