謎の100部隊と満洲国の「真の姿」=「満洲における日本帝国の軌跡の新発掘」ー第49回諜報研究会

 4月15日(土)、東京・高田馬場の早稲田大学で開催された第49回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究所共催)の末席に連なって来ました。同研究会にはここ数年、コロナの影響でZOOM会議では参加しておりましたが、実際に会場に足を運んだのは4年ぶりぐらいでしょうか。久しぶりにお会いする旧知の方とも再会し、まるで同窓会のような雰囲気でした。

 何と言っても、今回登壇されたお二人の報告者が、もう20年近く昔に謦咳を接して頂いた私淑する人生の大先輩ですので、雨が降ろうが嵐が吹こうが、万難を排して参加しなければなりませんでした。実際、この日は雨が降っておりましたが(笑)。

 今回の諜報研究会の大きなテーマは「満洲における日本帝国の軌跡の新発掘」でしたが、最初の報告者は、加藤哲郎一橋大学名誉教授で、タイトルは「人獣共通感染症とワクチン村 731部隊・100部隊の影」でした。事前にメール添付で各人に資料が送られて来ましたが、加藤先生の場合、簡単なレジュメどころか何と70ページにもなる浩瀚なる資料だったので絶句してしまいました。

 こんな長尺な資料から醸し出される講演について、このブログで一言でまとめることは私の能力では無理なので、「概要」から特に印象に残ったことだけ記させて頂きます。講演は、政治学者である加藤哲郎氏と獣医疫学者である小河孝氏がコラボレーションして共著された「731部隊と100部隊ー知られざる人獣共通感染症研究部隊」(花伝社、2022年)の話が中心でした。私自身は石井四郎の731部隊に関しては存じ上げておりましたが、100部隊については、全く知りませんでした。この部隊は、細菌戦研究・生体実験実行部隊として活動した「関東軍軍馬防疫廠100部隊」が正式名称で、歴史の闇の中に隠れておりましたが、小河孝氏による「新発掘」のようです。

 ズルして、概要について、少し改編して引用させて頂きますと、「中国大陸や東南アジアで細菌戦や人体実験を行ったのは、医学者、医師中心の関東軍防疫給水部『731部隊』(哈爾浜) だけではなく、 馬を『生きた兵器』とした軍馬防疫廠『100部隊』(新京)も重要な役割を果たしていた。 戦後、731部隊関係者は米軍に細菌戦データを提供して戦犯訴追を免れるが、軍歴を問われなかった獣医たちはGHQと厚生省、農林省に協力して伝染病撲滅のワクチン開発に職を得た。 そこに人獣共通感染症を研究してきた旧731部隊医師が加わり、彼らは1948年にジフテリア予防接種事件(84人死亡、1000人被害)を起こしながらも、感染症が蔓延した占領期の『防疫』に従事し、その後も日本のワクチン産業を支えた。 2020年年以来の新型コロナに対する日本の医療にも、731部隊・100部隊出身者の系譜を引く「防疫」の影がみられた。」

 これだけの概要だけでも、「えーー、本当ですか?」と胸騒ぎがしますが、加藤氏は、一つ一つ、実証例と関係者の実名を明らかにして解説してくれました。特に、驚かされたことは、究極的に、言論思想統制の「防諜・検閲」と、感染症対策の「防疫・検疫」は相似形で、明治の山縣有朋以来、同時進行で行われ、戦前の最大官僚だった内務省の対外インテリジェンスの二本柱であったという事実です。それだけではなく、現在の新型コロナの感染対策も明治以来の施策が色濃く残り、旧731部隊、100部隊出身者が設立した病院や彼らが開発したワクチンや医薬品、それに彼らが旧職を隠して潜り込んだ大学や製薬会社などがあったという史実でした。

 加藤氏は、医師の上昌広氏がコロナ・パンデミックに際して発表した「この国(日本)は患者を治すための医療ではなく、日本社会を感染症から守る国家防疫体制でコロナに対応している。(中略)明治以来の旧内務省・衛生警察の基本思想がそのまま生きる、通常医療とは別の枠組みからなっている。先進国では日本以外ない」(「サンデー毎日」2021年9月5日)といった記事も「裏付け」として紹介されていました。

 また、「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」のメンバーの出身を検証すると、(1)国立感染症研究所(感染研)は、国立予防衛生研究所(予研)と陸軍軍医学校防疫部の流れを汲み、この軍医学校防疫部から731部隊が結成されます。(2)東京大学医科学研究所は、伝染病研究所の流れを汲み、(3)国立国際医療センターは、陸軍病院の流れを汲み、(4)東京慈恵医科大学は、海軍生徒として英国に留学した高木兼寛らが創立し、海軍との関係が深かった、ということになります。まさに、人材的に、戦前と戦後は途切れたわけではなく、その歴史と系統と系譜は脈々と続いていたわけです。

 100部隊の獣医師らについては、農林省の管轄であったこともあり、戦後はほとんど公職追放されることなく無傷で、ワクチン業界に入ったり、学会に戻ったりした人も多かったといいます。後に岩手大学長になった加藤久弥や新潟大農学部長になった山口本治らの実名が挙げられていました。

 このほか、ワクチン製造会社で有名なデンカ生研は、電気化学工業(現デンカ)の子会社ですが、その前は東芝の子会社として1950年に設立され、戦前は東芝生物理化学研究所新潟支部で、もっと辿れば、1944年に設立された陸軍軍医学校新潟出張所が母体になっていたといいます。陸軍軍医学校とは、勿論、石井四郎の731細菌部隊を輩出した母体でもあります。

 次に登壇されたのが、ジャーナリストの牧久氏でした。タイトルになった「転生」ですが、私はこの本について、このブログでも昨夏、二度にわたって紹介させて頂きました。(2022年8月9日付「8月9日はソ連侵攻の日=牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」」と同年8月12日付「周恩来と日本=牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」」です。)牧氏らしく、多くの資料を渉猟して、満洲国皇帝、愛新覚羅溥儀とその実弟溥傑と日本人妻嵯峨浩を中心にした波乱万丈の生涯と満洲帝国の「真の姿」を描き切った労作です。

