「陸軍第四師団と関西財界人平生釟三郎」と「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティー」=第46回諜報研究会

10月15日(土)にオンラインで開催された第46回諜報研究会に参加しました。

 諸般の事情が御座いまして、諜報研究会のことをブログに書くのは、本当に久しぶりです。言い訳がましいのですが、茲では書けない理由の他に、自分自身のCPUの処理能力が格段に劣化して、講演者の話されるスピードの速さもあり、メモが全く追い付かず、それに輪を掛けて理解力も低下しているため、正直、とても字にすることが出来なかったのでした。

 早い話が、レベルが高過ぎて、ついていけなかったのです。

 しかし、今回は、研究会の屋台骨を支えている事務局長が登壇されたこともあり、「諸般の事情」を乗り越え、万難を排して、特別に書くことに致しました。

 最初の報告者は、中央大学国際情報学部講師で、インテリジェンス研究所事務局長の正田浩由氏です。タイトルは「陸軍第四師団と関西財界人平生釟三郎」です。

 平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)といえば、個人的に、直ぐに甲南学園の創立者で、教育者のイメージが強かった人でした。「個人的」というのは、神戸にある甲南大学が、東京駅に隣接する高層ビル内に「ネットワークキャンパス」なるものを設置し、ここで、社会人向けにセミナーを開催しており、私も何度か参加したことがあったからです。そのキャンパスというか、教室の入口付近に大きなパネルが何枚か展示されていて、そこに、甲南学園創立者の平生の大きな全身写真があったのでした。そこで、私は初めて平生釟三郎なる人物のことを知り、「教育者」としての印象が脳裏に刻まれたのでした。

 その平生釟三郎(1866~1945)は、報告者の正田氏によると、関西財界人で「日本財界の巨頭」、もともとは軍縮論者だったのが、大阪の陸軍第四師団(師団長は阿倍信行から寺内寿一)との交流で、取り込まれる形で親軍派に転向し、最後は「東条内閣の財界での最大の支柱」になった人だというのです。(その間、広田弘毅内閣の文部大臣、北支那方面軍経済最高顧問、大日本産業報国会会長などを歴任)

 時代的背景として、1930年ロンドン海軍軍縮会議で全権だった若槻礼次郎(元首相)が帰国した際、民衆に熱狂的に歓迎され、軍縮ムードが高まっていたところに、統帥権干犯問題や浜口雄幸首相襲撃事件などがあり、翌31年に満洲事変が起きると、当時、最も影響力があったメディアだった新聞も急に軍縮から軍国主義礼賛に方向転換した経緯があります。

 平生が、第四師団参謀長の後宮淳(うしろく・じゅん=後に陸軍大将)らと接触するうちに、短期間で自分自身の考えを変えた要因の一つとして、既成政党の腐敗があったのではないかと正田氏は分析していました。当時の政友会と民政党という二大政党が、党利党略で政権奪取のためには手段を選ばず、政争に明け暮れていたことに平生は嫌気がさし、次第に軍部に同調していったのではないかというのです。

 私自身は専門家ではないので、単なる受けおりの知識ではありますが、戦前の政党と言えば、明治以来、政友会=三井、憲政会(民政党)=三菱(首相になった憲政会の加藤高明は岩崎弥太郎の女婿で、「三菱の大番頭」と揶揄された)といった具合で財閥との結びつきが強かった印象があります。だからこそ、血盟団事件で団琢磨・三井総帥ら財界人まで襲撃されたのでしょう。政治家を操る背後に財界人がいる、と大衆まで見抜いていたのです。

 となると、平生釟三郎の場合、東京高商(現一橋大)を出た後、三菱系の東京海上の常務にまでなった人ですから、かつては民政党に肩入れしていたことがあったのか? また、東京海上を退社後、1937年から41年まで日本製鉄の会長と社長を務めていましたが、いつ、関西財界人になったのか、よく分かりませんでした。質問すれば良かったのですが、頭が混乱し、あまりにも初歩的過ぎる疑問でしたので、質問すら出来ませんでしたが…(苦笑)。

 次に登壇されたのが、日大危機管理学部教授の小谷賢氏。タイトルは「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティー」でした。

