日美と幻冬舎

存在が意識を規定する

昨日は、関西広域を活動拠点にされている京洛先生から、「政界の黒幕」と言われた大谷貴義(1905〜91)のことをご教授受けました。

そこで、私なりに調べてみますと、驚くべき事実が判明しました。

大谷氏は、昭和の初期から活動されていて、政財界を始め裏社会の方々にも精通されていたようです。ざっと見ただけでも、元首相の田中角栄、昭和の最大のフィクサー児玉誉士夫、国際興業の小佐野賢治、山口組三代目田岡一雄組長、東声会の町井久之会長らロッキード事件などでも登場した錚々たる歴史的人物です。

しかも、作家吉川英治夫妻と福田赳夫夫妻を媒酌人に長女享子(1957年度ミスユニバース日本代表)が裏千家宗家の三男巳津彦と結婚したため、茶道界にも縁戚があります。

政財界だけでなく、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川、メリー喜多川きょうだいを駆け出しの頃にお世話をしたことがあるらしく、芸能界にも通じることになります。

「日本の宝石王」と呼ばれた大谷氏は1956年6月に日本美術宝飾倶楽部を設立し、62年に社名を日美と変更して、宝飾卸業から不動産業、清掃業に至るまで、幅広く多角経営に乗り出します。

今は東京は西新橋に本社を構えているようですが、日美の公式ホームページを見て驚きましたね。あのプリンスホテルの清掃業を請け負っているだけでなく、意外にも出版界の風雲児見城徹社長が率いる幻冬舎ビルの清掃業まで請け負っているのです。

日美は現在、大谷貴義の三代目の方が継いでおられるようですが、幻冬舎とも接点があるとは、凄い偶然ですね。

(歴史的人物ら一部敬称略)

安藤昇という人とその時代

東京・銀座 みゆき通りと並木通り交差点(1949年3月頃、安藤昇が封切洋画「哀愁」を見に出掛けた際〔恐らく銀座「並木座」だったのではないか?〕、台湾人の蔡とすれ違い口論となり、蔡によって、ジャックナイフで左?を切られ、新橋・十仁病院で30針を縫う大怪我を負った現場の現在)

名古屋にお住まいの海老普羅江先生からのお勧めで、大下英治著「激闘! 闇の帝王安藤昇」(さくら舎)を読了しました。講釈師、見てきたような…で、どこまでフィクションで、どこまでがノンフィクションか分かりませんでしたが、戦後闇市から昭和30年代にかけて、生命を賭けて、東京・渋谷のシマを守りきった当時愚連隊と呼ばれた若者たちの生態が解剖学のようにピンセットで分け入ったような描写で、生き生きと活写されておりました。

銀座・天国
この本のハイライトは、1958年の横井英樹銃撃事件でしょう。(現場は、東京・銀座8丁目の天麩羅「天国」裏手の第2千成ビル「東洋郵船」、実行犯は、千葉一弘後の住吉会相談役)この事件のお陰で、安藤昇は前橋刑務所に収監され、その間に、「東興業」、いわゆる安藤組の社長代行を務めていた花形敬が東声会により刺殺されます。花形敬は、力道山より強かったと言われるほど伝説の武闘派で、ジャーナリストの本田靖春が「疵」というタイトルで評伝を書いた人物です。

銀座8丁目10番ビル

その後、安藤組は、渋谷の縄張り争いで、錦政会(後の稲川会)三本杉一家と対立し、安藤組大幹部の西原健吾が東京・外苑前のレストラン外苑で、三本杉一家の中原隆によって、銃殺されます。この二つの事件がきっかけで、安藤昇は組の解散を決意し、昭和39年(1964年)12月9日、渋谷区千駄ヶ谷の区民会館で解散式を行うのです。

安藤昇はこの時、まだ38歳。この翌年、映画俳優に華麗なる転身を遂げるわけです。

東京・銀座 みゆき通りと並木通り交差点

私は、映画俳優の安藤昇しか知りませんでしたので、この本では色々と教えられました。以下、引用しますとー。

●安藤家は、小田原の北条早雲の侍大将安藤式部の末裔と言われ、安藤昇は大正15年5月24日、東京新宿の東大久保天神下生まれ。父親の栄次郎は早稲田大学商学部を出て、古河財閥のゴム会社に入社以来、実直な勤め人だった。

