銀座、ちょっと気になるスポット(8)=歌舞伎発祥之地

 しばらく中断しておりましたが、久しぶりに「銀座、ちょっと気になるスポット」シリーズを再開しましょう。

 銀座といえば、やはり歌舞伎座です。今ある歌舞伎座は明治になって、東京日日新聞社長なども務めた福地源一郎らの尽力で出来ましたが、江戸時代には、今では「歌舞伎発祥之地」になっている猿若中村座があったり、森田(守田)座(明治になって新富座に)があったり、山村座(「絵島生島事件」で廃座に)があったりしましたので、銀座は「芝居小屋町」と言っても差し支えないでしょう。

 以前、この渓流斎ブログで、守田座跡や山村座跡、新富座跡を何回かご紹介したことがありましたので、今回は歌舞伎発祥之地である猿若中村座跡(写真上)を取り上げることにします。

 場所は、京橋3丁目なので、正確に言えば銀座ではありませんが、銀座1丁目の高速下の歩道を渡ってすぐ側ですから、あまり堅いことは言わんといてください(笑)。

  座元中村勘三郎が、猿若中村座をこの地に建てたのは、寛永元年(1624年)のことです。中村勘三郎と言えば思い出してください。2022年5月17日付の渓流斎ブログ「旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)」で取り上げております。初代中村勘三郎(1598~1658年)は、あの豊臣秀吉と全く同じ現在の名古屋市中村区にある中村公園内に生まれ、その生誕記念碑が建っていることを御紹介しました。

 …中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。…

 これを読むと、勘三郎丈が猿若座を建てたのは26歳の若さだったことが分かります。それなりの潤沢な資金があったのでしょうか。中村屋(屋号)は現在でも続く名門中の名門の大幹部で、勘三郎はその基礎を作った人ですから、実に偉い人だったことが分かります。

コナミ本社=銀座1丁目

 先ほど、「歌舞伎発祥之地」は正確には銀座ではなく、京橋3丁目です、と書きました。

 でも、その目の前(という言い方も変ですが)は銀座1丁目です。そこは、かつてセゾングループの高級ホテル西洋銀座(2013年閉鎖)と、映画館の銀座テアトルシネマなどがあったのですが、今はすっかり様変わりして、アミューズメント会社のコナミの本社になっておりました。

 しばらく、この場所に足を運んでいなかったので吃驚です。もう30年ぐらい昔ですが、この高級ホテル西洋銀座で、セゾングループ総帥堤清二氏というか作家の辻井喬氏(1927~2013年)にインタビューしたことがあったので、隔世の感を禁じ得ませんでした。

銀座1丁目「ニューキャッスル」

 このあと、銀座1丁目にある「ニューキャッスル」に行き、ランチのカライライス(レギュラー100円)を食しました。

 喫茶店「ニューキャッスル」はかつて、蔦がからまった店舗が有楽町駅近くにあり、私も昔、通ったことがありますが、いつの間にかなくなっていました。それが、先日、テレビでやっていて、2011年に東北大震災の影響で古い建物が損害を受けるなどして閉店し、今は、常連さんだった人が三代目として切り盛りしているということでしたので、訪れたのでした。

 創業昭和21年の看板の味をしっかり受け継いでおりました。

 

 

「江戸の銭勘定」は一読の価値あり

自宅近くの本屋さん「よむよむ」で見つけた山本博文監修「江戸の銭勘定」(洋泉社歴史新書)を読んでます。

斯界の権威山本博士は監修になっているので、御本人の執筆ではなく、自分の東大の院生にでも書かせたのかもしれません。あくまでも空想に近い推測ですが(笑)。

それでも面白いことに越したことはありません。恐らくテレビの番組制作会社の三次団体の若いADがクイズ番組の種本にするにはもってこいかもしれません(笑)。

そもそも、私自身は、江戸を舞台にした時代劇や小説や歌舞伎に出てくるお金が今の幾らぐらいになるのか、素朴な疑問がここ何十年もあったのでした。この本はその疑問に見事に答えてくれます。

江戸時代は300年近くも続きましたから、そりゃ、物価の変動はかなりあったことでしょう。そこで、本書では目安として、文化文政期を基本にして、1両=18万円、1匁=3000円、1文=30円としております。

