船着場は古代、「戸」と呼ばれていた=吉見俊哉著「敗者としての東京」

 待ちに待った吉見俊哉著「敗者としての東京」(筑摩選書、2023年2月15日初版)を読んでいます。「待ちに待った」というのはどういう意味なのかお分かりですよね?(笑)2週間以内に返却しないといけないので、目下半分ほど読み進んでいたオーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)は休止しております。そんなこと、いちいちお断りする必要はないかもしれませんが(笑)。

 I read promiscuously.

 「敗者としての東京」は実に面白い、と太鼓判を押しておきます。これでも、東京~江戸に関する地層(武蔵野台地など)に関して、ある程度知っているつもりでしたが、本書で初めて知る事も沢山ありました。もっとも、この本は、かなり先行研究からの引用が多く、また、私が以前読んだ文献とは異にする見解を取り入れたりしていますが、大変読み応えがあります。

 以下は私が知らなかったことを列挙していきます。

東銀座「宝珠稲荷神社」

 ・古代、朝鮮半島からの渡来人たちは東京湾内にも入って来た。船を停めるのに適した場所は船着場から湊となり、それらは一般に「戸」と呼ばれた。実際東京湾岸から利根川にかけて、松戸青砥(かつては青戸)、花川戸(浅草)などがあるが、渡来人が湊として利用していたと考えられる。また、今の杉並区の高井戸や清瀬市の清戸なども川の船着場だったと考えられる。

 ・最初に渡来人が関東進出の拠点としたのは、浅草の浅草寺で、浅草観音は628年創建と伝わる。このほか、多摩川流域の狛江の狛は「高麗」と推測され、埼玉県新座市は「新羅」から由来すると言われる。

 ・埼玉県高麗郡(日高市、飯能市、鶴ヶ島市の全域と、狭山市、川越市、入間市、毛呂山町の一部)は高麗神社高麗川などがある。戦乱を逃れて渡来した高句麗人が716年に武蔵国に集められて出来た。(この項は、この本には書かれていません)

 ・荒川の「荒」は、古代朝鮮半島の東南部にあった「安羅(あら)国」の安羅に由来するという説もある。

銀座「マトリキッチン」

 ・鎌倉時代、江戸前島(今の東京日本橋から銀座辺りの島)に開かれた港は江戸湊と言われ、浅草とともに交易の中継地として栄えていた。西国から様々な商品が運び込まれ、利根川上流で採掘された鉱物資源や飼育された馬が江戸湊から西国に売られていった。この要衝を秩父平氏の中心をなした江戸氏が支配していた。しかし、源頼朝は江戸氏の勢力を削ぐために、現在の兵庫県尼崎で水運業をしていた矢野氏を連れてきて、江戸前島から浅草にかけての一帯を支配させた。この矢野氏は摂津国池田の多田荘を根拠地にした清和源氏の流れを汲む多田源氏。多田荘には多田銀銅山があり、そこで採掘された鉱物を鍛冶屋が武器や貴金属にしていた。川筋では牛馬が飼育され、皮革の加工も盛んで、造船も行っていたという。

 ・この矢野氏は矢野弾左衛門と呼ばれる家系となり、浅草に巨大な屋敷を構えて、代々、皮革業者や芸能民ら被差別民の総元締めになった。(弾左衛門は幕末まで13代続いた=この項目は、この本には書かれていません。詳細は、部落解放同盟東京都連合会のホームページをご参照ください)

 長くなるので、本日はこの辺りで止めておきます。著者の吉見氏は「序章」の中で、「富と人口が集中し、世界最大規模を誇る都市東京は、少なくとも3度占領されてきた。1590年の家康、1868年の薩長連合軍、1945年の米軍によってである」と書いております。「1868年の新政府軍」と書かずに「薩長連合軍」と書き、「1945年の進駐軍」とは書かずに「米軍」と書くところは私も共鳴します(笑)。江戸の街は、徳川家康がつくった、と言われているのに、わざわざ、占領者として「1590年の家康」と著者が挙げたのは、江戸は、家康の前に後北条氏が治め、それなりの交易や神社仏閣などの文化もあり、古代には秩父平氏の江戸氏が治めていた時代もあり、何も、徳川家康が初めて江戸を文明化したわけではないことを意味しているんじゃないかと私は捉えました。

