勝ち馬に乗って武力だけが頼みの世界=細川重男著「頼朝の武士団」を読了して

  細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を読了しました。

 当初、一昨日の渓流斎ブログ「鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?」に【追記】として添え書きしようかと思ったのですが、少し長くなってしまうかもしれませんので、章を改めることに致しました。

 この本の前半の3分の2ほどは、2012年に洋泉社歴史新書yの1冊として刊行され、絶版となっていたのを改めて、朝日新書として後半3分の1ほどを書き加えて9年ぶりに再発行したものでした。前回も書きましたが、前半はちょっと人を喰ったような書き方でしたが、後半は、そういった筆致は改められて結構真っ当に学術的に書かれています。版元が変わるとこうも違うのでしょうか?

 前半は、源頼朝の生い立ちから薨去まで。書き加えられた後半は、頼朝薨去から承久の乱を経て伊賀氏の変の結末に至るまで描かれ、著者の言うところの頼朝の武士団の「完全版」となっています。前半も後半と同じようにあまり羽目を外さずに記述されていれば、これから800年は読み継がれる名著になっていたでしょうから、惜しまれます。

 それでも、非常に面白く、勉強になりました。

 私は学生時代に「平家物語」は、途中で挫折してしまったのですが、一番印象深かったのは、熊谷直実の逸話です。一ノ谷の戦いで、平敦盛を討ち取りますが、息子ほどの年齢の若武者の命を奪ったことで無常観を感じて、出家する動機となり、法然上人に弟子入りする話はあまりにも有名です。この話はその後、能や人形浄瑠璃、歌舞伎でも題材として取り上げられました。

 私は、この熊谷直実の軍団は数千規模の大きなものだと思っていたのですが、熊谷氏は直実と子息直実と家臣(旗差し)のたった3人しかいなかったんですね。「平家物語」巻九「一二之懸」にあるらしいのですが、忘れておりました(笑)。

 何と言っても、頼朝の御家人のトップ3といえば、相模の三浦氏(義澄、義村)、下総の千葉氏(常胤)、下野の小山氏(政光)だといいます。総勢2万騎と日本一の軍団を誇った上総広常は、頼朝が脅威を感じて、恩人だったはずなのに、結局、梶原景時に暗殺させています。(当時は、文字通り、多くの家臣も「鞍替え」して裏切ったりして、皆、疑心暗鬼で、親分・子分との間の抗争は激しかったことでしょう。)

 このビッグ3の三浦、千葉、小山、それに足利、新田、比企などは現在でも残っている地名ですが、どうやらこれらの苗字は、所領、つまり地名から来ているようです。でも、鶏が先か、卵が先か、どちらか分かりませんが、恐らく、地名から苗字になったということなのでしょう。他に、渋谷重国、江戸重長、葛西清重、海老名秀貞、河越重頼ら地名のような東国武将が登場しますが、こちらも所領名と関係がありそうです。

鎌倉 畠山重忠邸跡

◇源氏政権は平氏がつくった?

 この本の巻末の系図は大いに参考になりました。よく見ると、鎌倉幕府を成立させて源氏再興に貢献した北条氏も、三浦氏も、鎌倉党の梶原氏も、秩父党の畠山氏も、上総氏も千葉氏も、ほとんど皆、桓武平氏の流れを汲んでいるのです。

 あれっ?という感じです。天下を取った平清盛は、桓武平氏の中の「伊勢平氏」という一分派で、この分派が権力を独占したため、他の分派が反旗を翻したように見えます。前回にも書きましたが、源氏と平家との間の策略的な婚姻関係があり、源氏だろうが、平氏だろうが、各々お家のために、勝ち馬に乗ることが先決だったのでしょう。こういうことは現代人もやってますよね?(爆笑)。

 よく、鎌倉時代は、暗殺と粛清が横行し、言葉が通じない野蛮な世界というレッテルが貼られますが、当時は憲法もなく、法律も形骸化された、いわば無法地帯で、武力だけが頼みの世界でしたから、本能の赴くまま、太く短く生きるしかなかったのかもしれません。

