藤堂高虎はとてつもない築城名人

国宝姫路城

昨晩、お城関係の本を読んでいたら、三重県の津城は、正式には安濃津城ということを初めて知り、自分の不勉強を恥じるとともに、本当に驚いてしまいました。

 以前、沖浦和光著「天皇の国・賤民の国」を読んでいたら、中世になって差別をされた人々が浄土宗系の仏教に縋り、多くの寺院が建てられるようになったという話が出てきました。その中で、三重県の津市のことも出てきたので、たまたま、津市出身で、浄土系の名門中学校を出ている学生時代の友人がいるので、メールで聞いてみたところ、「私が育った安濃津(あのつ)あたりは、差別された人たちが多く住んでいて、私が通った小学校は、全国でも同和教育のモデル校として表彰されたこともあります。中学は浄土真宗の学校でした」といった答えが返ってきました。

 いきなり、初めて聞く「安濃津」という地名が出てきましたが、特に調べることはなく、津市の郊外にある地名なのかなあ、と思っていたら、どうやら、津城が安濃津城(津市丸之内)と呼ばれるぐらいですから、津市の中央部もかつては安濃津と呼ばれていたのかもしれません。

 となると、古代に征服されて、差別された人たちは、中世になって浄土系の宗教に救いを求めるようになり、その領地には寺院が建てられ、戦国時代になって、城郭が建てられたという仮説が成り立つのではないかと思ったわけです。よく知られている史実として、蓮如の建てた石山本願寺の跡地に大坂城がつくられ、このほか、 加賀前田藩の金沢城は、それ以前は、加賀一向一揆の拠点だった浄土真宗の尾山御坊という寺院だったといいます。

  私の晩年の趣味は、どういうわけか、いつの間にか、お城と寺社仏閣巡りになりましたが、城郭と寺社とは、水と油(戦闘と慰霊)で全く関係がないと考えていたら、意外にも密接な関係があったのですね。本当に驚きました。

 日本の歴史や文学、美術を知るには、仏教思想が欠かせませんが、当然ながら、寺社仏閣や城巡りの際にも、仏教思想はこうして役に立つわけです。

唐沢山城(伝藤原秀郷の築城、日本の100名城)

 先程の安濃津城は、浅はかにも、藤堂高虎の築城かと思っていたら、永禄年間(1558~70年)に、伊勢の有力国人・長野一族の細野藤光が築城したものでした。しかし、織田信長が伊勢を征服し、その弟の信包が城主となります。関ケ原の戦いの後になって、藤堂高虎が入城し、全面改修し、城下町も整え、明治維新まで藤堂家が続きます。

 藤堂高虎は、築城の名人と言われ、調べば調べるほど、とてつもない偉人だったことが分かります。伊勢の人ではなく、もともと、近江の甲良荘(滋賀県犬上郡)出身で、甲良大工という築城集団がいたようです。藤堂高虎もその影響で、伊予の今治城(海城)と宇和島城(重要文化財)、それに伊勢の安濃津城と伊賀上野城などを作り、江戸城、大坂城、二条城、丹波亀山城などを改修、篠山城、名古屋城などの縄張りを任されています。徳川家康も一目置いて、江戸の屋敷は、寛永寺そばの上野の領地を与えます。上野は、勿論、伊賀上野から取って付けられた地名です。

 明智光秀もいいですが、藤堂高虎も大河ドラマの主人公にしてほしいものです。

岩槻大師~浄国寺~芳林寺=岩槻の英雄太田道灌

太田道灌公像

 最近、週末に時間があれば、関東近辺の「城巡り」を日帰りで蛮行していることは、このブログの熱心な愛読者の皆様には御案内の通りです。

 でも、先日、高野山に行ったおかげで、スイッチが入り、「寺社仏閣巡り」がそれに加わりました。お城と寺社は切っても切れない縁がありますから、まるっきり唐変木な話ではないのですが…(笑)。

岩槻大師

 そこで目指したのが、武蔵国岩付(現さいたま市岩槻区)にある「岩槻大師」です。大師が付きますから、当然、空海の真言宗の寺院です。ここの地下にある仏殿をお参りすると、四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという噂を小耳にはさんだので、行かないわけにはいきません(笑)。

岩槻大師

 この寺の正式名称は「光岩山釈迦院岩槻大師弥勒蜜寺」。パンフレットには「くしくも真言宗の宗祖弘法大師空海さまご誕生の年、光仁天皇の宝亀5年(774年)の草創と伝えられる」と書かれています。

