船着場は古代、「戸」と呼ばれていた=吉見俊哉著「敗者としての東京」

 待ちに待った吉見俊哉著「敗者としての東京」(筑摩選書、2023年2月15日初版)を読んでいます。「待ちに待った」というのはどういう意味なのかお分かりですよね?(笑)2週間以内に返却しないといけないので、目下半分ほど読み進んでいたオーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)は休止しております。そんなこと、いちいちお断りする必要はないかもしれませんが(笑)。

 I read promiscuously.

 「敗者としての東京」は実に面白い、と太鼓判を押しておきます。これでも、東京~江戸に関する地層(武蔵野台地など)に関して、ある程度知っているつもりでしたが、本書で初めて知る事も沢山ありました。もっとも、この本は、かなり先行研究からの引用が多く、また、私が以前読んだ文献とは異にする見解を取り入れたりしていますが、大変読み応えがあります。

 以下は私が知らなかったことを列挙していきます。

東銀座「宝珠稲荷神社」

 ・古代、朝鮮半島からの渡来人たちは東京湾内にも入って来た。船を停めるのに適した場所は船着場から湊となり、それらは一般に「戸」と呼ばれた。実際東京湾岸から利根川にかけて、松戸青砥(かつては青戸)、花川戸(浅草)などがあるが、渡来人が湊として利用していたと考えられる。また、今の杉並区の高井戸や清瀬市の清戸なども川の船着場だったと考えられる。

 ・最初に渡来人が関東進出の拠点としたのは、浅草の浅草寺で、浅草観音は628年創建と伝わる。このほか、多摩川流域の狛江の狛は「高麗」と推測され、埼玉県新座市は「新羅」から由来すると言われる。

 ・埼玉県高麗郡(日高市、飯能市、鶴ヶ島市の全域と、狭山市、川越市、入間市、毛呂山町の一部)は高麗神社高麗川などがある。戦乱を逃れて渡来した高句麗人が716年に武蔵国に集められて出来た。(この項は、この本には書かれていません)

 ・荒川の「荒」は、古代朝鮮半島の東南部にあった「安羅(あら)国」の安羅に由来するという説もある。

銀座「マトリキッチン」

 ・鎌倉時代、江戸前島(今の東京日本橋から銀座辺りの島)に開かれた港は江戸湊と言われ、浅草とともに交易の中継地として栄えていた。西国から様々な商品が運び込まれ、利根川上流で採掘された鉱物資源や飼育された馬が江戸湊から西国に売られていった。この要衝を秩父平氏の中心をなした江戸氏が支配していた。しかし、源頼朝は江戸氏の勢力を削ぐために、現在の兵庫県尼崎で水運業をしていた矢野氏を連れてきて、江戸前島から浅草にかけての一帯を支配させた。この矢野氏は摂津国池田の多田荘を根拠地にした清和源氏の流れを汲む多田源氏。多田荘には多田銀銅山があり、そこで採掘された鉱物を鍛冶屋が武器や貴金属にしていた。川筋では牛馬が飼育され、皮革の加工も盛んで、造船も行っていたという。

 ・この矢野氏は矢野弾左衛門と呼ばれる家系となり、浅草に巨大な屋敷を構えて、代々、皮革業者や芸能民ら被差別民の総元締めになった。(弾左衛門は幕末まで13代続いた=この項目は、この本には書かれていません。詳細は、部落解放同盟東京都連合会のホームページをご参照ください)

 長くなるので、本日はこの辺りで止めておきます。著者の吉見氏は「序章」の中で、「富と人口が集中し、世界最大規模を誇る都市東京は、少なくとも3度占領されてきた。1590年の家康、1868年の薩長連合軍、1945年の米軍によってである」と書いております。「1868年の新政府軍」と書かずに「薩長連合軍」と書き、「1945年の進駐軍」とは書かずに「米軍」と書くところは私も共鳴します(笑)。江戸の街は、徳川家康がつくった、と言われているのに、わざわざ、占領者として「1590年の家康」と著者が挙げたのは、江戸は、家康の前に後北条氏が治め、それなりの交易や神社仏閣などの文化もあり、古代には秩父平氏の江戸氏が治めていた時代もあり、何も、徳川家康が初めて江戸を文明化したわけではないことを意味しているんじゃないかと私は捉えました。

