サントロペ…嗚呼、マリー・ラフォレさん、貴女でしたかぁ…

 学生時代は1日、16時間ぐらい音楽を聴いてましたが、最近はほとんど聴かなくなりました。一番の大きな理由は、単に流行についていけなくなってしまったからです(苦笑)。

 先日、小林克也さんの「ベストヒットUSA」というテレビ番組で、ジョーズ・ハリスンを特集しているというので、本当に久しぶりに見てみたら、目下、全米ベスト20入りしている曲もミュージシャンも一人も、一曲も知らない。それ以上に、ほとんどの曲が今、大流行のラップなので、少しも心に響かない、というか、逆に、聴いていて腹が立ってきました(失礼!)

 やはり、人間、若い頃に聴いた音楽がその後の人生を支配してしまうんですね。

 今、かろうじて聴いている音楽番組は、土曜日午前9時からNHKーFMラジオで毎週放送されている「世界の快適音楽セレクション」というゴンチチが司会する番組です。藤川パパQ、湯浅学、渡辺亨という当代一の音楽評論家が選曲する番組で、ポップスだけでなく、クラシック、ジャズ、ラテン、ボサノヴァ、シャンソン、カンツォーネ、映画音楽、戦前のディック・ミネ、戦後の植木等…とジャンルに拘らず、幅広く音楽を聴かせてくれるところが素晴らしい。私なんか、学生時代みたいに、(当時はカセット、今はMDに)録音して聴いています。

 録音するのは、大変失礼ながら、自分の好みではない音楽や、実にくだらないゴンチチの長い会話(の一部)を消去するため(ごめんちゃい)と、勿論、気に入った曲を何度も聴くためです。年を取ると好き嫌いがはっきりしてくるものです。若い頃のように「何でも聴いてやろう」という気概がなくなります(笑)。私が特に嫌いな音楽は、金属的な電子テクノ系の曲とか、何度も何度も同じフレーズを繰り返す軽薄な曲などです。逆に、好きな曲は、落ち着いたムードのあるジャズ、最近ではエラ・フィツジェラルドとかフランク・シナトラとかヴォーカルにはまっています。あとは、1960年~70年代のロック(番組では、ルー・リードやフランク・ザッパなどマニアックな曲をかけてくれます)やボサノヴァなどです。

 クラシックも、私自身は「全て聴いてしまえ!」と30歳の頃に一大決心して、モーツァルトを中心に、「三大B」のバッハ、ベートーヴェン、ブラームスからショパン、チャイコフスキー、マーラー、スメタナ、ドビュッシー、ラベル、ラフマニノフ、ストランビンスキー、ショスタコーヴィチ、それに現代音楽のグバイドゥーリアやアルヴォ・ペルトに至るまで、何千枚もCDを買い、幅広く聴いてきたつもりだったのですが、この番組の音楽選者の評論家の皆さんはさらに、その上を行っていて、ラジオではまずかけないスカルラッティとか、バッハ、ヘンデルならまだしも、私自身は名前と写真だけは音楽室だけでしか知らなかったグルックまでかけてくれるのです。実に勉強になりますよ(笑)。

 さて、昨日かかった曲は本当に、本当に懐かしい曲でした。「サントロペ…サントロペ…」と繰り返すフレンチポップスです。私が子どもの頃、よくラジオでかかっていたので1960年代初めの頃の曲です。サントロペとは、カンヌやニースと並ぶ南仏のリゾート地です。子どもながら、この曲を聴いて、「いつか行きたいなあ」と憧れたものです。

 日本に入って来る海外ポップスは、戦後はアメリカと英国にほとんど駆逐されてしまい、まず、北欧や東欧やアフリカの曲はないし、ドイツの曲さえほとんど聴かれませんでした。辛うじて、1960年代は、異色にもフレンチポップスだけは頑張っていた気がします。例えば、フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」(作詞作曲は、天才シャルル・ゲンズブール)とか、シルビー・ヴァルタンの「アイドルを探せ」(作詞はシャルル・アズナブール)などです。その一連の流れで「サントロペ」もラジオでよくかかっていたと思います。

