「承久の乱」は「承久革命」なのでは?=「歴史道」の「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」を読んで

 「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)をやっと読み終わりました。やはり、2週間ぐらいかかったでしょうか。

 でも、実に面白かった。鎌倉時代のことをもっともっと知りたいと思いました。800年続く武家社会(私説)の礎が築かれた時代ですからね。渓流斎ブログ2022年1月24日付「源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞」でも書きましたが、その前に読んだ「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と切り口が違うので、まるで違う本を読んでいる感じでした。(当たり前でしょうけど)

 両誌とも、目下放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法であることは間違いないのですが(笑)、私もそのお蔭で「鎌倉殿の13人」の補足知識を得ることが出来ました。まず、第一にこの「歴史道」の中で、濱田浩一郎氏によると、「鎌倉殿の13人」とは、以前は二代将軍源頼家が直接訴訟に判決を下すことを停止され、有力御家人13人の合議制による決裁に委ねられたとされて来ましたが、現在この見解は有力視されず、頼家への訴訟の取次を有力御家人13人に限定したに過ぎず、13人の宿老が一堂に会して合議した例は、文献等から確認されないといいます。つまり、「13人の合議制」なるものの実体はないというのです。へー、そうでしたか。

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 平安時代末期から鎌倉初期にかけて、保元・平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、そして何よりも承久の乱と戦乱・内乱が続き、おまけに飢饉、疫病、後に元寇といった国難もあり、この時代は、相当庶民が疲弊した大災難の時代だったと思います。そのために、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮らが新興宗教を起こし、民衆が縋ったのか、もしくは、あまりにも民衆が救いを求めるので、新仏教が生まれたのではないかと私は思っています。

 この時代の歴史資料の代表的なものとして、「平家物語」「吾妻鏡」がありますが、「平家物語」は、平清盛ら平氏に対してあまりよく思っていない書き方で、「吾妻鏡」は鎌倉時代の正史とはいえ、北条氏に都合の良い書き方がされているといいます。そのお蔭で、「平氏でなければ人にはあらず」に代表される言葉のように、確かに、私自身も平氏に対して悪い印象を植え付けられてきた感じがします。でも、「平氏=悪」「源氏=善」ではなく、互いに権力を争ったに過ぎないと考えるようになりました。(平清盛による開明的な経済政策は特筆に値します)

 また、「吾妻鏡」では、当初、源頼朝の乳母系として北条氏より遥かに所領も多く、権勢を誇っていた比企氏に関する履歴や記述が少ないのは、北条氏を有力御家人に見せるために、後から削除されたのではないかという疑惑もあるといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 さらに、北条氏は、平貞盛の子孫と言われます。北条頼政の義父で、北条義時の祖父に当たる伊東祐親が300騎を動員できた時に、北条氏はわずか30騎に過ぎない豪族でしたが、北条政子が源頼朝の妻になることで一気にのし上がります。その後、比企能員や梶原景時、和田義盛ら有力御家人らを次々と滅ぼし、ついには、承久の乱で勝利を収めて、武家政権を確立した北条義時は、「陸奥守平義時」と称しました。つまり、鎌倉時代は源氏はわずか三代で滅んだので、平氏政権でもあったと言えることでしょう。

 その承久の乱の後、後鳥羽(隠岐島)、順徳(佐渡島)、土御門(土佐→阿波)の3人もの上皇が流罪となり、追放されました。この時、義時と六波羅探題は、皇位継承まで介入し、上皇の荘園まで剥奪し、その権威を有名無実化することに成功しました。ということは、大袈裟に言えば「承久の乱」は、1000年続いた大和朝廷=天皇王権を覆して、武家政権を打ち立てた「承久革命」と言った方が実態に近いのではないでしょうか?

 最後に、もっと知りたいと思ったことは、鎌倉幕府の御家人たちのことです。「鎌倉殿の13人」でさえ、「生年不詳」の御家人が多いので、致し方ないのですが、少なくとも、その後の室町、戦国、江戸時代に活躍する祖先に当たる人たちの話ですから関心があります。例えば、武田信義(戦国武将武田信玄の祖先で甲斐武田氏の始祖)、大江広元(長州毛利氏の始祖)、島津忠久(薩摩島津氏の始祖)、足利俊綱(足利尊氏の祖先)らはあまりにも有名なので分かりますが、千葉常胤、三浦義澄、宇都宮朝綱、小山朝光、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越(川越)重頼、江戸重長は21世紀の現在でも地名として残っているので、土地と名前との関係(あるのかないのか)にも興味があります。えっ?自分で調べなさい、ってか?