●安藤昇が、横井英樹襲撃事件の後、逃走している間、匿っていた人の一人が、当時、東映ニューフェイスとして売り出し中の女優山口洋子。後に銀座のクラブ「姫」のママとして名を馳せ、同時に、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」、中条きよしの「うそ」などの作詞を手掛け、昭和60年に「老梅」「演歌の虫」で直木賞を受賞した。2014年、77歳で死去。

⚫︎女性にもてた安藤昇は、8回結婚し、7回離婚した。

●安藤組の大幹部志賀日出也(解散後、住吉会幹部)の父親は、戦後最大の高利貸しと謳われた森脇将光(石川達三「金環蝕」の中でもモデルとして登場。映画化の際、宇野重吉が演じた。これは必見!)の番頭をしていた。志賀の妻細木弘恵は、渋谷円山町のバー「娘茶屋」のママ細木ミツの長女。四女が六星占術で有名な細木数子氏。彼女は、新宿をシマにする小金井一家堀尾昌志総長の姐御として知られた。

●安藤昇は2015年12月16日に肺炎のため死去、享年89。16年2月28日に青山葬儀所で「お別れの会」が営まれ、発起人は、佐藤純彌、降旗康男、中島貞夫、梅宮辰夫、村上弘明、吉田達、三田佳子、岩城滉一、堀田真三、梶間俊一の各氏。

以上、歴史上の人物などについては、本文に沿って敬称略としました。

安藤昇は、海軍予科練に入り、特攻隊の一人に選ばれましたが、終戦で事無きを得ます。終戦後の米軍占領下の大混乱の時期に、国家も警察も機能せず、暴力装置に頼らなければ、生き抜けなかった時代背景がありました。

安藤組は、薬物売買や刺青を禁止したりして、他の暴力団とは一線を画す方針を取りました。

それでも安藤組解散後、多くの組員は既成組織に入り、幹部の一人三本菅啓二氏は、稲川会系の「大行社」の2代目会長となります。大行社は、住吉会系の「日本青年社」と並ぶ日本の右翼団体です。15年に山口組の分裂の余波で、三本菅会長が交代したらしいですが、この本にはそこまで触れられておりませんでした。

大下英治著の「激闘!闇の帝王 安藤昇」

  1. ある日の銀座コリドー街

    いつも、そそっかしい名古屋にお住まいの六代目海老不羅江先生から、急にこんな飛脚便を送って来られました。

    …大下英治著の「激闘!闇の帝王 安藤昇」(さくら舎刊、1600円)を読みだしましたが、これが「講釈師、見て来たような嘘をつき」と言いますか、ついつい引き込まれまれてしまいました。…

    何でしょうか、と、突然?

    …帝都は銀座8丁目にある老舗天麩羅店「天国」裏の第2千成ビルに事務所を構えていたのが、あの白木屋乗っ取り事件やホテル・ニュージャパンのオーナーとして名を馳せた、”ケチ”で”悪党”の横井英樹です。その横井を安藤昇が襲撃する一コマ。渋谷の青山学院大学の前にあった「網野皮革店ビル」に安藤組の事務所があったこと。次から次に有名人との逸話が出てきて、恐らく、貴人は、涎、垂れ垂れで読まれることでしょうね。…

    何で、あ、あたしが…?

    …残念ながら、同書は、公立図書館のような気品の高い所では閲覧不能、蔵書されない珍本ですから、1600円出して買うしかありませんね。網野善彦先生の難しい歴史本や、古典、さらには理屈ばかりこねる人士には、理解不能な書物でしょう。堂々と銀座のど真ん中にある本屋さんで買われることですね。屹度、読むのに熱中して、スマホ歩きの若いアンちゃんと衝突しますよ。銀座のホステスで、作詞家、作家としても名を残した山口洋子ママも、安藤昇の間夫だとは、この本で初めて知りました。キックボクシングの野口さんとしか知らなかったですからね。…

