元朝日新聞論説委員の隈元信一さん逝く、行年69歳

 元朝日新聞論説委員の畏友隈元信一さんが、10月17日午前6時7分、都内の病院で亡くなられました。行年69歳。10月23日が誕生日だということで、あと少しで70歳の誕生日を迎えるはずでした。2年前の2021年夏に発病し、余命3カ月から半年と医者から宣告されたようですが、激痛を乗り越えて、よくぞ闘病生活を耐え抜いたと思います。覚悟はしておりましたが、やはり、哀しいし、寂しい思いです。

 隈元さんは2017年に朝日新聞を退社後、放送評論が専門のフリージャーナリストとして活躍されていました。何冊か本を出版していますので、この渓流斎ブログでも何回か「本名」で登場させてもらっています。

 ・2017年12月18日付「【書評】「永六輔」を読んで」

 ・2022年2月16日付「激震の1990年代の放送界を振り返る=隈元信一著『探訪 ローカル番組の作り手たち』を読みながら」

 などです。それらの記事に私と彼との出会いや個人的な交流などを書いていますので、御面倒ながらそちらをご参照ください。

 また、会員でしか読めませんが、ネットの「論座」で13回に渡って闘病記を連載されていました。今、検索したら、ウイキペディアになるほどの「有名人」でした。

 大学の講師なども務めましたが、異様に行動力のあるジャーナリストで、日本全国だけでなく、アジア、特に韓国とインドネシアの演劇や音楽などの文化にも幅広く精通し、何年間か滞在していたこともありました。ですから、交際範囲が異様に広く、フェイスブックの「お友達」も1000人以上といいましたから、凄いの一言です。これは、以前のブログに書きましたが、彼が闘病入院中、有志の方が隈元さんの本(「探訪」)の出版基金募集を呼び掛けたところ、その年の2021年末の時点で361人の応募があったといいますから、彼の実質を伴った「人徳」が証明されたようなものでした。

私もよく行っていた王子のmam-and-pap bookstoreも閉店してしまい本当に本当に残念です

 隈元さんとは30年以上のお付き合いでしたが、大変お忙しい人だったので、それほど頻繁にお会いしていたわけではありません。でも、何年振りかに会っても、そのギャップやスパンを感じさせず、いつも気さくで親しみ深く接してくれました。小生を弟のように可愛がってくれた、と言っても良いでしょう。

 彼の取材での得意技は、あの奇人さんとも言うべき永六輔さんに非常に食い込んだように、一旦、この人だと思った取材相手は最後まで離さない粘り強さにあったと思います。まだ本や文章には書かれていない、多くの人から直接得たいわゆるヒューミント情報を多く持っていましたから、かなり説得力がありました。それでいて、彼の性格なのか、茲では書けない、かなりシビアというかシニカルな批判も多々ありました。ただ、持って生まれた洞察力は人より抜きんでいて、彼の想像や推測した通りに、物事や人事が進んでいく有り様を見て、舌を巻いたことが何度もありました。

 クマモッチャン、もうあの「隈元節」が聞けないと思うと、本当に残念で、心の底から悲しみが込み上げて来ます。御冥福をお祈り申し上げます。

【追記】

 このブログを読んだ満洲研究家の松岡將氏から早速メールを頂きました。5年前に隈元さんとは一度拙宅でお会いしたことがあったというのです。「まだお若いのに本当に残念です。ご冥福を祈るのみです」といった趣旨の内容でした。

 そうでした、そうでした。すっかり忘れておりました。隈元さんの東大の卒論のテーマが「満洲問題」だということを聞き、「それなら松岡さんを知らないと潜りだよ!」と言って、松岡氏のご自宅に押し掛けたのでした。この時、満洲国の総務庁次長だった古海忠之氏の御子息も参加しました。調べたら、渓流斎ブログ2018年4月9日付 「久しぶりの満洲懇話会」にその模様を詳しく書いておりました(笑)。

