雨宮由希夫氏の書評・加藤廣著「秘録 島原の乱」

著名な文芸評論家雨宮由希夫氏から「書評」が届きましたので、本人のご了解を得て「渓流斎日乗」に掲載させて頂くことにしました。

雨宮氏は過日、東京・帝国ホテルで開催された「加藤廣氏のお別れ会」でもスピーチされた方で、先日もこのブログで取り上げさせて頂きました。

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書名:『秘録 島原の乱』 著者名:加藤廣 発売:新潮社 発行年月日:2018年7月20日 定価:¥1600E

本年4月7日 加藤廣氏が急逝された。享年87。『信長公記』の著者・太田牛一を主人公とした本格歴史ミステリー『信長の棺』で加藤廣が75歳近くの高齢で作家デビューを果たしたのは、13年前、2005年(平成17年)の初夏のころであった。

何よりも『信長の棺』という書名からしてすでに謎めいているが、この衝撃的なタイトルでわかるように、本能寺の変という歴史的な大事件の謎に焦点を当てるという手法で、歴史の闇と風塵に埋もれた真相に迫ったものである。

『秀吉の枷』『明智左馬之助の恋』の「本能寺三部作」、『求天記 宮本武蔵正伝』『謎手本忠臣蔵』『空白の桶狭間』等々、寡作ながらインパクトのある歴史小説を世に問うてきた加藤作品を貫くのは、それまでの常識あるいは通説とされている歴史事象を疑い、真実を追究するという独特の歴史観である。「人間の生きた真実の姿は一つしかない。その真実を探り当てるのが己の使命である」と言わんばかりの絶妙な歴史推理の手法で、読者の意表を衝く謎解きの面白さを通じて真相に迫ることで、“加藤(かとう)節(ぶし)”というべき独特の歴史小説の世界を造形した。

遺作となった本作品『秘録 島原の乱』は「小説新潮」2017年8月号~2018年4月号に断続的に連載され、「編集後記」によれば、単行本化に当たっては連載当時の原文のままにしたという。

本作品は『神君家康の密書』の続編であり、“加藤節”の集大成というべき作品。大坂城落城と共に豊臣秀頼は死んだとするのが通説だが、秀頼最期の場所である焼け落ちた糒倉から秀頼の遺骸が特定できなかったことも事実である。秀頼の薩摩落ち説や天草四郎の秀頼ご落胤説などの巷説を採り入れ、天草四郎は薩摩で生まれた秀頼の一子であるとして、大坂城落城から島原の乱までの江戸時代初期の歴史を背景に魅力あふれる物語を創り上げている。

 第1部「秀頼九州落ち」。慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣。炎上する大坂城。自死しようとする秀頼(23歳)が、明石掃部全登の手引きで、大坂城を脱出し大阪湾に浮かんだ後、一路九州・薩摩の地に落ち延びる。

関ヶ原合戦において西軍の主力の宇喜多秀家の先鋒を務め、大坂の陣では「大坂城の七将星」の一人として名を馳せたキリシタン武将・明石掃部は大坂城落城のとき自刃したとも、脱出して潜伏したとも伝えられるが、本書の明石掃部は、「再起を図られませ。豊臣家の再興には地に潜った全キリシタンが陰に陽に働きましょう」と秀頼をして捲土重来を期せしむ。かくして島津領に入った秀頼主従は島津家久治世下の薩摩谷山の千々輪城に居住し、来たるべき徳川との戦さに備える。当然ながら秀頼の行方は厳重に秘匿され、「秀頼の気の遠くなるような雌伏の時代が始まる」。

第2部「女剣士の行方」。時代背景は一変。大坂城の落城から、およそ10年後。主人公は柳生十兵衛三厳の片目を潰した手練れ、男装の若き女剣士の小笛である。寛永元年(1624)7月、豊臣恩顧の外様大名福島正則が配流地の信濃国川中島高井野村で客死する。正則の死を見届けた小笛は、家康が「秀頼の身命安堵」を約束したとされる密書を正則から託されて、真田幸村ゆかりの真田忍者・小猿らを連れて、秀頼おわす薩摩に向かう。