 既に、小谷氏が8月に上梓した「日本インテリジェンス史」(中公新書)を読んで、自分なりに「予習」をしていたので、話の内容はかなりよく分かりました。テレビに出演される方だけあって、プレゼンが簡潔で巧く、分かりやすかったことは確かでした。

 ただし、この本について、渓流斎ブログで取り上げた際に、誤植を指摘したり、スパイ防止法や特定秘密保護法の制定推進派のデメリットとあやうさなども批判したりしたため、もし本人が読んだら気分を害するだろうなあ、とヒヤヒヤでした(苦笑)。

 そのため、質問も出来なかったのですが、小谷氏は最後の方で、「やはり、戦前の憲兵や特高はやり過ぎだったと思う。自民党の後藤田正晴氏が政界引退後に、町村信孝氏が日本のインテリジェンス改革に熱心だったのは、父親の町村金五が内務官僚で、厳しく取り締まり過ぎた罪滅ぼしみたいな側面が少しあったからではないか」などといった趣旨の発言をされたので、本で読んだ著者の印象がガラリと変わり、ブログではちょっと書き過ぎたかなあ、と私も少し反省しました。

 講演の内容の結論的な話は、戦前の陸海軍、外務省、内務省による縦割りの情報運用が戦後も引き継がれ、警察(内閣調査室)、公安調査庁(法務省)、外務省、防衛省という縦割りの省庁ごとの運用が続き、今でも、国家レベルではなく、省庁レベルでのインテリジェンス運用にとどまっているといったことでした。

 その点に関して、講演後に参加者から質問がありましたが、小谷氏は「戦前は、『国体護持』と言っておきながら、全然違う。天皇に情報を上げていない。戦後も自分たちの省庁や組織のために働いてはいるが、国(全体)のためにやっていない。教育の問題もあるかもしれませんが」などと答えていました。

 確かに国家存亡の危機に見舞われた時に、インテリジェンスは重大で、大きく作用します。それなのに、官僚が自分自身の出世のために、主権者である国民に対してではなく、自分の組織の上司の顔色だけを窺っているようでは、どうしようもありませんよね。

 せっかく、日本は、英国でさえ持っていない世界に誇れるスペックの高い自前の人工衛星を保持しているといわれてますから、情報を有効活用しなければ税金の無駄遣いです。結局、日本のインテリジェンスの将来は、政治家だけでなく、現場の官僚のマインドにも掛かっているという状況がよく分かりました。

 私も仕事で、霞ケ関の人たちとやり取りしていますが、彼らは機密情報でも軍事情報でも何でもない、単なる、例えば伝統工芸の大臣表彰者に関するマスコミにとっての必要情報(発表日時や表彰者の出身都道府県など)を「前例がない」との理由なのか、出し惜しみするのです。明らかに上から目線で、こちらから何度も何度も電話を掛けさせて、「官尊民卑」丸出しです。

 ですから、全員ではありませんが、エリート官僚さまは、民間である国民のことなど一切考えず、自分の出世と自分の省庁のことしか考えていない、そして、秘密でも何でもない情報までも出し惜しみすることを肌身を持って感じております。

 本日はこれが言いたくてブログを書きましたが、結局、書くのに5時間以上も掛かりました。タイパ(時間効率)が悪いよなあ〜!!

【追記】2022.10.17

 ・このブログを読まれた報告者の正田浩由先生から早速、「回答」がありました。(一部補充) 

 「平生釟三郎を関西財界人とする理由についてですが、彼は確かに東京海上にいたのですが、主に大阪と神戸の支店を任されまして、そこで甲南学園を作ったりなどして関西に根を張りました。伊藤忠の伊藤忠兵衛や阪急の小林一三らとも親しくしていたようです。それから仰る通り、平生は民政党の政策に共鳴していたようで、一部紹介いたしましたが、金解禁なども評価していました。」

以上。

・戦前の二大政党に関しては、過去に書いた渓流斎ブログもご参照ください。

2019年7月6日付「『政友会の三井、民政党の三菱』-財閥の政党支配」

2020年8月4日付「エイコ・マルコ・シナワ著『悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治』を読む」

「米国のインテリジェンス傘下ー双務主義と日本の対外情報活動」と「日本型インテリジェンス機関の形成」=第40回諜報研究会

 11月27日(土)午後は、オンラインで開催された第40回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)に参加しました。