 【追記】

 途中、後半の第7章辺りから、著者吉見俊哉東大教授の個人的なファミリーヒストリーとなり、あれれ?と拍子抜けしてしまいました。私もこの渓流斎ブログで取り上げたことがありますが、あの有名な闇の帝王・安藤昇さんは、著者の吉見氏の親戚だということで、「ヤクザ安藤昇とその周辺」に関して、かなりのページ数を費やしておりました。親戚というのは、安藤昇さんは、吉見教授の祖母の妹山田知恵の長男だということです。

東京の川や堀は米軍空襲の残骸で埋め立てられていたとは!=鈴木浩三著「地形で見る江戸・東京発展史」

 斎藤幸平著「人新世の『資本論』」(集英社新書)は3日ほどで急いで読破致しました。仕方がないのです。図書館で借りたのですが、2年ぐらい待たされて手元に届き、しかも、運が悪いことに、他に2冊、つまり3冊同時に図書館から届いたので、直ぐ返却しなければならなかったからです。

 でも、私は若き文芸記者だった頃、月に30冊から50冊は読破していた経験があるので、1日1冊ぐらいは平気でした。歳を取った今はとても無理ですが…。

 斎藤幸平著「人新世の『資本論』」についての感想は、先日のブログで書きましたので、本日は、今読み始めている鈴木浩三著「地形で見る江戸・東京発展史」(ちくま新書、2022年11月10日初版)を取り上げることに致します。(これも図書館から借りました)

 著者の鈴木氏は、東京都水道局中央支所長の要職に就いておられる方で、筑波大の博士号まで取得された方です。が、大変大変失礼ながら、ちょっと読みにくい本でした。内容が頭にスッと入って来てくれないのです。単なる私の頭の悪さに原因があるのですが、あまりにも多くの文献からの引用を詰め込み過ぎている感じで、スッと腑に落ちて来ないのです。とは言っても、私自身は、修飾語や説明がない固有名詞や歴史的専門用語でも、ある程度知識があるつもりなのですが、それでも、大変読みにくいのです。何でなのか? その理由がさっぱり分かりません…。

 ということで、私が理解できた範囲で面白かった箇所を列挙しますとー。

・江戸・東京の地形は、JR京浜東北線を境に、西側の武蔵野台地と、沖積地である東側の東京下町低地に大きく分けられる。赤羽~上野と田町~品川~大森間では、京浜東北線の西側の車窓はには急な崖が連続する。…この連続した崖が、武蔵野台地の東端で、JRはその麓の部分を走っている。(17ページ)

 ➡ 私は京浜東北線によく乗りますので、この説明は「ビンゴ!」でした。特に、田端駅の辺りは、西側が高い台地になっていて、かつては芥川龍之介の住まいなどもありました。一方、東側は、まさに断崖絶壁のような崖下で、今はJR東日本の車輛の車庫か操作場みたいになっています。東側は武蔵野台地だったんですね!上野の寛永寺辺りもその武蔵野台地の高台に作られていたことが車窓から見える寛永寺の墓苑を見ても分かります。

・江戸前島は、遅くとも正和4年(1315年)から鎌倉の円覚寺の領地だったが、天正18年(1590年)に徳川家康が関東に入府した後、秀吉が円覚寺領として安堵していたにも関わらず、家康が“実行支配”し、江戸開発の中心にした。江戸前島は、本郷台地の付け根部分で、現在の大手町〜日本橋〜銀座〜内幸町辺り。(47〜50ページなど)

 ➡︎ 江戸前島は、日本橋の魚河岸市場や越後屋などの商店が軒先を連なる町人の街となり、銀座はまさしく銀貨鋳造所として駿府から移転させたりしました。江戸前島の西側は日比谷入江という浅瀬の海でしたが、神田山から削った土砂で埋め立てられました。現在、皇居外苑や日比谷公園などになっています。江戸時代は、ここを伊達藩や南部藩など外様の上屋敷として与えられました。当時は、埋め立てられたばかりの湿地帯だったので、さすがに仙台伊達藩は願い出て、上屋敷を新橋の汐留に移転させてもらいます。この汐留の伊達藩邸(現日本テレビ本社)には、元禄年間、本所吉良邸で本懐を遂げて高輪泉岳寺に向かう忠臣蔵の四十七士たちが途中で休息を求めて立ち寄ったと言われています。

