老若男女、身分の差別なく覚りを啓くことが出来る思想

 現在再放送中のNHK「100分de名著」の「日蓮の手紙」の著者植木雅俊氏は「そもそも『浄土』という言葉は、『阿弥陀経』のサンスクリット原典にも鳩摩羅什(による漢)訳にも出てきません。もともとは『仏国土を浄化する」(浄仏国土)という意味なのです。」と自信たっぷりに書かれていたので、自分の不勉強を恥じるとともに、驚いてしまいました。

 植木雅俊氏は、「法華経」と「維摩経」をサンスクリット語と漢訳語を参照して平易な現代日本語に翻訳された仏教思想研究家だけあって、学識の深さには恐れ入ります。

 となると、南無阿弥陀仏を唱えて、西方の「極楽浄土」を望む浄土宗や浄土真宗などは、どうなるのかと思ってしまいます。「選択本願念仏集」を著した浄土宗の開祖法然は、これまで天皇と貴族のための鎮護国家の宗教だった仏教を、老若男女を問わず、一般庶民にまで信仰を広げた革命的功績は日本史に屹立と輝く偉人だと私自身考えていますが、「選択本願念仏集」と著書名がまさに表しているように、法然は「西方浄土」を「選択」したわけです。

 そうなると、釈迦の教えの中には、東方にも「浄瑠璃浄土」があり、そこには薬師如来がいらしゃいます。浄土宗や浄土真宗といった念仏宗は、西方の阿弥陀如来だけ選択して、東方の薬師如来は重視しないのかなあ、といった素朴な疑問が浮かんできます。

 念仏宗を「無間地獄」と糾弾した日蓮は、法華経を「選択」します。選択というより、他宗派を激烈に批判ししため、多くの「敵」をつくて、日蓮自身も何度も法難に遭うわけです。

 植木雅俊氏によると、日蓮は、浄土と言えば、極楽浄土のような死後の別世界ではなく、我々が今生きている娑婆世界で体現できる世界を「霊山浄土(りょうぜんじょうど)」と呼んだといいます。これは、「現在」の瞬間に過去も未来もはらんだ永遠の世界を意味しています。

 植木氏は言います。時間は、今(現在)しか存在しません。過去といっても、過去についての「現在」の記憶であり、結局「現在」です。未来といっても、未来についての「現在」における期待や予想でしかありません。それなのに、多くの人は「今(現在)」の重みに気付かずに、過去や未来にとらわれてしまいがちです。過去につらく、忌まわしい経験をしてそれを忘れられない人は、過去に引きずられて今を生きていることになります。あるいは、今をいい加減に生きて、未来に夢想を追い求めて生きている人もいます。いずれも妄想に生きていることに変わりありません。

 植木氏は、現在の生き方次第で、過去の「事実」は変えられなくても「意味」は変えられる。未来も現在の生き方次第だ、とまで言い切るのです。

銀座「吉澤」 韓国大統領と日本の首相が会食された所です

 これこそが、「現世利益」なのかもしれません。利益(りやく)とは、金銭的なものではなく、精神的な幸福を意味すると思います。往生してあの世の幸福を願うのではなく、現実世界に浄土世界を実現して幸福になる、という意味ではないでしょうか。

 法華経の思想について、もっと詳しく知りたくなり、目下、植木雅俊氏が、サンスクリット語と漢語から現代日本語に翻訳した「法華経」(角川文庫)を読み始めたところです。サンスクリット語の原典から翻訳したところに意義があります。かつて先人たちが日本語に翻訳したものの中には、漢語からの翻訳が多く、サンスクリット語から漢語に訳された際の間違いをそのまま踏襲して日本語訳した箇所もあり、そんな誤訳も厳しく指摘しておられました。同書の「はじめに」を読んだだけでも、かなり戦闘的です(笑)。でも、解説もあり、かなり、平易に訳されているので、私でも読めます。

 法華経とは、サンスクリット語で、「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」と言いますが、植木雅俊氏は、「白蓮華のように最も勝れた正しい教えの経」と翻訳されています。法華経は、釈迦が入滅後500年ほど経過した紀元1世紀末から3世紀初頭に編纂されたといいます。当時は、厳しい修行を経たほんの一部の菩薩しか悟りを啓くことができないとされ、釈迦も神格化された権威主義の小乗仏教が隆盛でした。が、そんな風潮に異議を唱える意味で、「原始仏教に帰れ」と大乗仏教が生まれ、法華経が編纂されたといいます。小乗仏教では女性は成仏できなかったのに、法華経では、老若男女、身分の差もなく平等に誰でも覚りを開く道があることを説いています。

 私も目下、必要に迫られて、法華経を読んでいるので、心に染み入ります。

強い心を持ち、正しい道を歩む=日蓮の実像に迫るー「偉人・素顔の履歴書」と「100分de名著 日蓮の手紙」

 渓流斎ブログの3月20日付で「NHK『英雄たちの選択』に違和感=意図的な隠蔽を感じます」を書いて批判しましたが、今のところ、関係者からの抗議はありません(苦笑)。「あの番組は、細川幽斎の『古今伝授』という有職故実に通じた文人としての戦国武将を描くことが趣旨なので、明智光秀も細川ガラシャには敢えて触れませんでした」との回答が寄せられそうですが、テレビにせよ、出版にせよ、そしてネット情報にせよ、作品意図を貫徹するために故意に不都合な部分は切り取ってしまう「編集」には警戒するべきだ、という思いを強くしました。

 私は、この他のテレビの歴史番組として、BS11「偉人・素顔の履歴書」もよく観ますが、どちらかと言えば、こちらの方が、地方の名士ら色んな人に語らせて、比較的「客観的に」史実を追っている感じがします。御意見番で番組進行役でもある作家の加来耕三氏のキャラにもよるのでしょう。番組では、歴史上の人物が、かつて言われていた定説になっていた人物像とは全く違う意外な面を多角的に引き出しています。

 人なんて複層的ですから、見方を変えれば全く違った人物に見えたりします。下剋上の典型の「天下の極悪人」と言われた松永弾正久秀なんかもそうで、奈良の大仏を焼き討ちした張本人ではなく、教養のある茶人という一面をあったといいます。

 「偉人・素顔の履歴書」では、「兄・武田信玄を支え続けた名補佐役・武田信繁」や「信玄に二度も勝利した北信の雄・村上義清」ら私自身よく知らなかった人物も取り上げてくれたりして、勉強になりましたが、3月11日に放送された「闘う仏教者・日蓮」も、私の知らなかった日蓮の意外な面に触れることが出来て心に残りました。

 日蓮と言えば、「四箇格言(しかかくげん)」〈念仏無間(ねんぶつむけん)禅天魔(ぜんてんま)真言亡国(しんごんぼうこく)律国賊(りつこくぞく)〉に代表されるように、他宗派を激烈に批判し、何度も法難(迫害)にあっても挫けない不屈の僧というイメージが強かったのですが、この番組では、案外涙もろく、弟子たちを労わる慈悲深い面も多く紹介されていました。

 特に印象的だったことは、植木雅俊さんという仏教思想家が出演し、日蓮の意外な一面を明かしていたことでした。

 「日蓮は、飢饉の際、鎌倉の市場で鹿肉や魚などに人肉を混ぜて売っていた、と書くなどジャーナリスト的だった」

 「日蓮は、自己を拠り所として、他人を拠り所としない。法という真理を拠り所として、他の物を拠り所としない、と説いた」

 「神や迷信にすがるのではなく、一人一人が強い心を持ち、正しい道を歩めば、この世を浄土に変えることができる。来世ではなく、現世の幸福を願う法華経こそが最も尊い教えだ」

ーといった日蓮の言葉を紹介してくれたので、日蓮に対する偏見が吹き飛び、大変、大変勇気づけられました。それと同時に、紹介してくれた植木雅俊さんのことも調べたら、目下、NHKのEテレ「100分de名著 日蓮の手紙」(再放送)にも出演されているというので、テキストも買って番組も見ることにしました。

