「世界はラテン語でできている」とは驚くばかり

 今、巷で話題になっている「世界はラテン語でできている」(SB新書、2024年2月26日第5刷、990円)を読んでおります。著者は「ラテン語さん」という人を食ったような命名ぶりですが、ラテン語を高校2年から学び始め、大学は語学専門の東京外国語大学(英語)を卒業されているということで、そして、何よりも「売れている」ということで、書店で山積みになっていたので購入したのでした。

 ラテン語は古代ローマ帝国の公用語でしたが、それが後に英語やドイツ語やフランス語やスペイン語などに借用され、現代の世界の言語の「語源」になっている、というのがこの本の趣旨、もしくは肝になっています。

 私も学生時代、名著と大変評判だった村松正俊著「ラテン語四週間」(大学書林、初版が1961年!)を購入して独学しましたが、あまりにも難しくて途中で何度も挫折してしまいました。勿論、その本はもう家にありませんが(苦笑)。私も同じ語学専門の大学だったので、ラテン語の選択科目がありましたが、浅はかだったので、敬遠してしまいました。

 でも、大学時代は、俗ラテン語を起源に持つロマンス語系と言われるフランス語を学んだお蔭で、間接的にラテン語も勉強した格好になりました。英語だけ学んでいただけでは、駄目ですね。ラテン語は英語よりもイタリア語やスペイン語、仏語の方が「残滓」が残っています。

Copyright par TY

 ラテン語を勉強すれば得するのか?ーいや、別にラテン語を習得すれば商売がうまくいったり、出世したりするわけではありませんので、(例外を除いて)得するわけではありませんけど、知っていても困るわけでもないですし、むしろ、世界が広がるかもしれません。日本語は漢語が語源になっているので、中国語を勉強した方が良いでしょうが、学術用語などで日本語に取り入れられている例がこの本には沢山出てきます。(植物名やホモ・サピエンスなど)

 私もラテン語が語源の言葉はある程度知っているつもりでしたが、この本を読むと知らないことばかりでした。

 沢山あり過ぎるので、2~3例を挙げますと、money(お金)の語源は、警告者を意味するMoneta(モネータ)が語源です。これは、ローマのカピトリーヌスの丘にあった神殿に女神ユーノー・モネータ(警告者ユーノー)が祀られ、この神殿に貨幣の鋳造所があったため、ということですが、分かるわけありませんよね(苦笑)。

 また、ファシズムの語源になったのは、ラテン語のfasces(ファスケース)で「束」を意味します。これが古代ローマでは特別な意味を持つ「束桿(そっかん)」になります。束桿というのは、斧の周りに木の枝を束ねて革紐で縛ったもので、執政官に仕えた警士が携帯し、権威のシンボルになったといいます。(この本ではこのように書かれていませんが、説明が分かりにくかったので、自分で調べて書きました。)

 ちなみに、斧はラテン語でsecuris といい、語源はseco(切る)になります。これが、英語のsect(分派)、sector (分野)、section(部門)などの語源になったといいます(本文75ページ)。

 キリがないのでこの辺でやめときますが、ラテン語は近世まで欧州各地で使われていたことを特筆しておきます。宗教改革の基になったドイツのマルティン・ルターの「95箇条の論題」(1517年)=私が学生時代は「95箇条の御誓文」と言ってました。また、ルターが糾弾したものは「免罪符」と呼んでおりましたが、最近は「贖宥状」と言うんですか!全然、違うじゃないか!=も、地動説を唱えたポーランドのコペルニクスの「天球回転論」(1543年)も、重力を「発見」した英国のアイザック・ニュートンの「プリンキピア」(自然哲学の数学的諸原理 Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica、1687年)もラテン語で書かれていたのです。

元乃隅神社(山口県長門市)Copyright par TY

 いずれにしても、「世界はラテン語でできている」というのは大袈裟ではなく、幾つも例があるので、驚くばかりです。

 ラテン語は日本人にとって、文法がかなり難しいので途中で挫折してしまいますが、文字はローマ字読み出来るので、意外と近しく感じるかもしれません。

フランス語は18世紀でも人口の20%しか話されていなかった!