 【追記】

 途中、後半の第7章辺りから、著者吉見俊哉東大教授の個人的なファミリーヒストリーとなり、あれれ?と拍子抜けしてしまいました。私もこの渓流斎ブログで取り上げたことがありますが、あの有名な闇の帝王・安藤昇さんは、著者の吉見氏の親戚だということで、「ヤクザ安藤昇とその周辺」に関して、かなりのページ数を費やしておりました。親戚というのは、安藤昇さんは、吉見教授の祖母の妹山田知恵の長男だということです。

味とは情報なり、味より情報が全てなり

 「歴史人」(ABCアーク)8月号「江戸の暮らし大全」特集を読んでいて、驚いてしまいました。

 「江戸町民の食事」なんですが、朝は、1日に1回しか炊かない炊き立てのアツアツのご飯と味噌汁、そして香の物だけ。卵も海苔もありません。お昼は、朝に炊いたご飯の残りと、干物の焼き魚、そして香の物。結局、このランチが一番豪華なのです。というのも、夕飯は、残った冷や飯をお茶漬けにして流し込み、おかずと言えば、香の物だけですからね。コロッケも生姜焼きも餃子も何もありません。これは、庶民の暮らしぶりなので、将軍さまや大名家ともなれば、これより遥かにましな食事をしていたことでしょうが、それにしても庶民は質素です。

 恐らく、江戸時代、庶民は、かなりの肉体労働に勤しんだはずですから、カロリー的にも足りるわけありません。昼間働いているからランチを豪華にしているんでしょうか。

 その点、現代人、特に私は、将軍さまや大名も驚くほど超豪華なランチを毎日のように取っていることになります。その贅沢さは、江戸幕府の将軍さま以上、ということになるかもしれません。

 まあ、お許しください。私が今働いているのは、ランチを食するため、と言っても過言ではないからです。働くためにランチを食べるのではなく、ランチを食べるために働いているのです(笑)。

新富町「蕎麦和食 はたり」

 そのためには情報収集が欠かせません。かと言って、あまりネット情報は重視しません。「孤独のグルメ」のように、自分の足で稼いで、フラッと入った店が美味しかったりするからです。

 とは言いながらも、全く、ネット情報を参考にしないわけでもありません。本日は、猛暑ですから、あっさりと蕎麦にでもしようと、検索してみたら、新富町の「蕎麦和食 はたり」という店が味、人気とも界隈ナンバーワンだということを知りました。

 「はたり」? あまり聞いたことがないので、地図で調べてみたら、何と、以前に1回か2回、行ったことがあった店だったのです(苦笑)。最近、ちょくちょくランチに行くようになった小料理屋「中むら」の近く、というより、同じビルの地下にあります。

新富町「蕎麦和食 はたり」もりそば+ミニ豚丼ランチ 1100円

 初めて行った時は、何も知らず、外の看板とメニューをチラッと見て入り、今では味も覚えていないくらい、淡々と済ませたのですが、今回は違います。ネット情報から、この店は、「厳選したそばの実を石臼で丁寧に挽いた、そば粉100%の十割そばがいただける人気店」という情報が私の脳の奥底にインプットされていました。

 そんな情報が入っていて、いざ食べてみると、まるっきり味が違うのです。蕎麦をすすりながら、「おー、これが石臼で挽いた蕎麦粉100%なのかあ~。さすが、十割蕎麦だなああ~」と、味に磨きがかかります。それこそ、情報の恐ろしさです。何でもそうでしょう。「ウチは魯山人の器を使っておるどす」なぞと言われれば、急に背筋がピンと伸びて、旨さも格別になってくるんじゃないでしょうか。