    と、急にこんな飛脚便が届けられれば、その「逸話」とやらが私も気になり、読んでみたくなりますね(笑)。

    安藤昇は、当時としては大学を出た(中退ですが)インテリの渡世人として、渋谷を拠点に一時は500人もの子分を抱えて羽振りをきかせていました。その後、役者に転向して、俳優として成功したので、知る人ぞ知る有名人です。

    しかし、何で今頃、安藤昇の本が出版されるのか、不思議だったのですが、昨年末に亡くなっていたんですね。私は、昨年は旅行で黄泉の国に行っていましたので、昨年一年間に起きた世の中の出来事を知りませんでした。

    安藤昇は、小生の父と同じ大正15年生まれでした。安藤昇は、いわゆる特攻隊崩れだそうですが、私の父も10代で帝国陸軍の一兵卒として志願して日本のために戦いました。いわゆる一つのポツダム伍長です。

    父が戦死していたら、私もこの世に生まれなかったのだなあ、と感慨深くなってしまいました。

田中森一著「反転」

  奈良にて

公開日時: 2007年7月24日

 元敏腕検事で、弁護士に転じてからは闇社会の人間に通じて悪名を轟かせた田中森一氏の書いた「反転 闇社会の守護神と呼ばれて」(幻冬舎)には、圧倒されました。幻冬舎らしく、新聞で恥ずかしくなるくらい派手な広告を打っていたので、ちょっと、引いてしまったのですが、読んでよかったです。

 その内容は、あまりにも凄まじくて、脳天にハンマーを降ろされたような衝撃を受けました。これから、裁判員制度が始まることですし、国民の一人として、この本を読むことには意義があると思います。

 私は、この本を読んだ後の感想は、鉱脈を探り当てたような感じでした。「やったあー」という感じです。

第一、「ここまで書いても大丈夫なのだろうか」と、心配になりました。 もっとも、田中氏自身は、石橋産業事件をめぐる詐欺容疑で東京地検に逮捕、起訴されて、現在最高裁に上告中の身なのです。つまり、被告人なわけです。この本では、自分の無実と潔白を主張する弁明が盛り込まれていますので、全面的に信用できないかもしれません。しかし、ここまで裏も表も洗いざらい、自分の非も含めて、白日の下にさらした自叙伝というのはこれまでなかったのではないでしょうか。

 彼に貼られたレッテルは「ヤメ検の悪徳弁護士」でした。何しろ、彼が関わった「黒い人脈」も、暴力団山口組5代目組長の渡辺芳則氏、同若頭の宅見勝氏をはじめ、イトマン事件で主役を張った伊藤寿永光、許永中の両氏、仕手筋「コスモポリタン」総帥の池田保次氏…といった裏社会の大物ばかりなのです。また、彼は自民党清和会(現町村派)の顧問弁護士も務め、現総理の父親である安倍晋太郎氏や竹下登氏ら政界の重鎮と深いつながりを持ったのです。安倍氏は、いろんな所から接待を受けたり、「五えんやグループ」の総帥、中岡信栄氏が定宿にしていた東京のホテル・オークラのスイートルームで、牛乳風呂に入ることが大好きだったことなども暴露されています。

 田中氏は戦時中に、長崎県平戸の貧しい漁村の長男として生まれました。8人きょうだいの4番目です。上の三人は姉で、最初の男の子ということで、父親は漁業の跡継ぎとして大いに期待します。もちろん、「猟師に学問なんかいらない」という考えの持ち主です。一度、田中氏は中学生の時に、出版社をだまくらかして参考書を手に入れます。お金が全くない極貧の家庭に育ったので、「平戸の中学教師ですが、参考のために一冊見本を送ってください」と東京の出版社に手紙を書いて、うまく手に入れたのです。しかし、その参考書も父親に見つかって、便所に捨てられてしまうのです。