 今回の諜報研究会の大きなテーマになっている「新発掘」というのは、これまで散々流布されてきた「傀儡国家・偽満洲」ではなく、残された資料から、皇帝溥儀と満洲帝国の「真の姿」を炙り出したことが「新発掘」に繋がると思います。

 つまり、自己批判の回顧録として書かされた溥儀の自伝「我が半生」には、自分の都合の悪いことは書かれず、また、東京裁判で証言に立った溥儀が、自分は関東軍にピストルを突き付けられ、脅迫されて即位した皇帝で、満洲は傀儡国家だったいった趣旨の発言も虚言だったことを暴いたのです。歴史の資料というものは、100%真実が書かれているわけではないのです。

 私も、自分自身の思い込みなのか、教育でそう教え込まれたのか分かりませんが、溥儀の言う通り、満洲は傀儡国家で、皇帝溥儀には何ら自由も決定権もなく、関東軍に操られた人形に過ぎなかった、と信じておりましたが、牧氏の「転生」(小学館、2022年)を読むと、そうではなかったことが分かります。溥儀は、清朝最後の「ラスエンペラー」で、辛亥革命で退位させられたものの、実は、清朝復辟(復活)を夢見て、日本(軍)を利用しようと目論んでいたというのです。そのためにも、実弟溥傑を日本の陸軍士官学校に留学させたりします。

 また、溥儀は、満洲国皇帝に即位して、昭和10年に初来日した際、大歓迎を受け、特に貞明皇太后(昭和天皇の母)から、我が子のように手厚いもてなしを受けたことから、「自分は天皇の兄弟ではないだろうか」と大錯覚してしまうのです。満洲に帰国すると、溥儀は自ら率先して、天照大神をまつる建国神廟を建立するなど、各地に神社をたてます。これも、以前は、「日本人が強制的に満洲に無理やりに神社を建立させた」と、私自身も思い込み、「可哀想な満洲の人たち」と思っていたのですが、溥儀自らが決断したことだったことが分かりました。

 私も、牧氏が仰るように、同じように「歴史修正主義者」ではありませんが、やはり、少なくとも歴史教科書には真実を書くべきであると思っています。諸説ある場合は、違う説も並列して記述するべきです。そうすれば、学徒も間違った思い込みをしたまま、老いて一生を終えたりしないと思います。

 

嗚呼、夢の絶頂から敗戦へ=南満洲鉄道復刻保存会編「特急あじあ号復刻時刻表」(大洋図書)

 先日、拙宅に本が送られてきました。大洋図書というあまり聞いたことがない(失礼!)出版社の封筒に入っていて、差出人は不明。私は昔、文芸記者をやっていたことがあるので、会社だけでなく、自宅にも贈呈本や献本が送られて来ることがありますが、この出版社はあまり御縁がなかった出版社です。

 開封してみたら、その本は、南満洲鉄道復刻保存会編「特急あじあ号復刻時刻表」(2022年10月20日初版、1540円)というグラフ誌でした。「お~!」と歓声を挙げました(笑)。私の趣味というか関心に合った本です。一体、どなたが送ってくださったのか? 封筒には手紙もメモも入っていません。あら不思議。

 ということで、ページを捲ってみたら、思い当たるフシが見つかりました。知己のノンフィクション作家、斎藤充功氏が本文の中で、「『あじあ』を作った男たち」(28ページ)、「満鉄の旅」(54ページ)を執筆し、さらには、写真や資料の提供者としても名を連ねていたのです。「ははあん、斎藤さんが出版社を通じで送ってくださったのかあ」。そこで、斎藤氏に御礼のメールをしたのですが、返事なし。あれ? 御高齢なので、体調でも崩されたのでしょうか? 入院でもされているのかしら? 少し心配になりました。

大洋図書「特急あじあ号復刻時刻表」の14~15ページ

 正直、大洋図書という出版社について無知だったので、調べてみました。ノンフィクションなど硬い書籍を出している一方、漫画や成人向けの愉しそうな本もかなり出している1952年創業の老舗出版でした。出版不況と言われている中、本屋さんに行けば、コミック誌や成人雑誌のコーナーの面積が広いことから、その筋のジャンルが売れどころだということが分かります。あまり聞いたことがない出版社なのに(これまた失礼!)、都心に自社ビルらしきものを構えていることから、かなり羽振りの良い出版社だと想像されます。

 大洋図書の小出英二会長さまにおかれましては、売れなくても(またまた失礼!)、真面目なノンフィクションをどんどん出版してほしいものです。

 真面目な話、この本は歴史的資料価値が高いと断言してもいいです。当時のグラフ誌に掲載されていた貴重な写真や、鉄道マニアならたまらない当時の時刻表まで収録されています。

◇あじあ号とは?

 あじあ号は、昭和9年(1934年)11月1日、大連~新京(現長春)間約701キロを、最高速度130キロ、8時間30分で運転を開始し、「夢の超特急」と呼ばれました。勿論、当時「世界一」の列車です。その後、大連から哈爾濱まで約950キロまで延長して運行しましたが、昭和18年に休止してしまいます。あじあ号は夢の超特急ですから、現代人はディーゼル車か電気鉄道を想像してしまいますが、当時はまだ蒸気機関車だったのです。流線形のパシナ型と呼ばれていました。このパシナ型を設計した旅順工科大学卒の吉野信太郎と時代背景については、この本の「『あじあ』を作った男たち」中で、斎藤充功氏が詳しく書いております。

 日本の近現代史、特に昭和史に興味がある方にとって、好悪は抜きにして「日本の生命線」と言われた満洲問題を抜きにしては語られません。満洲の中でも満鉄のことを抜きにしては、満洲は語られません。満鉄とは、南満洲鉄道の略称で、鉄道会社と言っても間違いないのですが、大連汽船や満洲航空などの運輸交通関係、昭和製鉄所などの工業関係、日満商事などの商社関係、南満洲電気や満洲瓦斯などのインフラ関係、それに満洲日日新聞などのマスコミ関係等の会社も傘下に入れていたコングロマリットだったのです。1937年3月時点で満鉄の関連事業は80社だったといいます。