 そう、食べ物は結局、情報なんですよ。「天保3年創業」の鰻屋とか「嘉永2年創業」の和菓子屋なんて言われれば、震えて、思わず襟を正してしまいます。

 また、宮内庁御用達の銘菓なんて言われれば、何か自分が偉くなったような気分にもなれます。オーギュスト・エスコフィエやポール・ボキューズなんて名シェフの名前が出たりすれば、眼も眩んで圧倒されます。

 味は二の次です。情報を食べているようなものですからね。「ミシュランの星が付けば、絶対に美味い」なんという法律はないのに、多くの人が盲目的に信じ込んでいます。本末転倒ではありますが、これが日本人の哀しい性(さが)なのです。

 要するに、人間の脳は何とでも、騙されてしまうものなのです。

東京の川や堀は米軍空襲の残骸で埋め立てられていたとは!=鈴木浩三著「地形で見る江戸・東京発展史」

 斎藤幸平著「人新世の『資本論』」(集英社新書)は3日ほどで急いで読破致しました。仕方がないのです。図書館で借りたのですが、2年ぐらい待たされて手元に届き、しかも、運が悪いことに、他に2冊、つまり3冊同時に図書館から届いたので、直ぐ返却しなければならなかったからです。

 でも、私は若き文芸記者だった頃、月に30冊から50冊は読破していた経験があるので、1日1冊ぐらいは平気でした。歳を取った今はとても無理ですが…。

 斎藤幸平著「人新世の『資本論』」についての感想は、先日のブログで書きましたので、本日は、今読み始めている鈴木浩三著「地形で見る江戸・東京発展史」(ちくま新書、2022年11月10日初版)を取り上げることに致します。(これも図書館から借りました)

 著者の鈴木氏は、東京都水道局中央支所長の要職に就いておられる方で、筑波大の博士号まで取得された方です。が、大変大変失礼ながら、ちょっと読みにくい本でした。内容が頭にスッと入って来てくれないのです。単なる私の頭の悪さに原因があるのですが、あまりにも多くの文献からの引用を詰め込み過ぎている感じで、スッと腑に落ちて来ないのです。とは言っても、私自身は、修飾語や説明がない固有名詞や歴史的専門用語でも、ある程度知識があるつもりなのですが、それでも、大変読みにくいのです。何でなのか? その理由がさっぱり分かりません…。

 ということで、私が理解できた範囲で面白かった箇所を列挙しますとー。

・江戸・東京の地形は、JR京浜東北線を境に、西側の武蔵野台地と、沖積地である東側の東京下町低地に大きく分けられる。赤羽~上野と田町~品川~大森間では、京浜東北線の西側の車窓はには急な崖が連続する。…この連続した崖が、武蔵野台地の東端で、JRはその麓の部分を走っている。(17ページ)

 ➡ 私は京浜東北線によく乗りますので、この説明は「ビンゴ!」でした。特に、田端駅の辺りは、西側が高い台地になっていて、かつては芥川龍之介の住まいなどもありました。一方、東側は、まさに断崖絶壁のような崖下で、今はJR東日本の車輛の車庫か操作場みたいになっています。東側は武蔵野台地だったんですね!上野の寛永寺辺りもその武蔵野台地の高台に作られていたことが車窓から見える寛永寺の墓苑を見ても分かります。

・江戸前島は、遅くとも正和4年(1315年)から鎌倉の円覚寺の領地だったが、天正18年(1590年)に徳川家康が関東に入府した後、秀吉が円覚寺領として安堵していたにも関わらず、家康が“実行支配”し、江戸開発の中心にした。江戸前島は、本郷台地の付け根部分で、現在の大手町〜日本橋〜銀座〜内幸町辺り。(47〜50ページなど)

 ➡︎ 江戸前島は、日本橋の魚河岸市場や越後屋などの商店が軒先を連なる町人の街となり、銀座はまさしく銀貨鋳造所として駿府から移転させたりしました。江戸前島の西側は日比谷入江という浅瀬の海でしたが、神田山から削った土砂で埋め立てられました。現在、皇居外苑や日比谷公園などになっています。江戸時代は、ここを伊達藩や南部藩など外様の上屋敷として与えられました。当時は、埋め立てられたばかりの湿地帯だったので、さすがに仙台伊達藩は願い出て、上屋敷を新橋の汐留に移転させてもらいます。この汐留の伊達藩邸(現日本テレビ本社)には、元禄年間、本所吉良邸で本懐を遂げて高輪泉岳寺に向かう忠臣蔵の四十七士たちが途中で休息を求めて立ち寄ったと言われています。

