ゾルゲが愛した銀座のバー、レストラン=情報提供求めます

 相変わらず、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)を読んでおります。

 昭和8年(1933年)9月13日、ソ連赤軍第4部の諜報工作員、リヒアルト・ゾルゲは、前任地の上海での任務を終え、モスクワからベルリン、米国、カナダを経由して横浜港に上陸します。この時、「2年間の任務」の約束だったはずの諜報活動が、逮捕されるまで8年もの長期に渡ること(プラス3年間の巣鴨刑務所拘置)をゾルゲは知りません。

銀座電通ビル 1936年、日本電報通信社(電通)は聯合通信社と合併させられ、同盟通信社となった。戦前は、同盟通信の一部(本体は日比谷の市政会館)と外国の通信社・新聞社が入居 ドイツ紙特派員ゾルゲと、諜報団の一員アヴァス通信社(現AFP通信)のブーケリッチもこのビル内で働いていた

 独新聞社特派員を隠れ蓑にした東京でのおどろおどろしいスパイ活動は、既に何百冊もの本に書かれていますので、何か、変わった趣向はないかなあ、と思いながらこの本を読んでいました。そしたら、尾崎秀実を含めたゾルゲ諜報団は、バーやレストランに関して、かなり高級店を利用していることが分かりました。特に、ゾルゲに関しては、「酒」と「女」で情報収集に励んでいたことがモスクワ当局にでさえ知れ渡っていました。まさに、007ジェームズ・ボンドです。

 私は以前、この渓流斎ブログで「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」(2021年3月19日)を書いたことがあり、大変好評で、コメントまで頂いたことがありました。

銀座並木通りの対鶴ビルにあった「ローマイヤレストラン」の店頭に立つローマイヤさん(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページから)※安心してください。お店の店長さんからブログ転載を許諾してもらいました!

 こんな感じで、マシューズ著「ゾルゲ伝」に出てくる東京・銀座の飲食店を探索しようかと思いましたら、残念ながら、90年もの歳月が経てば、もう跡形も痕跡すら残っていません。著者によると、1934年当時、銀座界隈には2000軒以上のバーがあったといいますが、ゾルゲの行きつけの飲食店等として、例えば、こんな店が出てきます。

 1、銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」、ヘルムート・カイテル(ケテル?)が経営するドイツビアホール兼バー「ラインゴールド」

 2、銀座のバー「こうもり」

 3、1934年創業の「銀座ライオン」(今も当時の建物のままあります!ゾルゲはもっとこじんまりとした本格的なバーの方を好んだとか)

 4、有楽町の「ジャーマン・ベーカリー」

 5、ゾルゲとヴーケリッチが定期的に会うことになった銀座のレストラン「フロリダ・キッチン」

 6、最新のタンゴが演奏された「フロリダ・ダンスホール」「シルバー・スリッパー」

 7、無線技師マックス・クラウゼンと待ち合わせをした数寄屋橋のバー「ブルーリボン」

 最初の1番の「ローマイヤ」と「ケテル」については、先述した「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」(2021年3月19日)で取り上げていますので、御面倒でもこちらをご参照ください。「ラインゴールド」は、ゾルゲの最愛の日本人伴侶、石井(三宅)花子が、「アグネス」の名前でバイエルン風の衣装を着てホステスとして働いていたドイツビアホールで、マシューズ著「ゾルゲ伝」によると、経営者はドイツ人のヘルムート・「パパ」・カイテル(中国のドイツ植民地青島出身で、第一次大戦で日本軍の捕虜となり、日本人女性と結婚し、1924年に「ラインゴールド」を開業)です。カイテルとは恐らく、ケテルと同一人物で、彼はドイツ料理店「ケテル」とドイツバー「ラインゴールド」の2軒を経営していたと思われます。「ラインゴールド」の場所は西銀座5丁目となっているので、銀座5丁目5の「ケテル」とは少しだけ離れています。「ケテル」は、駐日ドイツ大使オットーと食事、「ローマイヤ」は、独大使館海軍アタッシェ、ヴェネッカーらと食事に、「ラインゴールド」は石井花子らを目当てに個人的に通ったと思われます。