源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞

「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集をやっと読了しました。2週間以上かかったでしょうか。でも、お蔭様で、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する13人の御家人の名前と経歴、それに時代背景を覚えてしまいました。こんなに賢くなってどうするの?といった感じです(笑)。

 「便乗商法」というより、「便乗学法」ですね。大河ドラマがなければ、これほど北条義時に関心を持つことはなかったでしょう。1月21日付の渓流斎ブログ「承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?」でも書きましたが、北条義時は800年の武家政権の礎を築いた人であり(私の説)、日本史上では「逆賊」のイメージを払拭して、その功績をもっと見直されなければいけいないと思いました。

 そして、今は「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読んでいます。同じ鎌倉幕府を扱いながら、切り口が全く違うので、この本からも新たな知識が吹きこまれます。

 特に驚いたのは、源氏も平家も、位階はもともと六位という極めて低い下級職だったという事実です。警護や軍事を担当し、貴族の周辺に「さぶろふ」から侍と言われたり、武士と言われたりしましたが、「清和源氏」「桓武平氏」と言われるように、本来の始祖は天皇の子息でしたから、もっと位階は高いと思っていました。五位以上が貴族です。位階については、渓流斎ブログ2021年12月15日付「『従三位』と『正六位』の違いは何か?=位階(叙位)について考える」を再読されて思い出してほしいものです。21世紀の現在も叙位叙勲が続けられていますが、六位とは、小中学校の校長先生らに授与される位階です。

 それが、地方で反乱(天慶の乱、前九年の役、後三年の役など)があると、彼らは鎮守府将軍などに任命され、戦功があると、恩賞で四位まで昇任されたりしました。

 その後の出世頭は何と言っても平清盛です。保元・平治の乱を制した清盛は永暦元年(1160年)、三位の参議となり武士として初めて公卿となります。そしてその7年後はついに太政大臣という公卿のトップに立ち、一位を獲得するのです。(織田信長は正二位・右大臣、豊臣秀吉は従一位・関白太政大臣、徳川家康は従一位・征夷大将軍・太政大臣でした)

 平安末期の院政時代、もしくは武家の台頭から中世が開始したという説が有力ですが、それ以前の古代は、天皇の外戚を利用して権力を握った葛城氏、蘇我氏、藤原氏などのように、「女系」が為政者でした。それが、中世になって武家が政権を握ると、一転して「男系」となります。そのため、親と子や兄と弟、伯父(叔父)と甥との間で、跡目争いという血生臭い権力闘争が起きる、といったことが書かれていましたが、妙に納得してしまいました。

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 話は変わりますが、山城の元祖は、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ一人、楠木正成の千早・赤坂城だという説があります。何で、不便な高い山に城なんかを築かなければならなかったのかという理由は、鎌倉幕府の坂東武者が騎馬による攻撃を得意としていたためです。馬が登って来られないように、わざわざ山城を築いたというのです。

 承久の乱から100年余。鎌倉幕府の滅亡は、元寇による疲弊で、恩賞ももらえなかった御家人たちの不満が高まったことが理由に挙げられますが、このように鎌倉幕府が戦力的にも戦略的にも時代遅れになったこともあったのでしょうね。

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 もう一つ、備忘録として書き残したいことがあります。NHKの「歴史探偵」という番組の中で、長崎のオランダ語通詞(通訳)の話が出てきましたが、彼らは当時の最先端の科学者でもあって、「引力」「遠心力」「分子」「動力」「弾力」「物質」「加速」「真空」「楕円」「惑星」「鎖国」などの翻訳語を考え、生み出した人たちだったというのです。

 これには吃驚。てっきり、福沢諭吉か西周か柳河春三か中江兆民ら幕末の語学の天才が考えたものだと思っていました。

 恐らく、恐らくですが、これら、科学用語も、「経済」「自由」などと同じように、本家本元の中国でも逆輸入されたと思われます。

 

承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?