大洋図書「特急あじあ号復刻時刻表」(当時のまんまの復刻版)

 この本のタイトルになっている通り、巻末には当時発行された「満洲 列車時刻表」(昭和14年11月1日改正など)が復刻再掲されております。驚いたことに、大連から南満州鉄道とシベリア鉄道を経由して巴里(パリ)までの直行便まであったのですね。この時刻表を見る限り、大連を1日に出発するとパリには11日に到着するようなので、何と11日間の旅。東京からパリまで飛行機なら約13時間で行ける現代人から見れば気が遠くなる優雅な旅です(笑)。当時は朝鮮半島も満洲も日本の領土(つまり植民地ですが)だったので、東京から下関や門司でフェリーに乗って、釜山や大連を経て満鉄に乗れましたから、東京駅で「巴里まで、一枚!」と切符を買う富裕層もいたかもしれません。

 ソ連は昭和20年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満洲に侵攻します。終戦時、国策会社の満鉄の資本金は24億円、従業員約40万人、満鉄の営業路線は1万2500キロ、機関車、貨車、客車の総計は4万6995両。資産総額は、鉄道資産に限っただけでも今日の評価で30兆円はくだらないと言われています。

 その膨大な資産は、今はロシアとなってウクライナに侵攻しているソ連軍によって全て接収されました(34ページ)。現代の若い日本人はこの事実をほとんど知りませんが、世界史的に見ても、稀に見る蛮行です。機関車、貨車、客車は、恐らく、シベリア鉄道でソ連領まで運んだことでしょう。

エリート群像と名もなき庶民の声=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、やっと平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読了できました。565ページの大作ですから、2週間以上掛かりました。登場人物は、巻末の索引だけでも、ざっと950人。まさに、大河ドラマです。

 満洲と言えば、最初に出て来るのは、東条英機(関東軍参謀長)、星野直樹(満洲国総務長官)、岸信介(満洲国総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)、鮎川義介(日産コンツェルン⇒満洲重工業総裁)の「ニキ三スケ」です。それに加えて、何と言っても「大杉栄殺害事件」の首謀者から満映理事長にまで転身した甘粕正彦(昭和19年1月、甘粕は、芸文協会の邦楽部長藤山一雄に対して、「藤山さん、あれは私ではないよ」と呟くように言った。=41ページ)と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」です。(この名称は、著者が「勝手に命名した」と「あとがき」に書いております。)

 とはいっても、この7人のうちに章を立てて取り上げられているのは、星野直樹と松岡洋右の二人だけです。勿論、残りの5人と満洲事変を起こした板垣征四郎と石原莞爾は、陰に陽に頻繁に「脇役」として登場し、完全に主役を食っている感じです。そんな彼らについては多くの紙数が費やされていましたが、731細菌部隊の石井四郎や満洲国通信社の阿片王・里見甫、作家の長谷川濬、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明らはほとんど出てきませんでした。(著者は「あとがき」で、取り上げたかったが、残念ながら出来なかった人物として、「もう一人の男装の麗人」望月美那子、「満洲イデオローグ」評論家の橘樸=たちばな・しらき=、「満蒙開拓の父」加藤完治らも挙げています。)

 その代わりに多く取り上げられていたのが、小林秀雄や長与善郎、八木義徳、榛葉英治、島木赤彦といった文学者と「満洲の廊下トンビ」小坂正則(報知新聞新京支社長⇒満映嘱託など)、石橋湛山(東洋経済)、石山賢吉(ダイヤモンド社)、「朝日新聞の関東軍司令官」武内文彬(奉天通信局長)、「女優木暮美千代の夫」和田日出吉(時事新報⇒中外商業新報⇒満洲新聞社長。坂口安吾が振られた美人作家矢田津世子とも付き合っていた艶福家)といったジャーナリストたちです。彼らは、満洲関連の多くの文献を残しているせいかもしれません。

 著者も「あとがき」に書いているように、この本が主眼にした時代は「ニキ三スケ」の時代で、初期の満州事変や末期のソ連軍侵攻の悲劇にはそれほど触れられていません。従って、登場する中心人物は、「白紙に地図を書くように」これまでにない新しい国家をつくろうとする野心と理想に燃えたエリートたちで、筆者も「満洲国は関東軍と日系官僚が作った国家であったから、近代日本の二つの秀才集団である軍人と官僚は欠かせなかった」と振り返っています。軍人では、植田謙吉(関東軍司令官)、小磯国昭(関東軍参謀長)、岩畔豪雄(関東軍参謀)、官僚では、古海忠之(大蔵省⇒総務庁次長)、大達茂雄(内務省⇒国務院総務庁長)、「満洲国のゲッベルス」武藤富男(司法省⇒総務庁弘報処長)、「満洲の阿片行政の総元締め」難波経一(大蔵省⇒専売公署副署長)らに焦点が当てられ、意外な人物相関図や面白い逸話が披露されています。

 一つ一つご紹介できないので、是非、手に取ってお読み頂けれたらと存じます。好評なら、今度は「もう一人の男装の麗人」望月美那子や「満洲イデオローグ」評論家の橘樸らを取り上げた「続編」が出るかもしれません。

東京・銀座「わのわ」お刺身定食1000円

 ただ、本書に登場する人物は、ほとんど陸士―陸大を出た超エリート軍人か、東京帝大を出て高等文官試験に合格した超エリート官僚ばかりです。皆、新しい国をつくろうと燃えた人たちでしたが、その下には何百万、何千万人という漢人、満人、蒙人、鮮人(当時の名称)ら虐げられた人がいたことも忘れてはいけません。

 巻末年表を見ると、歴史的に、漢人が「化外の地」(中華文明が及んでいない野蛮な土地)として相手にもしていなかった満洲の地を最初に侵略したのはロシアで、1900年のことでした。満州に東清鉄道を敷設し、ハルビンなどの都市を建設していきます。それが、1904~5年の日露戦争での大日本帝国の勝利で、日本の満洲での権益が拡大していきます。