 2番目のバー「こうもり」に関しては、そこでウエイトレスとして働いていたケイコがゾルゲに恋をし、それを知らないゾルゲは美しい欧州人女性を店に連れて来たことから、ケイコは絶望して自殺を決意をするも、ドイツ人の経営者に止められた逸話も残っています。

かつて「ケテル」があった所(銀座並木通り) 今は、高級ブラント「カルチェ」の店になっています

 もっと詳しい情報がないものか、とネットで検索していたら、世の中にはマニアの方がいるもので、「スパイ・ゾルゲが愛したカクテル」というタイトルで、洋酒評論家の石倉一雄さんという方が2011年11月から翌月にかけて、8回に渡って連載されている記事を発見しました。ゾルゲがどんな酒を呑んでいたのか「推測」する話が中心ですが、当然ながら通ったバーについての記述もあります。

 「こうもり」については、ドイツ語で「フレーデルマウス」と呼ばれ、隠れ家的バーで、無線技士クラウゼンと毎週落ち合う店を、7番の「ブルーリボン」からこの「フレーデルマウス」に変更したといいます。石倉一雄氏はとてつもない人で、この「フレーデルマウス」(ふくろう)に関しては、織田一麿のリトグラフ作品に「画集銀座第一輯/酒場フレーデルマウス」(1928年)という作品があり、東京国立近代美術館で見られると紹介しています。あのホステスのケイコさんの命を救った経営者はドイツ人のボルクと書いています。凄い人ですね。

 7番の数寄屋橋の「ブルーリボン」については、石倉氏は、日本バーテンダー協会の会誌「ドリンクス」の落合芳明編集次長の「『ブルーリボン』には一瓶30銭のビールを頼めば無料で食べられるサンドイッチがあった」という証言から「当時の一流バーの一軒だったと推すことができる」と書いております。

 また、6番の「シルバー・スリッパー」は、「外国特派員が頻繁に訪れていた」と書いていましたが、何処にあったかについては書かれていませんでした。

銀座8丁目に現在もある舶来品専門店「オサダ」。この辺りにゾルゲが利用した「フロリダ・キッチン」があったと思われます。銀座の同盟通信社の目と鼻の先です

 話は前後しますが、ゾルゲとヴーケリッチが会っていた5番のレストラン「フロリダ・キッチン」は、これまたネット検索すると、銀座8丁目5の輸入洋品店「オサダ」(今もあります!)の隣りにあったようです。

 調査研究に長けた石倉氏は、モスクワからゾルゲに送られて来た諜報活動費は、今のお金に換算すると月額300万円だったことを明らかにしています。まあ、それだけあれば、銀座の高級バーを豪遊できるわけですね。

 いずれにせよ、1~7番に挙げたゾルゲが愛した銀座の飲食店の場所は、一部を除き、はっきり確定できません。もし御存知の方がいらっしゃれば情報提供して頂くと大変有難いです。小生が早速、現地(跡地)に足を運んで写真を撮って来ます。

銀座8丁目にある輸入品専門店「オサダ」

このように(笑)。

ゾルゲは「陸軍中野学校」出身みたいだった?=「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)

 長年のこの渓流斎ブログの御愛読者の皆さまならよく御存知かと思いますが、私は、長年、「20世紀最大の国際スパイ事件」と呼ばれる「ゾルゲ事件」にはまってしまい、このブログでも散々書いて来ました。(そのほとんどの記事は、小生の不手際で消滅してしまいましたが)

 関連書籍もかなり読み込んできたので、偉そうですが、何でも知っているつもりになってしまいました。そのため、しばらくゾルゲ事件関係から離れていました。そしたら、解散した日露歴史研究センターを引き継ぐ格好で、加藤哲郎一橋大学名誉教授らが昨年、「尾崎=ゾルゲ研究会」を立ち上げ、ほぼ同時に、みすず書房から「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ全4巻の刊行が昨年10月から刊行開始されたこともあり、その潮流に巻き込まれる形で、またまた小生のゾルゲ事件に関する興味も再燃してしまったのでした。