・江戸城防御のため、家康は江戸城南の武蔵野台地東端部に増上寺、北東の上野の山の台地に寛永寺を建立した。寺院の広大な境内は、軍勢の駐屯スペース、長大な堀は城壁、草葺などが一般的だった時代の瓦葺の堂塔は「耐火建築物」だった。(50、76ページなど)

 ➡天海上人の都市計画で、特に北東の鬼門に設置された寛永寺は「鬼門封じのため」、南西の裏鬼門に建立された増上寺は、「裏鬼門封じのため」と言われてきましたが、それだけではなかったんですね。増上寺は豊臣方が多い西国の大名が攻め上ってくる監視、寛永寺は伊達藩など奥州から来る軍勢を防ぐ監視のための軍事拠点として置かれていたとは! それぞれ、上野の山、武蔵野台地と高台を選んで設置されたことで証明されます。

 ・東京の都市としての構造や骨格は、江戸時代と連続性があるどころか、実は少しも変わっていないものが多い。…その背景には、江戸幕府から明治新政府になっても、社会・経済システムの多くがそのまま使われ続けたことにあった。明治維新の実態は「政権交代」に近かった。(176,181ページなど)

 ➡この説は大賛成ですね。明治維新とは薩長藩などによる徳川政権転覆クーデターで、新政府は政経システムもそのまま継承したことになります。江戸城は皇居となり、江戸城に近い譜代大名の上屋敷は霞ヶ関の官庁街や練兵場になったりします。外務省外周の石垣は福岡黒田藩の上屋敷時代のものが引き継がれているということなので、今度、遠くから見学に行こうかと思っています(笑)。築地の海軍兵学校は、尾張家、一橋家などの中屋敷跡だったとは…。他に、小石川・水戸家上屋敷→砲兵工廠→東京ドーム、尾張家上屋敷→仮皇居→赤坂御用地などがあります。

 ・昭和20年、米軍による東京大空襲で、都市部の大部分は焦土と化した。…GHQは、東京都に対して、大量の残土や瓦礫を急いで処理するよう命じた。東京はてっとり早く外濠に投棄することを決定した。(196ページ)

 ➡関東大震災の際の瓦礫は、後藤新平東京市長の原案で、埋め立てられたり、整備されたりして「昭和通り」になったことは有名ですが、東京空襲の残骸は、外濠埋め立てに使われたとは知りませんでしたね。それらは、現在の「外堀通り」なったりしてますが、真田濠が埋め立てられて、四ツ谷駅や上智大学のグラウンドになったりしております。そう言えば、銀座周辺は、かつて、外濠川、三十三間堀川、京橋川、汐留川、楓川など川だらけで、水運交通の街でしたが、空襲の瓦礫などでほとんどが埋め立てられ、(高速)道路などに変わってしまいました。(戦災後だけでなく、昭和39年の東京五輪を控えての都市改造もありました)まあ、都心の川や堀がなくなってしまうほど、カーティス・ルメイ将軍率いる米軍の東京爆撃が酷かった(無辜の市民10万人以上が犠牲)と歴史の教科書には載せてもらいたいものです。

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昭和の情緒が消えていく東京=銀座も普請中

 この期に及んで、目下、世界に名だたる東京は、あちらこちらで「再開発」中です。

 例えば、東京駅前の八重洲エリア。オフィスビルとして日本一の390メートルの高さを誇る「Torch Tower(トーチタワー)」が2027年度竣工予定で、また、都内3番目となるミッドタウン「東京ミッドタウン八重洲」が出来るようです。

 日比谷公園の東側の内幸町・日比谷エリアでも大規模再開発が予定され、高さ約230メートルのノースタワー、セントラルタワー、サウスタワー、高さ約145メートルの帝国ホテルの新本館の建設などが計画されています。最終的な工事完了は2037年度以降らしいので果たして生きているかなあ?