薩摩で小笛は秀頼に見初められる。「秀頼公のお世継ぎ作りが最も枢要な役目」と悟った小笛は〈小笛の方〉つまり秀頼の側室の一人となる。今や天下の大半が徳川に帰したのは明らかだが、側室となる前に、小笛自らの眼で天下の趨勢を見極めるべく旅に出て、雑賀孫市、真田幸村の三女阿梅らに遭い、孫市からは「豊臣の遺臣が立ち上がるときは豊臣に味方する」という確約を得る。

第3部「寛永御前試合の小波」。背景はまたしても一変。寛永14年(1637)5月初旬の江戸城内御撰広芝御稽古場における御前試合の場面。3代将軍家光の御前で行われた寛永御前試合の開催時期は寛永9年、15年説が有力だが、作家は寛永14年に時代設定し、「島原・天草の農民、キリシタンたちが圧政に抗して蜂起したのは寛永14年の10月に入ってからだが、この年は薩摩の島津家久を除く九州の主だった大名が江戸参覲中であった」と、島原の乱に結び付けている。

かくして、この御前試合に、増田四郎なる類い稀なる謎の美少年(13歳)が薩摩示現流の東郷藤兵衛の代理として登場。四郎は将軍家指南役柳生但馬守宗矩の三男・柳生又十郎宗冬を撃ち破ってしまう。衆道好みの将軍家光は四郎に懸想。宗冬の兄の柳生十兵衛は四郎の母は小笛なのかと疑うが、家光はまさか四郎が秀頼の子であるとはつゆ知らない。「肥後での一揆」を命令する島津家久、島津には何か胡乱な気配があると察知する老中松平伊豆守信綱。小猿らは宇土城址で加藤清正の隠匿した火薬と鉄砲類を掘り起こす一方、一揆の拠点とするに足る廃城を探すべく、天草諸島や島原半島を動き回っている。そうした中で、四郎はキリストの再来として天草島原の農民たちから“神の子”と崇められる。

寛永14年10月の蜂起を目前にして、四郎の父・秀頼死す。この壮大な一揆の推進者であり、最大の金主でもある秀頼は労咳を患いながらも徳川政権転覆を夢見て薩摩で45歳まで生きていた。

第4部「救世主のもとに」。寛永14年(1637) 10月26日、島原の乱の首謀者たちは“神の子”天草四郎時貞を一揆軍の総大将とし決起した。明石掃部の指導宜しく殉教の決意固い切支丹となった時貞は天草島原の信徒や農民を結束させ、リーダーとして仰ぐに相応しい人物に成長していた。

島原の乱は純然たる切支丹一揆だったのか、宗教とは無縁の単なる百姓一揆だったのか意見の分かれるところである。一揆勃発の原因は領主の苛政であるが、島原藩主の松倉勝家はこの百姓一揆を切支丹一揆と主張し、徳川幕府も島原の乱を切支丹弾圧の口実に利用した。島原の乱は長年の苛政に虐げられてきた島原天草の農民の反抗が切支丹信仰と結びついた激しい農民反乱であると観るのが正しいであろう。その上で、作家は、その実質的な指導者は福島正則に与した豊臣の遺臣たちであったとし、剣豪小説や伝奇小説の面白さを加味し、歴史小説に仕立てている。

終章「原城、陥落す」。寛永15年2月27日、凄惨な落城の日。幕軍の総攻撃、酸鼻を極めた掃討で、一揆軍に加わった老若男女37000人余りはことごとく惨殺され、天草四郎も討ち取られたとするのが通説であるが、本作品で作家は、原城抜け穴の出口で脱出逃亡者を待ち構える宮本武蔵と柳生十兵衛の前に、実は女であった天草四郎と母親の小笛があらわれるシーンを造形している。

荒唐無稽な作り話ではない。用意周到、まさに“加藤(かとう)節(ぶし)”炸裂。通説、正史の名のもとに歴史の闇に打ち捨てられた人々が浮かび上がる面目躍如の歴史小説である。(平成30年8月17日 雨宮由希夫 記)

「守」「介」「掾」「目」の四等官

火星接近2018・7.31

今、加藤廣さんの遺作「秘録 島原の乱」(新潮社、2018年7月20日初版)を少しずつ読んでいます。

大坂夏の陣で自害したはずの豊臣秀頼が、九州にまで逃げ延びていたという歴史小説ですが、さすが、手馴れた作家だけあって、時代考証が生半可じゃありませんね。フィクションとはいえ、徹頭徹尾調べ上げた挙句の創作ですから、「もしかしてありえたかもしれない」と読者に思わせます。