 そして、この「世界の快適音楽セレクション」という番組のお蔭で、この「サントロペ」という曲の正体が、あれから60年も経って私は初めて分かったのです。唄っていたのは、何と、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」で共演した女優のマリー・ラフォレだったのです。しかも、この曲は、彼女が主演した映画「赤と青のブルース」の中で歌われた曲だったんですね。1961年公開の映画ですから、私は勿論、劇場で観ていないし、テレビでもやってくれなかったと思います。少なくとも見ていません。

 「何を今さら」と仰る方は多いかと存じます。「そんなことも知らなかったの?」と。

 …はい、知りませんでした。昔は、音楽を知る手段は、レコードを買うか、ラジオぐらいしかなかったでしたからね。子どもの頃は、まず、レコードなんて買えるわけないし、コンサートなんかに行けるわけありません。テープレコーダーやカセットも当時は安易に買えたわけではないので、ラジオで流れる曲を一生懸命聴いて、それでお終い。(だから、当時は、リクエスト番組が多かったんでしょうね。)

パリ・シャンソンキャバレー「オウ・ラパン・アジル」

 その点、今の人たちは本当に恵まれていますね。今、書いてきた「赤と青のブルース」も「夢見るシャンソン人形」も検索すれば、簡単に聴けるわけですから。しかも、動画が見つかれば、彼らが、演奏したり唄ったりしている姿さえ見られます。その点、昔は、歌手と曲の名前とジャケット写真だけでしたからね(笑)。後は、想像するしかありません。

 だからこそ、子どもだった私も、「サントロペ」を聴いて、声だけで想像をたくましくしたものでした。それ以上の「情報」が得られるなんて夢のまた夢。それ以上のことを知ることができるなんて、考えもつきませんでした。

 さて、そのマリー・ラフォレは、惜しくも一昨年の2019年に80歳で亡くなりました。その当時に、この「サントロペ」のことを既に知っていたなら、悲しみはもっともっと深まっていたと思います。

マリー・ラフォレさん追悼

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

フランスの女優・歌手マリー・ラフォレさんが11月3日(日)、スイスで亡くなってしまいました。享年80ですから、平均的かもしれませんが、私なんかはもう少し長生きしてもらいたかったな、というのが正直な気持ちです。

 まだ少し早いですが、私が生涯で見た数多くの映画の中で、たった1本だけ挙げろと命令されれば、私は迷わず、ルネ・クレマン監督の仏伊合作映画、アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」(1960年)に決めています。マリー・ラフォレはその相手役でしたね。撮影当時20歳。お金持ちのボンボン、フィリップ(モーリス・ロネ)の恋人マルジュ役(恐らく、美術史専攻の女子大生)でした。この映画は、映画館で何十回、テレビやビデオで何十回観たか分かりません。

 人間の野心、怠惰、嫉妬、欲望のほか、貧富の格差や人生の矛盾と不条理など、ありとあらゆるものが詰まっていました。

 マリー・ラフォレの訃報は日本でも伝えられましたが、わずか数行のベタ記事で物足りなかったので、AFP(フランス通信)などの外電を読んでみました。

 知らなかったのですが、彼女の本名は Maïtena Douménach だったんですね。 芸名のマリー・ラフォレのマリーはキリスト教のマリアさまのことで、ラフォレは、森という意味です。まあ、普通の名前でしょう。でも、本名のMaïtena Douménach は、フランス人でも極めて珍しい名前です。マイテナ・ドゥーメナックと読むのでしょうか。ドゥーメナックはバスク系の名前らしいですね。