銀座ソニービル

 私が縄張りにしている銀座もその御多分に漏れません。

 有楽町に近い銀座ソニービルは1966年に建てられたというのに、あっけなくも解体され、2018年から公園になっていましたが、それも壊されて、何やら2024年にGinza Sony Parkなるものが出来るらしいですね。新ビルの詳細は公表されていませんが、条例で許される高さ56メートルの3分の2に満たない34メートルのビル(地上5階、地下4階)になるといいます。

 銀座4丁目交差点の「銀座のシンボル」的ビルでもある「三愛ドリームセンター」も解体工事が始まっています。このリコーの新ビルは、前のビルを継承する形で設計され、2027年竣工を目指しています。となると、同じような円錐形ビルになるかもしれません。

 このビルの最上階にある「RICHO」の広告塔は、かつては「三菱電機」だったことを覚えています。私が子どもだった昭和30年代か40年代頃です。昭和50年代までもそうだったかもしれません。

 この晴海通り沿いを日比谷方面に行った3軒ぐらい先のビルの屋上に地球儀のデッカイ広告塔があり、「森永チョコレート」とあり、夜はネオンサインで輝いていました。これも昭和40年代ぐらいまであったかどうか…。このビルは洋書のイエナなどが入っていた建物だったのでしょうか? 駄目ですね、ちゃんと調べないと(苦笑)。もし、そうなら、現在は、「ジョルジュ・アルマーニ」ビルになっているところでしょうか。

 いや、銀座も含めて、東京は変わり過ぎるのですよ。まだ建物は使えるというのに、どんどん解体して建て替えしています。建物を500年も600年も優に持たせようとする欧州のパリやローマやロンドンやバーゼルなどとは大違いです。

 日本人はせっかちだなあ。

 私の通勤路でもある「みゆき通り」の5丁目、6丁目辺りでも工事中の現場をよく目にします。

 上の工事中は、銀座通りに面した銀座6丁目で、以前のビルの1階にはドコモ・ショップが入居していて、地下にイタリアンのレストランなどがありました。

 また、雑居ビルが建てられるのでしょうが、よくこんな狭い空間で、しかも銀座のど真ん中の繁華街で、新しいビルが建設されものだ、と感心してしまいます。(狭くても地価は、何十億円かは軽くするでしょう)

 この上の写真は、みゆき通り沿いの銀座5丁目で、以前は、1~2階はみずぼ銀行が入居していました。ビルの名称についても、次に建設されるビルについても何も分かりませんけど、また斬新な50メートル近いビルが建つことでしょう。

 みゆき通りの5丁目は、他に2カ所もビル建て替え工事中で、現場の歩道が半分削られて狭くなり、観光客も増えて、歩くのに詰まって不便でしょうがありません。(この不満を書きたくてブログにしたようなもんです=笑)

 銀座では、この他にも、いっぱい、いっぱい再開発が計画されているようです。このままでは、昔の面影がどんどん無くなっていきますよね。

 永井荷風は、関東大震災と米軍の空襲を体験し、東京にはすっかり江戸の情緒が無くなってしまった、と嘆いておりましたが、そんな災害や人災がなくても、昔の東京がどんどん破壊されていっております。戦争がない平和な時代が続いたというのに、昭和の情緒が消えてなくなってしまっているのです。

  私のような古い世代は「こんなんでいいのかなあ」と寂しくなります。

【追記】2023年4月5日

 重大なことを書き忘れていました。先日亡くなった世界的な音楽家坂本龍一氏は、少なくとも3000本の樹木が伐採される神宮外苑の再開発に反対する手紙を先月、闘病中にも関わらず、小池都知事らに送付しました。そしたら、小池都知事は「さまざまな思いをお伝えいただいたが、事業者でもある明治神宮にも送られた方がいいのではないか」と発言したらしいですね。(「日刊ゲンダイ」3月18日付など)

 再開発の許認可権を持つのは、都知事ではなかったでしたっけ?

【追記】2023年4月6日

 銀座だけかと思ったら、そのお隣りの築地でも、あちこちでビルが解体されて、再開発が始まっています。特に、電通の旧本社ビルがあった辺りは、住友不動産が再開発するようです。日本人は50年に一度の頻度でビルを建て替えるつもりなんですかね?またまた、都市の風貌が変貌していきます。

緊急事態宣言下の東京・銀座【動画編】

 そう言えば、今は簡単にスマホで動画が撮れました。

「緊急事態宣言」発令という歴史的な事件を写真(静止画)だけでなく、動画として残すべきではないか、とフト思い立ち、IT音痴ながら、試行錯誤の末、ブログにアップしてみました。

何とかご覧になれますか?