 あれっ?真言宗とは、唐に留学した空海が恵果和尚(けいか・かしょう)に灌頂された密教を806年に日本に帰国して伝えたのではなかったのでしょうか?真言宗が成立したのも、高野山を開祖した816年という説が有力です。

 ま、堅いことは抜きにして、例の四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという「地下仏殿」にお参りしようとしたら、ちょうどその日に「得度式」なるものが本堂で行われていたため、お参りできませんでした。残念。

 そこで、前回書けなかった高野山のことを付記します。空海(774~835年)は60歳9カ月で入定しますから、高野山の壇上伽藍は、金堂や大塔などを建てただけで、未完成のままでした。そこで、壇上伽藍を完成させたのが、弟子の真然(804~891年)でした。真然は、空海の甥に当たり、空海の実弟である真雅(801~879年)から灌頂を受けました。

 東寺長者だった真雅は、清和天皇の信任が篤く、摂政藤原良房と結び貞観寺を創建し、死後、法光大師の諡号(しごう)を受けています。古代中世近世の政治史は、天皇、藤原家、武士だけでなく、仏法僧の世界が分からなければ理解できないことがこれで分かります。

  真然は、貞観18年(876年)、東寺長者真雅から「三十帖冊子」(空海が密教の典籍を書写した冊子)を借覧し、高野山に持ち帰ったので、これが後に、高野山と東寺との間に紛争が生じ、高野山が荒廃する原因となりました。

 真言宗を復興した中興の祖の一人と言われるのが平安中期から後期にかけて活躍した蓮待(れんたい=1013~1098年)で、全国を行脚した高野聖の先駆とみられ、「南無大師遍照金剛」という大師宝号を最初に唱えた僧侶だとも言われてます。

 ということは、真言宗の宝号である 「南無大師遍照金剛」は、空海が唱えたのではなく、空海入定後200年も経って生まれたことになります。

 ま、細かいことはこの辺にしておきます。。。

浄土宗 浄国寺

 次に訪れたのは、浄国寺です。

 実は、東武野田線岩槻駅の観光案内所で頂いた地図を手掛かりに岩槻大師を探したのですが、方向音痴の私は、道を間違えて、かなり時間をロスしてしまいました。

 が、岩槻大師から浄国寺への道順は迷わず行けました。境内はなかなか広かったです。

 何で、このお寺を訪れたかと言いますと、関東の寺社仏閣の来歴について、こと細かく書かれているネットサイトの「猫の足あと」に「関東の名刹寺院」として紹介されていたからです。

 浄国寺は「関東十八檀林」の一つのようですが、詳細は上の写真をお読み下さい。岩槻藩主を務めた阿倍家の墓もあります

曹洞宗 芳林寺

次に向かったのは芳林寺。岩槻駅の観光案内所で、「是非行かれるといいですよ」と勧められたのが、この芳林寺でした。

太田道灌ゆかりの寺だというのです。

太田道灌公像

 太田道灌は、この岩槻城だけでなく、河越(川越)城、江戸城を建てた戦国武将(扇谷上杉氏の家宰)で、特に江戸城を引き継いだ徳川家康らによって神格化されました。

太田道灌御霊廟

 太田道灌像は、東京の日暮里にもありますが、岩槻にもあるとは知りませんでした。

 岩槻市民も太田道灌への思慕が強かったですね。

 道灌の事績については、上の碑文によくまとめられています。

 今回は、ちゃんと「城巡り」と「寺社仏閣巡り」が一致しました。

松居一代さんも吃驚のサイトづくり苦労物語

中国ハルビン Copyright par Duc de MatsuokaSousumu Kaqua

最近、自宅と会社との往復ばかりで引きこもりがちでしたが(笑)、昨晩は久し振りに痛飲致しました。

場所は、私が東京の中で最も好きな街、神保町です。かつて、週に2回は通ったことがあり、古書店街から普通の人が知らない露地裏まで誰よりも知り尽くしているというのが自慢です。が、何せ根っからの方向音痴なもんで、目的地に辿りつけるかどうか心配でした。

目的地は、昭和30年代頃に建てられたと思しきエレベーターもない古いビル。一階が老舗バーで、お会いするお目当ての方は、そのビルの三階の事務所で、IT関係の会社を設立した社長さんです。