 彼女は1939年10月5日、南西部ジロンド県スラック・シュル・メール生まれ。3歳の時に近所の男に悪戯され、それがトラウマとなって、小心で引っ込み思案になってしまったということです。それを克服したいがために、わざと逆に、はけ口となるような仕事を選んだといいます。悪戯と、差し控えて訳しましたが、フランス語の原文はviol、これは強姦という意味もあります。そのことを告白したのが35年も経った38歳の時でした。それほど心の傷が重かったということです。でも、本人は「あの事件がなければ人前に出るような仕事はしなかった」と告白しています。

 アメリカナイズされた日本では、1960~70年代に輸入される音楽は英米中心でしたから、フランスの最新ポップスは、日本のメディアではそれほど多く取り上げられませんでした。(シルビー・バルタンとミシェル・ポロナレフぐらいか)彼女は35本の映画に出演していましたが、女優というより、フランス国内ではシャンソン・ポップス歌手としての方が有名だったようです。”Les Vendanges de l’amour”(「愛の収穫」)”Vien,vien” (「来て、来て」)などの大ヒット曲に恵まれましたが、一部の好事家を除き、残念ながら日本にまでは伝わって来ませんでしたね。彼女は、歌手として3500万枚のアルバムを売り上げたそうです。

 1972年には一時、歌手活動から遠ざかりましたが、作詞やエッセイなどの執筆活動を優先にし、その後、スイスのジュネーブに腰を落ち着け、画廊を経営していたというのです。スイスの国籍も取得(二重)しました。それでも、芸能活動をやめたわけではなく、舞台に復帰して、マリア・カラス役の演劇に出演したり、リサイタルを開催していました。

 驚くことに、彼女は5回も結婚し、3人の子どもに恵まれたとか。そのうちの一人が、1965年生まれの映画監督リサ・アズエロスです。「ソフィー・マルソーの秘められた出会い」(2015)「ダリダ~あまい囁き」(2017)などの監督作品があります。父親はモロッコ・ユダヤ系の実業家ジューダス・アズエロスさん。当然のことながら母と娘の関係はうまくいってなかったようです。

 私が学生時代にフランス語を専攻した理由として、映画「太陽がいっぱい」のほか、音楽はビートルズの「ミッシェル」とフランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」(ゲンズブール作曲)、哲学のサルトルとカミュ、印象派絵画、バルザック、フロベール、モーパッサン、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボーなどの影響が挙げられます。

 マリー・ラフォレを知らなかったら、あれほどフランス語の勉強に熱が入っていたかどうか分かりません。そういう意味で、彼女は私をフランスに導いてくれた恩人です。ご冥福をお祈りするとともに、感謝の意を捧げます。

 Merci Beaucoup

「太陽がいっぱい」の矛盾台詞を発見

 フランス語の勉強と称して映画「太陽がいっぱい」のDVDを購入して見ています。結局、フランス語の字幕がついていなかったので、がっかりしてしまいましたが。

 

この映画は劇場で何度見たか分かりません。50回、いやそれ以上かもしれません。もちろん、1960年の日本初公開の時点ではなく、リバイバル上映の時です。当時はDVDはおろか、ビデオもない時代ですから、いわゆる二番館と言われる名作座で見るしかなかったのです。今、あるかどうか知りませんが、当時は沢山ありました。池袋・文芸座、高田馬場のパール座、早稲田の松竹座、飯田橋の佳作座、ギンレイ座、大塚の…、銀座の…名前は忘れました。とにかくお金のない学生にとっては恵みでした。

あれだけいっぱい見た「太陽がいっぱい」なのですが、DVDで家で落ち着いて見ると、結構、矛盾点が見つかるんですね。ご覧になった方も多いと思いますが、アラン・ドロン扮するトム・リプレーが金持ちの放蕩息子のフィリップ(モーリス・ロネ)を殺して、彼に成りすまして、銀行から大金を下ろし、フィリップの恋人のマルジュ(マリー・ラフォネ)まで奪って、完全犯罪を企むストーリーです。原作はパトリシア・ハイスミスで、私は原作は読んでいないのですが、巨匠ルネ・クレマン監督の最後のシーンは彼による発案らしいです。1999年にアンソニー・ミンゲラ監督、マット・デイモン、ジュード・ロー主演でリメイク版「リプレー」が製作されましたが、やはり「太陽がいっぱい」には足元にも及びませんでした。それほど素晴らしい映画です。