歌舞伎座も御覧の通りです。

おまけに、最初のと同じ銀座の中心、4丁目辺りの動画をアップします。

金曜日の午後ですがら、通常の10分の1、いや、100分の1の人数かもしれません。

ウチの会社は、実は、普通の企業ではなく、社会的使命を持った会社なので、今の今まで現場で頑張ってきましたが、ついに、出社人数を絞って、テレワークと自宅待機態勢に移行することになりました。

 小生は、明日から1週間、自宅待機組となりました。ま、出社に及ばず、てなところでしょうか(笑)。

そんなことはありません。と自分で言ってどうするの?と突っ込んでみました。

ちょうど、ギックリ腰のようなものをやって歩行の困難を来していたので、自粛するには良い機会でした。

「大人のための東京散歩案内」

ローマ

たまたま書店で見かけた「大人のための東京散歩案内」(洋泉社新書)が面白くて、一気に読んでしまいました。

著者は「下流社会」がベストセラーになって話題になった三浦展さん。この人、どこかの大学の先生かと思っていたら、情報誌の編集長や総研の主任研究員を務めていた人だったのですね。いわゆるリサーチャーです。

ですから、かなりの「調べ魔」らしく、私も知らなかったことが列記されて参考になりました。東京散歩でも、普通の人が取り上げるような銀座や六本木や青山などは出てきません。本郷、小石川、本所、深川、高円寺、それに赤羽など渋い所ばかりです。

東京は、江戸からの歴史から見て、明治維新、関東大震災、そして太平洋戦争と3度の大変革期を経て、今に至っているわけですが、想像力を逞しくすれば、そこはかとなく過去の遺影が残っているものです。江戸の古地図と見比べてみても、道路が江戸時代とほとんど変わっていなかったりするんですね。

今は陸地でも、昔は海や川や湿地帯(かなり多かったようです)を埋め立てた土地が多く、辛うじて名前が残っていたりします。知らなかったのですが、小石川もやはり川の名前です。「椎名町から流れてくる谷端川の下流の名称で、大塚駅の南東の三業地を通り、小石川植物園を抜けて東京ドームのあたりまで流れ、最後は神田川に合流する」

この三業地ですが、意味が分かりますか?私はすぐに答えられませんでした。調べてみると、「料亭」「芸者の置屋」「待合」の三種の業を指します。現在、東京では花柳界がほぼ絶滅してしまったので、私自身は体験できなかったのですが、東京の至る所にあったようです。東京を歩いていて、「何でこんな所に、たくさん料理屋が並んでいるんだろう」と感じたら、まず三業地でしょう。この間、行った北品川の「金時」もそんな雰囲気でした。よく分かりませんが、三業地は、吉原や向島、四谷、池袋、尾久(阿部定事件の舞台)、千住、渋谷などの「赤線地帯」とは違うと思います。この本には、大塚三業地のほか、白山三業地、神楽坂の牛込三業地などが出てきます。どなたか詳しい方教えてください。

同書には、関東大震災の被災者のために建設された同潤会アパートや、目白、阿佐ヶ谷などの文化住宅などが登場します。老朽化しているので早晩取り壊されてしまうのでしょうが、これらの古い建築物を見るだけでも散歩が楽しくなります。

貧乏な画家や詩人たちが集まった「池袋モンパルナス」は知っていましたが、上野は国立の芸術大学があることから「モンマルトル」といっていたそうですね。御茶ノ水は「カルチェ・ラタン」。昔の人はパリへのあこがれが強かったのでしょう。

赤羽団地の広大な敷地は、陸軍の被服本廠(軍服製造工場)の跡地だったことを本書を読んで初めて知りました。高円寺は古着店の街、西荻窪はアンティークの街で文化人(日本一の編集者の藤原書店http://www.fujiwara-shoten.co.jp/index_2.htmlの藤原良雄も在住、と三浦さんは書いてます。今年、ノーベル文学賞を受賞したトルコ人作家オルハン・パムクの作品「わたしの名は紅」の翻訳を、どこの出版社も引き受けなかったのに、先見の明を持った藤原書店だけが引き受けた、ということが話題になりましたね)が多く住む街だそうです。

「純喫茶」というのは、女給を置く「新興喫茶店」(今では死語ですなあ)と区別して名称されたことなど、色々と勉強になりました。

早速、この本を片手に散歩に出かけます。どうせ、暇ですから。