浮間舟渡公園

 ちょっと余談ながら、私が最近、《渓流斎日乗》でゾルゲ事件に関してどんなことを書いていたかピックアップさせて頂きます。

①2018年4月22日 「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」

②2019年11月12日 「新段階に入ったゾルゲ事件研究=思想検事『太田耐造関連文書』公開で」

③2020年7月27日 「『ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち』はお薦めです」

④2021年3月19日 「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」

⑤2022年3月20日 「『日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開』=第41回諜報研究会を傍聴して」

⑥2022年11月8日 「ゾルゲは今でも生きている?=『尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会』に参加して来ました」

⑦2023年1月12日 「動かぬ証拠、生々しい真実=アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳『新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書』」

⑧2023年1月18日 「ゾルゲと尾崎は何故、異国ソ連のために諜報活動をしたのか?=フェシュン編『ゾルゲ・ファイル 1941-1945 赤軍情報本部機密文書』」

⑨2023年10月1日 「使い捨てにされたスパイ・ゾルゲ?=尾崎=ゾルゲ研究会の第3回研究会「オーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』をめぐって」

 皆さまにおかれましては、わざわざ再読して頂き、誠に有難う御座います。

浮間舟渡

 我ながら、結構書いていたんですね。そして今、「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房、6270円)をやっと読み始めています。この本、今年の5月10日に初版が出ておりますが、初版、じゃなかった諸般の事情で出版されてから5カ月遅れで読み始めております。

 いやあ、実に面白いですね。著者はジャーナリストですが、まるで推理作家のように文章がうまいのです(翻訳のせい?)。(例えば、100ページに出てくる「少なくとも1ダースほどの別名で知られていた、このピク(本名エフゲニー・コジェフニコフ)は不謹慎な冒険者が多いこの街で、詭計を働く一人滑稽歌劇(オペラ・ブッファ)で既に名を馳せていた。」といったような凝った書き方)

浮間舟渡

 先程、私はゾルゲ事件に関しては何でも知っているつもり、などと偉そうに書きましたが、加齢とともに記憶力も急降下し、失語症か何かのように固有名詞が出て来なくなりました。脳細胞は一日、10万個消滅するらしいですから、忘れてしまったことが多いのです。そのため、この本は随分新鮮な気持ちで読むことができます。また、この本を読んで、自分が間違って覚えていたことも分かりました。

 決定的な間違いは、私は、ゾルゲが所属していた「赤軍第4部」という諜報機関は、かの悪名高いKGBにつながる、と思い込んでいたのでした。スパイと言えば、世界中の誰もが知っているKGBですからね。(勿論、プーチン露大統領の出身)著者のマシューズ氏は、ソ連の諜報機関について、かなり念入りに調べ上げているので大変な勉強になりました。

 簡略すると、まず、冷戦時代に活躍したKGBは、戦時中(1934~46年)はNKVD(内務人民委員会)と呼ばれ、その前は秘密警察GPU(国家政治保安部)という組織でした。NKVDやGPUは、ゾルゲ事件関係の本には必ず出てきます。これらはもともと、レーニンがロシア革命を成し遂げた直後に、全ロシア臨時委員会(チェカ)として発足されました。

 次に、コミンテルン(共産主義インターナショナル、1919~43年)の中に諜報機関OMS(国際連絡部)が設立されます。ゾルゲはドイツ人ですから、当初はこのOMSに所属していました。

 最終的にゾルゲが所属して上海、東京で活動したのはGRU(赤軍参謀本部情報総局)傘下の労働者・農民赤軍参謀本部第4部(赤軍第4部)でした。ゾルゲは、この組織を設立したヤン・カルロヴィッチ・ベルジン(1889~1938年、48歳で粛清処刑)からスカウトされたわけです。

 私は、このソ連の三つの諜報機関の「親玉」は誰なのか、と考えてみたら、まずKGBは「警察」、OMSは「共産党」、赤軍第4部は「軍部」だということにハタと気が付きました。つまり、大日本帝国の組織に当てはめれば、KGBは「特高」、赤軍第4部は「陸軍中野学校」に当たるのではないかと思ったのです。OMSは、朝日新聞を下野した緒方竹虎も総裁を務めた内閣の「情報局」に当たるかもしれません。当たらずと雖も遠からずでしょう。