 昭和初期、金融恐慌などに襲われた日本にとって、満洲は理想の希望に溢れた開拓地で、「生命線」でもありました。一攫千金を狙った香具師もいたでしょうが、職や開拓地を求めて大陸に渡った日本人も多くいます。先日、名古屋で14年ぶりに会った旧友K君と話をしていて、一番驚き、一番印象に残った話は、私も面識のあったK君の御尊父が、16歳で満洲に渡り、満鉄に就職したことがあったという事実でした。16歳の少年でしたから、この本に出て来るような東京帝大出のエリートとは違って、「使い走り」程度の仕事しかさせてもらわなかったことでしょう。

 それでも、そこで、かなり、日本人による現地人に対する謂れのない暴行や差別や搾取を見過ぎて来たというのです。「それで、すっかり親父はミザントロープ(人間嫌い)になって日本に帰ってきた」と言うのです。

 K君の親父さんは、本に登場するような、つまり、字になるような有名人ではありませんでした。が、私自身は、身近な、よく知った人だったので、活字では分からない「真実」を目の当たりにした感じがしました。お蔭で、聞いたその日は、そのことが頭から離れず、ずっと、頭の中で反芻していました。

【参考】

 付 「傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

 「細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

(つづき) 

 やはり、予想通り、平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)にハマって、寝食を忘れるほど読んでおります。昭和時代の初めに中国東北部に13年半存在した今や幻の満洲国を舞台にした大河ドラマです。索引に登場する人物だけでも、953人に上ります。この中で、一番登場回数が多いのが、「満洲国をつくった」石原莞爾で56回、続いて、元大蔵官僚で、満洲国の行政トップである総務長官を務めた星野直樹(「ニキサンスケ」の一人、A級戦犯で終身刑となるも、1953年に釈放)の46回、そして昭和天皇の32回が続いています。

 私は、この本の初版を購入したのですが、発行は「2022年4月20日」になっておりました。それなのに、もう4月30日付の毎日新聞朝刊の書評で、この本が取り上げられています。前例のない異様な速さです。評者は、立花隆氏亡き後、今や天下無敵の「読書人」鹿島茂氏です。結構、辛口な方かと思いきや、この本に関してはかなりのべた褒めなのです。特に、「『ニキサンスケ』といった大物の下で、あるいは後継者として働いた実務官僚たちに焦点を当て、彼らの残した私的資料を解読することで満洲国の別のイメージを鮮明に蘇らせたこと」などを、この本の「功績」とし特筆しています。

 鹿島氏の書評をお読みになれば、誰でもこの本を読みたくなると思います。

 とにかく、約80年前の話が中心ですが、「人間的な、あまりにも人間的な」話のオンパレードです。「ずる賢い」という人間の本質など今と全く同じで変わりません。明があれば闇はあるし、多くの悪党がいれば、ほんの少しの善人もいます。ただ、今まで、満洲に関して、食わず嫌いで、毛嫌いして、植民地の先兵で、中国人を搾取した傀儡政権に過ぎなかったという負のイメージだけで凝り固まった人でも、この本を読めば、随分、印象が変わるのではないかと思います。

 私自身の「歴史観」は、この本の第33回に登場する哈爾濱学院出身で、シベリアに11年間も抑留されたロシア文学者の内村剛介氏の考え方に近いです。彼は昭和58年の雑誌「文藝春秋」誌上で激論を交わします。例えば、満鉄調査部事件で逮捕されたことがある評論家の石堂清倫氏の「満洲は日本の強権的な帝国主義だった」という意見に対して、内村氏は「日本人がすべて悪いという満洲史観には同意できません。昨日は勝者満鉄・関東軍に寄食し、今日は勝者連合軍にとりついて敗者日本を叩くというお利口さんぶりを私は見飽きました。そして心からそれを軽蔑する」と、日本人の変わり身の早さに呆れ果てています。

 そして、「明治11年(1878年)まで満洲におったのは清朝が認めない逃亡者の集団だった。満鉄が南満で治安を回復維持した後に、山東省と直隷省から中国人がどっと入って来る。それで中国人が増えるんであって、それ以前の段階でいうならあそこはノーマンズ・ランド(無主の地)。…あえて言うなら、満洲人と蒙古人と朝鮮人だけが満洲ネーティブとしてナショナルな権利を持っていると思います。(昭和以降はノーマンズ・ランドとは言えなくなったが)、ロシア人も漢民族も日本人も満洲への侵入者であるという点では同位に立つ」と持論を展開します。

銀座「大海」ミックスフライ定食950円

 また、同じ雑誌の同じ激論会で、14歳で吉林で敗戦を迎えた作家の澤地久枝氏が、満洲は「歴史の歪みの原点」で、「日本がよその国に行ってそこに傀儡国家を作ったということだけは否定できない」と糾弾すると、内村氏は「否定できますよ。第一、ソ連も満洲国に領事館を置いて事実上承認してるから、満洲国はソ連にとって傀儡国家ではない」とあっさりと反駁してみせます。そして、「それじゃ、澤地さんに聞きたいけど、歴史というものに決まった道があるのですか? 日本敗戦の事実から逆算して歴史はこうあるべきだという考え、それがあなたの中に初めからあるんじゃないですか?」と根本的な疑問を呈してみせます。

 長い孫引きになってしまいましたが、石堂氏や澤地氏の言っていることは、非の打ち所がないほどの正論です。でも、当時は、そして今でも少数派である内村剛介の反骨精神は、その洞察力の深さで彼らに上回り、実に痛快です。東京裁判で「事後法」による罰則が問題視されたように、人間というものは、後から何でも「後付け」して正当化しようとする動物だからです。内村氏は、その本質を見抜いてみせたのです。