 オンラインはZOOM開催でした。ZOOMと言えば、堤未果氏の「デジタル・ファシズム」(NHK出版新書)によると、会議内容や情報が駄々洩れで、サーバーが北京にあることから、ZOOMによる会議禁止の国もあるそうなので、特に機密事項を扱う天下の「諜報研究会」は大丈夫なのかなあ、と心配してしまいました。

 いずれにせよ、既に40回も開催されているということですから、主催者並びに事務局の皆様方の情熱と熱意には頭が下がります。

 と書きながら、正直、これを書いている本人は恐らく加齢による体力・知力低下で、講師の発言のメモが全く追い付かず、理解度がかなり落ちてしまったことを告白しなければなりません。ということで、私なりに心得ることが出来たことだけをざっと記述することでお許し願いたい。

 今回はお二人の先生が「登壇」されました。最初の報告者は、香港城市大学のブラッド・ウィリアムズ准教授で、演題は「米国のインテリジェンス傘下ー双務主義と日本の対外情報活動」というものでした。ブラッド准教授とはお初に「お目にかかった」方で、どういう方なのか知りませんでしたが、オーストラリア出身ながら、日本語がペラペラ。香港ということで中国語も出来る語学の天才かと思いましたら、どうやら「日本の政治外交」がご専門で、日本での就職先を希望されているという方でした(同氏のHPから)。

 お話は、ブラッド准教授が今年出版された「日本の対外情報活動とグランド・ストラテジー:冷戦から安倍時代まで」(ジョージタウン大学出版会)が中心だったようですので、ご興味のある方はそちらをご参照ください。

 ブラッド氏も「はじめに」で簡単に要約されておりましたが、「冷戦期、米国は日本を従属的同盟国として米国のインテリジェンス傘下に置くことを目標にし、一方の日本のインテリジェンス・コミュニティは、主に双務主義という規範に従ったが、まれに日米情報機関や政治家との間で摩擦が起きた」というものでした。この文章では素人はさっぱり分かりませんね(笑)。

 ブラッド准教授によると、米軍は占領中、旧日本軍の基地を管理したり、新しい施設を建設したりしましたが、冷戦期は、日本国内に約100カ所のシギント施設を建設したといいます。つまり、日本には世界最多の米軍施設があるというのです。シギントとは専門用語で、通信、信号などの傍受を利用した諜報・諜報活動のことです。(このほか、諜報活動には「人」を使ったヒューミント、衛星写真などを使ったイミント、合法的に入手できるオープン・ソースなどを使ったオシントなどがあり、こういった基礎知識がないと話にはついていけませんねえ=苦笑)

 そう言えば、私が育ち、今でも実家がある東京郊外の近くにあった立川基地や入間川基地などの航空基地は米軍から返還されたようですが、埼玉県新座市と東京都清瀬市にまたがる米軍の大和田通信所(子どもの頃に「外人プール」があり、よく泳ぎに行きました)や埼玉県朝霞市と和光市にまたがる米軍基地(かつてキャンプ・ドレイクと言っていた)のほとんどは返還されたものの、そこにはいまだに広大なアンテナ・通信基地は残っています(先日もこの辺りを車で通ったばかり)。つまり、米軍は、爆撃機が出撃する騒音の激しい東京郊外の航空基地は返還したものの、静かに傍受する?いわゆるシギント施設だけは手つかずのまま残存させているということになります。

 ブラッド准教授の話の中には、KATHO機関(加藤機関かと思ったら、河辺虎四郎陸軍中将K、有末精三陸軍中将A、辰巳栄一陸軍中将T、大前敏一海軍大佐O、服部卓四郎陸軍大佐Hの頭文字を取った)やタケマツ作戦(タケ=サハリン、千島列島の北部作戦と中国、北朝鮮の南部作戦、マツ=国内の共産主義勢力などの破壊活動)など私自身詳細に知らなかった興味深い話が沢山出ました。

 私の印象では、最後の質疑応答の中で山本武利インテリジェンス研究所理事長も指摘されていましたが、ブラッド准教授は米国人ではなく豪州人なので、日本のインテリジェンスは双務主義的ではなく、米国に従属しているという事実を冷静に客観的に分析されていると思いました。日本国内に世界最多数の米軍のシギント施設があるという事実だけでもそれは証明できることでしょう。