 いい年こいて、いまだに身に付かないフランス語を勉強しています。専らNHKのラジオ講座「まいにちフランス語」ですが。

 今放送されている応用編「フランコフォニーとは何か」(講師は西山教行、ジャンフランソワ・グラヅィアニ両氏)は、知らなかったことばかりで大変勉強になります。

 フランス語を勉強した人なら誰でも知っている格言があります。

 Ce qui n’est pas clair n’est pas francais.(明晰ではないものはフランス語ではない。)

 18世紀のフランスの啓蒙主義作家アントワーヌ・ドゥ・リヴァロールの言葉ですが、確かにフランス語は文法がしっかりしていて、英語のような、どっちにでも意味が取れそうな曖昧さは微塵もありません。大袈裟な!

 そのせいか、フランス語は今より遙かに国際語として通用していました。フランス語を日常的に使っていた有名な外国人は、プロイセン(ドイツ)のフリードリッヒ2世、ロシアのエカテリーナ二世女王、米国の政治家・外交官ベンジャミン・フランクリン(仏語ではバンジャマン・フランクランと読みます)、女性遍歴で有名なイタリア・ベネツィアの作家カサノヴァらです。欧州全体でフランス語が使われていたのです。

 いや、これはさほど驚くべきことではありません。私が何よりも驚いたのは、18世紀のフランス本土で日常的にフランス語を使っていたのは、全人口のわずか20%しかいなかったという史実です。フランス語を使用していたのは、フランス王権のあるパリ近辺のイル・ド・フランス地方や北部のピカルディ地方などです。当時、83県のうち、15県しかなかったといいます。残りの80%はそれぞれの地域の言語ー例えば、バスク語やブルトン語やコルシカ語などを使っていたのです。

 そう言えば、日本だって、19世紀の江戸時代までは地域語が日常語であり、恐らく津軽藩と薩摩藩との間では言葉が通じなかったと思われます(笑)。

タコス・パーティー

 フランスではフランソワ1世(1494~1547年)が1539年、ヴィレル・コトレの勅令を発布し、行政、司法、教会等の文書をこれまでのラテン語からフランス語にするよう取り決めました。この勅令は、現代フランスでも有効といわれる最古の法とも言われますが、実質的な効力ではなく、象徴的な面が強いといいます。実際、2014年、当時のエロー首相は、閣僚が英語を多用しないようにこの勅令を参照したそうです。

 このように、16世紀にフランス語は公用語になったとはいえ、18世紀末になってもフランス語を話せるのは国民のわずか20%しかいなかったというのは、驚くほかありません。「まいにちフランス語」講師のグラヅィアニ講師によると、フランス語が仏全土に行き届くのは、19世紀の第三共和政(1875~1940年)になってからで、初等教育が義務化され、農村人口が都市に流れ込み、ラジオやテレビが普及してからだそうです。ただし、フランスとスペインに居住するバスク人の間でバスク語を使う人は300万人おり、フランスでバスク語しか出来ない人は現在でも2万人いるそうです。

 私はバスク人には大変興味があります。日本人なら誰でも知っている日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはバスク人ですし、仏作曲家のモーリス・ラヴェルも、キューバ革命のチェ・ゲバラ(アルゼンチン人)もバスク人だと言われています。

 何と言っても、スペインのバスク地方の街サン・セバスチャンは映画祭で有名ですが、何と言っても、三つ星のミシュラン・レストランが世界的にも多いグルメの街として知られていますからね。嗚呼、一度、行ってみたい!!

緊急事態宣言・疫病下の東京五輪狂詩曲

 宰相のガースーさんは「もう民百姓の面倒は見きれん」と、ついに匙を投げてしまいました。「もうどこの病院も患者でいっぱいじゃ。疫病に罹ったら中等症でも長屋で黙って寝ていろ!」と御前会議での勅許を得ることなく、記者会見も開かず勝手に通達してしまったのです。

 これに怒った水戸浪士たちは桜田門外で、ガースーを待ち伏せておりましたが、ガースー宰相は、予定を変更して、東京・虎ノ門のホテル「The Okura Tokyo」内のレストラン「オーキッド」で秘書官と朝食を楽しんでおりましたので、難を逃れました。