 この本では、鹿島氏が指摘されているように、有名な大物の下で支えた多くの「無名」実務官僚らが登場します。「甘粕の義弟」星子敏雄や型破りの「大蔵官僚」の難波経一、満洲国教育司長などを務め、戦後、池田勇人首相のブレーンになり、世間で忘れられた頃に沢木耕太郎によって発掘された田村敏雄らです。私もよく知らなかったので、「嗚呼、この人とあの人は、そういうつながりがあったのか」と人物相関図が初めて分かりました。 

 難点を言えば、著者独特のクセのある書き方で、引用かっこの後に、初めてそれらしき人物の名前がやっと出てくることがあるので、途中で主語が誰なのか、この人は誰のことなのか分からなくなってくることがあります。が、それは多分私の読解力不足のせいなのかもしれません。

 著者は、マニアックなほど細部に拘って、百科事典のような満洲人脈図を描いております。細かいですが、女優原節子(本名会田昌江)の長兄会田武雄は、東京外語でフランス語を専攻し、弁護士になって満洲の奉天(現瀋陽市)に住んでいましたが、シベリアで戦病死されていたこともこの本で初めて知りました。こういった細部情報は、ネットで検索しても出てきません。ほとんど著者の平山氏が、国会図書館や神保町の古書店で集めた資料を基に書いているからです。そういう意味でも、この本は確かに足で書いた労作です。

傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、ようやく平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読み始めております。索引を入れて565ページの超大作。百科事典に見紛うばかりのボリュームです。

 この本の存在を知らしめて頂いたのは、満洲研究家の松岡將氏です。実は、本として出版される前に、ネット上で全編公開されていることを松岡氏から御教授を受けました(現在、閉鎖)。そこで、私も画面では読みにくいので、印刷して机に積読していたのですが、他に読む本が沢山あって、そちらになかなか手が回りませんでした。ついに書籍として発売されるということでしたので、コピーで読んでいたんではブログには書けない気がして購入することにしたのです。

 最初に「あとがき」から読んだら、松岡將さんが登場されていたので吃驚。ウェブ連載中にたびたび間違いを指摘されたそうで(笑)、著者からの感謝の言葉がありました。松岡氏は索引にも登場し、彼の著書「王道楽土・満洲国の『罪と罰』」等も引用されています。

 「あとがき」にも書かれていましたが、著者の平山周吉氏の高校時代(麻布学園)の恩師だった栗坪良樹氏(文芸評論家、元青山女子短大学長)が、松岡將氏の母方の従弟に当たるという御縁もあります。著者プロフィールで、平山氏は、「雑文家」と称し、本名も職歴も詳しく明かしていないので、「世界的に影響力のある」このブログでも詳しくは書けませんが(笑)、某一流出版社の文芸誌の編集長などを歴任されたそうで、「週刊ポスト」で書評も担当されています。

東銀座「創作和食 圭」週替わりランチ1500円

 振り返ってみれば、私の「満洲」についての関心は、松岡氏からの影響もありますが、知れば知るほど、関係者や有名人がボロボロ出てくる驚きがあり、大きな森か沼にはまってしまったような感じなのです。

 「ニキサンスケ」の東条英機、星野直樹、岸信介、松岡洋右、鮎川義介を筆頭に、吉田茂、大平正芳、椎名悦三郎、何と言っても「主義者殺し」から満映理事長に転身した甘粕正彦と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」、731細菌部隊の石井四郎、満洲国通信社の阿片王・里見甫、「新幹線の父」十河信二、作家の長谷川濬、檀一雄、澤地久枝、評論家の石堂清倫、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明、李香蘭、木暮美千代、歌手の加藤登紀子、指揮者の小澤征爾、岩波ホールの支配人だった高野悦子…と本当にキリがないほど出て来るわ、出て来るわ。

 もう出尽くしたんじゃないか、思っていた頃に、この「満洲国グランドホテル」に出合い、吃驚したと同時に感服しました。これでも、私もかなり満洲関係の本を読んできましたが、知らなかったことが多く、著者は本当に、よく調べ尽くしております。目次から拾ってみますと、「小林秀雄を満洲に呼んだ男・岡田益吉」「『満洲国のゲッベルス』武藤富男」「『満洲の廊下トンビ』小坂正則」「ダイヤモンド社の石山賢吉社長」「関東軍の岩畔豪雄参謀、陸軍大尉の分際で会社を65を設立す」「誇り高き『少年大陸浪人』内村剛介」…、このほか、笠智衆や原節子らも章が改められています。

躑躅

 キリがないので、最小限のご紹介に留めますが、小林秀雄を満洲に呼んだ岡田益吉とは、読売新聞~東京日日新聞の陸軍担当記者から、満洲国官吏に転じ、協和会弘報科長などを務めた人。東日記者時代は、永田鉄山参謀本部第二部長から、国際連盟脱退の決意を聞き、大スクープ。満洲時代は、「張作霖事件」の首謀者河本大作と昵懇となり、「張作霖の場合民間浪人を使ったので、機密が民政党の中野正剛らに漏れ、議会の問題になったので、今度(柳条湖事件)は現役軍人だけでやった。本庄繁軍司令官は翌年の3月、河本が本庄に告白するまで知らなかった」ことまで引き出します。

 「満洲の廊下トンビ」小坂正則とは、岡山県立第一商業を出た後、渡満し、満洲では、秘密警察的存在だった警務司偵輯室員と報知新聞記者などの二足の草鞋を履き、同郷の土肥原賢二大佐(奉天特務機関長)や星野直樹・総務庁長(間もなく総務長官と改称)ら実力者の懐に飛び込み、その「廊下トンビ」の情報収集力が買われ、諜報員と記者の職を辞しても、複数の嘱託として「月収3000円」を得ていたという人物です。

 まあ、人間的な、あまりにも人間的な話です。とにかく、この本を読みさえすれば、複雑な満洲人脈の相関図がよく分かります。(この話は多分、つづく)

偽札、本物金貨、何でもあり=斎藤充功著「陸軍中野学校全史」

 既にこのブログで何回か取り上げさせて頂きましたが、最近はずっと斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)の大著を読んでいます。

