「老活の愉しみ」で健康寿命を伸ばしましょう

  読んでいた本(「天皇と東大」)を後回しにして、帚木蓬生著「老活の愉しみ」(朝日新書)を一気に読んでしまいました。奥付の初版発行日が、2020年4月30日です。今日は、母親の誕生日でもある4月28日なので、書店に並んでいたものを素早く見つけて「事前に」に読んでしまったわけです(笑)。

 何で、そんなに急いでいたのかは理由があります。このブログにも書いてしまいましたが、忘れもしません。今月7日に、「ギッキリ脚」をやってしまい、歩行困難になってしまったからです。3週間経った今は、何とか歩けますが、「走るのが怖い」状態です。

 もう一つ。この渓流斎ブログは、「ほぼ毎日」書くことを勝手に自己に課していますが、体調不調のため、そうは言ってられなくなったからです。特に酷いのは眼精疲労で、目も開けていられないぐらいです。原因はスマホとパソコンのやり過ぎなのでしょうが、普通の人より、若い時から「液晶画面」は苦手で、すぐ眼痛が起きやすい体質でした。この眼痛が首痛に来て、それが腕が上がらないほどの肩凝りとなって、頭痛も激しくなり、ブログを書く気が起きなくなります。(そのお蔭で、筆が滑って、大切な友人をなくしてしまう機会も減って助かってますが=苦笑)

 そういう状況ですから、新聞広告でこの本を見つけて、幸いなことに、緊急事態宣言下でも会社の近くの築地の書店が開いていたので、買い求めることができたわけです。

 いやあ、素晴らしい本でした。著者の帚木氏は、御存知のように、東大文学部と九州大学医学部を卒業された方で、作家と医者(精神科医)の二足の草鞋を履いて、貫いている方です。しかも、両方とも超一流で、山本周五郎賞など文学賞の受賞は数多。私も30年ぐらい昔、出版社の記念パーティーでお会いして、名刺交換した程度ですが、「凄い人だなあ」と陰ながら尊敬していた人でした。

 ですから、「精神的不調は身を忙しくして治す」「脳が鍛えないと退化する」「食が全ての土台」「酒は百薬の長にあらず」といったこの本に書かれていることは、ほとんど納得しました。自分はかろうじて、まだ、政府国家が主張する高齢者ではありませんが、老人予備軍として実践していこうと思いました。

 例えば、「靴は健康の必需品」という章の中で、帚木氏は「靴こそは毎日世話になる必需品で、健康が大いに左右されます」として、「スポーツシューズは、何と言ってもフィンランドのカルフが気に入っています。軽くて、どれだけ長く歩いても疲れません。旅行のときはこのカルフに限ります」とまで書いていました。私も一瞬、資本主義の原理で、宣伝臭ささを感じましたが、著者を信頼しているので、早速、ネットで、このカルフとかいうスポーツシューズを注文してしまいました(笑)。足腰が弱ってきましたし、これからも趣味の「お城歩き」を続けたいですからね。

 このほか、人間、年を取ると誰でもサルコペニアと呼ばれる筋肉量が減少する傾向となりますが、同書では、これを予防するための運動(スクワットや下肢挙上運動など)も伝授してくれるので大変参考になります。

 精神科医としての帚木氏は、「森田療法」の権威で、その関連書籍も出版されていますが、森田療法では「症状は人に言わない。見せない。悟られない」というのが鉄則なんだそうです。というのに、渓流斎ブロブの主宰者は、浅はかにも、「あっちが痛い」「こっちが痛い」なぞと散々書きまくっていますね。

 駄目じゃん!

京洛先生を囲む会に暴力教師が紛れ込む話

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨晩は、著名な亀井静香氏もお泊りになる都内のホテルの地下にある高級料亭で、京の都から坂東に下った京洛先生を囲む会が開かれました。

 「鶴の一声」で駆け付けた面々は、老若男女何と30余人。10月に、誰でも名前を聞けばすぐ分かる大手電鉄会社の社長にご就任されたX氏までも参列され、大社長なのに腰を屈めて皆さんに名刺を配っておられました(笑)。