 残念ながら第1回は放送終了してしまいましたが、第2回からは間に合いました。「厳しい現実を生き抜く」というテーマで、日蓮が弟子である富木常忍、四条金吾らに宛てた手紙が紹介されておりました。この中で、直情径行型の四条金吾に対しては、冷静になるよう諄々と説き、「法華経に凝り固まるな」とまで助言している様には驚きました。日蓮こそ法華経に凝り固まった人であるはずなのに、意外にも本人は冷静で、かなり自身を客観視することが出来る人だと分かり、感服した次第です。法華経信奉者ならまず言えない言葉です。

 やはり、後世につくられた人物像より、手紙などに表れた人物像の方が確かに本物により近いのではないでしょうか。

念願の身延山久遠寺にお参り出来ました

昨日のつづき

 9月25日(日)、甲府は晴れ。甲府駅で身延線が全線復旧したことを確認し、前日、駅で予約していた特急ふじかわ4号(8時45分発)で身延駅へ。身延山久遠寺お詣りに再チャレンジです。

 JR東海身延線は単線でした。身延駅には9時38分着。9時45分発のバス・身延山駅には悠々間に合いました。この辺り、電車もバスも1時間に1本とか2本ですから、乗り過ごしたら大変です。

 何しろ、生まれて初めて独りで行く所ですから不安でした。身延駅から身延山終点までバスで12分ほどでしたが、途中で、久遠寺の「総門」があり、その巨大さに吃驚仰天し、不安も吹き飛んでしまいました。

身延山久遠寺 三門

 バス終点から、何となくこちらの方向だろうと、歩き始め、数分で三門に到着。これもあまりにも巨大で荘厳さがあり、圧倒されました。

 この三門の手前に、お土産店も兼ねた観光案内所があったので迷わず飛び込みました。私は食いしん坊の自称グルメですから(笑)、何処かランチが出来る店を紹介してもらおうと思ったのです。

 案内所の係の女性はとても親切な方で、沢山のパンフレットとマップ、それにロープウェイの(100円)割引券までくれるのです。ありがたや、ありがたやです。これで奥之院まで行けます。

菩提梯 高さ104メートル、287の石段

 いざ出発。三門を潜り抜けて、まず目に入ったのがこの急勾配の石段です。「菩提梯」と呼ばれ、高さ104メートル、287の石段があるというのです。

 ひょっえー、これは無理じゃあー。

 横道として、やや急な「男坂」と緩やかな「女坂」があり、私は男坂にすることにしました。

日蓮を身延の地に招いた鎌倉の御家人波木井実長の碑

 男坂の手前に、日蓮聖人を身延の地に招いた鎌倉の御家人で、甲斐国波木井郷の領主だった南部(波木井)実長の像と碑がありました。

 南部氏は、新羅三郎源義光の子孫で、甲斐源氏の加賀美遠光の子である南部三郎光行に始まるといわれています。その名字は甲斐国の南部郷から由来するといいます。その子孫は、近世になって南部藩(盛岡藩)の藩主となるわけです。

身延山久遠寺 五重塔 明治8年の大火で焼失し、2008年、133年ぶりに再建

 少し大袈裟ですが、息も絶え絶え、途中休憩しながら男坂をやっと登り、久遠寺境内に到着しました。

 最初にお迎えてしてくださったのは、この五重塔です。明治の大火で焼失していましたが、2008年に133年ぶりに再建されたといいます。

身延山久遠寺 本堂

 ついに本堂です。

身延山久遠寺 本堂

 本堂内は、靴を脱いで、自由にお参りできます。

身延山久遠寺 祖師堂

 本堂から祖師堂~報恩閣~拝殿~仏殿と建物内で「陸続き」になっており、それぞれのお堂を個別にお参りできます。

身延山久遠寺 祖師堂
身延山久遠寺 仏殿
身延山久遠寺 御真骨堂

 私自身はそれほど熱心な仏教徒とは言えませんが、このような聖地をお参りすると、さすがに荘厳厳粛な気持ちになれます。

 身延山に来られてよかった、身延山を参拝することが出来て本当によかった、と感謝の気持ちが沸き起こりました。

 これで、天台宗の比叡山延暦寺、真言宗の高野山金剛峰寺、浄土宗の知恩院、浄土真宗の東西本願寺、時宗の清浄光寺、臨済宗の建仁寺、曹洞宗の永平寺…と各宗派の総本山をほとんど制覇した感じです。この中で、高野山にはかなり圧倒されましたが、この身延山も比類なき聖地で圧巻でした。

 日本人だったら日蓮宗信徒でなくても、いや、世界の人類だったら誰でも、一度はお参りするべき寺院ですね、この日蓮宗総本山・身延山久遠寺は。

 何と言っても、人間の持つ信仰の力というものは凄まじい。あれだけ急勾配の石段や大伽藍をつくってしまうわけですから。

身延山第九十世 日勇上人のお言葉

 この後、ロープウェイで奥之院に向かう途中の境内で、「身延山第九十世 日勇上人のお言葉」が掲示されていました。

 このお言葉を読んで、私自身にも呼び掛けているようで、心が救われ、心が洗われ、少し涙が出て来ました。そして、これからも生きていけるような自信と勇気をもらいました。

身延山ロープウェイ 往復1500円⇒1400円

 午前11時発の身延山ロープウェイに乗りました。

 久遠寺駅(標高390メートル)から奥之院駅(同1153メートル)まで、全長1665メートル。時速18キロで所要時間7分です。と、パンフレットに書いてありました(笑)。

身延山 奥の院 思親閣

 また、そのパンフレットには、奥之院思親閣とは「日蓮聖人が身延山にご隠棲の9カ年の間、風雨厭わず山頂へ登られ、故郷房州小湊を拝し、ご両親お師匠様をお慕いなされた故事に因んで建てられたお堂」と書かれています。

 現代人はロープウェイに乗って、ズルしてしまいますが、日蓮聖人は風雨厭わず山頂へ登られたとのこと。日蓮聖人は凄い健脚だったんですね。

身延山奥之院 日蓮像

 日蓮聖人像は、鎌倉などで何像も、結構拝見したことがありますが、この像が一番御本人に似ているような気がしました。

 つまり、罰当たりになるのを恐れずに述べれば、日蓮聖人を妙に神格化せず、素の本人の姿絵がそのまま像になったように見えるのです。

日蓮聖人 お手植え杉

 日蓮聖人(1222年2月16日~82年10月13日)お手植え杉は樹齢750年を超えるといいます。

 日蓮聖人は西洋式に計算しますと、今年2022年は生誕800年、没後740年になります。が、日蓮宗では数え年を採用されているようで、昨年2021年を「日蓮聖人降誕800年」とされているようでした。

身延山 奥の院 思親閣

 どうも私はせっかちな性格なもので、11時20分発の下りのロープウェイに乗車してしまいました。山頂滞在時間、わずか20分でした(苦笑)。

菩提梯 下り287段 

 久遠寺境内を再度散策した後、いよいよ帰りです。

 今度は下りですから、菩提梯の石段に挑戦しました。公称287段となっていますが、私が勝手に数えながら降りたら294段になりました。恐らく数え間違いでしょう。

身延山 旅館山田屋 喫茶園林 ハヤシライス1200円

 さてお昼時。先ほどの観光案内所で頂いたパンフレットで目を付けていたお店に何軒か行きましたが、日曜日のせいか、閉まっていたり、「ご予約様のみです」と断られたりしてなかなか見つかりません。

 結局、身延山バス停留所の真向かいにある「喫茶 園林」に入り、ハヤシライスを頂きました。

日蓮聖人 草庵跡 御廟

 さあ、ご飯を食べてエネルギーを補給できたので、次に向かったのは、日蓮聖人の草庵跡と御廟です。

 「喫茶 園林」から3~4分で三門に戻り、三門から「草庵跡・御廟」の入り口まで歩いて6~7分。

日蓮聖人 草庵跡 御廟

 でも、入り口から草庵跡までが意外にも長かった。誰もいない坂道を10分ぐらい歩いてやっと草庵跡に辿り着きました。

日蓮聖人 草庵跡

 「ここだったのかあ」という感慨が押し寄せました。

 日蓮聖人は、修行三昧の生活で、冬は極寒で、寒さと飢えに苦しみ、胃腸病も患っていて大変な思いをされたことを手紙等に書き残されておりました。(久遠寺境内と比べ、体感温度はここは3~4度低い感じがしました。何でここに草庵を結んだのか不思議でした)