・江戸城防御のため、家康は江戸城南の武蔵野台地東端部に増上寺、北東の上野の山の台地に寛永寺を建立した。寺院の広大な境内は、軍勢の駐屯スペース、長大な堀は城壁、草葺などが一般的だった時代の瓦葺の堂塔は「耐火建築物」だった。(50、76ページなど)

 ➡天海上人の都市計画で、特に北東の鬼門に設置された寛永寺は「鬼門封じのため」、南西の裏鬼門に建立された増上寺は、「裏鬼門封じのため」と言われてきましたが、それだけではなかったんですね。増上寺は豊臣方が多い西国の大名が攻め上ってくる監視、寛永寺は伊達藩など奥州から来る軍勢を防ぐ監視のための軍事拠点として置かれていたとは! それぞれ、上野の山、武蔵野台地と高台を選んで設置されたことで証明されます。

 ・東京の都市としての構造や骨格は、江戸時代と連続性があるどころか、実は少しも変わっていないものが多い。…その背景には、江戸幕府から明治新政府になっても、社会・経済システムの多くがそのまま使われ続けたことにあった。明治維新の実態は「政権交代」に近かった。(176,181ページなど)

 ➡この説は大賛成ですね。明治維新とは薩長藩などによる徳川政権転覆クーデターで、新政府は政経システムもそのまま継承したことになります。江戸城は皇居となり、江戸城に近い譜代大名の上屋敷は霞ヶ関の官庁街や練兵場になったりします。外務省外周の石垣は福岡黒田藩の上屋敷時代のものが引き継がれているということなので、今度、遠くから見学に行こうかと思っています(笑)。築地の海軍兵学校は、尾張家、一橋家などの中屋敷跡だったとは…。他に、小石川・水戸家上屋敷→砲兵工廠→東京ドーム、尾張家上屋敷→仮皇居→赤坂御用地などがあります。

 ・昭和20年、米軍による東京大空襲で、都市部の大部分は焦土と化した。…GHQは、東京都に対して、大量の残土や瓦礫を急いで処理するよう命じた。東京はてっとり早く外濠に投棄することを決定した。(196ページ)

 ➡関東大震災の際の瓦礫は、後藤新平東京市長の原案で、埋め立てられたり、整備されたりして「昭和通り」になったことは有名ですが、東京空襲の残骸は、外濠埋め立てに使われたとは知りませんでしたね。それらは、現在の「外堀通り」なったりしてますが、真田濠が埋め立てられて、四ツ谷駅や上智大学のグラウンドになったりしております。そう言えば、銀座周辺は、かつて、外濠川、三十三間堀川、京橋川、汐留川、楓川など川だらけで、水運交通の街でしたが、空襲の瓦礫などでほとんどが埋め立てられ、(高速)道路などに変わってしまいました。(戦災後だけでなく、昭和39年の東京五輪を控えての都市改造もありました)まあ、都心の川や堀がなくなってしまうほど、カーティス・ルメイ将軍率いる米軍の東京爆撃が酷かった(無辜の市民10万人以上が犠牲)と歴史の教科書には載せてもらいたいものです。

 ・

幕藩体制の完成は4代将軍家綱からか=「歴史人」1月号「江戸500藩 変遷事典」

 (昨日のつづき)

 年末年始は、勿論、私は生真面目ですから(笑)、勉学にも勤しんでおりました。主に、エマニュエル・トッド氏の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋)など上下巻の分厚い本に時間を取られて読めなかった「歴史道」「歴史人」「週刊文春」などの雑誌でしたけど(笑)。

 ということで、本日はまたまた月刊誌「歴史人」を取り上げます。昨年12月に発売された1月号「江戸500藩 変遷事典」特集号です。「事典」と銘打っているぐらいですから、情報量が多いったらありゃしない。なかなか、読めませんでしたが、1月4日にやっと読了できました。