若い頃は、アラン・ドロンの格好良さだけ目に付いて、男から見ても溜息をつくようでしたが、今、見ると、どうも、灰汁の強さだけが迫ってきてしまいます。その後、自分の用心棒だったマルコビッチ殺害事件にドロン自身が関与したのではないかと、疑われたり、飛行機に乗ってもファーストクラスで異様な王様気取りの傲慢さでフライト・アテンダントを辟易させたという証言を読んだりしているので、どうも単なる悪党(笑)に見えてしまいました。それだけ演技がうまかったということになりますが。

この映画は、子供の頃に初めてテレビで見たのですが、とても、恥ずかしくて大人の世界を盗み見るような感じでドキドキしてしまいました。彼らは皆、すごい大人に見えたのですが、当時、アラン・ドロンは24歳、マリー・ラフォレは何と18歳だったんですね。モーリス・ロネでさえ32歳です。驚きです。最も、ルネ・ククレマン監督でさえ46歳の若さだったのですから。

 

それで、矛盾点の話ですが、ドロン扮するトムがフィリップに成りすまして、フィリップの友人のフレディを殺してしまうのですが、警察は「指紋が一致した」と言って、フィリップが下手人であることを突き止めるのです。その指紋は結局トムの指紋なのですが、そんなことは、すぐ分かってしまいますよね。完全犯罪には無理があります。

これは、映画を見て思ったことなのですが、今回、DVDを見て発見した矛盾点は台詞にあります。トムとフィリップとマルジュの三人がヨットの中で食事をするシーンです。貧乏青年のトムは、フィリップの米国人の父親に頼まれてサンフランシスコに呼び戻す使いで、イタリアのナポリまで来ていたのです。(それにしてもあの映画で描かれるイタリアは素晴らしい。フランスとイタリアの合作映画だったということも今さらながら知りました)

食事をしながら、トムはフィリップに言います。

「フィリップの親父さんには、僕は随分嫌われていたなあ。出自が卑しいって言うんだよ。でも、おかしいよね。今ではこうして僕は君の監視役だ。貧しいけれど、賢いっていうことかな」(私の意訳)

トムは一生懸命、ナイフを使って魚の肉を切り分けています。それを見たフィリップは

「上品ぶりたがるということ自体が、そもそも下品なんだよ。魚はナイフで切るな。それにナイフの持ち方が違うぞ」

とテーブルマナーすら知らない貧乏青年を馬鹿にするのです。

そして、一番最後のシーンです。フィリップは殺され、ヨットは売られることになり、父親が米国からナポリにやってきます。マルジュはすっかり、トムといい仲になり、海水浴をしているところに、女中(禁止用語)が来て言います。「お嬢様、お義父さまがお見えになっていますよ」

マルジュはトムに言います。「いけない!忘れてた!」。トムは聞きます。「彼は何しに来たの?」マルジュは「ヨットを売りに来たのよ」。そして、トムにこう言うのです。

「あなたに会いたがるわよ。とても良い方なの」

なぜなら、フィリップの父親は、息子がすべての財産をマルジュに与えるという「遺言」を残していたので、息子の遺志を尊重すると、マルジュに言ったから…、と台詞は続くのですが、私が問題にしたいのは、そもそも「あなたに会いたがるわよ」という台詞が変なのです。なぜなら、ヨットの中でトムは、フィリップの父親に「嫌われていた」とはっきり、マルジュにも聞こえるように話していたからです。

以前は完璧なシナリオだと思っていたのですが、あら捜しすると、結構見つかるもんですね。