 近くに川が流れておりましたが、魚を獲るなど殺生もできるはずありませんからね。

日蓮聖人 御廟

 草庵跡からさらに先に進むと、1~2分で御廟です。

 後から来た50代ぐらいの男性が靴を脱いでここに上がって、独りで法華経を唱えていました。

日蓮聖人 御廟

 日蓮聖人は、亡くなったらこの身延の地に葬ってほしい、と言い残されたとされます。その通り、ここで静かに眠っておられると思うと、感無量になりました。随分、立派な御廟です。

 身延山にお参り出来て本当に良かったと思いました。

下部温泉

 25日は、下部温泉「湯元ホテル」に予約していたので、身延から下部温泉駅まで、また身延線で甲府方面に戻りました。

 今回、不思議なことがありました。行きの甲府から身延線で身延駅で降りて、身延山行きのバスに乗ったら杖をついた40代後半ぐらいの男性と一緒になりました。その方も久遠寺にお参りする感じでした。そして、11時発のロープウェイに乗ったら、またその男性と一緒になりました。お顔をジロジロ見たわけではないのですが、杖をついておられたので直ぐ分かりました。そして、何と、身延から下部温泉駅で降りたら、またまたこの男性と一緒になったのです。何という偶然でしょうか。「仏の顔も三度まで」なのか、その後、もうお会いすることはありませんでしたが、不思議だなあと思いました。

 湯元ホテルは、高浜虚子や海音寺潮五郎がよく贔屓にして泊まっていたという宿だったので、ここを予約したのですが、かなり建物も古くなり、昭和というか大正の感じがしました。

 夜の料理は、生ビールがサービスで付き、刺身あり、ステーキありで意外と豪華でした。温泉もゆっくり堪能出来ました。

【追記】

 台風15号による豪雨で、静岡では甚大な被害を受けました。御見舞い申し上げます。

法華経とは何か?=田村芳朗著「日蓮 殉教の如来使」

 「ヤクルト1000」が売り切れ続出というニュースを思い出した昼休み、新橋演舞場近くで、ヤクルトおばさんを発見したので、注文してみました。ヤクルト1000が結構、ずらっと例の乳母車のようなボックスカーに並んでいたからです。

 そしたら、おばちゃん、「あら、すみませんね。ここにあるの全部、この辺の予約なんで、売り切れなんです。会社も早くもっと量産してくれたらいいんですけどねえ」と平謝りでした。

 実売価格1本140円(宅配向け)ということですが、ネットで500円以上で転売しているらしく、日本人のマナーが世界に知られてしまっております。

 さて、田村芳朗(1921~89年)著「日蓮 殉教の如来使」(NHKブックス・1975年10月1日初版)をやっと読了しました。日蓮聖人の遺文(著作や書簡など)が直接文語体のまま引用される箇所が多く出てきて、法華経というお釈迦様が最後に唱えた集大成と言われる大変奥深い教えの話ですが、難解で、何度も何度も同じ個所を読み返したりしておりました。

 驚いたことに、この本は1975年が初版だというのに、鎌倉幕府の成立を我々が学生時代に習った1192年ではなく、さり気なく1185年としているところでした。凄い先見の明があります。また、戦後30年という時期に出版されたわけですから、まだ戦中世代が40歳代以上の現役です。日蓮(1222~82年)が戦時中に国家主義(田中智学の国柱会など)として利用されたことなどに関してはツボを押さえて批判しています。

 管見によれば、鎌倉新仏教の中で、来世の浄土世界での幸福よりも、現世での利益(幸福)追求を強調したのは法然でも栄西でも親鸞でも道元でも一遍でもなく日蓮であって、その純粋さと過激さゆえ迫害されます。しかし、後世は、その時代その時代で都合良く解釈されて、利用されやすかったのではないかと思われます。新興宗教は神道系が多いのですが、仏教系では断然、日蓮宗系が多いのがその証拠なのではないでしょうか。

 しかし、またまた管見ながら、日蓮の思想哲学は、特定の団体や組織のものではなく、万人が自由に学んでも構わないと思っております。むしろ、特定の団体や組織だけのものに独占させるべきではないと思っております。

 国学者の平田篤胤に至っては、日蓮宗と浄土真宗が神社参拝を禁じたことから、日蓮と親鸞をかなり痛烈に批判しています。

銀座・ロシア料理「マトリキッチン」日替わり定食 デザート1100円

 何と言っても、釈迦牟尼仏が涅槃に入る前に説いたと言われる法華経を信奉したのは日蓮が最初でもなく、唯一でもありません。(サンスクリット語のナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラを南無妙法蓮華経と漢訳したのは鳩摩羅什だと言われています。)

 聖徳太子の著作「三経義疏」の中に法華経を註釈した「法華義疏」がありますし、法然も栄西も親鸞も道元も日蓮も学んだ総合仏教大学とも言うべき比叡山では、法華経は必須課目で、天台本覚思想の根幹とでも言うべきものでした。日蓮より23歳年長の道元が主著「正法眼蔵」の中で最も引用した経は、法華経でした。

 何も日蓮は、釈迦の説く法華経を拡大解釈したり、曲解したりしたわけでありません。素直に解釈した結果、法華経に書かれている「他国侵逼」(しんぴつ=他国侵入)と「自界叛逆」(自国内乱)が近いうちに起きることを「予言」してしまっただけでした。実際、この天災と戦乱の時代、日本は国難に襲われます。国難とは二月騒動(名越の乱と北条時輔の乱)といった内乱と二度にわたる蒙古襲来(元寇)という他国侵入のことです。

 時の権力者は日蓮の説法に一切耳を傾けることなく、逆に日蓮は、何度も法難(受難、迫害、弾圧)に遭います。中でも、1264年に地頭の東条景信に小松原(現千葉県鴨川市)で襲撃され、頭に傷を負った「小松原の法難」(この時、日蓮の信者だった天津=現鴨川市=の領主工藤吉隆が討死)や1271年、佐渡流罪が決定した後、相模依智(現神奈川県厚木市)にある佐渡の守護代だった本間重連の館に送られる途中、龍口(たつのくち)で斬首に遭いそうなった「龍口法難」が有名です。

 こうした国難と法難、それに天変地異と疫病流行等による病死や餓死者などに多く接した日蓮は、殉教者として、宗教者としての意志を堅固にしたと思われますが、残念ながら寒さの厳しい身延山(信者になった甲州の波木井氏が土地と住居を提供)で病を得て、常陸に湯治に行く途中の武蔵国池上で志半ばで亡くなります。行年60歳。しかし、志半ばだったことが逆に弟子たち(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の6長老)に艱難辛苦を克服して布教に邁進する原動力になったのではないでしょうか。

 同書では何故なのか理由は書かれていませんが、鎌倉時代に日蓮宗はあれほど迫害されたというのに、室町時代になると京都町衆のほとんどが日蓮、ないし法華信徒になったといいます。(そう言えば、織田信長の本能寺も日蓮宗でした)琳派の祖と言われる本阿弥光悦も、徳川家康を支援した豪商茶四郎二郎も、それに狩野永徳や長谷川等伯まで日蓮信者だったといいます。江戸期に入っても、浄瑠璃作家の近松門左衛門や浮世絵の菱川師宣、葛飾北斎までも熱心な信奉者だったと言われます。北斎は「日蓮上人一代図会」を残しています。