 この本は、1986年9月から「週刊時事」(時事通信社、休刊)に連載した「謀略戦・ドキュメント陸軍登戸研究所」をきっかけに中野学校について関心を持った著者の斎藤氏が、その後刊行した「陸軍中野学校 情報戦士たちの肖像」(平凡社新書、2006年)、「スパイアカデミー陸軍中野学校」(洋泉社、2015年)など「中野」関係本8冊のうち5冊の単行本を元に再編集して、627ページの一冊の大著としてまとめたものです。

 40年近い取材活動で、斎藤氏が中野関係者に会ったのは100人以上。参考文献も120点ほど掲載され、「陸軍中野学校破壊殺傷教程」など資料も充実していて、これ以上の本はないと思います。ただ、誤植が散見致しますので、次の版で改訂して頂ければと存じます。

 中野校友会がまとめた校史「陸軍中野学校」によると、昭和13年7月(当時は後方勤務要員養成所)から昭和20年8月までの7年間で、「中野学校」の卒業生の総数は2131人で、そのうち戦死者は289人(戦死率約13.6%)だったといいます。約40年前から取材を始めた斎藤氏が取材した中野の生存者は70歳代~90歳代でしたから、今ではほとんど鬼籍に入られた方々ばかりです。それだけに、この本に収録された「証言」は貴重です。中野学校は、いわゆるスパイ養成学校でしたから、「黙して語らず」という厳しい暗黙の掟があったようですが、死を意識して遺言のつもりで告白してくださった人たちも多かったように見受けられます。

築地「わのふ」

 何と言っても、「表の歴史」にはほとんど出て来ない証言が多いので、度肝を抜かされます。特に、本書の中盤の第4章では「14人の証言」が掲載されています。

 私が注目したのは、昭和19年卒の土屋四郎氏の証言でした。

 昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受諾決定に抗議して、クーデター未遂の「8.15事件」がありました。首謀者の一人、畑中健二少佐は、近衛第1師団長森赳中将を拳銃で射殺しましたが、クーデターは未遂に終わったことから、自らも皇居前で自決します。

 この事件は、今年1月に亡くなった半藤一利氏によって「日本のいちばん長い日」のタイトルで描かれ、二度も映画化されました。私は1967年に公開された岡本喜八監督作品で、畑中少佐役を演じた黒沢年男に強烈な印象が残っています。森師団長(島田正吾)を暗殺した後、手が興奮して硬直してしまい、なかなか手からピストルが放れてくれないのです。白黒映画でしたが、鬼気迫るものがありました。

 そしたら、この中野学校を昭和19年に卒業し、学校内の実験隊(当時は群馬県富岡町に疎開していた)に配属されていた土屋四郎氏が「8月9日に…私は参謀本部に至急の連絡があると、実験隊長(村松辰雄中佐)に嘘の申告をして東京に向かったのです。その時、…リュックに拳銃4丁と実弾60発を詰めて上京したのです。拳銃は参謀本部勤務の先輩に渡すため、兵器庫から持ち出しました。兵器庫の管理責任者は私だったので、発覚しませんでした。…戦後、先輩たちに話を聞かされた時、あの時持ち出した拳銃は『8・15クーデター』事件と結びついていたことが分かったんです」と証言しているのです。

 畑中少佐がその拳銃を使用したのかどうかは分かりませんが、8.15事件に参加した誰かが使用したことは間違いないようです。中野学校出身者たちは、8月10日に東京の「駿台荘」に極秘で集まり、大激論の末、結局、クーデターには直接参加しないことを決めましたが、こんな形で関わっていたとは知りませんでした。

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 この他、日中戦争の最盛期に、日本軍は中国経済を壊滅するために、陸軍登戸研究所で、国民党政府が発行していた法定通貨「法幣」の偽物を製造していたことを、昭和15年卒の久木田幸穂氏が証言しています。終戦時、国民党政府が発行した法幣残高は2569億元。登戸で製造された偽法幣は約40億元とされ、流通したのは25億元とみられます。しかし、法幣マーケットのハイパーインフレに飲み込まれ、「法幣市場の崩壊」という作戦は不調に終わったといいます。

◇丸福金貨と小野田少尉

 一方、大戦末期には、偽物ではなく、前線軍部の物資調達用に密かに本物の金貨が鋳造されたといいます。大蔵省や造幣局の記録には載っていませんが、「福」「禄」「寿」の3種類の金貨が作られ、特にフィリピン島向けには「福」が持ち込まれ、「丸福金貨」と呼ばれたといいます。直径3センチ、厚さ3ミリ、重さ31.22グラム。陸軍中野学校二俣分校出身の小野田寛郎少尉も、この丸福金貨や山下奉文・第14方面軍司令官の「隠し財宝」を守るために、29年間もルバング島に残留したという説もありましたが、著者はその核心の部分まで聞き出すことができなかったようです。

◇中野出身者は007ではなかった

 中野出身者で生還した人の中で、悲惨だったのが、昭和19年に卒業し、旧満洲の関東軍司令部に少尉として配属された佐藤正氏。諜報部員なので、「もしも」のとき用にコードネーム「A3」を付けられたといいます。「007」みたいですね。この暗号名の使用は緊急時以外禁止されていましたが、一度だけ使ったといいます。

 佐藤氏は、満洲全土で諜報活動をしていましたが、ある日、ハルビンで、支那服姿で、手なずけていたロシア人と接触してメモをしているところを、怪しい奴だと憲兵に見つかり、拘束されてしまいます。この時、相当ヤキを入れられ、右脚が不自由なのはその時の傷が元でした。

 「取り調べの憲兵には話しませんでしたが、隊長を呼んでもらい、私の身分照会を奉天に頼んだのです。その時、初めて『A3』を使いました。誤解が解けたとはいえ、あの時は拷問死を覚悟したほどでした」

 007映画みたいにはいかなかったわけですが、こちらの方が現実的で、真実そのものです。

 それでも、佐藤正氏は生還できたからよかったものの、中野出身の289人は戦死か自決しているのです。かと言えば、シベリアに抑留されることなく無傷で生還した人もいました。人間というものは、つくづく運命に作用されるものだと痛感しました。

