お笑いロバート秋山竜次さんも関係していた満洲物語

哈爾濱学院跡

満洲(現中国東北地方)と聞くと、どうも気になります。

縁も所縁もないわけではなく、個人的にはただ一つ、唐津の伯父(母親の実兄)が、一兵卒として赤紙で徴兵された所でした。

伯父は、行き先も目的も告げられることなく、何処とも分からない所に連れて行かれた場所は、中国大陸の戦場。弾丸が飛び交う中、奇跡的に命を保ったものの、戦後はシベリアに抑留され、終戦後1年か2年経ってからやっと日本に帰国できたという話を聞いたことがあります。

私が子どもの頃に、伯父が自宅に遊びに来た時に聞いただけなので、詳しいことは聞いていません。シベリアに抑留されたということは、戦場は、ソ連軍が侵攻した満洲だったのでは、と想像するだけです。近現代史に興味を持ち、もっと詳しく話を聞くべきだと思った時は、既に亡くなっていて、後の祭りでした。

伯父は歌が好きで、うまかったので、「東京行進曲」などを歌って抑留された戦友たちを慰めていたといった話だけは聞いたことがあります。

◇戦後活躍した満洲関係者

その程度の私と満洲との御縁なのですが、戦後活躍した人たちの中で、結構、満洲にいた人が多かったことが後々になって分かります。

赤塚不二夫、ちばてつや、森田拳次といった漫画家、アナウンサーから俳優に転身した森繁久弥、甘粕正彦理事長の満映から東映に移った内田吐夢監督や李香蘭ら映画人、指揮者の小澤征爾(奉天生まれ。父開作は協和会創設者)、安倍首相の祖父岸信介、東条英機らニキサンスケ、このほか、哈爾濱生まれの加藤登紀子、タレントの松島トモ子も奉天生まれ…いや、もうキリがないのでやめておきますが、皆様も御存知の松岡さんのご尊父松岡二十世や哈爾濱学院出身のロシア文学者内村剛介も忘れずに付け加えておきます。

有名人でこれだけ沢山いるわけですから、満蒙開拓団などで満洲に渡り、ソ連侵攻で亡くなった無名の人々は数知れずということになります。

満洲関係者については、ある程度、知っているつもりでしたが、最近になって知った人も出てきました。

◇「スターリン死去」をスクープした人

ノンフィクション作家野村進氏のご尊父さんです。この方、通信社の記者として1953年の「スターリン死去」をスクープした人でした。東京外国語大学の学生時代に学徒動員で満洲に渡り、ソ連軍の侵攻でシベリア抑留。なまじっかロシア語ができたことからスパイと疑われ、4年半も抑留され、凄惨な拷問に遭っていたことを、野村氏が10月29日付日経夕刊のコラムに書いておられました。

◇満洲第3世代

もう1人は、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さん。10月29日にNHKで放送された番組「ファミリーヒストリー」で初めて明かされたところによりますと、この方は「満洲第3世代」で、父方の祖父秋山松次さんが、北九州門司で、ある事件があったことがきっかけで妻と長女を連れて満洲に渡っていました。

炭鉱で働き、50人も雇うほど羽振りの良い生活でしたが、松次さんは昭和19年に突然、帰国することを決意します。その理由がソ連が満州に侵攻することを予測したからだというのです。松次さんがどういう情報網を持っていたのか分かりませんが、凄い機転と言いますか、カンが働く人だったんですね。残っていたら、ほぼ間違いなく、戦死か抑留死した可能性が高く、そうなっていたら、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さんもこの世に存在しなかったわけですから。(母方の祖父は台湾に関係していたり、父親が若い頃、東映の大部屋俳優で梅宮辰夫と「共演」したことがあったり、不思議な縁がつながっていて、大変面白い番組でした)

哈爾濱学院 余話

哈爾濱学院の跡(1991年8月) Copyright par Heizo Asada, président de Keigadô publication

昨日、「関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関」のタイトルで駄文を書きましたが、日曜日だというのに実に3時間も掛かり、「あにやってんだか」と貴重な時間を無駄にしたような気分になりました。