歴史小説を読むに当たって、官位の知識があるととても便利です。私もこのブログで、何度か倉本一宏氏の「藤原氏」(中公新書)などを取り上げてきましたが、戦国時代になっても、明治になっても、これら官位が日本の歴史ではずっと続いております。今でも、小学校から高校の元校長先生、大学名誉教授らに「正五位」や「従五位」などと叙位叙勲しており、いまだに日本は古代の律令制が残っているわけですねえ(笑)。

官位の最高峰、関白になったのは、藤原氏以外では豊臣秀吉と秀次ぐらいです。

石田三成が「治部少」と呼ばれていたのは、三成が治部少輔という官位だったからです。治部少輔とは、治部省長官である治部卿、次官である大輔に次ぐ官位で、従五位下に当たるようです。治部省は、氏姓や戸籍に関する訴訟や仏事に対する監督などを行っていましたが、戦国時代ともなれば、有名無実化していたことでしょう。

火星接近2018・7・31

これら、長官、次官…といった官位は「四等官」と呼ばれ、諸官司で、色んな漢字が当てられています。

官司 長官(かみ) 次官(すけ) 判官(じょう) 主典(さかん)
神祇官
大夫
国司

出典 小学館デジタル大辞泉

源義経は「判官義経」と呼ばれていましたが、義経は「検非違使の尉」だったからでした。

私自身は、四等官の中で、地方官に過ぎない「国司」の「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」が一番馴染みがあります。「目」と書いて「さがん」や「さかん」「さつか」などと読むとても珍しい名字を持つ人が大阪と山口県にいらっしゃるようですが、まさにこの官位から付けられたことでしょう。

江戸時代、大岡越前守忠相が南町奉行でありながら「越前守」と名乗ったのは、既に国司が有名無実化していたからでした。幕府に許可が得られれば通称として名乗ることができたようです。ただし、江戸城のある武蔵国の武蔵守だけは、さすがに畏れ多くて誰も名乗ることができませんでした。

明治の大隈重信大蔵卿は、今で言えば、財務相ということになるんですね。

官位などは、今は簡単に調べられます。知識が広がった上で、歴史小説を読むと面白さが倍増します。

文芸評論家雨宮さんのこと

先月23日(月)に東京・帝国ホテルで開催された歴史小説家の「加藤廣さんお別れ会」のことを書きましたが、その時、会場でスピーチされた文芸評論家の雨宮由希夫さんが、何と吃驚、かの著名なロシア文学者内村剛介(1920~2009)の甥っ子さんだっということが、関係者への取材で明らかになりました。

おっと、どこか、国営放送のニュース風の口調になってしまいましたね(笑)。

いやあ、これは本当の話です。

当日、かなり多くの方々のスピーチがありましたが、雨宮さんのお話はとても印象的でしたので、よく覚えております。

2005年、加藤さんの本格デビュー作「信長の棺」が発表されたとき、 同氏は東京の三省堂書店に勤務されており、同書店のメール・マガジン「ブック・クーリエ」に「書評」を連載されておりました。

そこに、「本来歴史学者がやらなければならない事件の解明を物書きの罪業を背負った新人作家が代わってやってのけた。驚異の新人の旅立ちと、新たな『信長もの』の傑作の誕生に心より拍手喝采したい」と書いた記事を、加藤さんが目にして感動し、本能寺3部作の「明智左馬助の恋」の「あとがき」の中で、「雨宮氏の温かい言葉には、あやうく涙腺まで切れそうになったことを告白しておきたい」と書いてくださったというのです。

雨宮さんは、スピーチの中で「『あやうく涙腺まで切れそうになった』のは私の方です。駆け出しの書評家で、実績らしい実績のなかった私にはこれ以上の光栄なことはないと感涙にむせばずにはおられませんでした」と応じておられました。このくだりが、とても印象的だったのです。

銀座「保志乃」いわし定食 980円

その後、関係者への取材で、雨宮さんは「参列者が懇談している中でスピーチなどふつうは誰も聞いていないものですが、しわぶき一つなく、雑談もなく、皆様が聞き入ってくれたことには恐れ入りました」と感想を述べられていたそうです。