 「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集を読んでいますと、新発見と言いますか、「えっ?そんな風に歴史的解釈が変わってしまったの?!」と驚くことばかりです。

 まず、私の世代は、鎌倉幕府の成立が1192年(建久3年)、と初めて小学生時代に習い、「いい国つくろう、鎌倉幕府」と覚えたものでした。それが、今では1185年(文治元年)説が有力となり、学校では「鎌倉幕府成立は1185年」と教えているそうなのです。

 1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年で、1185年は守護・地頭が設置された年ということで、頼朝政権はこれによって幕府としての経済的基盤を確立したことになり、こっちの方が良いのではないか、となったらしいのです。

 「頼朝政権が 経済的基盤を確立した 」とは言っても、実際には東国のみで、西国は後白河法皇か、法皇の息のかかった公卿や武士が支配していて、「鎌倉・京都連立政権」というのが実体だったといいます。(一時期は、木曽義仲の支配領域もあり、「三頭政治」が実体だった。)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 もう一つ、驚いたのは、その設置された守護・地頭のことですが、当然、大名になるぐらいですから守護の方が断然、格段に地頭より上だと思っていたのですが、守護とは名誉職みたいなもので、収入がゼロだったというのです。領地から収益を得られるのは地頭であって、守護は地頭職を兼ねて初めて収入を得ることができたというのです。…知りませんでしたね。

 そして、ハイライトとなるのは「承久の乱」です。今から800年前の承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時討伐の兵を挙げ、逆に幕府に鎮圧された事件です。私の世代は「承久の変」と習い、そう覚えていましたが、今は「乱」の方が一般的になったようです。でも、良く調べると、これは「乱」どころではない。「革命」に近いのではないか、これからは「承久革命」と呼んでもいいのではないか、と私自身は考えるようになりました。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 乱後、後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐と三上皇が配流され、朝廷方の所領は没収されて坂東武士たちに報償として与えられました(これで鎌倉政権の全国統一)。また、朝廷監視のため六波羅探題が置かれ、皇位継承まで鎌倉の意向で決定され、伊豆の小さな土豪に過ぎなかった北条氏の絶対的権威が確立されます。ということは、身分の低い土豪出身の北条氏が朝廷(ヤマト王権=天皇家)から政権を簒奪したわけですから、これを革命と言わずに何と言おう?

 しかも、この承久革命によって、その後、室町、戦国、安土桃山、江戸と、天皇家は事実上、政治から遠ざけられ、武家政権が800年近く続くわけですから…。えっ?800年は長過ぎる? いえいえ、富国強兵の明治からアジア太平洋戦争で惨敗する昭和20年までも、「武家政権」は続いていたと解釈できるのではないでしょうか。何しろ、首相の東条英機は軍人(武官)であり、陸軍大臣も兼ねていましたから、そう考えれば、実質「武家政権」ですよ。

 となると、承久の乱は、日本史上、これまで以上、重要性がある画期的な出来事であることをもっと強調するべきではないでしょうか。

鎌倉五山第一位 建長寺 山門

 これまで、承久の乱といえば、二代執権北条義時が権力奪取のため、一方的に悪行を成した「逆賊」のイメージが強かったのですが、後鳥羽上皇が、自分が寵愛する伊賀局こと亀菊に与えた「摂津国長江と倉橋の両荘園の地頭職を改補(解任)せよ」と院宣したのが、両者の亀裂のきっかけになりました。両荘園の地頭とは北条義時その人だったからです。鎌倉幕府の経済的基盤が侵されたことになります。

 しかも、後鳥羽院は、暗殺された三代将軍源実朝の後継者(四代将軍)として、自分の子息である頼仁(よりひと)親王か、もしくは雅成(まさなり)親王を立てることを口約束しながら、結局反故にしてしまいます。

 明らかに権力闘争であり、これでは義時の気持ちも分からないではありません。頼朝の未亡人で義時の姉である「尼将軍」こと北条政子の有名な「演説」で、坂東武士たちは立ち上がり、鎌倉方の圧勝に終わりますが、これは、まさに東西分かれて互いに死力を尽くした「内戦」と言っても間違いないでしょう。鎌倉方の東軍(幕府軍)の代表は、北条時房(義時の実弟)と泰時(義時嫡男で後の三代執権)、後鳥羽院方の西軍(官軍)の代表は藤原秀康と三浦胤義(鎌倉の有力御家人三浦義村の実弟)ですが、正直、私自身は不勉強で、両軍のその他大勢の武将たちの名前はこの本で初めて認識しました。乱後、上皇らは島流しに遭っても、西軍の武将たちはことごとく捕縛・処刑され、京中は略奪の嵐で、上皇方の宿舎は放火され、人馬の屍体で道が塞がったといいます。

 やはり、革命ですね。

 確かに、800年も昔に起きた過去の出来事と言って済ませばそれまでですが、承久の乱が後世に残した影響は驚くほど大きいので、現代人としても知っておくべきことが多々あります。