いやあ、前置きが長くなるので端折りますが、その社長さんというのは、以前この渓流斎ブログに書いたことがある海城高校の後輩で、「猫の足あと」という関東の神社仏閣の詳細な沿革を紹介するサイトや葬儀関係のサイトなどを主宰している松長社長です。

そして、もう一人は初めてお会いした方で、「ブック・ナビ」という書評専門のサイトを、もう15年も主宰している野口さんです。この方は、天下の開成高校を出られ、周囲の風采の上がらない連中が殆ど東大に進学するのを横目で見て、敢えて慶應義塾に進み、長年メディア関係の仕事をされてきた方でした。

中国ハルビン Copyright par Duc de MatsuokaSousumu Kaqua

面会の目的は、この渓流斎ブログをホームページ化するメリット、デメリットのご相談でした。

松長社長は、このIT業界で長年苦労と研鑽を重ねてきたので、その実態から裏の裏まで精通しており、かなり辛辣なお言葉も頂戴致しました。

アフィリエイトだの、SEOだのかなり専門用語が飛び交い、半分ぐらいしか理解できませんでしたが(笑)、かなり、参考と言いますか、勉強になりました。

例えば、今は世界中で広告に連動するサイトのアクセス数を稼ぐために、大嘘のニュースを書き込む輩が頻発して世界的にも大問題になっています。話の次元は全く違いますが、有名芸能人の松居一代さんが、一連の騒動でブログのアクセスが急増して、「月に500万円稼いだ」と週刊誌でも取り上げられるほどです。

何でそんなことができるの?

しかし、無名の一般人がそんなことができるわけありません。

松長社長がわざわざ紹介して下さった「ブック・ナビ」の野口主宰も解説してくれました。

「広告で稼ぐのは並大抵ではありませんよ。それにはまず、読者にサイトに来てもらうこと。そして、広告をクリックしてもらうこと。でもそれだけでは一銭にもならず、何か買ってもらわなければなりません。ウチのサイトの広告収入は、2年間で5000円程度ですよ」

ひよっえー、それではとても生計を立てられませんね。

中国ハルビン Copyright par Duc de MatsuokaSousumu Kaqua

松長社長も、眼鏡の奥の目をキラリとさせて、「渓流斎さん、甘いですね。ホームページには儲かるサイトと儲からないサイトの二種類しかないのです。やる気ないならやめちまえー」とまでは言いませんでしたが、酔った頭には刺激的な文言が浴びせられました。

1、自己主張しないこと。そんなもん誰も読まない。サラリーマンでも官僚でも、自己主張する輩は出世しない。それと一緒。

1、できるだけテーマを絞ること。できれば誰も知らないような、そこのサイトに行かなければ情報が取れないような、マニアックであればマニアックであるほど良い。

1、とにかく頻繁に更新すること。

1、できるだけ高品質のサイトと提携してリンクを貼ること。そうすれば良質な読者に恵まれる。

1、自分の常識は、世間の非常識だと思え!

うーん、いちいち御尤もな指摘です。しかし、自己主張できないブログなんて…。

松長社長の主宰する「猫の足あと」の苦労話も聞きました。10年近く経ち、今では何万件もアクセスがある人気サイトですが、始めた頃は、誰も知らないので、「何でウチの寺社を勝手に載せるんだ」「昔はそうだったかもしれないが今は違うんだ。掲載お断り」というお寺や神社があったそうです。

しかし、今や立場が逆転です。「ウチの寺が載っていないので是非載せてください」「載っていないと存在しない神社になるので、是非」といった問い合わせが殺到しているそうです。恐らく、初期に掲載を断った寺社は今頃後悔していることでしょう。

世の中、そんなもんです(笑)。

松長社長が、このサイトに自信を持っているのは、まさに血と汗と涙で、地を這って地道な努力で作成しているからです。

寺社仏閣の沿革を調べるのに、江戸時代の古文書まで辿ります。手に入らない、図書館で借りられない書籍ばかりなので、高額なコピー代がかかります。沿革は膨大な量なので、外部に発注したりします。写真は必ず現場に行って、自分の脚で歩いて、自分で撮影します。

このように、かなりの時間とお金と労力をかけていたのです。まあ、そうでなければ良質なサイトはできないということですね。

とにかく、松長社長に言わせると、今出回っているサイトの大半がコピペもしくは引用だそうです。「新聞社やテレビ局が、全てのニュースを有料にしたら、恐らく、サイトは激減するでしょうね」と自信を持って言ってましたが、確かにその通りでしょう。