関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関

哈爾濱学院

二年前に大病したため、ご無沙汰してしまった近現代史研究会のセミナーにやっと復活参加することができるようになりました。かつては色んなセミナーに毎週のように参加していたのですが、これからは月に1回は何処かに顔を出していこうかと思っています。

昨日参加したのは、東京・高田馬場の早稲田大学で開催されたNPO法人インテリジェンス研究所主催の第20回諜報研究会。この会は、3年ほど前の第1回に参加しましたから本当に久し振りです。今回の特集は「満洲のインテリジェンス研究」。インテリジェンスなんて気取った言い方をしてますけど、要するにスパイ活動、諜報活動、宣撫活動と言った方が早いですね(笑)。

最初の立教大学の川崎賢子特任教授の「李香蘭をめぐるインテリジェンス人脈」は、李香蘭=山口淑子(1920〜2014)が、主体的に諜報活動に携わっていたのではないか、という疑惑を報告していました。

李香蘭の実父山口文雄は佐賀県出身で、満鉄で中国語を教えていたらしいですが、この人物についてはあまりよく分かっていない。軍閥で銀行家で回族の李際春と出会って、娘の淑子を李の義理の娘分とし、李香蘭の名前を得るらしいのですが、李際春と山口文雄がどうして知り合ったのかもよく分かっていないらしいですね。

今の哈爾濱学院⇨藍天幼稚園 Copyright par Duc de Matsuoka Sousoumu

ところで、今、「満洲今昔物語」の製作に日々情熱を傾けている作家の松岡將氏から、旧満洲のハルビン市に国家戦略としてロシア語に精通した人材を輩出するためにつくられた哈爾濱学院の今と昔の写真をちょうど昨日、送って頂きました。

昨日の川崎教授の話の中で、李香蘭が主演した、甘粕正彦の満洲映画作品「私の鶯」(大佛次郎原作、岩崎昶製作、島津保次郎監督・脚本、服部良一音楽、ハルビン・サヤービン歌劇団、ハルビン・トムスキー劇団などが参加)を1943年にハルビンでロケをしている際に、竹中重寿という男が、トムスキー劇団員になりすましたスパイと一緒に、主役のバリトン歌手サヤービンと李香蘭の尾行を担当していたことを、何かの本(出典不明)を引用して明らかにしていました。

この竹中重寿は、この哈爾濱学院出身で、ロシア語の才能を見込まれて関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関に徴用され、「謀略班」に配属され、上司山下高級参謀(中佐)の命令で李香蘭担当になったらしいですね。

このことを哈爾濱学院同窓会の事務局を担当している宮さんにお伝えすると、名簿の中で「 【竹中重寿】  哈爾濱特務機関(関特演時)(終戦時) 20期 平成4年4月9日死亡(73歳)  昭和31年まで中国に抑留 元岐阜大学教授」とまでは確認できましたが、李香蘭との関係まで把握されていなかったそうです。

宮さんからは 「貴重な情報」と喜ばれましたが、昨日は「諜報研究会⇨松岡さん⇨宮さん」と不思議な縁で繋がっていましたね(笑)。

藍天幼稚園(戦前戦中の日本の国家がロシア語の最高権威を輩出するためにつくった最高学府を、選りに選って、中国共産党は、幼稚園に使っているとは…)Copyright par Duc de Matsuoka Sousoumu

昨日の諜報研究会では、東大大学院の留学生王楽さんの「満洲国農村部における宣撫宣伝活動ーメディア利用実践を中心に」という報告がありましたが、長くなるので残念ながら省略します。

最後は、大御所の山本武利・インテリジェンス研究所理事長の「関東軍情報部と陸軍中野学校」では、国立公文書館つくば分館が所蔵する引揚援護局作成の「関東軍情報部50音人名簿」3113人を分析し、伍長から少将まで110人の人物を特定し、戦争末期に関東軍に所属した中野学校出身者は120人だったことから、中野学校出身者の90%が情報部に所属していたことを突き止めておりました。

何しろ話はハイブロー過ぎて、恐らく、かなりの予備知識がない人でないと、セミナーにはついていけなかったと思います。

私は一人、秋草俊の話に注目しました。この日乗でも2017年2月6日に「日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」のタイトルで、この秋草については、少し書いておりますから、ご参照ください。(下欄の「関連」に出てきます)

この本では、秋草は、731部隊の石井四郎から「一緒に帰国しましょう」との誘いを「自分には責任がある」と言って断って残り、シベリアに流刑され、1949年3月に「獄死」したことになっていましたが、山本理事長が発掘した名簿の中には、秋草俊の欄に「50・4・8 16地区受刑」とあり、山本理事長の解説では「これは、1950年4月8日に16地区で処刑されたことを意味するのではないか」と推測しておりました。やはり、ソ連軍の手により殺害された可能性があるんですね。

さて、これらの名簿は一体何なのか、疑問に思っていたところ、会場にいた加藤哲郎一橋大学名誉教授が「名簿は、陸軍留守業務部が1945年8月につくったもので、給与支払い、もしくは軍人恩給支払いのためではないか。恩給なら、最終階級などが必要ですからね」と解説してくれて納得しました。

加藤名誉教授は最近、「『飽食した悪魔』の戦後  七三一部隊と二木秀雄『政界ジープ』」(花伝社)を上梓しましたが、石井細菌部隊の名簿に関しては、厚生労働省に対して情報公開を散々請求して昨年の夏にやっと公開されたそうです。これまで、石井細菌部隊の関係者は300人しか分かっていなかったのに、この名簿公開で3500人も出てきたそうです。以前は関係者に女性はいないと思われていたのに、「通訳や看護師などで400人もの女性が出てきたことには驚いた」と加藤名誉教授は話していました。

私自身は、大変興味深く、面白かったのですが、ちょっと、マニアック過ぎる話だったかもしれませんね(笑)。

“関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関” への3件の返信

  1. 93歳ですが、終戦時のこと、鮮明に記憶しています、三浦様、何らかの情報があるかもしれません。

  2. 2017年10月1日の関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関を拝読いたしました。
    私の叔母は軍属として、ハルビン特務機関情報部教育隊に所属していたようです。ハルビン特務機関長は、土居明夫特務機関長(秋草特務機関長の前任)でした。叔母は、21歳でハルビンで殉職したのだと思っています。(勲八等瑞宝章の叙勲となっていたので殉職と思いました。)
    死亡年月日は、昭和19年9月20日、身分は陸軍軍属(雇員)です。
    叔母の名前は、阿保 信子(あぼ のぶこ)で、私は甥の、三浦(旧姓 阿保) 宣秀(みうら たかよし)てす。父は満鉄に勤めていて、終戦で中国での強制労働後、復員してます。叔母は、私の父の影響で満洲にいき、ハルビン特務機関に採用されています。
    ハルビンでの葬儀には、陸軍大臣、教育総監、参謀総長、関東軍司令官、ハルビン特務機関長の立札があります。(当時の葬儀写真あります。)
    推測では、教育総監の立札から、情報部教育隊(471部隊)に所属し、日ソ開戦にそなえての諜報活動、宣撫活動において、殉職したのではと思っています。 通知された、死亡状況は戦病死、死亡場所はハルビン第1陸軍病院と記載。)
    当時の状況を詳しく知りたいと思って、あらゆる方面に問い合わせいたしましたが不明とのことでした。
    なにかヒントになることは、ありませんでしょうか。
    よろしくお願いいたします。

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