畏友隈元信一さんの書いた「永六輔 時代を旅した言葉の職人」(平凡社新書)を読了しました。
今、ネット通販アマソンの何とか売上ランキングで第1位を獲得してベストセラーになっているようで、嬉しい限りです。
私が著者の隈元さんとお見知り置きになったのはもう30年近く昔ですが、彼の著作を読むと同時に彼の息遣いと声を聴こえてきます。不思議なもんですねえ。
この本は、放送作家、作詞家、放送タレント、芸能史研究家、ラジオパーソナリティーという戦後のマルチタレントの魁を行った多面体の天才的な人物の評伝ですが、著者の隈元さんが、永六輔という人を心底敬愛し、少なからず私淑していたんだなあ、という気持ちが伝わってきます。
何しろ、彼は永六輔が出版した200冊以上の本を読破し、「読書案内」まで載せる念の入れようです。
私は彼と同世代ですので、ほとんど同時代人として、テレビやラジオを通してですが、同じような体験してますので、話の内容はよく分かりますが、永六輔を全く知らない若い世代でも分かるように、安倍首相のように丁寧に説明文を付記する心の配慮があります(笑)。
ジュリエット像=イタリア・ヴェローナ
私の知らないことも結構ありました。
永六輔の師匠に当たる三木鶏郎(1914~94)の本名は繁田裕司(しげた・ひろし)。東大法学部卒のインテリで、筆名はミッキーマウスから無断拝借して、ミッキー・トリオから文字ったんだそうですね。(三木鶏郎がつくった「冗談工房」からは野坂昭如や五木寛之らが巣立ちます)
早熟の永六輔は、早稲田の高校生の時から、ラジオの放送作家として活躍しますが、初期の頃の今で言うラジオのプロデューサーが、NHK音楽部副部長の丸山鉄雄で、この方、ジャーナリスト丸山幹治(白虹事件で大朝を退社し、後に大毎に入社)の長男で、政治学者の丸山真男の兄に当たる人だったんですね。
永六輔の「仕事」として、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」などの作詞家として芸能史に名を残すでしょうが、作詞家は若い頃の10年ほどで、その後は、諸般の事情(シンガーソングライターの登場など)で、断筆してしまうんですね。これも知りませんでした。
それでも、私の世代ではよく聴いた「えっ?あの曲もそうだったの?」という歌が結構多いです。
「黒い花びら」「夢であいましょう」「誰かと誰かが」「見上げてごらん夜の星を」「女ひとり」「いい湯だな」「筑波山麓合唱団」「二人の銀座」…キリがないのでやめておきます。
著者の隈元さんは、永六輔のことを「古典的なジャーナリストの原点を体現するような人物だった」と評し、メディア史が専門の山本武利氏(一橋大・早大名誉教授)の「新聞記者の誕生」(新曜社、1990年)から引用して、その理論的裏づけとしていたので驚いてしまいました。
山本武利氏は、先日、この《渓流斎日乗》で「陸軍中野学校」の書評で取り上げさせて頂いたばかりでしたから。
巻末には「参考文献」のほか、「関連年表」も掲載され、昭和と平成の日本の芸能史と社会の動きが分かるようになっています。
1963年を見ると、この年に、永六輔作詞、中村八大作曲、坂本九唄の「上を向いて歩こう」が全米で第1位に輝き、その年末は、梓みちよ唄の「こんにちは赤ちゃん」が、レコード大賞を獲得します。彼が作詞した曲がレコード大賞に輝くのは1959年の「黒い花びら」(水原弘唄)に続き、2度目です。永六輔、この時まだ30歳ですからね。やはり、早熟の天才だったということでしょう。
放送作家、タレントとして、テレビ草創期の「夢で逢いましょう」をつくった永六輔も、晩年はラジオ中心の仕事に重心を置く経緯などが本書に詳しく書かれています。
「顔は長いが、気は短い」と自称し、意にそぐわない仕事はすぐ辞めてしまい(大橋巨泉らがその後釜に入った)、若い頃は相当生意気だったようで、大先輩作家の柴田錬三郎に批判されて、凹んでしまう逸話なんかは、本人に直接取材しなければ聞けない話でした。
永六輔は2016年7月7日に永眠。享年83。最後まで「現役」に拘って、走り抜けた生き方には感銘を覚えました。