 この時、松岡氏から高価な「獺祭」を振る舞われました。いつもながら、本当に御迷惑をお掛けしました。

【書評】「永六輔」を読んで

畏友隈元信一さんの書いた「永六輔 時代を旅した言葉の職人」(平凡社新書)を読了しました。

今、ネット通販アマソンの何とか売上ランキングで第1位を獲得してベストセラーになっているようで、嬉しい限りです。

私が著者の隈元さんとお見知り置きになったのはもう30年近く昔ですが、彼の著作を読むと同時に彼の息遣いと声を聴こえてきます。不思議なもんですねえ。

この本は、放送作家、作詞家、放送タレント、芸能史研究家、ラジオパーソナリティーという戦後のマルチタレントの魁を行った多面体の天才的な人物の評伝ですが、著者の隈元さんが、永六輔という人を心底敬愛し、少なからず私淑していたんだなあ、という気持ちが伝わってきます。

何しろ、彼は永六輔が出版した200冊以上の本を読破し、「読書案内」まで載せる念の入れようです。

私は彼と同世代ですので、ほとんど同時代人として、テレビやラジオを通してですが、同じような体験してますので、話の内容はよく分かりますが、永六輔を全く知らない若い世代でも分かるように、安倍首相のように丁寧に説明文を付記する心の配慮があります(笑)。

ジュリエット像=イタリア・ヴェローナ

私の知らないことも結構ありました。

永六輔の師匠に当たる三木鶏郎(1914~94)の本名は繁田裕司(しげた・ひろし)。東大法学部卒のインテリで、筆名はミッキーマウスから無断拝借して、ミッキー・トリオから文字ったんだそうですね。(三木鶏郎がつくった「冗談工房」からは野坂昭如や五木寛之らが巣立ちます)

早熟の永六輔は、早稲田の高校生の時から、ラジオの放送作家として活躍しますが、初期の頃の今で言うラジオのプロデューサーが、NHK音楽部副部長の丸山鉄雄で、この方、ジャーナリスト丸山幹治(白虹事件で大朝を退社し、後に大毎に入社)の長男で、政治学者の丸山真男の兄に当たる人だったんですね。

永六輔の「仕事」として、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」などの作詞家として芸能史に名を残すでしょうが、作詞家は若い頃の10年ほどで、その後は、諸般の事情(シンガーソングライターの登場など)で、断筆してしまうんですね。これも知りませんでした。

それでも、私の世代ではよく聴いた「えっ?あの曲もそうだったの?」という歌が結構多いです。

「黒い花びら」「夢であいましょう」「誰かと誰かが」「見上げてごらん夜の星を」「女ひとり」「いい湯だな」「筑波山麓合唱団」「二人の銀座」…キリがないのでやめておきます。

著者の隈元さんは、永六輔のことを「古典的なジャーナリストの原点を体現するような人物だった」と評し、メディア史が専門の山本武利氏(一橋大・早大名誉教授)の「新聞記者の誕生」(新曜社、1990年)から引用して、その理論的裏づけとしていたので驚いてしまいました。

山本武利氏は、先日、この《渓流斎日乗》で「陸軍中野学校」の書評で取り上げさせて頂いたばかりでしたから。

巻末には「参考文献」のほか、「関連年表」も掲載され、昭和と平成の日本の芸能史と社会の動きが分かるようになっています。

1963年を見ると、この年に、永六輔作詞、中村八大作曲、坂本九唄の「上を向いて歩こう」が全米で第1位に輝き、その年末は、梓みちよ唄の「こんにちは赤ちゃん」が、レコード大賞を獲得します。彼が作詞した曲がレコード大賞に輝くのは1959年の「黒い花びら」(水原弘唄)に続き、2度目です。永六輔、この時まだ30歳ですからね。やはり、早熟の天才だったということでしょう。

放送作家、タレントとして、テレビ草創期の「夢で逢いましょう」をつくった永六輔も、晩年はラジオ中心の仕事に重心を置く経緯などが本書に詳しく書かれています。

「顔は長いが、気は短い」と自称し、意にそぐわない仕事はすぐ辞めてしまい(大橋巨泉らがその後釜に入った)、若い頃は相当生意気だったようで、大先輩作家の柴田錬三郎に批判されて、凹んでしまう逸話なんかは、本人に直接取材しなければ聞けない話でした。