 

京都「長谷川家住宅」で松岡氏の「在満少国民望郷紀行」スライドショーが開催

少しご無沙汰しておりますが、ご存知、京洛先生です。

桜花爛漫の時季になりましたが、昨日6日午後、貴人の畏敬する松岡將さんが京都にお見えになって、市内南区の国登録有形文化財「長谷川家住宅」で、貴人が、渓流斎ブログで再三紹介している彼の自著の一つである写真集「在満少国民望郷紀行」(同時代社刊、本体価格3千円、B5変形上製246頁、カラー頁多数)のスライドショーが開かれました。

Copyright par Kyoraque-sensei

会場の長谷川家住宅は、幕末の「鳥羽伏見の戦い」の舞台になった竹田街道のそばにあり、江戸時代は寛保2年(1742年)に建てられた農家住宅で、下の写真をご覧になればお分かりになる通り、大きな土間を使ってのスライドショーになりました。

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週末の土曜日でしたが、何と50~60人の方が見えて、松岡さんは、現在と昔の満洲の風景、建物の変貌ぶり、それに絡めて、自らの満洲での実体験談を4時間近く、休憩も取らず、喋られました。

とても、その語り口は、80歳半ばとは思えないほどエネルギッシュで、戦前の満洲や、日本軍についても言及、終戦から、命からがら大陸から引き揚げ、帰国するまでの経過、様子を話されました。年齢的に、戦前の在満体験者がドンドン少なくなっているだけに、在満者の“語り部“として、これからも大いに活躍してもらいたいものです。

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 「上映会」のあと、缶ビール、サンドイッチ、シャレたオードブルでの懇親会がありましたが、参加者の中からは「今の学校の授業の歴史は明治維新まで、その後の戦争や昭和や現代の歴史はほとんど触れません。今日は、満洲でどういうことがあったのか、よく分かりました」と松岡さんにお礼を言う人もいました。

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「平成」も残りわずか、来月5月からは「令和」です。昭和20年8月の終戦後に生まれた世代が大半になり、その戦後生まれが「日清、日露戦争」をはるか遠くに感じるように、今度は平成生まれが、満洲事変、太平洋戦争などを、それと同じくらい遠い昔の話になるのは確かです。

残念がら、「語り部」がいなくなると、同じ間違いをまた繰り返すわけで、「懲りない」とはそういうことです。

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悔しいですが、人間は学習など全くしていないし、しないのです。「学習は刹那」です。

以上、京洛先生でした。

「日本のスパイ王 秋草少将」の著者とインテリジェンス研究所理事長との鼎談

それは忘れた頃にやってきます。

この《渓流斎日乗》ブログの2017年2月6日に「日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」を取り上げました。

 私はインテリではないので、すっかり自分で書いた内容を忘れておりましたが、先週、この本の著者の斎藤充功氏からメールで「私はめったに他人様のブログを見ないのですが、たまたま、貴兄のブログに行き着いて小生の著書について書かれていましたね。・・・」

スペイン・サラゴサ

 えっ?やばい! 私は、この記事で、大変厚かましくも、生意気にも、秋草俊の享年の間違いや、年号の誤植などを指摘しておりました。これでは、お怒りになるのはもっともです。でも、読み進めていくと、別に怒っているわけではなく、書評に取り上げたことを感謝されるとともに、面白い話があるので、上京した折、いつかお会いできないか、といった趣旨だったのです。なあんだ、です。

 私は、上京するも何も、遠方ではありますが、都内にバスと電車で通勤してますので、いつでもオッケーです。斎藤氏のお話は、どうやら、日本のスパイ王と呼ばれ、陸軍中野学校を創設した秋草俊少将に関するベルリン時代の新資料が出てきた、というのです。それでは、小生のような一介の記者だけでは勿体なく、その筋の第一人者である山本武利インテリジェンス研究所理事長(一橋大・早大名誉教授)をお誘いした方がいいと思ったので、その旨をお伝えしたところ、お2人とも快諾され、17日夜に会社近くの居酒屋で3人で鼎談したのでした。

 一言で言えば、凄い話でした。斎藤氏はもともと理科系の人で、東日本にある旧帝大の御出身でしたが、「60年安保闘争」で、人生を大きく方向転換された方でした。その博識ぶりは、山本名誉教授も驚くほどで、(山本氏は、斎藤氏の代表的な著作をほとんど読んでおられていました)記憶力がいいほか、その旺盛な取材活動は、本職の私が驚くほどでした。

 何しろ、旧満洲の哈爾濱には、取材で5回も行ったことがあるそうで、陸軍中野学校の関係者については、中野学校の著作のある山本理事長が一度お会いしたことがあると言うと、斎藤氏は「ああ、その人には5回ぐらいお話を伺ってます」と、事も無げに仰るのでした。

 また、現在最も売れている著名作家の諜報に関する書物については、「随分いい加減なことを書いてます。ちゃんと取材していないのではないでしょうか」と断じるのです。確かに、その著名作家は、国際問題から宗教まで、あまりにも幅広いテーマの本を何冊も何冊も出しており、少し、書き過ぎの感があります。

スペイン・サラゴサ

 今回、話題になったスパイ王秋草のベルリン時代の資料とは、現在、98歳の中部地方在住の方が持ってらっしゃるらしく、その人は、戦時中、満洲国在ドイツ公使館(ベルリン)に勤務する外交官だったというのです。秋草は当時、満州国在ドイツ公使館参事官兼ワルシャワ総領事で、星という偽名を使い、特務機関を率いてました。

 斎藤氏は、来年早々にも、その98歳の方と面談し、ベルリンにも飛んでいくというのです。勿論、書籍として出版する予定です。山本名誉教授も、学術的資料の裏付けや助言などで全面的に支援しますと約束されてました。何か楽しみになってきました。