 「歴史人」にしては珍しく、誤字脱字が少ないなあ、と思っていたら、細かい字で書かれた「500藩完全データ」の中にありました、ありました。宇都宮藩(71ページ)の主な藩主が「戸田市」(本当は戸田氏)となっていたり、久居藩(84ページ)で「津藩主藤堂高次の次男高通」とするべきところを、「津藩主藤堂高次の次男高が、通」と意味不明の文章になったりしていてズッコケました。

 それでも、偉そうなことばかり言ってはおられません。不勉強な私ですから、知らなかったことばかり書かれておりました。

 まず、江戸時代、「藩」と言わなかったそうですね。大名の所領は、その姓名を冠して「〇〇家領」とか「〇〇領分」と呼ばれ、支配組織も「〇〇家中」というのが通例だったそうです。幕末になって、毛利家家臣たちが、自分たちを「長州藩」と呼ぶようになったのが最初という学説があるようです。

 もう一つ、大老とか老中といった幕閣の超エリート幹部になれる藩主は、譜代大名だけで、外様は勿論、親藩大名も原則的に対象外だったこともこの本で知りました。しかも、老中になれるのも、3万石程度の譜代大名で、10万石クラスになるとあまり登用されないというのです。エリートコースは、まず奏者番(儀礼の際、将軍と大名の取次役)を振り出しに、寺社奉行を兼任し、無事務め上げると、大坂城代や京都所司代に進み、瑕疵がなければ、江戸に戻って老中になれたようです。他に若年寄から老中になるケースも。

 この本には書かれていませんでしたが、天保年間に老中首座になった下総古河藩の藩主だった土井利位(としつら、1789~1848年)も上述した絵に描いたような出世コースを歩んでいました。つまり、奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代→老中のコースです。大坂城代時代に大塩平八郎の乱が起き、利位は、古河藩家老の鷹見泉石(渡辺崋山が描いた肖像画=国宝=で有名で儒学者でもあった)に乱の鎮圧を命じています。ただし、古河藩は譜代大名で、他に何人かの老中を輩出しておりますが、最大時の石高は16万石もありました。土井利位藩主の時代でも8万石あったので、異例の抜擢だったのかもしれません。

 さて、「江戸500藩」とか「江戸300藩」とか言われますが、一体、どれくらの藩があったのでしょうか? 歴史家の河合敦氏によると、江戸幕府成立期は185家で、それが元禄期に234家に増え、幕末期に266家、廃藩置県が行われた明治4年は、283家あったといいます。一方、歴史家の安藤優一郎氏によると、幕末期は275家で、内訳は国持大名と国持並大名が20家、城持大名(城主)が128家、城持並と無城大名(陣屋)が127家となっています。

築地「とん㐂」アジフライ定食1300円 昔の大名もこんな御馳走を食べられなかったでしょうが、混んでいて30分も待たされましたよ

 私は、大の城好きなのですが、全国に300人近くいた大名でも、お城が持てる大名はその半分しかいなかったことが分かりました。そうでなくとも、「一国一城令」で廃城にさせられたケースも多いですからね。陣屋どまりです。そして、正確な数字は出ていませんでしたが、1万石以上が大名と呼ばれて領地を拝領しますが、江戸300藩の大名の大半は1万石、2万石クラスの外様ばかりでした。10万石以上なんて全体から見えればほんのわずかです。ところが、私のご先祖様が俸禄した久留米藩(有馬氏)は21万石で、何とベスト20位になっていたので、誇らしくなってしまいました。幕末275藩のうち、20万石以上が20藩しかなかったとしたら、わずか7%。93%が20万石以下の藩だったということになります。