ところが、嬉しいことにこの記事を読んでくださった皆様からしっかり反響があり、私もすっかり上機嫌になってしまいました(笑)。

お一人は、哈爾濱学院同窓会の事務局長の宮さんからです。哈爾濱学院卒業生で恵雅堂出版会長の麻田平蔵氏が撮影した写真まで添付してくださいました。

この写真は、1991年8月撮影となっておりますから、まだ藍天幼稚園になる前の当時の面影を辛うじて残していた最後の頃でしょう。

日本の国家がロシア語の精鋭を養成するために建てた学院だけあって、建物も威風堂々として立派ですね。

私は、4年前ほどに一度、旧満洲旅行した際にこの哈爾濱学院跡を訪れております。鬼才栗原先生、たまたま偶然お会いした日経編集委員の内田氏も一緒でした。

昨日の記事で、松岡氏からお借りした写真を掲載しましたように、学院の跡は藍天幼稚園になっていて、ディズニーランドのような校門で締め切りになって中に入れず、写真を撮るのに大変苦労したことを覚えております。

哈爾濱学院の跡(1991年8月) Copyright par Heizo Asada, président de Keigadô publication

で、最新情報なのですが、この藍天幼稚園は今はもうないそうですね。昨日の宮さんからのメールで初めて知りました。以下は宮さんからのメールの引用です。

…学院のピンクの校舎は本当に残念ですが、藍天幼稚園は2年くらい前に火災が有り、今は使われていないようです。幼稚園は他の場所に移動したそうです。建物は空軍の管理下に有るはずです。…

へー!そうだったのですか!

昨日は哈爾濱学院卒業生の竹中重寿(故人)が、ハルビン特務機関員として李香蘭を尾行していたことを書きましたが、彼にまつわる情報も宮さんは添えてくれました。

…哈爾濱学院20期 卒業生98名のうち、特務機関に関係したのが23名(ハイラル、大連、奉天、東安、三河、哈爾濱)。そのうち、竹中重寿と同じ哈爾濱特務機関だけで12名が関係しています。
特務機関に関係した人たちの中には、詳しいことを家族にも話さず亡くなった方が多いです。特に特修科、専攻科の人たちについては謎ばかりです。…

そりゃそうでしょう。諜報機関の人間が、名前を知られただけでも大問題どころか、失格ですからね。名簿があること自体、奇跡でしょう。

さて、もう一人。皆様ご存知のガルーダ博士こと山本悦夫氏からも今朝、メールがありました。

何と!李香蘭こと山口淑子は山本氏の親戚筋(母親の又従姉妹)に当たり、福岡県大川市の出身のようだというのです。手書きの家系図もスキャンして送って頂きました。

これにも驚きましたね。でも、山本さんの二人のお嬢様は、李香蘭に似て美人だった理由がこれで分かりましたよ。

【追記】

哈爾濱学院が何故、藍天幼稚園になり、その幼稚園が火災のため移転して、現在、空軍の管理下に置かれているのかさっぱり分からなかったのですが、先ほど、松岡氏からメールを頂き、その理由が分かりました。「藍天幼稚園は、確か空軍将校の子女が通う幼稚園だったと聞いてます」と仰るのです。これで平仄が合いますね。やっと謎が解けました。

中国共産党もエリート養成校(しかも早熟幼児教育)として使用していたことになります。恐らく特別教育が施されていたことでしょう。哈爾濱学院の関係者の方々も、建物をピンク色に塗り替えた中国当局の神経は理解できなくても、一応過去の伝統を踏襲してくれていたことは理解できるかもしれませんね。

関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関

哈爾濱学院

二年前に大病したため、ご無沙汰してしまった近現代史研究会のセミナーにやっと復活参加することができるようになりました。かつては色んなセミナーに毎週のように参加していたのですが、これからは月に1回は何処かに顔を出していこうかと思っています。

昨日参加したのは、東京・高田馬場の早稲田大学で開催されたNPO法人インテリジェンス研究所主催の第20回諜報研究会。この会は、3年ほど前の第1回に参加しましたから本当に久し振りです。今回の特集は「満洲のインテリジェンス研究」。インテリジェンスなんて気取った言い方をしてますけど、要するにスパイ活動、諜報活動、宣撫活動と言った方が早いですね(笑)。

最初の立教大学の川崎賢子特任教授の「李香蘭をめぐるインテリジェンス人脈」は、李香蘭=山口淑子(1920〜2014)が、主体的に諜報活動に携わっていたのではないか、という疑惑を報告していました。

李香蘭の実父山口文雄は佐賀県出身で、満鉄で中国語を教えていたらしいですが、この人物についてはあまりよく分かっていない。軍閥で銀行家で回族の李際春と出会って、娘の淑子を李の義理の娘分とし、李香蘭の名前を得るらしいのですが、李際春と山口文雄がどうして知り合ったのかもよく分かっていないらしいですね。