 巷では、東海道五十三次飛脚大合戦と浜名湖古式遠泳競技大会の真っ最中で、これに参加した邦人と異人との間で疫病蔓延が拡大しているのではないかというのが、適塾の緒方洪庵先生の見立てです。

築地・手打そば「つきじ文化人」フランス語講師のベルギー人ローランさんが板前さんやってました

 感染拡大を怖れた庶民があれだけ大会開催に反対したというのに、国際遊戯委員会のヨハン・セバスチャン・バッハ男爵と、米南北戦争の北軍の英雄で、電気紙芝居会社を起業したエヌ・ビーシー会長らの策略で開催は強行されました。全ては天保通宝の威力の賜物でした。お主も悪やのお~、あれです。

まさに、飛脚合戦と遠泳大会は、国際政治の策謀と渦に巻き込まれました。旧おろしや帝国の流れを汲むベラルーシ国の最高責任者ルカシエンコさんという大統領(66)は、「欧州最後の独裁者」と言われ、「大会でメダルを獲らずに帰国したら、牢屋に入れちゃうからねえ」と派遣選手団を脅迫したらしく、女子飛脚大会で予選敗退したツイマノウスカヤ選手は母国帰国を拒否して、ピアノの詩人ショパンを生んだポーランドに政治亡命することになりました。3年後の巴里大会には、 ツイマノウスカヤさんは、ポーランド選手として参加するかもしれませんが、彼女のご両親やご家族はどうなってしまうのか心配です。

それにしても解せないのは、ドーピング違反で出場停止処分を受けたおろしあ国が、国としてではなく、おろしあ遊戯委員会(ROC)だったらいいよぉーと、個人参加が許されたり、香港が優勝しても、他の国の異次元の国歌が会場で流れたりしたことです。誰も「おかしい」と声を大にして叫ばないんですからね。不思議です。

築地・手打そば「つきじ文化人」淡雪せいろ1080円

 そもそも、熱中症が危険視される猛暑のニッポンの夏に大会を開催すること自体が間違いの元です。NBA、大リーグ、アメフト、サッカーとドル箱の競技が目白押しの秋のシーズン開催を避けたいという電気紙芝居エヌ・ビーシー会長の思惑と策略によるものです。

 蝦夷地も、このところ、日中は35度に迫る猛暑で、せっかく江戸開催のマラソンと競歩を蝦夷地への移転開催を決めたというのに、これでは、効果ないかもしれませんね。蝦夷地で選手がバタバタ倒れないことを祈るばかりです。

 あらあら、もっと明るい前向きな話をしたいのに…、うーん、ちょっと無理ですかねえ。

建築ジャーナリスト淵上正幸氏の世界

 昨日4月14日(日)は、東京・大手町のサンケイプラザで開催された仏友会総会に参加してきました。仏友会とは、東京外国語大学でフランス語を専攻した人たちの同窓会で、大正時代からある伝統的な親睦会です。一時、というか、長らく「休眠」していたのですが、25年ほど前から田島宏先生の呼び掛けで復活したそうです。

 私自身は、何も知らずに15年ぐらい前から参加していたので、同窓会というのは普通のものかと思っていたら、同じ大学でも英米語を専攻して卒業した人から、「同窓会がないので参加したことがない」という話を聞いたので、驚いてしまいました。と、同時に仏友会を復活させて頂いた諸先輩方の努力と苦労には頭が下がる思いでした。

建築ジャーナリスト淵上正幸氏

 14日は、昭和31年卒のOB(ということは84歳ぐらい) から現役3年生(ということは20歳ぐらい)まで61人も参加しました。毎回、斯界で活躍する先輩卒業生による講演会が開催されますが、今回は建築ジャーナリストの淵上正幸氏。ちょうど50年前の昭和44年卒業ということですから、とっくに古希は過ぎておられますが、非常に若々しく50代にしかみえません。

 しかも、抜群の記憶力の持ち主で、世界各国の著名な建築家の「作品」をスライドで説明しますが、全く、メモも見ず、作品の規模から価格、歴史的背景、建築家の略歴まですべて細かい数字も頭の中に入っていて説明されていたので、恐れ入ってしまいました。こんな頭の良い人は、世の中にそういません。