◇知恵伊豆こと松平信綱の活躍

 これまた、この本には出て来ませんでしたが、徳川家康から4代将軍家綱までの50年間で、231もの藩が改易(お取り潰し)になったようです。中でも、広島藩49万8000石の福島正則の改易が最も有名ですね。福島正則は関ケ原で東軍についたとはいえ、もともと豊臣秀吉の子飼いの重臣でしたから、警戒されたのでしょう。お蔭で、40万人もの浪人が街中に溢れ、家綱時代に由井正雪の乱が起きる原因となりました。由井正雪は、楠木正成の末裔を自称する楠木流の兵法学者でした。この乱を鎮圧したのが、「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱でした。老中松平信綱は、島原の乱を平定した総大将として有名ですが、由井正雪の乱にまで関わっていたことは最近知りました。松平信綱は忍藩3万石の大名から、島原の乱平定の功績で、川越藩6万石の藩主になり老中首座にもなった人です。私の東京の実家近くにある埼玉県新座市の平林寺に葬られており、私も何度も訪れましたが、信綱は生前、川越街道を整備したり、野火止用水を掘削したりした藩主として私も小学生の時、郷土史として習ったことがあるので、大変馴染み深い人です。

 話を元に戻しますと、由井正雪の乱後、4代将軍家綱率いる幕府は「武断政治」から「文治政治」に改め、改易も減っていったといいます。大坂の陣での勝利による「元和偃武」を経て、幕藩体制が完成したからでしょう。武士が刀を脇に置いて、行政官になっていったのです。

初めてのタコス=そして、老舗の料亭は何処か?

 このブログはあまりにも複雑怪奇で、テーマに一貫性がなく、話題も縦横無尽に複層しておりますから、読者の皆様方も付いていくのが大変のことと存じます。

 案の定、昨日は数十人の方が脱落されたようです。アクセス数を見れば分かります。痛恨の極みで御座いまする(苦笑)。

 さて、先日、仙台伊達藩の江戸上屋敷跡を視察のため、東京・汐留の日本テレビ本社を訪れた話を書きましたが、そのビルの(恐らく)1階にメキシコ料理のタコスを売っている「TACO BELLタコベル」があったので、再度、行ってみました。

 勿論、ランチするためです。これまた以前にこのブログに書きましたが、世界各国の料理を食べて、コロナ禍で実際に行けない海外旅行を模擬体験しようと、銀座で、色んな国の料理を食べ歩きをしました。その中で、メキシコ料理にも挑戦したのですが、生憎、私が訪れた数日前にその店は閉店してしまっていたのです。

 「捕らぬ狸の皮算用」とはよく言ったもので、逃したものは気になります。「いつかはタコスなるものを食べてみたいものだ」と、腰を低くしてそのチャンスを狙っていたのでした(大袈裟な!)。

(ダブル)タコスセット 900円

 そして、本日、ついに、タコスなるものを食しました。私の記憶が確かなら、生まれて初めて食べました。

 まあ、こんなものか、といった程度の感想ですが(笑)。

 野菜やひき肉を包んだ皮が、カレーに付くナンのように柔らかいものかと思っていたら、パリパリとはいかなくても、少し硬めでした。まあ、ファストフードといった感じで、対費用効果としてはギリギリかな、といった感じでした。

 さて、またまた皆様には驚かれるかと存じますが、この年になって、いまだに何冊かの本を同時進行で読んでいます。渓流斎は勉強家です。と、誰も言ってくれないので、厚かましく自分で言っているだけで、その実力と内容は全く伴っておりません!

 その一つが、阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房)です。3080円と、私としてはかなり高価な本でしたが、書評で評判でしたので、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買ってしまいました。

 で、大変失礼とは存じますが、正直申して、最初は、著者の文体に付いていけませんでした。私のブログのように(笑)、急に著者の個人的な友人が出てきたり、まるで、週刊誌のグラビア記事を読んでいる感じでした。と、思ったら、著者は、もともと週刊誌のライターさんだったんですね。失礼ながら、好嫌の反応が如実に出る文体です。

 でも、読み進めていくうちに慣れていき、内容も俄然面白くなっていきます。不勉強な私ですから、知らないことばかり出てきます。(そう来なくては!)例えば、和食。「貴族が完成させた儀式的な大饗料理に、僧侶らの高度な調理技術に基づく精進料理を組み合わせたもの」などと色んな定義がありますが、以下のような変遷があることを教えてくれました。