永六輔は2016年7月7日に永眠。享年83。最後まで「現役」に拘って、走り抜けた生き方には感銘を覚えました。

若き永六輔

Italie

先日亡くなった大橋巨泉の奥さんは、彼の盟友だった永六輔が亡くなったことを、「ショックが大きすぎる」ということで、知らせなかったそうですね。

お互い、テレビの草創期に放送作家として鎬を削った仲でした。

その永六輔さんは晩年は、人格者として崇められておりましたが、若い頃はかなり傲岸不遜だったようです。そりゃそうでしょう。「上を向いて歩こう」「明日がある」「こんにちは赤ちゃん」等々、大ヒットした作詞家として飛ぶ鳥を落とす勢いです。印税でがっぽり桁違いのお金が入ってきて生活に全く困らないので若い頃は、我が儘言いたい放題だったのかもしれません。

その永六輔さんが若き頃、日活撮影所に行って、夜中の三時まで、ああだ、こうだ、と指図をしまくったそうです。当然、あいつは何様だ。生意気な奴だとスタッフの反感を買い、永さんが一服するために、外に出た瞬間、何者かに暗幕を頭から被せられて、殴る蹴るの暴行でボコボコにされたそうです。

結局、犯人は、分からず仕舞い。永さんも警察に被害届けを出したかどうか分かりません。そんな武勇伝があったこと事態、闇から闇に葬られてしまうものですが、元日活の映画監督藤浦敦さんは「だんびら一代」の中でしっかり、証言しているのですからですね。

この本にはエピソードが満載です。藤浦敦さんの祖父周吉が一代で東京中央青果を興して、東京市中の台所の野菜果物の源流、根っ子である卸売業界を牛耳って巨万の富を築いたことは、以前、この渓流斎ブログにも書きました。

金がある所は、匂いで分かるんでしょうね。遥々異国から、せびり、いや間違い、支援を求める外国人もいました。中国革命の父孫文もその一人です。

周吉の息子富太郎も表に出ないようにしたので、無名でしたが、政財界官界学界それでええん界にまで莫大な支援をします。いちいち個人名は挙げませんが、右翼暴力団関係は勿論、左翼は共産党までポンとお金を出していたことを、富太郎の息子である藤浦敦さんは暴露しています。

日本共産党の某幹部が自宅に来て、「赤旗まつり」のチケットを富太郎にまとめ買いしてもらって嬉々としている姿を藤浦敦さんは、この本の中で活写してました。

一番驚いたのは、日活の株式の40%も藤浦家が握っていたということです。ですから、伴野朗原作監督作品の「落陽」の興行面で25億円の赤字を出しても「俺の金を自分で使って何が悪い?」と開き直っていられるのです。

日活倒産の原因を「落陽」興行の失敗として押し付けられた藤浦敦さんは「『落陽』の損失など全体の10%程度。ゴルフ場やホテルなど本業以外の経営多角化が倒産の原因だ」と、理路整然と説明するのです。

私が少年の頃、映画の世界で、誰が一番偉いのか、と不思議に思っていました。莫大なギャラが貰える主演俳優かな、と思っていたら、もう30も過ぎた頃に「渓流斎くんは甘いね。『黒澤明監督作品』というぐらいだから、監督が一番偉いんだよ。作品は監督のものだからね」と言われて、それ以来、監督が一番凄いと思い、偉そうに、溝口だの、衣笠だのと言っていました。

そしたら、この本を読んだら、小説家あがりの伴野朗監督なんて、パシリ以下のそのまた下扱い。彼は、下積みの助監督の経験もないから、基本のキも知らない。藤浦敦ゼネラルプロデューサーは、伴野監督に大金を握らせて、途中から、もう撮影現場に来なくていいよ、と指示したそうです。

「伴野は頭のいい奴だから、一切口を割らなかったよ。小説家は小説を書いていればいいんだよ」と、口止めした藤浦敦さんは涼しい顔です。

クレジットの「伴野朗監督」だけで、宣伝になることは分かった上での話です。

ということで、映画の世界で、一番偉いのは、監督ではなく、ヒト(人事権)、モノ(作品)、カネ(製作費)を全て握っているゼネラルプロデューサーだということになりますね(笑)。

◇クレージーキャッツの源流

フランキー堺が、日活映画の専属俳優になってしまい、彼がリーダーとして結成したコミック・バンド「シティー・スリッカーズ」(「粋な都会人」という意味。1950年代にこんな洒落た名前を付けるとは!)は、開店休業状態になります。

その取り残されたメンバーが新たに結成したバンドが、「クレージーキャッツ」だったんですね。谷啓、植木等、桜井センリの面々です。

知らなかったなあ…。