雨宮さんの本名は敢えて秘しますが、内村剛介の甥っ子ということで、シンポジウムや哈爾濱学院の同窓記念式典にも必ず出席されていたようです。

「加藤廣さんお別れの会」

昨日23日(月)は、ついに日本新記録が樹立されましたね。埼玉県熊谷市で気温41.1度と、従来の記録を5年ぶりに更新しました。

そんな、もう脳みそが溶けちゃいそうな猛暑の最中、夏用ながらしっかり上下のスーツを着てネクタイを締めた集団が、東京・日比谷の帝国ホテルに参集しました。

今年4月に87歳で亡くなった、ベストセラー小説「信長の棺」(日本経済新聞出版)などで知られる作家加藤廣さんの「お別れの会」が行われたのです。小生も末席を汚しました。

主催者発表で70人の方が列席しました。

私は少し遅れて参加しましたが、加藤さんの交友の広さから次々と友人知人後輩や編集者らがスピーチして、参加した人同士と歓談する暇もなく、せっかく用意された帝国ホテルの高級料理や飲み物を飲食する暇がほとんどなく、少し勿体ない気がしました。

加藤廣さんは、私も参加していた「おつな寿司セミナー」(2014年9月13日解散)の仲間でした。

加藤さんが2005年、75歳の高齢で歴史小説家として鮮烈なデビューをできたのは、勿論、彼の文才によるところではありますが、「おつな」抜きでは実現できなかったことでしょう。まず、おつなの主宰者だったGさんが、メンバーだった日経文芸記者のUさんに取り次ぎ、Uさんは、元講談社の豪腕編集者K氏を加藤さんに紹介し、段ボール箱にぎっしり詰まった1000枚の原稿を少し縮めて、タイトルも変えて、デビュー作が生まれたのでした。

幸運だったのは、当時首相だった小泉純一郎氏が、「信長の棺」を絶賛しているという記事が朝日新聞に掲載され、これで一気に火が付いて、増刷が続きました。

「おつな」では25年以上のお付き合いでしたから、何十回もお会いしてましたが、「大作家」になられてからは、改めて私も何度か、インタビューをさせて頂きました。「信長の棺」から「秀吉の枷」「明智左馬助の恋」に至る「本能寺三部作」、週刊新潮に連載された時から読んでいた「謎手本忠臣蔵」といった歴史小説のほか、「信長軍団に学ぶ処世の法則」や「黄金の日本史」などの実用書まで次々と著作を発表し、ご高齢ながらそのバイタリティーはどこからやってくるのか、不思議なほどでした。

加藤さんは、新聞連載にしろ、週刊誌連載にしろ、連載前からほぼ完成していて締め切りの何日も前から原稿を渡していたそうです。とても、律儀な人でした。そして、自分にはとても厳しい苦労人でした。

おこぼれにも預かりました。東京・銀座の高級おでん「やす幸」や京都の先斗町の高級クラブ(名前は失念。京大の著名教授が出入りしていた会員制)などでご馳走になったりしました。

加藤さんはデビューして13年、気力を振り絞って駆け抜けました。以前は月に一度ぐらいお会いしていたので、何か、また、ふと再会するような錯覚に陥りましたが、遺影を見て、もうお会いできないと分かり、本当に寂しくなりました。

加藤さんは、少年時代からの夢だった小説家を75歳で実現したわけですが、後輩には素晴らしいお手本と生き様(という言葉は、あまり好きではありませんが)を見せてくれたと思っています。

加藤廣さんのご冥福をお祈り申し上げます。

豊かさの探求

  昨日は、「信長の棺」でベストセラー作家になった加藤廣さんのお話を聴きに行きました。講演会ではなく、小さな勉強会で、参加者は20人もいなかったでしたが、本当にもったいなかったです。今の加藤さんなら2000人くらいの中ホールでも簡単に満員にさせることができるからです。

 

「豊かさの探求」がテーマでした。これは、加藤さんが、サラリーマン時代の20年前に書いた本に加筆したものです。加藤さんは時代小説で世に出る前に十五冊ほど、経営コンサルタントとして本を書いてきましたが、この本が一番愛着があったそうです。