 お二人目は、アジア調査会理事の岸俊光氏で、「日本型インテリジェンス機関の形成」というタイトルでお話しされました。岸氏は、内閣調査室(内調)の研究では日本の第一人者で、今年4月の第35回諜報研究会でも登場されておられます。(その会については、このブログの2021年4月11日付「『冷戦期内閣調査室の変容』と『戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編』=第35回諜報研究会」でも書きましたので、そちらをご参照ください)

 4月の第35回研究会では、岸氏は、占領下の1952年4月、第3次吉田茂内閣の下で「内閣総理大臣官房調査室」として新設された際、その創設メンバーの一人で20数年間、内調に関わった元主幹の志垣民郎氏と「中央公論」の1960年12月号で、「内閣調査室を調査する」を発表し、一大センセーションを巻き起こしたジャーナリスト吉原公一郎氏という2人のキーパースンを取り上げていましたが、今回は、初代内閣情報部長を務めた横溝光睴氏と戦前の内閣情報委員会から情報局に至るまで勤務していた小林正雄氏と先程の内調主幹の志垣氏の直属の上司だった下野信恭氏の3人のキーパースンを取り上げておりました。

 横溝氏は、戦前の内閣情報機構の創設の経緯について記した「内閣情報機構の創設」を執筆した内務官僚で、戦前に福岡県警特高課長や内閣情報部長、岡山、熊本両県知事、朝鮮の京城日報社長なども歴任した人でした。

 小林氏については、生没年など詳細については触れていませんでしたが、戦後に総理府事務官、1964年まで内閣調査官を務め、情報局の重要文書「戦前の情報機構要覧」を作成した人だといいます。

 下野氏は戦後の1956年に内閣総理大臣官房調査室の調査官と広報主任を務めた人で、評論家の鶴見俊輔氏にパージ資料を提供したとも言われています。

 岸氏の「結び」のお話では、日本では戦前・戦後の情報機関は法的に、制度上、断絶しているとはいえ、人材や業務の面では引き継がれていることが散見されるーといったものでした。確かに、自衛隊でも、戦前とは法的、制度上は断然していいても、旧帝国日本軍の人材や業務が引き継がれていることが散見されますからね。

 詳細などご興味を持たれた方は、志垣民郎著、岸俊光編「内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男」(文春新書)をお読み頂ければと存じます。

「母国へのインテリジェンス協力の諸相」=第38回諜報研究会

10月9日(土)午後、誰でも自由に参加できるオンラインで開催された第38回諜報研究会(NPOインテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)に馳せ参じて来ました。

 先月参加した第37回研究会で、恫喝まがいの炎上事件がありましたから、今回もどうなることやら、とヤキモキしておりましたが、件の怖そうなインテリの方は、きこしめていなかったせいなのか、大人しくて、無事平和に終わり、良かったでした。

 特に、2人目の報告者、武田珂代子立教大学教授による「太平洋戦争:情報提供者としての離日宣教師」は、講義にこなれている大学教授だけあって、非常に分かりやすく、頭にスッと入りました。

 武田教授は、アジア太平洋戦争・日本占領期の翻訳通訳事象の研究がご専門のようですが、私自身も関心があるので非常に興味深かったでした。米スタンフォード大学フーバー研究所の資料を苦労して渉猟してでの研究発表でした。

 私が驚いたのは、米海軍は、対日戦争の準備のために、早くも1936年に日本語通訳・翻訳者候補のリストを作成していたことでした。1936年は「二・二六事件」があった年ではありますが、真珠湾攻撃の5年も前。しかも、大日本帝国は、真逆に英語は敵性語として禁止したほどではありませんか。まさに、インテリジェンスの情報戦という意味では、既に5年前に日本は敗北していたことになります。