 日蓮自身は、次々と押し寄せる人生の荒波と苦難のせいか、大著を残しておらず、その代わりに短編が無数に存在しているといいます。古来、どの書を基準とするか論議された結果、「立正安国論」(39歳)と「開目鈔」(51歳)、「勧心本尊抄」(52歳)を三大部、これに「撰時抄」(54歳)と「報恩抄」(55歳)を加えたものを五大部と呼ぶようです。私はまだ一冊も読んだことがありませんので、いつか読んでみたいと思っております。

 最後に、法華経とは何か? 妙法蓮華経のことで、妙法とは宇宙の絶対的真理、蓮華とは、五濁乱漫の現世でも白蓮を咲かせよという教えで、特別な修行をした出家者だけでなく、老若男女隔てなく、全ての人間が平等に救済されるという思想です。

【追記】

 最近の文献学によると、法華経は、釈迦最晩年の作ではなく、釈迦入滅後、数百世紀を後の紀元40~220年頃に成立したというのが有力のようです。

 第1の序品から第22の嘱累品(ぞくるいほん)までが原型で、第23の薬王菩薩本事品から第30の馬明菩薩品までは後世に追加されたと言われています。しかも、追加部分は、オカルト、呪術的思想や男女差別思想などがあり、後世の創作だと言われています。

 日蓮聖人は、1222年生まれということですから、今年はちょうど生誕800年の記念の年でした。

日蓮の旅、8月に身延山へ

 8月の夏休みは、日蓮宗の総本山身延山久遠寺に行くことにしました。昨夏、お参りする予定でしたが、コロナ禍の影響でキャンセルせざるを得なかったのでした。今年はそのリベンジで、義理と人情で同じ宿を予約しました。

 身延山は、あの水戸黄門さまも御宿泊されたという宿坊に泊まり、帰りは、海音寺潮五郎と高浜虚子が定宿にしていたという武田信玄の秘湯・下部温泉のホテルに一泊することにしました。

 最近、鎌倉時代の歴史を勉強したおかげで、大分、知識が増えました。私自身は、日本史の中で、鎌倉新仏教にはかなり興味がありましたので、その政治的、経済的、社会的背景が分かって大変参考になりました。つまり、鎌倉新仏教が生まれる土台や基盤が少し分かったということです。

 その鎌倉新仏教の代表とも言える浄土宗(法然)の知恩院、浄土真宗(親鸞)の東西本願寺、臨済宗(栄西)の建長寺、建仁寺など、曹洞宗(道元)の永平寺、時宗(一遍)の清浄光寺といった総本山、大本山にはかつてお参りしたことはありましたが、日蓮宗の総本山(祖山というらしいですが)だけはまだお参りしたことがなかったので、死ぬ前にいつか是非お参りしたいと思っておりました。

 しかも、日蓮は、私の亡父が、個人的に最も関心を寄せていた人物の一人であり宗教でした。とはいえ、特定の団体や組織に入会することは嫌って、独り書斎で関連書籍を収集して読んでいる程度でしたが…。私なんか読めない難解な専門書が多くありましたが、今回は私でも読める本を何冊か実家から借りてきました。そのうちの一冊が、この田村芳朗(1921~89年)著「日蓮 殉教の如来使」(NHKブックス・1975年10月1日初版)です。田村氏は当時、東大教授。もう半世紀近い昔の本なので、表現が少し古い箇所がありますが、日蓮の膨大な遺文を第一次史料として、実証的に検討した評伝です。実証的というのは、後世に日蓮を神格化して書かれたものや、呪術的、奇跡的行為などは極力排除して、日蓮の真の実体に迫ろうとした意欲作という意味です。

 当時の書評は知りませんが、恐らく熱烈な信者や宗教界からは、日蓮が自称した「旃陀羅(せんだら)が子」という出自を始め、神懸りなカリスマ性がそれほど強調されていないということで批判されたかもしれません。私自身は、この本こそ、人間日蓮に真に迫っていると大変評価していますが…。

鎌倉・長勝寺

 昨夏、「身延山に行こう」と思い立ったのは、佐藤賢一の小説「日蓮」(新潮社)に感銘を受けたからでした。小説ですから、「講釈師見て来たような嘘を言う」部分もあるかもしれませんが、関連文献を相当渉猟していたようで、史実を忠実に再現し、しかも人物像が生き生きと浮かび上がって、大変面白い魅力ある読み物に仕上がっていました。

 今回は、かなり鎌倉幕府の知識が増えたので、この本を再読すればもっと面白く読めるかもしれません。例えば、日蓮の代表的主著と言われる「立正安国論」を幕府の最高権力者だった最明寺入道に提出しましたが、この最明寺殿とは第5代執権北条時頼のことで、時頼と聞けば、色んなことが思い浮かびます。出家しても、息子の時宗が執権になっても、「院政」に習って、最高権力者の地位に就いていたこと。南宋の僧蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を創建したこと。また、執権時代は、前将軍・藤原頼経の側近だった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して起こそうとした武力行動を鎮圧したこと(名越の乱)。そして、有力御家人であった三浦氏や千葉氏を滅ぼしたことなどが挙げられます。

 8代執権時宗の時代では、二度にわたる蒙古襲来(文永・弘安の役)に加え、六波羅探題の北条時輔による反乱など内憂外患に苛まれました。つまり、内乱と海外侵略です。

 この二つを「予言」したと言われるのが、日蓮が北条時頼に提出した「立正安国論」ということになります。すなわち、日蓮は、正法が消えうせた時には、国土に様々な災難が起き、それは法華経に書かれている他国侵逼(しんぴつ=他国侵入)と自界叛逆(自国内乱)のことだと喝破したのでした。

 承久の乱の翌年(1222年)に安房の漁師の子として生まれた日蓮は、北条時頼、時宗と同時代人ですから、上に掲げた内乱や蒙古襲来によって、結果的に予言が的中し、経験したことになります。

鎌倉・龍口寺

 しかし、「立正安国論」等は時の為政者や宗教界では全く受け入れられず、逆に弾圧、挑発されて依怙地になった日蓮は、他宗派を攻撃し始めます。そのいい例が、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言です。これで幕府や地頭からだけでなく、他宗派からも恨みと反感を買い、何度も訴えられて伊豆や佐渡島に流罪となります。特に、文永8年(1271年)、佐渡流罪を問う裁判に引き立てるために、鎌倉の日蓮の草庵を襲って逮捕したのが、平左衛門尉頼綱でした。佐藤賢一の「日蓮」を読んでいた昨年はあまりピンと来なかったのですが、今では平頼綱といえば、北条氏の伊豆時代から仕えた古い御内人(みうちにん)だということが分かります。8代執権時頼と9代執権貞時の執事として大きな権勢を振るった人です。ライバルの安達泰盛を霜月騒動で滅ぼしますが、逆に彼の恐怖政治を恐れた執権貞時によって誅殺されました(平禅門の乱)。

 一介の無名の僧に過ぎなかった(当時)日蓮は、北条時頼や平頼綱といった時の権力者の存在を知り、蒙古からの国書到来など一部の人しか知り得ない内外情勢の事情に通じていました。かなりの情報通です。そんな俗世間から離れた聖界の人が、何処から情報を得るのか不思議でしたが、田村芳朗氏の「日蓮 殉教の如来使」には、早い段階(1256年)で日蓮に帰信した人の中に、北条氏一門の名越光時(あの名越の乱で、伊豆に流された人)の重臣である四条金吾頼基や武蔵池上郷の地頭池上宗仲(後に屋敷に池上本門寺を建立)・宗長兄弟がいたことが書かれていました。恐らく、このような日蓮に帰依した武士たちが、日蓮に当時の政治情勢を伝えていたと思われます。(となると、内乱も他国侵入も「予言」ではなく、確かな情報に基づいた確信だったのではないかと思われます。)

 とにかく、この時代は大地震など天変地異が続発し、飢饉や疫病がはびこって、鎌倉の道端でも屍が累々といった状況で、巷では飢えた物乞いが群れをなし、まともな薬や医療もなく加持祈祷のみが頼りでした。