 ゾルゲは「陸軍中野学校」出身かと思うと、急に身近に感じでしまいますよね(笑)。もっとも、同じく死刑になった盟友尾崎秀実は、ゾルゲはコミンテルンのスパイだと最後まで信じ込んでいたようですから、尾崎は、ゾルゲが「情報局」の人間だと思い込んだことになります。この違いは大きいですね。尾崎は軍人嫌いでしたから、もし、ゾルゲが「陸軍中野学校」だと知ったら、あれほどまで情熱的にゾルゲに情報を提供しなかったかもしれない、と私なんか思ってしまいました。

 

 

動かぬ証拠、生々しい真実=アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳「新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書」

 昨日は帰宅して、大切な手帳をなくしたことに気が付きました。鞄の中にもポケットの中にもありません。でも、すぐに、会社に置き忘れたのではないかと予測できたのでそれほど焦りませんでした。翌日の朝(ということは今日)、会社に着いて、机の引き出しを開けたら、案の定、手帳が出て来ました。一安心です。

 とはいっても、会社員になって40年以上経ちますが、大事な手帳を置き忘れたことは今回が初めてです。冥界の閻魔大王様が、ニコニコしながら、こちらに手招きしている姿が頭にちらつきます。

 さて、今、通勤電車の中で、アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳「新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書」(みすず書房、2022年10月17日初版)をやっと読み始めました。7040円という大変、大変高価な本なのですが、ゾルゲや近現代史研究者だけでなく、一般市民の方でも必読書ではないかと思いながら、熟読玩味しております。実に面白い。

 この本については、既に2022年11月8日付の渓流斎ブログ「ゾルゲは今でも生きている?=『尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会』に参加して来ました」でも取り上げておりますので、ご参照して頂ければ幸いです。

 これでも、私自身は、ゾルゲ事件に関連する書籍はかなり読み込んできた人間の一人だと思っております。10年程昔、この渓流斎ブログでもほぼ毎日のようにゾルゲ事件について取り上げて書いていた時期がありましたが、その大半の過去記事は、小生の病気による手違いで消滅してしまいました。

 そんな私がこの本を「面白い」とか「必読書」などと太鼓判を押すのは、ゾルゲ事件の核心的資料だからです。何と言っても、在東京のスパイ・ゾルゲがモスクワの赤軍参謀本部情報本部に送った暗号文の「生原稿」が読めるのです。ゾルゲ事件といえば、日本の当局が容疑者を訊問した調書が掲載された「現代史資料 ゾルゲ事件」1~4(みすず書房)が必読書の定番ではありますが、この本は、事件の核心につながる粋を集めた、いわばゾルゲ国際諜報団の「果実」みたいなものだからです。まさに「動かぬ証拠」です。よくぞこんな機密文書が残っていて、あのロシア当局がよくぞ公開したものです。恐らく、ゾルゲを神格化したいプーチン大統領の思惑によるものでしょう。

 収録された暗号文には実に生々しいことが報告されています。特に、「お金が足りず、早く送金せよ」といったゾルゲの悲痛な叫びが何度も登場します。それに対して、モスクワ当局は「予算を切り詰めろ」とか「価値のない情報に金は払うな」「出来高払いでよい」といった冷たい態度で、まるで現在の何処かの国の多国籍企業の本社と海外駐在員とのやり取りのようです。

 先ほど、「一般市民の方でも必読書」と書きましたが、ゾルゲ事件に関する書籍をほとんど読んだことがない人でも読みやすいと思うからです。何故なら、註釈がしっかりしているからです。例えば、ゾルゲが宛名先として指名し、暗号文書の中では、「赤軍参謀本部情報本部長」もしくは「G」となっている人物については、「註釈21」で「フィリップ・ゴリコフ(1900~80年) ソ連軍元帥。野戦部隊司令官などを経て、40年7月から41年10月まで、赤軍参謀本部情報本部長を務めた(軍参謀次長を兼務)。…」と詳細されているので、初心者の人でもついていけると思います。

 また、巻頭には、登場人物として、「ゾルゲ機関」「赤軍参謀本部情報本部」「クレムリン指導部」などの項目別に、顔写真と名前と生没年、肩書等が掲載されているので一目瞭然です。私も、先述した赤軍参謀本部情報本部長のゴリコフや、暗号解読者のラクチノフらの顔をこの本で初めて見ました。特にロシア人の名前は日本人には馴染みが薄く、ドストエフスキーの小説を読んでいても誰が誰だか分からなくなります。巻頭に登場人物を持って来るなんて、まるでロシア小説の日本語翻訳本みたいですね(笑)。

◇軍機保護法違反なのでは?