【追記】

・「吾妻鏡」によると、北条義時(1163~1224年、行年61歳)は「攪乱」のため急死しますが、詳細が書かれていない。後妻の伊賀の方が自分の息子の政村を次期執権にしたいがために、毒殺したのではないかという説があります。伊賀の方の兄伊賀光宗は政所執事(長官)、娘婿の一条実雅は、時の将軍九条頼経の親戚、また政村の乳母親は、有力御家人の三浦義村だったので、彼らが結束すれば、泰時を倒して執権の座を獲得することは不可能ではなかった。

・三代執権北条泰時が制定した「御成敗式目」。初めて口語ながら読みましたが、第12条に「争いの元である悪口は禁止。重大な悪口は流罪、軽いものでも入牢。」とあり、感心してしまいました。

鎌倉時代は難しい…=何だぁ、京都との連立政権だったとは!

 日本史の中で、鎌倉時代とは何か、一番、解釈が難しいと思っています。貴族社会と武家社会の端境期で、三つ巴、四つ巴の争い。何だかよく分からないのです。私自身の知識が半世紀以上昔の高校生レベルぐらいしかない、というのも要因かもしれませんが、歴史学者の間でも、侃侃諤諤の論争が展開されているようです。(武士の定義も、「在地領主」と考える関東中心の図式と、京都で生まれた殺人を職能とする「軍事貴族」と考える関西発の図式があるそうです=倉本一宏氏)

 第一、源頼朝による鎌倉幕府の成立が、1192年だということは自明の理だ、と私なんか思っていて、語呂合わせて「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と覚えていたら、

(1)治承4年(1180年)12月=鎌倉殿と御家人の主従関係が組織的に整えられた。

(2)寿永2年(1183年)10月=頼朝の軍事組織による東国の実効支配を朝廷が公認。

(3)文治元年(1185年)11月=守護・地頭の設置が朝廷に認可された。

(4)建久元年(1190年)11月=頼朝が右近衛大将(うこんのえたいしょう)に任官。

(5)建久3年(1192年)7月=頼朝が征夷大将軍に任官。

 と、成立年に関しては、こんなにも「諸説」があるのです。

 驚くべきことには、もう鎌倉時代という時代区分の言い方は実態に沿っていないと主張する学者も出てきて、2003年の吉川弘文館版「日本の時代史」では、「京・鎌倉の王権」と表記するほどです。つまり、鎌倉時代は、江戸時代のように京都の朝廷の権力が衰えていたわけではなく、京都と鎌倉で政権は並立していたという解釈です。

 源頼朝が、鎌倉に幕府を開く前後に、平家との戦いだけでなく、同じ身内の源氏の叔父やら実弟らとの間で権力闘争や粛清があったりしますが、京都や北陸では木曽(源)義仲(頼朝の従兄弟)が実効支配していたり、朝廷は後白河法皇が実権を手放さず、譲位後も34年間も院政を敷いたりしておりました。

◇「歴史人」7月号「源頼朝と鎌倉幕府の真実」特集

 といったことが、「歴史人」7月号「源頼朝と鎌倉幕府の真実」特集に皆書かれています(笑)。この雑誌一冊読むだけで、鎌倉史に関する考え方がまるっきり変わります。「今まで勉強してきた鎌倉史は一体、何だったのか?」といった感じです。

 登場する人間関係が色々と複層しているので、家系図や年表で確認したりすると、この雑誌を読み通すのに、恐らく1カ月掛かると思います。私もこの1冊だけを読んでいたわけではありませんが、1カ月経ってもまだ読み終わりません。仕事から帰宅した夜に1日4ページ読むのが精いっぱいだからです。この中で、一番、目から鱗が落ちるように理解できたのが、近藤成一東大名誉教授の書かれた「日本初の武家政権『鎌倉幕府』のすべて」(58~59ページ)です。

 それによると、1180年に頼朝が鎌倉に拠点を定めた時点では、頼朝は朝廷から見れば依然として反逆者であり、頼朝の勢力圏は東国に限られていました。西国は、安徳天皇を擁する平家(平宗盛)の勢力圏に属し、北陸道は木曽義仲、東北は藤原秀衡の勢力圏に属していました。(…)その後、このような群雄割拠している状況で、東国における荘園、国衙領の支配を立て直すのに、朝廷は頼朝の権力を必要としたというのです。「鎌倉時代」と呼ばれてきたこの時代を鎌倉の政権と京都の政権が共存し相互規定的関係にあった時代だと定義し直すと、この時代の始まりは、鎌倉幕府と朝廷との共存関係が成立した寿永2年(1183年)と考えるのが適当であろう。