 数多の迫害や法難(龍の口など)に遭いながらも、最後まで自己の信念を貫き通した日蓮は、こうした国難と人心の不安といった惨状を間近に見て、黙っていられなかったと思われます。

【追記】

 私の父親が九州の片田舎から上京して、初めて住んだのが東京・蒲田(私は此処で生まれました)で、近くに池上本門寺があったことから、日蓮に興味を持ったようでした。

 何しろ、私の子供の時の家族旅行が千葉県の誕生寺(日蓮生誕地)だったぐらいですから(笑)。

 鎌倉への関心は、小学校5年の時の遠足が原点です。バスガイドさんが車内で「七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎 名将の剣投せじ古戦場」と文部省唱歌「鎌倉」を歌ってくれました。お土産にカルタを買ったら、「日蓮の龍ノ口の法難」があって、急に稲光が起きて、日蓮を処刑しようとした武士たちが恐ろしくなって逃げたカードもありました。

 そんな記憶があるので、日蓮聖人からは逃れられません。

女塚神社と池上本門寺を参拝=東京・蒲田

 夏休みです。コロナ感染拡大で、日蓮宗の総本山、山梨県の身延山久遠寺の宿坊の予約をキャンセルしたため、昨日は、日蓮聖人入滅の地である東京・池上本門寺にお参りに行きました。

 いつでも行けると思ってましたから、ご無沙汰してしまいましたが、多分、45年ぶりぐらいの再訪だったと思います。ですから、力道山のお墓以外ほとんど覚えていませんでした(苦笑)。

女塚神社

 実は、池上本門寺にほど近い東京・蒲田は私の生まれた所です。

 今では、東京都大田区西蒲田〇丁目となっていますが、当時は東京都大田区女塚という地名でした。今は、影も形もないようですが、そこの女塚病院で生まれました。

女塚神社

 その「女塚」という地名には、私自身、昔から引っ掛かっておりました。若い頃は、「女難の相」があるのではないかと真剣に悩んだものでした(苦笑)。

 そしたら、会社の同僚で地元・蒲田生まれで蒲田育ちのOさんから、「女塚神社に碑がありますよ」と教えてくれたので、まず、最初に女塚神社に向かったのです。

 いやあ、蒲田は大都会ですね(笑)。緊急事態宣言下の平日だというのに、人も多く、飲食店も多く、道も複雑で、結構、迷いながら、やっと辿りつきました。

女塚古墳の由緒

 そしたら、上の写真の碑の通り、ちゃんと由来が書いてありました。

 要するに、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子義興は、足利尊氏が没した半年後の正平13年(1358年)、挙兵しますが、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清の謀りごとで、竹澤右京亮によって、多摩川の矢口の渡しで騙し討ちされます。

 この新田義興の憤死の際、侍女の少将局が忠節を尽くして共に害したため、村民が憐れんで、この地に侍従神として祀って崇敬し、それ以来、女塚と呼ばれたというのです。

 この少将局は、竹澤右京亮が義興を謀殺するために送り込んだ「女スパイ」という説もありますが、殉職したので、結果的には忠節を尽くした立派な侍女ということになるのでしょう。

 いずれにせよ、こういう経緯があったとは知りませんでした。新田一族と関係があったんですね。やはり、知識は大切です。今年5月、群馬県太田市の金山城跡を訪れた際、新田義貞を祀った新田神社をお参りしたことを思い出しましたが、何か御縁を感じました。

 女塚神社から池上本門寺を目指しました。

 地図で見たら、何となく近い感じがしましたが、歩いたら道に迷い、30分以上掛かりました。あまりにも暑くて、途中で公園のベンチで一休みしました。

池上本門寺・九十六階段

 池上本門寺で待ち受けていたのは、この96段にも上る階段でした。

 戦国武将加藤清正が寄進したものだそうです。

 詳しくは、上の説明看板をお読みください。

 加藤清正は、秀吉恩顧の大名ながら、関ケ原では家康の東軍につき、加増されて肥後熊本の51万石の大大名となります。築城の名人でもあり、天下普請の名古屋城でも活躍しましたね。

 清正は日蓮宗の信仰に篤く、池上本門寺には母親病気平癒などでかなり寄進したようです。目下、境内には清正公堂と呼ばれる三重塔を再建しているようで募金もしていました。

池上本門寺・山門 奥が本堂

 実に立派な山門です。新し過ぎるので、勿論、山門も、本堂も、アメリカ軍による空襲で焼失したので、再建されたものです。

 奥に写っているのが本堂ですが、後から気が付いたら、本堂の写真を撮ってくるのを忘れていました!ぼさっとしてますね。

疫病除け御守り1000円

 本堂では、新型コロナの疫病退散のお守りがあったので、皆様を代表して早速買い求めました。

 これで、来年にはコロナも収束すると思います。非科学的ですが、信じるしかない!

池上本門寺・五重塔

 池上本門寺を参拝する目的の一つが、この五重塔でした。

 幸運にも、ここだけは戦災を免れたらしく、関東一古い五重塔として、重要文化財に指定されています。

 二代将軍徳川秀忠の病気平癒のために建てられたそうなので、もう400年も前の建造物ということになります。


池上本門寺・力道山の墓

 勿論、力道山のお墓もお参りしました。

 何も知らない子ども時代の私のヒーローでしたね。1963年12月、東京・赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、住吉一家系の村田勝志組員と口論と格闘の末、刺され、この傷が元で1週間後に39歳の若さで亡くなります。そんな若かったの?です。

 力道山は、ナイトクラブに新聞記者も引き連れていて、その中の一人、スポーツニッポンのベテラン記者だった寺田さんから、私は1981年、東京・原宿の日本体育協会の記者クラブでご一緒だったので、当時の話を聞いたものです。力道山は、刺された後、席に戻ってきて、周囲の新聞記者に「やくざに刺された」と言ったか、ステージに上がって、「皆さん、このクラブにはやくざがいるから気を付けてください」とマイクで叫んだか、どっちだったか、色んな本を読んでいるうちに、ごっちゃになって分からなくなってしまいましたが、多分、後者だったと思います(苦笑)。

 とにかく、力道山は、自分の体力を過信せず、その日のうちにしっかり手術を受けていれば、生命だけは助かっていたと思います。

池上本門寺・山門で迅雨

 さて、帰ろうとしたところ、急に大雨が降って、動けなくなりました。

 えっ?雨? 天気予報は「晴れ」のはずだったのに…。傘がない!

 バケツの水をひっくり返したような尋常ではない雨量です。しばらく、山門で雨宿りさせてもらうことにしました。

池上・元祖葛餅「池田屋」

 50分ぐらい雨宿りしたでしょうか。小降りになったので、本門寺に一番近い、老舗の久寿餅屋さん「池田屋」に飛び込みました。

 池上には、江戸時代から創業している老舗の久寿餅屋さんが、「浅野屋」(1752年創業)、「藤乃屋」(1696年創業の「相模屋」を引き継ぐ)、「池田屋」(元禄年間創業)の三軒もあり、時間があれば、何処かに入るつもりでしたが、大雨で予定が狂ってしまい、ここで昼食をとることにしました。

池上・元祖久寿餅「池田屋」ミニ膳880円

 はい、これが、「池田屋」のミニ膳です。あんみつとアイスクリームもついて、大変贅沢でしたが、やはり、ランチというより、デザートでしたね(笑)。

 帰りは、東急池上線に乗って、蒲田にまで戻り、そこで、名物の羽根つき餃子を食べようかと思ったら、駅に近い「歓迎」に行ったら、大雨のせいで雨宿りをしたので、ランチの時間が過ぎてしまっていました。そこで、お店の人に教えてもらったチェーン店の「惣菜店」で生餃子を買いましたが、しまった、これでは即、帰宅しなくてはならなくなり、餃子はお家で食べました。