◇ライシャワー、モーア、そしてモーラン

  太平洋戦争・日本占領期で活躍した米国人の通訳・翻訳者は、来日宣教師や日本生まれのその子息が多かったんですね。戦後、駐日大使になったエドウイン・ライシャワーもその一人で、最も有名ですが、東京裁判で言語裁定官を務めたラードナー・W・モーアも日本生まれの宣教師だったのです。モーアは、交換船で帰米後、陸軍情報機関の翻訳指導をし、戦後、再来日し、陸軍言語部長として占領活動。除隊後、宣教活動を再開し、四国基督教学園(現四国学院大学=香川県善通寺市)の初代学長になった人です。この人の実弟が、ウォーラス・H・モーアで、陸軍情報将校となり、当時敵視されていた日系二世の活用を主張し、戦後は、収容所から帰還した日系人を支援した人と知られています。

 もう一人だけ、重要人物は、シャーウッド・F・モーランで、1925年に日本で宣教活動を始め、41年に帰米。56歳で海兵隊に志願して言語官になった人です。日本人捕虜を「人間的アプローチ」で尋問したことから、アフガニスタン・イラク戦争で再注目されました。その日本生まれの息子が シャーウッド・R・モーランで、海軍の言語官となり、暗号解読などに従事し、戦後は原爆調査にも参加したといいます。海軍情報士官として日本人捕虜を尋問した経験のある世界的な日本文学者のドナルド・キーン氏の著作の中にも、このモーランがしばしば登場します。

「冷戦期内閣調査室の変容」と「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」=第35回諜報研究会

 4月10日(土)午後にZOOMオンラインで開催された第35回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究所共催)に参加しました。ZOOM会議は3回目ぐらいですが、大分慣れてきました。S事務局長様はじめ、「顔出し」しなくてもオッケーというところがいいですね(笑)。今回私は顔出ししないで、質問までしてしまいました。勿論、露出されたい方は結構なんですが、私は根っからの照れ屋ですし、失礼ながら「野次馬根性」で参加していますから丁度いい会合です。インテリジェンスに御興味のある方は、気軽に参加できますので、私は主催者でもないのにお勧めします。

 でも、研究会は、素人さんにはかなり堅い内容で、理解するのには相当厳しいと思われます。お二人の報告者が「登壇」しましたが、正直、まだお二人の著書・訳書は拝読していないので、私自身もついていくのが大変でした。まあ、長年の経験と知識を総動員してぶら下がっていた感じでした。

岸俊光氏「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

◇「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

 最初の報告者は岸俊光氏でした。早大、駒大非常勤講師ですが、現役の全国紙の論説委員さんです。諜報研究会での報告はこれで4回目らしいのですが、私も何回か会場で拝聴し、名刺交換もさせて頂きました。そんなことどうでもいい話ですよね(笑)。報告のタイトルは「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」でした。

 何と言っても、岸氏は首相官邸直属の情報機関「内閣調査室」、俗称「内調」研究では今や日本の第一人者です。「核武装と知識人」(勁草書房)、「内閣調査室秘録」(文春新書)などの著書があります。

◇内調主幹の志垣民郎

 何故、岸氏が、内調の第一人者なのかと言いますと、内調研究には欠かせない二人のキーパースンを抑えたからでした。一人は、占領下の1952年4月9日、第3次吉田茂内閣の下で「内閣総理大臣官房調査室」として新設された際、その創設メンバーの一人で20数年間、内調に関わった元主幹の志垣民郎氏(経済調査庁から転籍、2020年5月死去)です。岸氏は志垣氏の生前、何度もインタビューを重ね、彼が残した膨大な手記や記録を託され、本も出版しました。

◇ジャーナリスト吉原公一郎氏

 もう一人は、ジャーナリスト吉原公一郎氏(92)です。彼の段ボール箱4箱ぐらいある膨大な資料を岸氏は託されました。吉原氏は「中央公論」の1960年12月号で、「内閣調査室を調査する」を発表し、一大センセーションを巻き起こすなど、内調研究では先駆者です(「謀略列島 内閣調査室の実像」新日本出版社 など著書多数)。吉原氏は当時、「週刊スリラー」(森脇文庫)のデスクで、内部資料を内調初代室長の村井順の秘書から入手したと言われています。私は興味を持ったのは、この「週刊スリラー」を発行していた森脇文庫です。これは、確か、石川達三の「金環食」(山本薩夫監督により映画化)にもモデルとして登場した金融業の森脇将光がつくった出版社でした。森脇は造船疑獄など政界工作事件で何度も登場する人物で、政治家のスキャンダルを握るなど、彼の情報網はそんじょそこらの刑事や新聞記者には及びもつかないぐらい精密、緻密でした。