 へー、そういうことだったのですか。…となりますと、鎌倉時代は今風に言えば、

1183年、鎌倉・京都連立政権成立

 といった感じでしょうか。

紫陽花

 来年のNHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が放送される予定ですが、この本は、この番組を見る前の「予習」になります。

 鎌倉殿13人とは、源頼朝の死後、二代将軍頼家ではなく、頼朝の御家人ら13人が合議制で支配した機関のメンバーのことですが、凄まじい内部での権力闘争で、最後は執権になった北条氏が他のライバルを粛清して権力を独占していったことは皆さま、御案内の通りです。

 13人のメンバーの中で、まず、北条時政(初代執権)と北条義時(二代執権、頼朝の妻政子の弟でドラマの主人公、鎌倉に覚園寺を創建)は実の親子。元朝廷の官人だった中原親能大江広元(政所初代別当、長州毛利氏の始祖とも言われていますが、この本では全く触れず)は兄弟で、侍所の別当和田義盛三浦義澄の甥。また、安達盛長の甥が、公文所寄人足立遠元といった感じで、13人は結構、縁戚関係が濃厚だったことを遅ればせながら、勉強させて頂きました。

 また、鎌倉殿13人の一人で、頼朝の乳母だった比企尼(びくに)の養子となった比企能員(ひき・よしかず)は、二代将軍源頼家の岳父(比企の娘若狭局が頼家に嫁ぐ)となったお蔭で、権勢を振るうことになりますが、北条時政の謀略で滅ぼされます。比企一族の広大な邸宅の敷地跡は、私も昨年訪れたことがあり、「今では日蓮宗の妙法寺になっている」と昨年2020年9月22日付の渓流斎ブログ「鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺」に書いたことがありました。比企一族の権力がどれほど膨大だったのか、その敷地の広さだけで大いに想像することができました。

【追記】

 三重県津市に「伊勢平氏発祥の地」の碑があるそうです。ここは、平清盛の父忠盛が生まれた場所だということです。刀根先生は行かれたことがあるんでしょうか?

鎌倉のジタン館で「加藤力之輔展 時の足跡」

Daisuke Kato et Angela Cuadra ミクストメディア

 かけた情けは水に流せ

 受けた恩は石に刻め

 2年前のスペイン旅行で、ピカソの「ゲルニカ」を見る際に奥方様に大変お世話になり、昨年は京都での「送り火」で再会した加藤力之輔画伯が鎌倉で個展を開催されているということで、ちょっと足を延ばしてきました。

昨年は、加藤画伯の御子息Daisuke氏と御令室のAngelaさん、それに可愛い盛りの腕白のお孫さんたちにもお会いしましたが、二代にわたる芸術一家でDaisuke氏とAngelaさんの作品も展示されていました。

新型コロナで甚大な被害を受けたスペイン・マドリード在住の加藤画伯の奥方と御子息夫妻、お孫さんたちは、どうにか息災で元気にしているということで、少し安心しました。

東京では2日、ついにコロナ感染者が100人を越えました。

そこで、観光地鎌倉の人混みを避けて、平日に有休を取って伺ったのですが、交際範囲が広い加藤画伯のことですから、結構、訪れる方がいらっしゃいました。

ジタン館は、画廊のオーナーの御尊父が、自宅を改造して画廊に仕立てたようですが、戦前は若い無名画家のパトロンでもあり、仲が良かった藤田嗣治の若い頃の全く見たことがない後年の画風とは全然違う作品も所蔵されておりました。それを内緒で見せてもらいました(笑)。

この画廊は、鈴木清順監督なら涎を垂らしてでもロケに使いたいような雰囲気があります。私も何年かぶりに訪れたのですが、方向音痴で地図を読めない男ですから、ちょっと迷ってしまいました(笑)。

加藤力之輔展は、7月6日(月)まで開催中です。

そう言えば、帰り際、小生が「これから鎌倉近辺の寺社仏閣巡りをするつもりです」と話したところ、加藤画伯は「2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公北条義時が建てた覚園寺(かくおんじ)に行かれると良いですよ。あそこはまだあまりよく知られていませんが、素晴らしいお寺ですよ。鎌倉駅からバスが出てます」などと色々と教えてくれました。

 加藤画伯は地元鎌倉出身なので色々と詳しいのです。生憎、この日は別の寺社仏閣に行く予定をしていたので今回は覚園寺には行きませんでした。でも、再来年にブームになる前に一度訪れたいなあ、と思ってます。