 皮がモチモチして、餡も野菜たっぷりで旨い! これなら、宇都宮餃子と浜松餃子に対抗できますね。

 蒲田の羽根つきギョウザの元祖は「你好」ですが、緊急事態宣言のため、休業していて行けずに残念でした。ここは、盛んに新聞やテレビで紹介されているので、御存知だと思いますが、満洲の残留孤児だった八木功さんが、日本に引き揚げて1983年に開店したお店で、他に八木さんのきょうだいが開店した「歓迎」「春香園」など数店あります。コロナが終息したら、御一緒に、焼きたての餃子とビールでいきたいもんですね。

「我は法華経の広宣流布を委ねられた上行菩薩なり」=佐藤賢一著「日蓮」

鎌倉・長勝寺 日蓮聖人像

 佐藤賢一著「日蓮」(新潮社、2021年2月16日初版、1980円)を読了しました。非常に勉強になりました。小説というより、評伝でしたね。ただ、佐渡島流刑から鎌倉に帰宅後、波木井(南部)実長からの申し出により身延山に庵を結ぶことになり、そこで、(第一次)蒙古襲来の報せを受けるというところで終わってしまったので、続編があると思います。

 この本については、既に一昨日(7月6日付)のブログ「法然上人を悪しざまに言う日蓮」で前半(第一部 天変地異)を取り上げていますので、本日は後半(第二部 蒙古襲来)のことを中心に書くつもりです。

 最初に「小説というより、評伝でした」と書いておきながら、やはり、学術論文とは違う作家が創造した小説ですから、善と悪を故意に際立たせた(言って良ければ)作り物の物語になっています。鎌倉の得宗被官筆頭で最高権力者の平左衛門尉頼綱(鎌倉の龍ノ口で日蓮を処刑しようとして果たせず、佐渡島に流刑した)と日蓮との手に汗を握る対決である会話を佐藤氏が傍で聞いていたわけではありませんから、「講釈師、見てきたような…」のあれです。

 しかしながら、大変苦心して書かれた評伝だったので、この本を読んでやっと日蓮があれほど激烈に他宗派を排撃した理由が分かりました。一昨日書いたことと少し重複しますが、「念仏無間」というのは、浄土宗の専修念仏は、ひたすら浄土門に邁進せよと言い、聖道門の法華経は、捨て、閉じ、閣(さしお)き、抛(なげう)て命じるからだといいます。(法然の言うところの捨閉閣抛=しゃへいかくほう=)「真言亡国」は、護摩祈祷で戦勝を祈願した平家も後鳥羽院も敗れたではないか、「禅天魔の所為」とは、禅宗は「教外別伝」(きょうげべつでん)「不立文字」(ふりゅうもんじ)を掲げ、釈迦の説かれた一切経を抛擲し、久遠の仏の教えを聞かないからだというのです。(「律宗国賊」に関しては問答が省略されてました)

鎌倉・妙本寺

 何故、数多あるお経の中で、法華経だけを日蓮が尊重するのかというと、釈迦が「法華経以前に説かれた諸法は方便の経で、真実を明かしていない仮の教えだ」と申しているからだというのです。

 そして、法華経を広める地涌(じゆ)の菩薩を率いる菩薩として、安立行菩薩(衆生を無辺なれども済度する)と浄行菩薩(煩悩は無数なれど断ち尽くす)と無辺行菩薩(法門は無尽なれども知り尽くす)と上行菩薩(仏道は無上なれども成し遂げる)の四菩薩(四弘誓願)がいますが、日蓮本人は、龍ノ口での法難の際に、自分自身は、法華経の広宣流布を委ねられた菩薩の導師の一人、上行菩薩であることを自覚したといいます。

 なるほど、そういうことでしたか。私自身は、どこそこの教団に属す信徒ではありませんが、また、もう少し、法華経に挑戦したくなりました。

 この本を読んでよかったのは、昨年9月に鎌倉の日蓮宗の寺院巡りをしたお蔭で、活字だけで、鎌倉の情景を目に浮かべることができたことです。(2020年9月22日付渓流斎日乗「鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺」をご参照ください)

鎌倉・龍口寺

 この本を読んで、まだ行ったことがない、佐渡や身延山に、日蓮聖人の足跡を訪ねて、いつか行ってみたいと思いました。(その前に、日蓮聖人が入滅された東京・大田区の池上本門寺を再訪したいと思います)

 また、この本で、日蓮の師である清澄寺の別当道善房や、日昭(成弁、比叡山同学の日蓮より一歳年長ながら最初の弟子)、日朗(日昭の甥)、日興(実相寺修行僧伯耆房)、日向(にこう=安房出身)、日頂(下総富木常忍の養子)、日持(最初は日興に師事)の六老僧や日行日法(熊王)といった日蓮の直弟子や、四条頼基(金吾殿)、池上宗仲・宗長宿屋光則大学三郎富木常忍といった檀越(だんおつ)のことも勉強させて頂きました。

 日蓮という後世に莫大な影響を与えた偉大な日本人が生きた時代背景には、地震などの天変地異と飢餓と疫病の流行に加え、政争と戦乱と蒙古襲来(他国侵逼=しんぴつ)という日本史上稀に見る「国難」があったということがよく分かりました。安倍前首相が口癖のように使っていた国難とは、あれは何だったのか首をかしげたくなるほどです。

【追記】

 ここまで書くのに5時間も掛かりました。あにやってんでしょうか(笑)。ついでながら、佐藤賢一氏の「日蓮」は、仏法論争の話が中心で、日蓮が一体どんなものを食べていたのか、どんな服装をしていたのか、どんな仏具(真言ではないので金剛杵なんか持っていなかったでしょうが)を備えていたのか、といったことが殆ど書かれていなかったので、気になりました。

 小説ならもう少し俗人的なことを書いてもいいと思ったのですが、宗教家は神聖なのでそこまで書いては駄目なんでしょうか?

 

人の心は移ろいやすい=50万PVまであと僅か

 昨日の閲覧数は、どういうわけか、2074ページビュー(PV)アクセスもありました。普段は、300とか500とか、そんなもんなんですが、どうしちゃったんでしょうか?ー昨日のテーマは、万人受けしそうなものではなかったのですから、どなたかが、このサイトで遊んでネットサーフィンでもしてくださったのでしょうか?

 この分ですと、今月か来月には区切りの良い50万PVアクセスに到達しそうです。御礼申し上げます、としか言いようがありません。

銀座「イタリアン グロッタ」ホエー豚肩ロースのグリルステーキ ランチ1100円

 と、感謝しておきながら、人の心は移ろいやすいものです、と、私はこの頃、しみじみ感じております。男でも女でも、関係なく、人間は心変わりするものです。それが、何か?

 心変わりをされた方が問題なのです。自分は何か悪いことをしたのではないか、と自分自身を責め続けます。これまで親しくしていれば尚更です。しかし、幾ら考えても自分の非を見つけることができません。となると、人の心は移ろいやすい、という結論に達するしかありません。人は幾ら、罵詈讒謗で強権を発動されても、心まで支配することはできません。せめて、面従腹背で、相手は嫌々付き合っているだけです。それでは面白くないでしょう?

 となると、人の心は移ろいやすい、と諦念して新たな一歩に踏み出すべきではないでしょうか。。。

築地「イタリア食堂のら」パンチェッタとズッキーニ、モッツアレラチーズのトマトスパゲティ フォカッチャ、サラダ付きランチ990円

 本日、皆さまにお伝えしたいことは、これだけなのですが、今読んでいる佐藤賢一著「日蓮」(新潮社)によると、日蓮聖人は誰に頼まれたわけでもなく、艱難辛苦と法難を何度も何度も受けながら、まさに国難とも言うべき蒙古襲来の他国侵逼(しんぴつ)を「予言」するなど、毎日毎日、天下国家と民衆の安寧のことばかり考えていたようです。

 それに比べて、渓流斎ごとき煩悩凡夫は実に小さい、小さい。何? 人の心は移ろいやすいだと?ー何を、いつも、ブログで御託と世迷言を並べているのか…我ながら、不憫に思います。

 しかし、真面目に誠実に生きたい。残された人生で、自分が出来ることは何か、この世に生まれてきて、一体、自分の使命は何なのか、を考える毎日です。

法然上人を悪しざまに言う日蓮

 ちょっと酷い言い方なんで聞いてくださいな。

 その人は、名前は出せませんけど、こんなことを言うのです。「歴史学者は、日本史は室町時代から学ぶべし、と述べております。史実として学ぶには、室町以前は資料が乏しい故です。渓流斎翁は、安直に相変わらず信仰の如く『歴史人』を紹介されておられますが、鎌倉時代は、古代同様に、イメージを膨らませて語るしか無いのですよ。」

 「室町時代から学べ」と言った歴史学者は誰なんでしょ? 自分の得意な専門分野だから言ってるだけでしょう。江戸時代を知るには戦国時代を知らなければならないし、戦国時代を知るには鎌倉時代を知らなければならないし、そもそも古代史を知らなければ、「この国のかたち」が分かるわけがありませんよ。安直な人間と決めつけられようとも。

築地・料亭「わのふ」刺身(イナダ)定食1000円 料亭にしては安い!