 大学の卒業生の中には、本当に色んな方がいらっしゃいますが、「建築ジャーナリスト」なるものは初めて聞きました。そしたら、淵上氏は「建築ジャーナリストというのは、私がつくった肩書で、初めてでしょう」と仰るので、ずっこけてしまいました。大学卒業後、紆余曲折があって、結局「新建築社」という出版社に転職し、これまで、全く、建築に興味がなかったのに、会社の書庫で、世界中の多くの「建築写真集」を見ているうちに、異様に面白くなり、世界中の建築を見て回る仕事に没頭したといいます。この新建築社という会社、私は全く知りませんでしたが、大正14年創業の老舗でした。

 それにしても、建築士でも設計士でもない方が専門家にインタビューしたり、同等に渡り合ったりして、どんなことをするんだろうか、と思っていたら、淵上氏の話を聞いて、大枠が分かりました。ここでは詳しく書けませんが、かなり凄いこともやっておられました(笑)。

 とにかく、淵上氏は、今の日本の建築ジャーナリズムの世界ではナンバーワンの方で、「ヨーロッパ建築案内1~3」「アメリカ建築案内1~2」などの著書多数あり、昨年は、日本建築学会文化賞まで受賞されてます。当然ながら、現代建築界の「世界の巨匠」と呼ばれる方とも昵懇で、建築家と施行主、自治体、もしくは大富豪との間を取り持つコーディネーターの仕事もされております。吉祥寺のハーモニカ横丁をシマにして、お酒と女性をこよなく愛す大変ユーモアに溢れた方で、世界各地の著名建築を見る旅を主宰されたり、ノミニケーションで、世界の巨匠の一人から、御自宅の門をタダで設計してもらった特権まで披露されておりましたが、これは内緒の話でした(笑)。

 個人的ながら、私も建築は好きなので、バウハウスのグロピウスやル・コルビュジエらの作品など知っているつもりでしたが、彼らのような1900年から1967年ぐらいまで活躍した人たちの作品を「近代建築」と呼び、それ以降を「現代建築」と呼ぶということでした。この現代建築家として、世界的に有名な丹下健三をはじめ、磯崎新、安藤忠雄、隈研吾といった日本人は知っていましたが、世界の巨匠となると、ほとんど知らず、淵上氏のスライド紹介で初めてその輪郭が分かりました。


オーレ・シェーレン設計のシンガポールの「インターレイス集合住宅」

 約2時間の講演会の世界各地の建築紹介の中で、一番印象に残ったのは、ドイツのオーレ・シェーレン(1971~)設計のシンガポールにある「インターレイス集合住宅」でした。傍から見ると、不安定な積み木を組み立てたような変な集合住宅で、淵上氏も「酔っ払って帰ったら、自分の部屋が分からなくなる」と冗談を飛ばしておりました。でも実体は、六角形を基準になかなか精緻で緻密な計算で作られた設計で、中庭を配したり、プールをつくったり、風通しや日射を良くするために、一部の建物を割愛したり、「あっと驚く」工夫設計でした。

 2020年東京五輪の新国立競技場会場設計をコンペで獲得しながら、後で政府により白紙撤回されたイラク出身のザハ・ハディッド(1950~2006)も淵上氏とは昵懇の仲だったようで、少し長く紹介の時間を割いていました。

 建築費の高騰を理由に撤回され、猛烈な抗議の中で、ハディッド氏は、65歳で心労も原因で急死してしまいますが、彼女の作品が紹介されたスライドを見て、本当に類稀な才能で、惜しい人を亡くしたと思いました。新国立競技場問題の最中は、政府による巧みな世論操作で、日本人は、ハディッド氏がまるで我利我利亡者のような印象を植え付けられましたが、そんなんじゃなかったんですね。何か背後に「鶴の一声」があったのかどうかも真相は不明です。

 東京・汐留の電通本社ビルを設計したのがフランスのジャン・ヌーヴェル(1945~)で、淵上氏の親友でした。酔いに任せて彼の自宅の門を設計する約束をさせたのが、この人でした(笑)。この人を調べてみたら、私自身が昨年、スペイン・マドリードでピカソの「ゲルニカ」を見たあのソフィア王妃芸術センター新館を設計した建築家がこのジャン・ヌーヴェルだったんですね。驚きでした。