 「おつな寿司セミナー」の流れを汲む京洛先生の人脈は海より深く、私も25年以上ぶりに再会した人もおりました。

 当然、このブログをお読み頂いている方も多く、大変、大変嬉しいことに、前日書いた柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)の本を「早速買いましたよ」と言ってくださる方もおりました。ブログを書き続けてきた甲斐がありましたね。その方は出版社に勤務するインテリさんなのですが、「渓流斎さんの普段のブログは実につまらないですが、ああいう真面目な題材ならいいですね」と、随分と上から目線の御意見を賜りました(笑)。

 愛すべきキャラの赤坂不動尊さんは「ブログを読むと、渓流斎さんは京都では随分、京洛先生からいい店に連れて行ってもらってますね。あたしなんか、毎年祇園祭で京都に25年以上通い詰めているのに、格下の店しか連れて行ってもらえない」と文句たらたらでしたので、「貴方にはファストフード店がお似合いですからね」と、つい本音を言ってしまいました(笑)。

 すると、「ジャーナリストの癖に、ブログに広告が多過ぎる。ジャーナリスト失格ですなあ」と反駁してくるのです。広告は、その人がよく見るサイトに関連したものが追いかけてくるシステムなので、恐らく、赤坂さんのサイト広告にはアダルトものが多いことでしょう(笑)。小生の場合は、どういうわけか、検索もしていないのに、お寺のお墓とか、IT関係、マネジメント関係の書籍の広告が多いですね。ま、サーバー使用料やドメイン代などこのブログを維持するために広告を貼らして頂いてます。ご寛恕願うしかありません。

 先日、半蔵門の国立劇場の近くにある超豪邸は、どなたのお住まいなのか、とこのブログに書きましたが、早速「渓流斎さんは駄目ですねえ。そんなことも知らなったんですかあ~」と絡んでくる人がおりました。残念! グーグルマップにも載っていない謎の人物ですが、あのブログを書いた後、分かりました。やはり、民間人ではなく超VIPの方でしたね。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 そうそう、神戸市立東須磨小学校の暴力教師のような大手新聞社の敏腕記者も紛れ込んでおりました。私がトイレで用をたしていると、酔いに任せて、急に後ろから回し蹴りをしてくるのです。しかも「長いなあ」と言いながら2回も3回も…。

 「ブログに書きますよ」と宥めると、逆上して「激辛カレーを食べさせるぞー」と言い返す始末。ガキですねえ~(笑)。

 ま、いい大人が何十年ぶりかで会っても、こうして和気藹々になれるのですから、やはり持つべきものは友人です。ただし、暴力教師はいけません。実名を公開しますよ(笑)。

古武術の極意は力を抜くこと

東銀座「ねのひ」鮪付定食 750円

先日、NHKのラジオ深夜便を聴いていたら、ゲストの俳優榎木孝明さんが、最近、古武術に凝っていることを話してました。

寝ながらメモも取らず聴いていたので、記憶は曖昧ですが(笑)、古武術の極意とは、力むのとは真逆に「力を抜く」ことなんだそうです。

私のような未熟もんは、いくら歳を取っても、何をしてもすぐ緊張して力(りき)が入ってしまい、挙句の果てには本来の自分の力を充分に発揮できないまま壊れてしまったりしました。

ですから、「力を抜く」という古武術に少し興味を持ちました。合気道なんかもそれに通じるものがあるのかもしれませんね。

あと、面白かったのは、歩き方です。我々は普段、まあ右脚を前に出したら、左手を後ろに、左脚を前に出したら、右手を後ろにと左右交互にしますね。それは、明治になって、フランスかドイツかの軍隊の行進に倣ったもので、実は、昔の日本人は左右交互にしないで、右脚が出たら右手、左脚が出たら左手と、いわば間が抜けたような歩き方をしていたそうですね。

本当かな?とは思いましたが、能役者や歌舞伎俳優の摺り足なんかに残っているそうです。

だから、「左右交互にしないで歩いてしまう人は、昔の日本人のDNAが残っているのでは」などと榎木さんは話してましたが、「なるほどねえ」と思ってしまいました。

ミラノ・スカラ座

ということで、昨日から「世界最小メディア」と称して「渓流斎日乗」を再開致しました。

何の衒いも気負いもありません。古武術のように力を抜いた精神で、亀の歩みで日々を過ごしていきたいと思っております(笑)。

皆様も「昼の憩い」のように、「農林水産通信員」として珍しい情報があればお知らせくださいね。

藤原新也『黄泉の犬』

Hi!