 ーーと前置きを書きましたが、鎌倉時代を勉強し直して本当に良かったと思っています。先日から読み始めた佐藤賢一著「日蓮」(新潮社)は、思っていた以上に難解で、仏教用語や思想の知識がなければ全く歯が立たず、同時に鎌倉時代の制度や歴代執権、連署らの名前や、弟子を含めた膨大な人物相関図が分からなければ、さっぱり理解できないからです。

 直木賞作家佐藤賢一氏(1968~)については、大変失礼ながら、著作をほとんど読んだことがないのですが、東北大学大学院で仏文学を専攻し、「小説フランス革命」や「ナポレオン」などフランス関係の小説を多く発表されていることぐらいは知っておりました。そんな人が、何で、日本人の、しかも、宗教者の日蓮を取り上げるのかー?専門外で大丈夫なのかしらー?といった興味本位で、この本を手に取ったわけです。

 そしたら、繰り返しになりますが、極めて難解で、当然のことながら、かなり仏教を勉強されている方だということがよく分かりました。「法華経」は勿論のこと、「金光明経」「大集経」「仁王経」「薬師経」、それに、法然の「選択本願念仏集」、日蓮の「立正安国論」…とかなりの経典や仏教書等を読み込んでおられると思われます。

 平安末から鎌倉時代にかけて、戦乱と天変地異と疫病が流行して、世の中が不安定だったせいか、不思議なくらい史上稀にみるほど多くの新興宗教が勃興します。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、そして日蓮の日蓮宗などです。この中で、日蓮は「遅れて来た」教祖だったこともあり、既成宗派を激烈に批判します。それは「四箇格言(しかかくげん)」と呼ばれ、「念仏無間の業、禅天魔の所為、真言亡国の悪法、律宗国賊の妄説」の四つを指します。

 つまり、専修念仏の浄土宗などを信仰すると、無間地獄に堕ちる。臨済、曹洞宗などの禅宗は、天魔の所業である。真言宗は生国不明の架空の仏で無縁の主である大日如来を立てることから亡国の法である。律宗は、戒律を説いて清浄を装いながら、人を惑わし、国を亡ぼす国賊であるー。といった具合です。

 この本は、まだ前半しか読んでいませんが、特に日蓮の批判の対象になったのが、浄土宗でした。日蓮は、法然房源空が、源空が、と呼び捨てですからねえ。念仏なんかするから、天変地異が起きるのだ。浄土宗なんか、浄土三部経しか認めず、他の経を棄て、西方にいる阿弥陀如来だけを崇めて、東方におわす薬師如来だけでなく、釈迦や菩薩すら否定し、極楽浄土に行くことしか説かない。何で現世で、即身成仏しようとしないのか。それには法華経を信じて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるしかない、と一般衆生だけでなく、時の権力者たちに主張します。(最明寺殿こと五代執権北条時頼に「立正安国論」を提出)

銀座・魚金「マグロ寿司」ランチ1000円

 私は、日蓮(1222~1282年)については、亡父の影響で大変興味があり、惹かれますが、法然上人(1133~1212年)は、日本歴史上の人物の中で最も尊敬する人の一人なので、あまり悪しざまに扱われると抗弁したくなります。が、これは佐藤氏の創作ですから、実際に日蓮が発言した言葉とは違うと思われます。しかし、日蓮は、実際に鎌倉の松葉が谷の草庵を浄土宗僧侶や念仏者たちによって襲撃されて焼き討ちに遭ったりしているので、浄土宗を敵視したことは間違いありません。この本は、小説とはいえ、ほぼ史実に沿ったことが描かれていると思われます。

 ただ、小説だから軽い読み物だと思ったら大間違いです。恐らく、事前に大学院レベルの知識を詰め込んでおかないと、理解できないと思います。老婆心ながら。

鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺

龍口寺の五重塔

 ブログ、ちょっとご無沙汰してしまいましたが、巷では4連休(敬老の日、秋分の日)の真っ最中です。

 コロナ禍とはいえ、こんなチャンスを逃して家に閉じこもっているのも何なんで、以前から計画していた鎌倉の日蓮宗寺院巡りを決行してきました。

 平安末期から鎌倉時代にかけてのこの時期は、日本史の中で最も瞠目すべき時代かもしれません。浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗と次々と鎌倉仏教と呼ばれる新宗教が生まれたからです。

 時代は公家社会から武家社会に移り変わり、戦乱と飢饉と疫病が流行り、社会的に不安定な時代で、多くの民衆が救いを求めたからに他ならないことでしょう。

 古都・鎌倉にはこれら鎌倉仏教の寺院がいまだに多く残っているのでお参りするのに最適です。

本覚寺 本堂

 今回は取り敢えず、日蓮宗の寺院に絞ってみました。JR鎌倉駅からほど近い所に主要寺院が集中していて参拝しやすいからです。

 まずは、永享8年(1436年)に創建された本覚寺です。鎌倉駅東口を出て若宮大路を渡り、郵便局の細い道を進むとすぐ到達します。駅から5分ぐらいでしょうか。

 本覚寺については、上の写真の看板の説明にある通りです。拝観は志衲。

本覚寺

 上の説明文にある通り、二代目住職日朝上人が、甲斐の身延山から日蓮聖人の遺骨をこの地に納めたことから「東身延」とも呼ばれています。

本覚寺

 本覚寺は、もともと源頼朝が戎神を祀った戎堂でした。

 上の写真の八角形の建物は近年復興したものですが、配流先の佐渡から戻った日蓮がこの戎堂に滞在していたといわれています。

日蓮上人辻説法跡

 次に向かったのが「日蓮上人辻説法跡」です。本覚寺から、車がクラクションを鳴らしてくる小町大路を北進して、迷わなければ歩いて3分ほどで行けます。

 現在の鎌倉は、道が狭く車が多いという、人に優しくない、あまり「いけ好かない」所になってしまいましたが、当時は車なんかないので、この程度の道幅でも十分機能していたことでしょう。

 そして、この辻説法跡は、市内でも最も人通りが多い繁華街の一つだったはずです。安房から出てきた日蓮がここで辻説法を始めたと、上の看板に書かれていますが、石碑などがある場所は鉄の柵で囲まれて入れないようになっていました。信徒にとって、ここは「聖地」だからという理由です。

 念じれば、日蓮聖人が辻説法している姿が浮かび上がってきそうな歴史的スポットでした。(と思ったら、日蓮は辻説法などしなかった、という説もあるようです。何だかよく分かりません)

妙本寺

次に向かったのが「妙本寺」です。迷わなければ、辻説法跡から歩いて7~8分で行けます。拝観志衲。

妙本寺の縁起については、上の説明文に書いてある通りですが、もともとは、頼朝の重臣・比企一族の屋敷跡でした。

 源頼朝が成立させた鎌倉幕府は、関東の御家人、つまり坂東武者によって支えられました。現在、埼玉県比企郡として名前を残す比企能員(ひき・よしかず)を始めとする比企一族も、有力御家人の一つでした。その当時の御家人の勢力がどれくらい大きかったのか、この妙本寺、実は比企一族の屋敷跡の広大な敷地を訪れて初めて分かりました。やはり、現地を見なければ分かりませんね。あまりにもの広さに圧倒されました。