(1)本膳料理=中国や朝鮮半島の影響のもとに生まれ、平安時代に確立。切り方の工夫には日本の独自性あり。

(2)精進料理=平安末期から鎌倉初期にかけて、宋から帰国した僧侶が持ち帰った技術をもとにした魚肉を使わない料理。

(3)懐石料理=本膳料理を発展させた少人数の茶会の席で出された料理。千利休が完成。

(4)会席料理=江戸時代、懐石料理から茶道の要素を抜き、お茶の代わりに酒を料理とともに楽しむものとして登場。

 そして、日本で最初の料亭と言われるのが、元禄年間(1688~1704年)に営業を始めた大坂・四天王寺の「浮瀬(うかむせ)」なんだそうです。松尾芭蕉、司馬江漢、曲亭馬琴ら多くの文化人も訪れたとか。

 江戸は、私も何かの本で読み、聞いたことがある浅草の「八百善」は、享和年間(1801~1804年)に創業。画家の酒井抱一、谷文晁、葛飾北斎、渡辺崋山ら一流の文化人も集まる場所でもあったらしい。幕末、ペリーが来航し、日米和親条約の宴席で出された料理も八百善だったといいます。もっとも、ペリーの口には合わなかったらしい。

 京都と言えば、一番の老舗は、私も、京洛先生のお導きで、中には入らず、長い長い土塀の軒先だけを覗いただけですが、南禅寺門前の「瓢亭」かと思いましたら、高橋嘉兵衛が懐石料理を出し始めたのが天保8年(1837年)と意外と新しい。もっとも、「瓢亭」は、腰かけ茶屋として南禅寺前で始めたのが、今から400年前という長い長い歴史があります。

 京都に現存する老舗料理店は、丸太町の「柿傳」(1721年)、四条大橋近くの「ちもと」(1718年)、袋町の「はり清」(明和年間=1764~1772年)などがあります。

 皆様も是非、訪れて、その感想をお聞かせください。宜しく御頼み申し上げます。

「江戸の銭勘定」は一読の価値あり

自宅近くの本屋さん「よむよむ」で見つけた山本博文監修「江戸の銭勘定」(洋泉社歴史新書)を読んでます。

斯界の権威山本博士は監修になっているので、御本人の執筆ではなく、自分の東大の院生にでも書かせたのかもしれません。あくまでも空想に近い推測ですが(笑)。

それでも面白いことに越したことはありません。恐らくテレビの番組制作会社の三次団体の若いADがクイズ番組の種本にするにはもってこいかもしれません(笑)。

そもそも、私自身は、江戸を舞台にした時代劇や小説や歌舞伎に出てくるお金が今の幾らぐらいになるのか、素朴な疑問がここ何十年もあったのでした。この本はその疑問に見事に答えてくれます。

江戸時代は300年近くも続きましたから、そりゃ、物価の変動はかなりあったことでしょう。そこで、本書では目安として、文化文政期を基本にして、1両=18万円、1匁=3000円、1文=30円としております。

握り寿司一貫4文=120円、蕎麦一杯16文=480円、銭湯8文=240円で、大体現代と変わりませんが、酒一升250文=7500円はちょっと高いですね。

文化文政期の職人(上大工)の年収はおおよそ26両2分=447万円だったようです。

庶民の娯楽の歌舞伎の木戸銭は100文=3000円、大相撲となると銀3匁=9000円と結構したようですね。勿論、座席はピンからキリまでありますから、概算です。

「千両役者」ともなると、年収が1億8000万円ということになるんですか。花形ですね。

私が注目したのは、江戸時代の新聞、瓦版で当時は読売と呼ばれていたそうですが、今もあるじゃん!(笑)

この本によると、現存する最古の読売は、元和元年(1615年)5月8日発行の「大坂阿倍野合戦図」で、あの真田幸村が活躍した大坂夏の陣を報道したものらしいですね。江戸時代の探訪記者、従軍記者も頑張ってたんですね。

このことは、横浜にある日本新聞協会の新聞博物館にもない「新事実」でした(笑)。