 あら、話が脱線してしまいました。実は今書いたことは、岸氏が過去三回報告された時の何度目かに、既にこのブログで書いたかもしれません。そこで、今回の報告で何が私にとって一番興味深かったと言えば、内調を創設した首相の吉田茂自身が、内調に関して積極的でなかったのか、政界での支持力が低下して実力を発揮できなかったのか、そのどちらかの要因で、大した予算も人員も確保できず、外務省と旧内務省(=警察)官僚との間の内部抗争で、中途半端な「鬼っ子」(岸氏はそんな言葉は使っていませんが)のような存在になってしまったということでした。岸氏はどちらかと言えば、吉田茂はそれほど熱心ではなかったのではないかという説でした。

◇保守派言論人を囲い込み

 もう一つは、内調を正当化したいがために、先程の志垣氏らが中心になって、保守派言論人を囲い込み、接待攻勢をしていたらしいことです。その代表的な例が「創価学会を斬る」で有名な政治評論家の藤原弘達で、内調主幹だった志垣民郎と藤原弘達は東大法学部の同級生で、志垣氏は約25年にわたり接待攻勢を繰り広げたといいます。他に内調が接近した学者らの中に高坂正堯や劇作家の山崎正和らがいます。

 内調が最も重視したのは日本の共産化を防ぐことだったため、定期刊行物「調査月報」「焦点」などでは、やはりソ連や中国の動向に関する論文が一番多かったことなども列挙していました。

小谷賢氏「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 もう一人の報告者は、小谷賢・日大危機管理学部教授でした。ZOOMに映った画面を見て、どこかで拝見したお顔かと思ったら、テレビの歴史番組の「英雄たちの選択」でゲストコメンテーターとしてよく出演されている方だったことを思い出しました。

◇「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 報告のタイトルは「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」で、岸氏の研究の内閣調査室も小谷氏の専門範囲だったことを初めて知りました。テレビでは、確か、古代から戦国、幕末に至るまで的確にコメントされていたので、歴史のオールマイティかと思っていましたら、専門は特に近現代史の危機管理だったんですね。

 テレビに出る方なので、テレビ番組を見ているような錯覚を感じでボーと見てしまいました(笑)。

 彼の報告を私なりに乱暴に整理すると、戦前戦中にインテリジェンスの収集分析の中核を担っていた軍部と内務省が戦後、GHQによって解体され、それらの空白を埋めるべき内閣調査室が設置されたが、各省庁の縦割りを打破することができず、コミュニティーの統合に失敗。結局、警察官僚の手によって補完(調査室長、公庁第一部長、防衛庁調査課長、別室長のポストを確保)されていくことになるーといったところでしょうか。

◇「省益あって国益なし」

 戦前も、インテリジェンス活動に関しては、内務省と外務省が対立しましたが、戦後も警察と外務省が覇権争いで対立します。小谷氏によると、警察は情報をできるだけ確保しておきたいという傾向があり、外務省は、情報は政策遂行のために欲しいだけで、手段に過ぎないという違いがあるといいます。いずれも、政府に対して影響力を持ちたいという考えが見え隠れして「省益あって国益なし」の状態が続いたからだといいます。これはとても分かりやすい分析でした。将来悲観的かといえば、そうでもなく、若い官僚の中には軛と省益を超えて国益のために活躍してくれる人がいるので大いに期待したいという結論でした。

◇歴史学者の役割

 小谷氏は、明治から現代まで、日本のインテリジェンス・コミュニティー通史を世界で初めてまとめたというリチャード・サミュエルズ(米MIT政治学部教授)著「特務」(日本経済新聞出版、2020年)の翻訳者でもありました。三島由紀夫事件のことも少し触れていたので、同氏の略歴を調べてみたところ、1973年生まれで、若い(?)小谷教授にとって、1970年の「三島事件」は生まれる前の出来事だったので、吃驚してしまいました。別に驚くことはないんでしょうが、歴史学者は、時空を超えて、同時代人として経験しないことまでも、膨大な文献を読みこなしたり、関係者に取材したりして身近に引き寄せて、経験した人以上に詳細な知識と分析力を持ち得てしまうことを再認識致しました。