2008年4月13日
昨日は、2年ぶりに大学の同窓会に参加しました。平成10年に卒業した若手から何と昭和17年卒業の大先輩に至るまで約90人が集まりましたので、会場の大手町のサンケイプラザの201-202会議室は満杯状態でした。(東京駅の丸の内周辺と大手町はいつの間にかすっかり変貌していて、産経ビルが建て替えられていて近代的なビルになっていたので驚いてしまいました。)
参加者のほとんどは定年を過ぎた方々ばかりで、20歳代から50歳代までの働き盛りは殆んど見当たりませんでした。同期の人間は私のほかに一人もいませんでしたからね。大学ではフランス語を専攻した人間で、本当に変わった人間が多いのです。フランス人にあやかって、よく言えば個人主義で人と群れたりつるんだりしません。悪く言えば、我がままで世間とうまく立ち回っていけない連中ばかり。卒業生に大杉栄や中原中也がいたといえば、大体想像がつくと思います。
それでも、一年後輩のKさんが母校の教授になっていて、初対面でしたが、お互いに知っている人の近況などを聞きました。私が学生時代に教えを受けていた最後の教授が、この3月で定年退官されたという話を聞き、自分も随分年を取ってしまったなあと思いました。
同窓会では、卒業生で一応名をなした人による講演会があります。二年前は私の同期で、マリー・クレール誌の編集長になった生駒佳子さんの講演でした。今回は音楽評論家の蒲田耕二氏(昭和39年卒業)でした。この講演会で席が隣りになった人が木村竜一さんという人で何と昭和20年卒業の方でした。大正14年3月生まれの83歳。戦中世代で海軍少尉だったらしいのですが、今も背筋がピンと伸び、矍鑠していました。どう見ても60歳代後半しかみえませんでした。木村さんが通っていた頃の大学はまだ、神田の一ツ橋にあったそうです。戦後、ジョージア州立大学でMBAを取得して、エクソン・モービル石油に就職し、世界中を飛び回った。と話してくれました。
元気の秘訣をうかがったら「そりゃあ、歩くことだよ。老化は脚からくるからね。足さえしっかりしていれば大丈夫。今の人はすぐにタクシーに乗ったり、エスカレーターに乗ったりして歩かないだろう?そりゃあ、使わなければ退化しちゃうよ」と言ってましたから、ご参考にしてください。
で、蒲田氏の講演の話でした。同氏は大学卒業後、出版社に就職し、フリーの音楽評論家になった方ですが、シャンソンの権威と言っていいでしょう。NHKのFMラジオでも長年、シャンソンの番組解説を務めていたので、ご存知の方も多いでしょう。私も氏の「聴かせてよ 愛の歌を 日本が愛したシャンソン100」(清流出版)CD付 4700円+税を会場で特別割引で4000円で売っていたので、早速、買い求めました。
その本にかなり詳しく書かれているのですが、蒲田氏によると、シャンソンはフランス語の唄という意味では今もあり、これからもあるが、「心に染みる」「人生を感じさせてくれる」歌という意味でのシャンソンはもはや終わったと断言しています。19世紀末に形が整い、1930年代に全盛期を迎え、1981年のブラサンスの死で終わった、というのが彼の説です。
蒲田氏の批評はかなり、かなり辛辣でした。例えば、イヴ・モンタンなどは、「大スターだけど、ぼくは評価しない。ちっともうまくない。リズムの乗りが悪く、しまりがない。でも一時代を築いた人なので敬意を表しますけどね」と言った具合。
私の大好きなセルジュ・ゲンズブールについては「詩人・作家、映画作家としては素晴らしいが、音楽家としては評価しない」と一刀両断するのです。講演をしながら、色んな歌手の代表曲のCDをかけてくれるのですが、私の一番好きと言ってもいいぐらいのフランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」(作詞はゲンズブール!)なんかは、リストにありながら、「この曲はお聴かせるに値しないので飛ばします」と言って、この曲だけかけないんですからね。もっとも、日本人によく知られるアダモの「サン・トワ・マミー」などは「箸にも棒にもかからない」と言ってリストアップすらされていませんでした。
シャンソンに関する教養・知識でいえば、蒲田氏の方がはるかに上なのですが、どうも私とは感性が違うようでした。ちなみに、彼が真の天才として持ち上げたシャンソン歌手は、ダミア(戦前最大)、エディット・ピアフ(戦後最大)あたりでした。曲はシルヴィー・バルタンの「あなたのとりこ」で、「文学性などのシャンソンの伝統やしがらみを断ち切って、ダンス音楽に徹して潔い。オーケストレーションが図抜けている」という大賛辞でした。
彼の話を聴いて、もっともっとシャンソンが聴きたくなりました。