久しぶりに読み応えのある書物に接しました数時間で一気に読んでしまいました。

藤原新也著『黄泉の犬』(文藝春秋)です。表紙は、彼を一躍有名にした野犬が人間の死体に群がって食いついている写真です。あの「人間は犬に食われるほど自由だ」というコピーで物議を醸したあの写真です。

オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫のルーツを辿る旅から始まりますが、同書の根幹は、若き藤原新也がなぜ日本を飛び出してインドを放浪することになったのか、その理由と背景と心情と精神的心因性を初めて披瀝しており、藤原新也という世に言う写真家・作家とは何者だったのかを解明する一種の集大成になっています。

「印度放浪」「東京漂流」「メメント・モリ」「乳の海」「アメリカ」「平成幸福音頭」、そして最新作の「渋谷」と曲がりなりにも彼の著作と20年以上付き合ってきた読者の一人として、この本を読んで、「藤原さんとはそういう人だったのか」と初めて分かったような気にさせてくれました。

表紙になった人間を食う犬は、中洲でたった一人だけで撮影したもので、一旦、引きさがった野犬が、仲間を引き連れて、まるでヤクザの出入りのように、藤原氏を襲いに戻ってきた話など初めてこの本で知りました。結局、九死に一生を得て、こうして今、彼は生きているのですから、どうやって難から逃れたのか、ぜひ同書を読んでみてください。

同書には、実は、私も登場します。44ページから45ページにかけてです。具体的な会社や名前は出てきませんが、確かに私というか、私が所属していた組織のことを書いています。もう12年前の話ですが、彼はもちろん、非難以上に断罪しています。私としては、原稿を依頼した当事者だったので、何とも言いにくいのですが、彼の言い分は当然の話で、原稿をボツにした組織の不甲斐なさを感じたものです。(でも、いつか、この話は書くだろうなあ、という予感があったので驚きませんでした。)

私の人生で最も影響を受けたビートルズも断罪しています。ちょっと引用しますと「西欧人は植民地の時代以来アジア、アフリカ、南太平洋、南米といった地域の有色人種を支配してきた。しかし近代においてその合理思想に破綻をきたしはじめて以降、有色人種地域に対する無知と蔑視が、逆に思い入れ過剰な期待感へと裏返って、自らの世界に欠落する非合理性や神秘性をそれらの地域に求めるという逆転現象が起こった。(中略)その最たる象徴がビートルズだった。…」

よく知られているように、ビートルズ、特にジョージ・ハリスンを中心にジョン・レノンもポール・マッカートニーもインド宗教に一時期衷心となり、聖者マハリシ・マヘシュ・ヨギに帰依したことがあります。(後にジョンは「セクシー・セディー」でマハリシを批判)

このマハリシがいたのが、インドの聖地と呼ばれるリシケシュという所ですが、実は、ここは貧乏人を全く相手にせず、最も通俗的な所で、エセ宗教家と金満未亡人ら俗物の集まる所だというのです。藤原氏もマハリシのことを「インド風の屁理屈をこねて白人の女を見るやそのケツを追い回すセックス狂坊主であったことがのちに発覚する」とまで書いています。ビートルズは、60年代末から70年代にかけて、欧米で瞑想ブームの魁になっていたわけですが、同時期にインドを放浪していた藤原氏は随分いかがわしい宗教もどきのペテン師を見てきたことを暴露しています。

インド放浪で実体験した者として、藤原氏は

「たとえば路上に人の屍がころがり、乞食たちがむせかえるような臭いを発散させ、舌にヒリつくようなメシを喰らい、重度の象皮病やハンセン病巻患者が路上で手をさし出し、人の屍を喰う野犬が徘徊し、熱球のような太陽に頭頂を直射され、盗人にかっ攫われ、細菌に腸を占拠され、洪水に足をとられ、旱魃に渇き、砂漠のトゲに脛の血をしたたらせる、そんな、あるいはこの世界の中で最もファンタジーから遠い、”現実原則”のむき出しのこの地に、現実回避型の青年たちが大挙して訪れるというこの奇妙。」

と経験者でしか書けないことを独特の文体で表記しています。

とにかく、「ほとんどメモをとらない」という藤原氏の驚きべき記憶力には脱帽しました。

惜しむらくは、65ページの「潮汗」は「潮汁」の校正ミスだと思います。大出版社の校閲力の衰えという由々しき事態ではないでしょうか。

それでも、この本は、お奨めです !