握り寿司一貫4文=120円、蕎麦一杯16文=480円、銭湯8文=240円で、大体現代と変わりませんが、酒一升250文=7500円はちょっと高いですね。

文化文政期の職人(上大工)の年収はおおよそ26両2分=447万円だったようです。

庶民の娯楽の歌舞伎の木戸銭は100文=3000円、大相撲となると銀3匁=9000円と結構したようですね。勿論、座席はピンからキリまでありますから、概算です。

「千両役者」ともなると、年収が1億8000万円ということになるんですか。花形ですね。

私が注目したのは、江戸時代の新聞、瓦版で当時は読売と呼ばれていたそうですが、今もあるじゃん!(笑)

この本によると、現存する最古の読売は、元和元年(1615年)5月8日発行の「大坂阿倍野合戦図」で、あの真田幸村が活躍した大坂夏の陣を報道したものらしいですね。江戸時代の探訪記者、従軍記者も頑張ってたんですね。

このことは、横浜にある日本新聞協会の新聞博物館にもない「新事実」でした(笑)。

「仮名手本忠臣蔵」観劇記

 ローマ

東京・銀座の歌舞伎座で通し狂言「仮名手本忠臣蔵」(並木千柳、三好松洛、竹田出雲作)を見てきました。昼夜通しだったので、かなりの出費を強いられましたが、行ってよかったと思います。菊五郎の塩冶判官と勘平、幸四郎と吉右衛門の大星由良之助、富十郎の高師直、魁春の顔世御前、梅玉の石堂右馬之丞と勘平と斧定九郎、玉三郎のお軽、仁左衛門の寺岡平右衛門…これ以上ないといわれるくらい当代一の役者が出揃っていました。

最近読んだ本で、やたらと「忠臣蔵」が登場してきたのです。

岡本綺堂の「半七捕物帳」の「勘平の死」では、商家の素人芝居の忠臣蔵の六段目で、真剣が使われる殺人事件が起き、半七が、その事件を解決していきます。「忠臣蔵の六段目」と言われれば、当時、つまり昭和初期の読者は、ほとんどの人が、すぐピンときたことでしょう。何度も何度も芝居で見ていたに違いません。しかし、現代人は余程の通しか、ピンとこないでしょう。(そういえば、月刊誌「演劇界」が休刊したらしいですね)

広瀬隆著「持丸長者」には、「忠臣蔵の真実」として次のようなことが書かれていました。

●赤穂浪士全員の切腹を上申したとされるのが、将軍綱吉の側用人・柳沢吉保お抱えの陪臣で儒学者の荻生徂来。元禄16年2月4日、大石内蔵助ら赤穂義士46人が切腹させられた。四十七士と言われていたのに、一人足りないのは、寺坂吉右衛門だけが、内蔵助から「後世に討ち入りを正しく伝えるために生き延びよ」と命じられ、義士の血盟から離れたため。

●吉良上野之介は、上杉鷹山の直系の玄孫で、柳沢吉保は武田信玄の末裔。これではまるで、上杉謙信と武田信玄の戦いの再現?浅野内匠之頭は、甲斐二十二万石領主・浅野長政の四代後の子孫。長政は豊臣秀吉の義兄弟で、佐渡、甲斐、信濃の金山を管理支配した。赤穂浪士切腹の翌年、柳沢吉保が甲府城の藩主となる。

●赤穂は入浜式塩田の技術を生み出し、日本の製塩業に革命を起こした。この入浜式塩田技術を教えろと吉良が浅野に求めて断られ、吉良家が赤穂に放った間諜も殺されて失敗。そこで、わざと吉良が赤穂藩召し上げを工作して、浅野を挑発する…。

こんな話を読めば、どうしても「忠臣蔵」を見たくなる、と思いませんか?

しかし、チケットを買う際は、まさに清水の舞台から飛び降りる心境でした。ちなみに、今は、ネットで簡単にチケットが買えるのです。座席が分かるので便利です。

実は、新橋の安売りチケットで探してみたのですが、定価かそれ以上の値段が付いていました。そういえば、手に入りにくい有名なコンサートや演劇のチケットは、軒並み定価の5倍くらいの値段が付いているのです。需要と供給の世界なのでしょうが、これでは、まるでダフ屋じゃないかと思いました。

ちなみに、2007年2月の物価を後世に残したいので、歌舞伎座の金額を書いときましょう。

観劇料

1等席 15、000円  1階桟敷席 17,000円  2等席 11,000円 3等A席 4,200円 3等B席 2,500円

幕見席 600円ー1、300円

食事

吉兆松花堂弁当 6,300円 オリエンタルカレー 700円  サンドイッチ 700円

コーヒー 300円

筋書き 1,200円

追悼萩原先生

演劇評論家で歌舞伎舞踊作家の萩原雪夫先生が20日に神奈川県藤沢市の病院で亡くなりました。享年91歳。既にご親族のみで葬儀は済まされておられ、先生らしい亡くなり方だなあと思いました。