今の哈爾濱学院⇨藍天幼稚園 Copyright par Duc de Matsuoka Sousoumu

ところで、今、「満洲今昔物語」の製作に日々情熱を傾けている作家の松岡將氏から、旧満洲のハルビン市に国家戦略としてロシア語に精通した人材を輩出するためにつくられた哈爾濱学院の今と昔の写真をちょうど昨日、送って頂きました。

昨日の川崎教授の話の中で、李香蘭が主演した、甘粕正彦の満洲映画作品「私の鶯」(大佛次郎原作、岩崎昶製作、島津保次郎監督・脚本、服部良一音楽、ハルビン・サヤービン歌劇団、ハルビン・トムスキー劇団などが参加)を1943年にハルビンでロケをしている際に、竹中重寿という男が、トムスキー劇団員になりすましたスパイと一緒に、主役のバリトン歌手サヤービンと李香蘭の尾行を担当していたことを、何かの本(出典不明)を引用して明らかにしていました。

この竹中重寿は、この哈爾濱学院出身で、ロシア語の才能を見込まれて関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関に徴用され、「謀略班」に配属され、上司山下高級参謀(中佐)の命令で李香蘭担当になったらしいですね。

このことを哈爾濱学院同窓会の事務局を担当している宮さんにお伝えすると、名簿の中で「 【竹中重寿】  哈爾濱特務機関(関特演時)(終戦時) 20期 平成4年4月9日死亡(73歳)  昭和31年まで中国に抑留 元岐阜大学教授」とまでは確認できましたが、李香蘭との関係まで把握されていなかったそうです。

宮さんからは 「貴重な情報」と喜ばれましたが、昨日は「諜報研究会⇨松岡さん⇨宮さん」と不思議な縁で繋がっていましたね(笑)。

藍天幼稚園(戦前戦中の日本の国家がロシア語の最高権威を輩出するためにつくった最高学府を、選りに選って、中国共産党は、幼稚園に使っているとは…)Copyright par Duc de Matsuoka Sousoumu

昨日の諜報研究会では、東大大学院の留学生王楽さんの「満洲国農村部における宣撫宣伝活動ーメディア利用実践を中心に」という報告がありましたが、長くなるので残念ながら省略します。

最後は、大御所の山本武利・インテリジェンス研究所理事長の「関東軍情報部と陸軍中野学校」では、国立公文書館つくば分館が所蔵する引揚援護局作成の「関東軍情報部50音人名簿」3113人を分析し、伍長から少将まで110人の人物を特定し、戦争末期に関東軍に所属した中野学校出身者は120人だったことから、中野学校出身者の90%が情報部に所属していたことを突き止めておりました。

何しろ話はハイブロー過ぎて、恐らく、かなりの予備知識がない人でないと、セミナーにはついていけなかったと思います。

私は一人、秋草俊の話に注目しました。この日乗でも2017年2月6日に「日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」のタイトルで、この秋草については、少し書いておりますから、ご参照ください。(下欄の「関連」に出てきます)

この本では、秋草は、731部隊の石井四郎から「一緒に帰国しましょう」との誘いを「自分には責任がある」と言って断って残り、シベリアに流刑され、1949年3月に「獄死」したことになっていましたが、山本理事長が発掘した名簿の中には、秋草俊の欄に「50・4・8 16地区受刑」とあり、山本理事長の解説では「これは、1950年4月8日に16地区で処刑されたことを意味するのではないか」と推測しておりました。やはり、ソ連軍の手により殺害された可能性があるんですね。

さて、これらの名簿は一体何なのか、疑問に思っていたところ、会場にいた加藤哲郎一橋大学名誉教授が「名簿は、陸軍留守業務部が1945年8月につくったもので、給与支払い、もしくは軍人恩給支払いのためではないか。恩給なら、最終階級などが必要ですからね」と解説してくれて納得しました。

加藤名誉教授は最近、「『飽食した悪魔』の戦後  七三一部隊と二木秀雄『政界ジープ』」(花伝社)を上梓しましたが、石井細菌部隊の名簿に関しては、厚生労働省に対して情報公開を散々請求して昨年の夏にやっと公開されたそうです。これまで、石井細菌部隊の関係者は300人しか分かっていなかったのに、この名簿公開で3500人も出てきたそうです。以前は関係者に女性はいないと思われていたのに、「通訳や看護師などで400人もの女性が出てきたことには驚いた」と加藤名誉教授は話していました。

私自身は、大変興味深く、面白かったのですが、ちょっと、マニアック過ぎる話だったかもしれませんね(笑)。