 でも、これは、創作ではなく、史実です。「へー、こんなことまでゾルゲはモスクワに報告していたのか!」と驚きの連続です。例えば、1941年2月1日付で送った電報(本書では「文書19」47ページ)ではこんなことまで書いています。

 …労働者1万人を擁する太田(群馬県)の中島飛行機工場は、海軍の軍用機単発戦闘機を製造している。格納式のフラップ付全金属製の戦闘機「九七式」が月間30機製造されている。速度360キロ。陸軍用の九七式軽戦闘機は月産40機。…

 ひょっええーです。ゾルゲは新聞記者(独フランクフルター・ツァイウィトゥング紙特派員。ただし正社員ではなかった)とはいえ、どうしてこんな軍事機密情報を仕入れることが出来たのでしょうか? こんな情報は、漏洩なんかすれば、間違いなく軍機保護法、国防保安法などに引っかかるはずです。情報元は書かれていませんが、この情報は恐らく、元朝日新聞記者で内閣嘱託だった尾崎秀実か、沖縄出身の米国共産党員・宮城与徳とその友人・小代好信(陸軍除隊後、軍事情報を収集)からもたらされたものと思われます。

 余談ですが、2021年5月8日付の渓流斎ブログ「中世の石垣が見どころでした=日本百名城『金山城跡』ー亡くなった親友を偲ぶ傷心旅行」で書きました通り、群馬県太田市の金山城跡を訪れた時に、中島飛行機の創業者である中島知久平の銅像があったことを思い出しました。中島飛行機は、有名な戦闘機「隼」なども製造していたということですが、ゾルゲ諜報団の情報収集力には魂げるほかありません。

 この他、オットーこと尾崎秀実は、日本軍の師団配置と師団長の名前までスクープしてゾルゲに渡していますが(文書34)、読んでいて、まさに日本の機密情報がソ連側に最初から筒抜けだったことが分かります。畏るべし。

◇みんな若い!

 そして、何と言っても、驚かされたのは、登場人物の年齢の若さです。1941年の時点で、ゾルゲは46歳、尾崎秀実40歳、宮城与徳は38歳。ソ連側も、スターリンは63歳ですが、受け手の赤軍参謀本部情報本部長のゴリコフは、元帥とはいえまだ41歳、ゴリコフの後任のパンフィーロフは40歳、暗号解読専門家のラクチノフなんか33歳です。ドイツのリッベントロップ外相は48歳、オット駐日独大使は52歳、そしてヒトラーでさえ52歳だったのです。

 こっちが年を取ったせいですが、こうした若い彼らに地球上のほとんどの国民の生命と運命が委ねられていたと思うと、本当にゾッとします。

 私は、20年ほど前からゾル事件関連の文献を読み始め、当初は、尾崎秀実は国際平和を心から願う高邁な精神の持ち主で英雄だと思っておりましたが、最近では、やはり、「売国奴」のそしりを受けても仕方がない人物だと思うようになりました。こうして、軍事機密をゾルゲに伝え、月額250円(当時の大卒の初任給は70~80円)もの謝礼を受けていたことも本書に出て来ます。「情報を金で売った」と言われても、彼は抗弁できないでしょう。しかも、尾崎は、ゾルゲがドイツ人で、ドイツ紙の記者であることは知っていても、ソ連の赤軍参謀本部のスパイとまでは知らなかったという説が濃厚ですが、尾崎は、ゾルゲがソ連にも通じているかもしれないと、薄々感じていた、と私は思っています。しかし、彼はその疑念をゾルゲに確かめなかった。ですから、尾崎にも責任があった、と思います。そう書いてしまっては、思想検察側に寝返ったことになりますが、この本の「生原稿」を読むと余計に、尾崎秀実=売国奴説に傾いてしまいました。

 まあ、こうコロコロと見解が変わってしまっては、とても学者さんにはなりませんね(苦笑)。