先生は、歌舞伎の知識がほとんどなかった私にイチから本当に手取り足取り教えてくださった恩人です。歌舞伎の世界では、演劇記者や評論家は、いくら何十年の取材経験があっても「50歳、60歳は洟垂れ小僧」という言い伝えがあります。テレビのようなすぐ忘れ去られてしまう瞬間芸とは違って、歌舞伎の世界は伝統と継承が大事にされます。しかも、メディアを通さずに生の舞台を目の前で見るわけですから、観客もそれだけ鍛えられて目が肥えていくからです。

そんなわけですから、演劇評論家の中でも「六代目を見たことがある」というだけでも、もう別格扱いなのです。六代目というのは、昭和24年に亡くなった六代目尾上菊五郎のことです。今から57年前ですから、子供の時に観た人でも70歳近くなっているわけです。

萩原先生は、六代目のファンで、そのために歌舞伎記者になったという話や、疎開中の六代目に毎日会いたいがために神奈川県茅ヶ崎市に移り住んだ話などを聞きました。

記者から評論家になった人は数多いますが、舞踊作者にまでなった人は萩原先生くらいではないでしょうか。先生の代表作に奈良東大寺二月堂の行事「修二会(しゅにえ=通称お水取り)」http://www.kcn.ne.jp/~narayama/omizutori/shunie.html

を題材にした「達陀」(だったん)があります。「昭和42年に二代目尾上松緑の発案」とだけしか書いていない記事もありましたが、紛れもなく先生の作品です。この作品を書くために、何度も(年中行事なので、何年も)二月堂に通ったという話や、実際に松明の火の粉を浴びて構想を練った話などを直接聞いたことがあります。

こんな偉い先生なのに、少しも偉ぶったところがなく、「四代目は、『よんだいめ』じゃなくて『よだいめ』、音羽屋は『おとわや』ではなくて『おたあや』と言うのが通だよ」なんてそっと教えてくださるほど粋な人でした。

先生、本当にお世話になりました。合掌

久しぶりの歌舞伎鑑賞、「秀山会」中村吉右衛門

小樽

後藤先生のお導きで久しぶりに歌舞伎座へ歌舞伎を見に行ってきました。帯広時代は一回も行っていないので、4,5年ぶりかもしれません。久しぶりに堪能しましたが、役者の皆さんは随分、お年を召されたなあ、というのが第一印象でした。

九月の歌舞伎座は、秀山こと初代中村吉右衛門生誕120年祭です。昼の部を見たのですが、松緑の梅王丸、染五郎の松王丸で「車引」、吉右衛門南与兵衛、後の南方十次兵衛、富十郎の濡髪長五郎の「引窓」、雀右衛門の小野小町、梅玉の在原業平、染五郎の文屋康秀で「六歌仙容彩(すがたのいろどり)」、幸四郎の松王丸、吉右衛門の武部源蔵、魁春の戸浪、芝翫の千代で「寺子屋」といった演目。

前から5列目の特等席だったので、役者の息遣いが手に取るように伝わり、しばし、江戸の芝居小屋の雰囲気の中にタイムスリップした感じでした。

不仲が伝えられていた幸四郎、吉右衛門兄弟が「寺子屋」で共演したことには随分と感動させられました。二人とも還暦を過ぎたので、芸にいぶし銀のような艶が出てきました。私自身、播磨屋吉右衛門が現代歌舞伎界のナンバーワンだと思っているのですが、松王丸を十八番にしている幸四郎もなかなかよかった。幸四郎は現代劇もやっているせいか、台詞回しが現代風に陥りがちだったのですが、松王丸ははまり役で、自分の息子を身替わりに提供した親の悲痛を見事なまでに表現しきっていました。

吉右衛門は台詞がなくても立ち姿が格好いい。「引窓」では、殺人犯の義兄弟を捕縛しようかどうか悩む町人あがりの武士を品良く演じているし、「寺子屋」の源蔵は、初代の当たり役だったらしく、苦悩する源蔵が2代目として演技の継承者として悩む吉右衛門本人と重なって、うならされてしました。

かつて、歌舞伎は年に30本くらい見ていた時期もありました。ちょうど「三之助」が売り出していた頃です。あれから10年近く経ち、役者さんたちも随分年取ったなあ、というのが最初に書いたのと同じ印象でした。