妙本寺

 しかし、比企一族は北条氏によって滅ぼされました。乱から逃れ、辛うじて生き残った末子の比企能本(ひき・よしもと)が日蓮聖人と出会い、屋敷を献上して1260年に法華堂を創建したのが、この妙本寺の始まりだと言われています。

妙本寺 祖師堂

 鎌倉の有力御家人を調べてみると、北条氏などによって滅ぼされたのは、比企能員(ひき・よしかず)だけではないんですね。石橋山の戦いで頼朝の危機を救った梶原景時も、奥州合戦で活躍した畠山重忠も、侍所初代別当だった和田義盛も、評定衆の三浦泰村も安達泰盛も、ほとんどやられて、生き残ったのは足利氏ぐらいじゃないかと思わせるぐらいです。

 「いざ、鎌倉」と何かあれば駆け付けた坂東武者のイメージが強った鎌倉時代でしたが、北条執権の全盛時代は、ほとんど関東武士は淘汰されてしまっていたんですね。

常栄寺 (ぼたもち寺)

次に向かったのが、「常栄寺」、別名「ぼたもち寺」と呼ばれています。拝観志衲。

 日蓮は、法華経を広めるために、「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)」と他の宗派を激しく断罪し、災害や疫病の蔓延などに無策な幕府も批判したことなどから、刑に処されることになります。市中引き回しされた上、刑場の瀧の口へ向かう途中で、一人の老婆が日蓮に胡麻入りのぼた餅を捧げたことから、この寺が創建されたという言い伝えがあります。

妙法寺 総門

 次に向かったのが妙法寺です。

 常栄寺から八雲神社を通ると、車の往来の激しい通りに出て、迷わなければ10分ほどで着きます。

妙法寺 本堂

 妙法寺は、鎌倉の寺院を訪れるとしたら、最もお薦めしたい寺院の一つでした。拝観料300円。土日、祝日のみ開門のようですので要注意。

 妙法寺は、上の説明文にある通り、日蓮聖人が安房から鎌倉に入り、最初に草庵を結んだ由緒のある寺院で、信徒には欠かせない聖地でした。

妙法寺 苔石段

 境内は奥行きがあって、意外にも広く、上の写真のように、有名な苔の石段があり、息を切らして登って行かなければなりません。

妙法寺

 石段を登った中腹に、このような「松葉ケ谷御小庵跡」があります。登るだけで、結構、修行になります。

 当時は、飲み水や食べ物はどうしていたのだろう、と思いを馳せました。

妙法寺

 このまま下に降りようとしましたが、この「松葉ケ谷御小庵跡」の上に護良(もりなが)親王のお墓があるというので、お参りしなければなりません。また、息を切らせて急こう配の石段を登って辿り着きました。

 妙法寺は、後醍醐天皇の皇太子、護良親王の菩提を弔うために、その子息である日叡上人が中興の祖と言われています。

安国論寺

 次に向かったのが、安国論寺です。妙本寺から数分です。拝観料は100円以上となっていました。

 ここで、日蓮聖人が、あの有名な「立正安国論」を執筆したと言われています。

 コロナ禍の現在、国家だけでなく、世界中の人々の安寧を、ここでもお祈りしました。

長勝寺

 次に向かったのが、長勝寺です。安国論寺から横須賀線の踏切を渡って、歩いて5分ほどです。拝観志衲。

長勝寺 本堂

 長勝寺も、妙法寺、安国論寺と並び、日蓮聖人が松葉ケ谷で結んだ三大草庵の一つだと言われています。

 この地の領主・石井長勝が日蓮聖人に帰依して、日除と名乗り、弘長3年(1263年)に邸内に法華堂を建てたのが始まりだと言われています。

長勝寺 日蓮聖人像

 この日蓮聖人像は特に有名なんだそうです。

 さて、他にも日蓮宗寺院はたくさんありますが、この長勝寺を最後に鎌倉駅近くの日蓮宗寺院巡りは打ち止めにし、バスで鎌倉駅に戻りました。長勝寺から駅まで歩いても30分か40分ぐらいでしょうけど、少しズルしました(笑)。

小町通り とんかつ「小満ち」

 寺院巡りをしている間は、ほとんど人がいないので快適でしたが、鎌倉駅に戻ると驚くほどの人、人、人。ほとんどの人たちは、若宮大路や小町通りを通って、鶴岡八幡宮へ参拝するものと思われます。コロナ禍なのにどうしたことでしょう。4連休なので、アヴェック(死語)も家族連れも繰り出したのです。東京・表参道の竹下通りのような混雑でした。

 バスから降りて、私が目指したのは、小町通りにあるとんかつ屋さんの「小満ち」です。川端康成、里見敦、小林秀雄ら鎌倉文士のお気に入りの店だったらしいので、物見遊山気分で行ってみたのです。(そう言えば、鎌倉文士は有名ですが、浦和画家を知らない人が多いですね。関東大震災後に芸術家たちが郊外に移転し、「鎌倉文士に浦和画家」という言葉が流行ったのです)

 昼時だったので、店内は混雑していて、しばらく外で待たされました。

 注文したのはかつ重(1000円)とグラスビール(400円)で、税込み1540円。とんかつは、今まで食べた中で、一番上品で優しい味でした。実に旨い。いつかまた来た時は、とんかつ定食にチャレンジしようかと思いました。

龍口寺

 最後に向かったのは、鎌倉時代の処刑場、龍の口です。

 鎌倉駅から江ノ電に乗って、江ノ島駅で降りて、数分の所にあります。

龍口寺

 鎌倉駅から江ノ島までの江ノ電は、めっちゃくちゃ混んでいました。30分ぐらい掛かったでしょうが、満員で、ずっと、ぎゅうぎゅうといった感じでした。コロナ禍なのに、こんなんで大丈夫なんでしょうか?

龍口寺

 処刑場跡に建てられたのが、龍口寺です。拝観志衲。

 日蓮聖人がここで処刑されようとする寸前、雷鳴が光る奇跡が起こり、聖人の処刑が中止された法難の地ですが、ここに改めて寺院が創建されたのです。

龍口寺 本堂

 詳しい龍口寺の縁起については、上の看板の説明文に書かれていますので、ご参照ください。

龍口寺

 どういうわけか、龍口寺に建てられた日蓮聖人の像は、他と比べて、柔和で穏やかな感じがします。

 処刑されようとした地なのに、何とも不思議です。

龍口寺

 な、何と、龍口寺には五重塔がありました。

 上の説明文にある通り、明治末に建てられたようですが、信仰の深さを感じました。

龍口寺
龍口寺

 最後に龍口寺境内にある「御霊窟」をお参りしました。

 龍の口法難の際、日蓮聖人が囚われて、一晩、この洞窟に幽閉されたといいます。人、ひとりが立ってもいられないほど狭い洞窟で、さぞかし窮屈だったことでしょう。

 熱烈な信徒の皆様から怒られるかもしれませんが、ここで歴史上に実在した人間日蓮に出会えたような気がしました。今回は、随分、中身が濃いお参りができました。

 帰りは、生まれて初めて、龍口寺から程近い湘南江ノ島駅から湘南モノレールに乗って大船駅まで行って、帰宅しました。江ノ電は混んでいましたが、湘南モノレールは空いていてゆったり座れました。

 心配事ばかり多い毎日でしたが、お参りすることで、ほんの少しだけ心が和らぐことができました。

 合掌

 南無妙法蓮華経

【追記】2023・2・1

 比企能本が創建した妙本寺。ここは、あの中原中也が海棠の咲く花を見ながら、小林秀雄に「ボーヨー、ボーヨー」と溜息をついたお寺でした。小林秀雄が「どういうこと?」と聞くと、中也が「前途茫洋」と応えた、あの有名寺院だったとは!