 それでも、母親の後押しもあり、苦学して定時制高校から岡山大学に進学し、在学中に司法試験に一発で合格します。見事、検事となり、撚糸工連事件や平和相互銀行事件、三菱重工CB事件などを手掛けて、敏腕検事の名をほしいままにした後、弁護士に転進します。時はあたかもバブル全盛の時代に入り、1カ月に1千万円以上の顧問料を得て、7億円でヘリコプターまで購入し、「空飛ぶ弁護士」と、やっかみ半分で渾名されます。怪しげなバブル紳士と付き合い、個人的な株取引で40億円もの巨万の富を手にし、東京の銀座や大阪キタの新地などで桁違いの豪遊をする一方、バブル崩壊でほぼ同額の財産を無くしてしまうのです。

 その間、暴力団関係者の弁護で名をあげて評判を呼び、挙句の果ては、古巣の検察からにらまれ、田中氏からみれば、根も葉もない詐欺の容疑をでっち上げられて、逮捕されてしまうのです

 自分の潔白を信じていた田中氏は、かつて被疑者から恐れられていた鬼検事の面影はどこにもなく、子供のように泣きじゃくり、中村天風の自己啓発の著書に、まるで神や仏にすがるようにのめりこんでいったことを、赤裸々に告白しているのです。思わず同情してしまいました。

 しかし、この本のハイライトは、何と言っても彼自身が検事として、また弁護士として、実際にかかわった事件の経緯と背景が実名入りで詳述されていることでしょう。イトマン事件、光進事件、リクルート事件など戦後の重大経済事件の裏事情まで踏み込んで暴かれています。当人しか知らないことなので当たり前かもしれませんが、読んでいて、私は何度も何度も唖然としましたね。「こんなこと書いてしまって、大丈夫なんだろうか?」

(つづく)

アンダーグラウンドの話 住吉会

その筋というか、アンダーグラウンドの世界が今、喧しいね。

2月5日に指定暴力団住吉会小林会系の杉浦良一幹部が白昼に射殺されたのをきっかけに、都内で発砲事件が相次ぎ、ついには、15日、山口組系国粋会の工藤和義会長が自殺するまで混乱が続いています。

マスコミ情報を総合しますと、国粋会は大正8年に原敬首相(当時)らの肝いりで結成された「大日本國粋会」が源流。関東博徒の老舗組織で、渋谷、六本木、新橋、銀座などを縄張りにしています。昭和30年代に関西の山口組の関東進出に歯止めをかけるための共同戦線「関東二十日会」に参加しましたが、2005年9月に、国粋会の工藤会長が山口組の六代目司忍会長と兄弟盃をかわし、国粋会は二十日会を脱会し、山口組の傘下に入ってしまうのです。

住吉会小林会は、国粋会から六本木の縄張りを借り受けて、ショバ代を納めていましたが、その慣習もあいまいになり、ついに国粋会を傘下に収めた山口組との軋轢が表面化したと言われます。

先頃、発売された『東京アンダーナイト』(廣済堂出版)の著者は、「東洋一のクラブ」と称された赤坂の「ニューラテンクォーター」の元社長山本信太郎氏ですが、それによると、昭和38年12月に同クラブで起きたプロレスの力道山刺殺事件は、計画的なものではなく、「偶然のバッティング」であったことが明らかにされています。(興味のある方は本書を読んでください)

加害者は、住吉連合小林会の村田勝志組員(現住吉会副会長補佐)。ニューラテンクォーターが、赤坂を縄張りにしていた小林会の小林楠扶会長に顧問を依頼していたので、用心棒として同クラブに出入りしていたようです。在日朝鮮人だった力道山の背後には東声会があったといわれ、東声会の町井久之会長(本名鄭建永)は山口組三代目田岡一雄組長を後楯にしていたことから、当時は、両組織の抗争事件のように推測されていましたが、事実は、全くの偶然だったというのです。

東声会は、力道山事件の一ヶ月前の昭和38年11月に、当時、政界の黒幕と言われていた田中清弦暗殺未遂事件を起こします。「田中が、三代目を利用して関東ヤクザを攪乱しようとしている」という風評がたったためと言われます。関東ー関西の抗争は今に始まったわけではないのです。

今の現象だけを見ても、なかなか事件背景は見えてきませんが、こうして20年、30年、いや50年、100年の歴史的スパンで見ていくと、その真相が見えてきます。

今回の国粋会の会長は内部抗争で悩んでいたと言われ、彼の自殺で、再び、何か火種が勃発しそうです。