 斎藤氏は、映画監督の鈴木清順のような風貌で、長い白髪をなびかせ、御年○○歳(後期高齢者)ながら、居酒屋の席の近くに座っていた若い女性に声掛けするほど非常にバイタリティーに溢れ、好感度が良くモテモテでした。とにかく、長年フリーで作家活動をされてきただけあって、知識だけでなく、驚くほど人脈が豊富でした。

 山本先生も、年齢が近い斎藤氏とお会いして、何か刺激を受けたようでした。お忙しい中、わざわざ遠方からお出かけ下さって、有難う御座いました。私も、うまく仲介役を務めることができて、この日は大満足でした。

お笑いロバート秋山竜次さんも関係していた満洲物語

哈爾濱学院跡

満洲(現中国東北地方)と聞くと、どうも気になります。

縁も所縁もないわけではなく、個人的にはただ一つ、唐津の伯父(母親の実兄)が、一兵卒として赤紙で徴兵された所でした。

伯父は、行き先も目的も告げられることなく、何処とも分からない所に連れて行かれた場所は、中国大陸の戦場。弾丸が飛び交う中、奇跡的に命を保ったものの、戦後はシベリアに抑留され、終戦後1年か2年経ってからやっと日本に帰国できたという話を聞いたことがあります。

私が子どもの頃に、伯父が自宅に遊びに来た時に聞いただけなので、詳しいことは聞いていません。シベリアに抑留されたということは、戦場は、ソ連軍が侵攻した満洲だったのでは、と想像するだけです。近現代史に興味を持ち、もっと詳しく話を聞くべきだと思った時は、既に亡くなっていて、後の祭りでした。

伯父は歌が好きで、うまかったので、「東京行進曲」などを歌って抑留された戦友たちを慰めていたといった話だけは聞いたことがあります。

◇戦後活躍した満洲関係者

その程度の私と満洲との御縁なのですが、戦後活躍した人たちの中で、結構、満洲にいた人が多かったことが後々になって分かります。

赤塚不二夫、ちばてつや、森田拳次といった漫画家、アナウンサーから俳優に転身した森繁久弥、甘粕正彦理事長の満映から東映に移った内田吐夢監督や李香蘭ら映画人、指揮者の小澤征爾(奉天生まれ。父開作は協和会創設者)、安倍首相の祖父岸信介、東条英機らニキサンスケ、このほか、哈爾濱生まれの加藤登紀子、タレントの松島トモ子も奉天生まれ…いや、もうキリがないのでやめておきますが、皆様も御存知の松岡さんのご尊父松岡二十世や哈爾濱学院出身のロシア文学者内村剛介も忘れずに付け加えておきます。

有名人でこれだけ沢山いるわけですから、満蒙開拓団などで満洲に渡り、ソ連侵攻で亡くなった無名の人々は数知れずということになります。

満洲関係者については、ある程度、知っているつもりでしたが、最近になって知った人も出てきました。

◇「スターリン死去」をスクープした人

ノンフィクション作家野村進氏のご尊父さんです。この方、通信社の記者として1953年の「スターリン死去」をスクープした人でした。東京外国語大学の学生時代に学徒動員で満洲に渡り、ソ連軍の侵攻でシベリア抑留。なまじっかロシア語ができたことからスパイと疑われ、4年半も抑留され、凄惨な拷問に遭っていたことを、野村氏が10月29日付日経夕刊のコラムに書いておられました。

◇満洲第3世代

もう1人は、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さん。10月29日にNHKで放送された番組「ファミリーヒストリー」で初めて明かされたところによりますと、この方は「満洲第3世代」で、父方の祖父秋山松次さんが、北九州門司で、ある事件があったことがきっかけで妻と長女を連れて満洲に渡っていました。

炭鉱で働き、50人も雇うほど羽振りの良い生活でしたが、松次さんは昭和19年に突然、帰国することを決意します。その理由がソ連が満州に侵攻することを予測したからだというのです。松次さんがどういう情報網を持っていたのか分かりませんが、凄い機転と言いますか、カンが働く人だったんですね。残っていたら、ほぼ間違いなく、戦死か抑留死した可能性が高く、そうなっていたら、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さんもこの世に存在しなかったわけですから。(母方の祖父は台湾に関係していたり、父親が若い頃、東映の大部屋俳優で梅宮辰夫と「共演」したことがあったり、不思議な縁がつながっていて、大変面白い番組でした)

「在満少国民望郷紀行」、年内にも出版か?

自称「老麒伏歷」の松岡宿老閣下、最近、都心の豪邸に引き篭もって、何かただならぬ野望に駆られて、何事かなさんと勤しんでおられたようですが、いつのまにか、「在満少国民望郷紀行」なる書籍の執筆、編集、校正に励んでおられていて、目下、「一次稿」を作成中であることが、渓流斎日乗の調べで明らかになりました。

 判型をA5判横(「松岡二十世とその時代」の大きさ)にするか、B5判横(週刊誌大)にするか、散々迷われたそうですが、結局、B5判(週刊誌大)にすることにしたそうです。

何次稿まで、編集校正されるのかは分かりませんが、恐らく、年内には完成して出版されることでしょう。

  旧満洲(現中国東北部)の「今と昔」を対比した解説本です。現中国政府は、ヤマトホテルにしろ、関東軍司令部にしろ、昔の建物を破壊せずにそのまま二次利用しているので、今旅行しても比較できます。

添付して頂いた本の校正写真を見る限り、かなり“イケてる”感じがしますね。

歴史的資料価値が高いものになるはずで、全国の小中高大学の図書館、自治体の図書館、中国の図書館にも納入してもらってもいいのではないでしょうか。

勿論、一般書として本屋さんに山積みされれば尚良し。

 松岡宿老は「普通の“本”と違って、“文章校正”だけでなく、写真の大きさや入れ場所(場合によっては取替)、“写真の注記”など、傘寿越えの『漲る力』でやることが一杯ありそうです」と張り切っておられます。

この「漲る力」は、落ちぶれた有力新聞社広告局が、藁をもすがるサプリメントの広告文句かと思ったら、在満少国民の間て歌われた歌詞に出てくるそうです。