 有楽町の東京国際フォーラム(1996年)を手掛けたのがウルグアイ出身のラファエル・ヴィニオリ(1944~)で、これで一躍有名になり、世界各国で引く手数多だそうです。

 このほか、世界の巨匠として、104歳で亡くなったブラジルの天才建築家オスカー・ニーマイヤー(1907~2012)やメキシコの巨匠ルイス・バラガン(1902~88)、カナダ出身のフランク・ゲーリー(1929~)らも紹介してくれましたが、実際に現地に行って、実物を見たくなってしまいましたね。

東京駅 辰野金吾

 絵画や彫刻とは違って、建築物(美術館、大学、病院、駅舎、集合住宅、オフィス、モール街など)は持ち運べず、そこに行かなければ見られません。淵上氏は、建築見学ツアーも主宰されており、「現地にタダで行って、帰れば、講演会と執筆・出版もできます。一石二鳥どころか、一石三鳥です」と最後までユーモア溢れる講演会でした。

 それにしても、建築設計の世界は素人には全く分からない世界です。世界中のコンペ情報はどうやって入手するのか?どのように審査されるのか? 設計費やマージンやコーディネート代はいくらが相場なのか?-気になることばかりでしたが、知っても、茲では書けないでしょうね(笑)。同じジャーナリストなら、人間の業(ごう)や暗闇や負の側面ばかり見せつけられて、ひねくれてしまうジャーナリストより、世界中を飛び回れる建築ジャーナリストになればよかったかなあ。。。(一部敬称略)

我輩の辞書…

 

 

 

ナポレオンの言葉に、「 我輩の辞書に不可能という文字はない」という名文句があります。どなたでもご存知でしょう。

 

でも、英語で何と言うかご存知ですか?

 

The word  “impossible” was not in Napoleon’s (                    ).

 

といいます。さて、括弧の中に何が入るでしょうか。

辞書だから、dictionary ? ・・・実は、私もそう思いました。

 

でも、答えは、 vocabulary  なんですね。

 

「歴史的事実」なので、was より is の方が良さそうだと私自身思ったのですが、とにかく、

The word  “impossible” was not in Napoleon’s vocabulary.

というそうです。

でも、ナポレオンはフランス人。原文のフランス語では何というのですかね?

調べたら

 

Impossible n’est pas francais.

 

と言いました。直訳すると、

 

不可能はフランス的はない。

 

たったそれだけでした。随分、簡単なんですね。

 

ナポレオンが部下を叱咤激励した際、「フランス人ならできないことはない」という意味で使ったそうです。

 

フランスの諺に

Ce qui n’est pas clair n’est pas francais.

というものがあります。

明晰ではないものは、フランス語ではない。

という意味です。

 

英語は、発音にしても意味解釈にしても結構、曖昧なところがあります。が、フランス語は文法が少し厄介ですが、確かに明晰で、曖昧なところが少ない。「L」と「R 」の発音も全く違うので簡単に区別できます。

 

日本人にとって、英語よりフランス語の方が学習しやすく、身に着きやすいと私は思っています。

電子辞書を買いました

またまた、電子辞書を買ってしまいました。

買うまでに、随分悩みました。何と、4万1千円もするのです。

私はどうも優柔不断で、石橋を叩いても渡らない性格です。

しかも、1台、既に電子辞書は持っていたのです。

なぜ購入したかと言いますと、フランス語の電子辞書が欲しかったからです。前の1台は、英語専門で、その他の言語は入っていません。価格は忘れてしまいましたが、5,6年前に3万円ぐらいだったと思います。

今回も同じメーカーの機種で、大きさは前回より一回り大きくて分厚く、ブリタニカの百科事典まで入っています。フランス語だけではなく、英語も入っています。

価格は高めでしたが、何と、まるで小さなパソコンみたいな機能があり、他に気に入った辞書だけを別に購入してインストールできるのです。

もう一つ、重宝だったのが、「暗記カード」といって、自分で手書きで、単語帳を作ることができることです。これには驚きました。チェックして、記憶できた単語は削除できるようにもなっています。

こんな機械が昔あったら、私はとっくに語学の天才になっていたでしょうね(笑)。

しかしながら、この年齢で、いまだに、語学の勉強をし続けているというところが偉いと自分自身では思っています。