 

この本は昨年、新潮文庫から出ていますので、ご興味のある方は是非読んでください。

 

昨日の話で一番印象深かったのは、現在、「格差社会」が問題になっていますが、昔はそれどころではなかった。今の日本は、世界一格差が少ないというのです。

つまり、現在、新卒社員の初任給が20万円。社長は160万円。8倍の格差です。

しかし、昭和5年の新卒社員の年俸は1500円で、社長は16万円。つまり100倍以上の格差があったのです。

明治新政府の俸給に17階級あり、最高が三条実美の1500円、最低の巡査が12円と千倍以上の格差があったということです。12円の巡査が貧民だったかというとそうではなく、ちゃんと1軒家を持ち、女中を使い、才覚があれば二号さんも持てたというのです。

なぜ、戦後、こんなに格差が少なくなったかというと、GHQの政策の影響だったそうです。累進課税を強化し、富裕税をかけ、日本の金持ち階級を一掃してしまったというのです。

豊かさの探求ですが、人生の豊かさで大切なことは「MIT」なんだそうです。マサチューセッツ工科大学のことではありません。Mはmoney (お金)、Iは intelligence(知性)、 Tは time(時間)で、それらの掛け算で豊かさは決まるというのです。お金や知性だけあっても駄目です。時間がなく、つまり、ほとんどの時間を仕事に取られ、日本人のサラリーマンの多くは家庭崩壊の危機にさらされています。

「仕事に人生を入れるな。人生に仕事をいれなさい」というのが、加藤さんはアドバイスでした。

もっと、知りたい方は、本をお読みくださいね。

【追記】皆さん、コメント有難うございます。お一人お一人に御礼を述べることができないので、茲で感謝申し上げます。

老舗おでん「やす幸」についに行きました

おでんの老舗、銀座「やす幸」に行ってきました。

ひょんなきっかけでした。今月の「月刊文藝春秋」の「同級生交歓」欄に、「信長の棺」の作家、加藤廣さんが書いておられ、「やす幸」のご主人・石原壽さんが旧制早稲田中学時代の同級生の一人として登場していました。

「やす幸」といえば、下々の者など、とても足を踏み込めない高級店です。後藤喜兵衛さんから、文春の記事のことで、メールで連絡を受け、私が「加藤さんを通して、安くしてもらえませんでしょうかね」と浅ましい、図々しいことを返信したところ、丁度、昨晩、加藤さんが同店2階でクラス会をやるということだったので、その隙に乗じて、乗り込んだわけです。

参加したのは、後藤さんと私と東京スポーツの佐藤祐二編集企画室長。佐藤さんには「ブログに書くんでしょ?」と言われてしまいましたが、やはり書いてしまいました(笑)。

噂に違わず、味も雰囲気も最高でしたね。客層もちょっとハイソな感じでした。15人くらい座れる広いカウンターと、四人掛けのテーブルが5脚ほど。奥に7、8人くらいが入れる小部屋、2階は行きませんでしたが、かなりの人が入れる宴会場があるようでした。ですから、板前さんがカウンターの中に10人ぐらいもいるのです。

おでん、といって馬鹿にしてはいけません。コンビニにあるぐらいですからね。

これが本物のおでんか、と唸らせるものがありました。関西風の透明の薄い味付けで、つみれは、くさみをとるため柚子が入っていました。がんもどきも口に入ると香ばしい食感が幸せ一杯に広がります。当然、ダイコンも上品このうえない味でした。今まで食べていたおでんは何だったのだろう、と思ってしまいました。

あとで聞くと、透明の薄い味付けは関東風で、関西では醤油の濃い色のスープなんだそうですね。ちょうど、うどんと逆です。関西では、うどんは薄い透明のスープなので、関東の真っ黒なうどんの汁を見てびっくりするわけです。

私もその昔、大阪に住んでいたので、よく「けつねうろん」(きつねうどん)を食べたものです。関東に戻って、立ち食いうどんを頼んだ時、そのどす黒い汁をみて、食べる気がしなくなってしまったことを思い出しました。

「やす幸」は昭和8年創業の老舗(銀座7-8-14)。お奨めですが、やはり、ちょっと、敷居が高いので、覚悟して行かれるといいと思います。我々の後日談は省略します。