 著者も書いている通り、頼朝の挙兵に参加した坂東武士たちは、一か八かの大博打に賭けたというのは、真実でしょう。

鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?= 細川重男著「頼朝の武士団」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法に洗脳されて、「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読破しましたが、どうしても、これだけでは少し物足りなかったので、細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を購入し、読んでみました。

 著者の細川氏は、立正大学で博士号を取得され、現在、國學院大學で非常勤講師をされている方だと略歴に書かれていますが、随分、人を食ったような書き方をされています。御本人はウケを狙って、劇画チックに書かれているようですが、一応、学術書気分で読み始めた読者からみれば、滑りますね(笑)。鎌倉時代の話なのに、例証としてマフィアやキャバクラ嬢やAKB48などが登場したり、大胆にも「今様(当時のポップス)」「白拍子(アイドル歌手)」などと解説?されたりしておられます。

 勿論、それらは一部の話で、「猶子(ゆうし=財産相続権の無い養子。子供待遇)」「衆徒(しゅと=いわゆる僧兵だが、僧兵は江戸時代の言葉)」などと極めて真面目に説明はされていますが…。

 何で、1962年生まれの著者は、こんな斜に構えたような書き方しかできないのか? この本の224ページに著者はわざわざこんなことを書かれております。

 卒業した大学を「弱小私大」「三流大学」と嘲笑われ、研究者として実力とは無関係に、卒業した大学を理由に、「一流大学」とやらを出たヤツらから見下され、ハラワタが千切れそうなほど悔しい思いを、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、…して来た私には(以下略)

 どうやら、私のように、著者は性格が捻くれてしまったようですが、それは読者にとって預かり知らぬことで、特に、知らなくてもよかったこと。ブログならともかく、せっかく素晴らしい著作なのにその評価を酷く、酷く、酷く、酷く、酷く、…貶めてしまった結果になってしまいました。

東銀座「大海」とり天カレー950円

と、多少、文句を書き連ねてしまいましたが、非常に勉強になる本でした。恐らく、「鎌倉殿の13人」の脚本を書かれている三谷幸喜さんが最も参考にした本だと思われるからです。内容は、鎌倉時代の正史と言われる「吾妻鏡」を時系列にほぼ正確に追って記述しております。

 ですから、私が「歴史人」と「歴史道」でせっかく覚えた鎌倉殿の13人の一人、安達盛長は本当は小野田盛長だったことや、二階堂行政も中原親能も藤原姓を名乗ったりしていたことなどをこの本で知りました。

 何と言っても、巻末に「系図」が付いているので、人物関係がすっきりと分かります。当時は、高貴の身分の子どもは実の親ではなく、乳母(めのと)によって養育され、乳母の子供たちは乳母子(めのとこ)とか乳兄弟(ちきょうだい)などと呼ばれ、成長すると最も信頼する家臣になることが分かりました。(源頼朝には比企尼、寒河尼、山内尼、三善康信の伯母の4人の乳母がいた。例えば、小野田盛長と比企能員は、頼朝とは比企尼つながり、八田知家、小山政光らとは寒河尼つながり、など)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 この本を購入したのは、頼朝の家臣団や御家人のことをもっと知りたかったからでした。生き残った彼らは、後の室町、戦国、江戸時代(いや、現代)まで活躍するからです。

 源頼朝は、清和天皇の流れを汲む「清和源氏」の一派である「河内源氏」の系統であることはよく知られています。それ以外はほとんど滅んでしまいますが、摂津源氏の流れから美濃源氏が生まれ、そこから室町時代の守護になる土岐氏が出てきます。河内源氏から常陸の佐竹氏(江戸時代に出羽・久保田藩に移封され、現在、秋田県知事を輩出!)、それに甲斐源氏である武田氏(勿論、戦国時代の武田信玄が有名)が出てきます。

浄土宗 東光山英勝寺

 以前、私が昨年、鎌倉を取材旅行した際、太田道灌ゆかりの英勝寺がもともと源義朝(頼朝の父で、平治の乱で敗退し家臣によって殺害される)の屋敷跡だったことを知り驚いたことを書きました。

 頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、父祖の地だったからでしたが、それはいつ頃だったのか、この本に回答がありました。河内源氏の祖は平忠常の乱を平定した源頼信ですが、その嫡男の頼義(前九年の役を平定)が、その義父に当たる平直方から鎌倉の領地を拝領したというのです。(頼朝にとって頼義は四代前の祖先に当たる)

 平直方は桓武平氏です。源平合戦になる前は、結構、源氏と平家の姻戚関係は濃厚だったんですね。何と言っても、北条時政も北条義時もこの平直方の子孫なのです。時政は平直方の曾孫と結構近い。

 石橋山の合戦で頼朝軍を敗退させた大庭景親は、伊勢平氏の「東国ノ御後見」でしたが、景親の兄の大庭景義は源義朝の家臣で保元・平治の乱にも参戦し、そのまま頼朝の家臣として仕えてますから、親子、兄弟の間で、源氏と平氏と別れて戦った例が数多あったことでしょう。

 石橋山の合戦で敗れて安房に敗走した頼朝に対して、2万騎もの兵を引き連れて参戦した上総広常は、後に頼朝の命で梶原景時によって暗殺され、その梶原景時も北条義時らによって滅亡され、この他、頼朝の御家人だった和田義盛も、畠山重忠も、比企能員も、三浦義村の嫡男泰村もほとんど粛清されていきます。スターリンも真っ青です。

 何と言っても、河内源氏も三代将軍実朝の暗殺で滅んでしまうわけですから、いやはや、著者が引用するマフィアも吃驚です。平氏滅亡の殊勲者である源義経も、兄の頼朝の命で殺害されたわけですし、鎌倉幕府は、暗殺とテロと暴力と陰謀が蔓延った世界だったというのは大袈裟ではないかもしれません。

鎌倉五山の円覚寺~浄智寺~建長寺~寿福寺、そして源義朝、太田道灌ゆかりの英勝寺に参拝

 12月12日の日曜日、思い立って、「鎌倉五山」巡りを決行して来ました。

 「鎌倉五山」とは、御説明するまでもなく、神奈川県鎌倉市にある臨済宗の禅寺で、第一位建長寺、第二位円覚寺、第三位寿福寺、第四位浄智寺、第五位浄妙寺の寺院とその寺格のことで、一説では北条氏によって制定されたといいます。

 「京都五山」(別格南禅寺、第一位天竜寺、第二位相国寺、第三位建仁寺、第四位東福寺、第五位万寿寺)と対をなしていますが、残念ながら、その規模や雄大さ、壮麗さ等を含めて鎌倉五山の方がどうしても見衰えしてしまいますが、国宝、重文級のものもあり、とても等閑にはできません。

 来年(2022年)というより、来月から始まるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されれば、鎌倉はまためっちゃ混みますから、人混みを避けたかったのでした。

鎌倉五山第二位 円覚寺
鎌倉五山第二位 円覚寺

 皆様御案内の通り、私自身、鎌倉五山第五位の浄妙寺に関しては既に昨年8月にお参りしたばかりですので、今回は、残りの4寺院をお参り致しました。(浄妙寺は、「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目義兼(よしかね)が1188年に創建。2020年8月12日付の渓流斎日乗「いざ鎌倉への歴史散歩=覚園寺、鎌倉宮、永福寺跡、大蔵幕府跡、法華堂跡、浄妙寺、報国寺」をご参照)

 まずは第二位の円覚寺を目指しました。JR横須賀線の北鎌倉駅からすぐ近くです。

 円覚寺(拝観志納金500円)はかつて数回はお参りしていますが、もう20年ぶりか、30年ぶりぐらいです。もうほとんど覚えていません。

鎌倉五山第二位 円覚寺 山門

 円覚寺といえば、私の場合、すぐ夏目漱石のことを思い起こします。三部作の最後に当たる「門」の舞台になったところで、漱石自身もここの宿坊「帰源院」で明治27年12月下旬から1月7日まで座禅修行したことがありました。横須賀線は明治22年に開通しています。

 現在も座禅が出来るようですが、一般といいますか、在家向けは、新型コロナの影響で結構中止になったようです。

鎌倉五山第二位 円覚寺

 円覚寺は1282年創建、第八代執権北条時宗が蘭渓道隆亡き後、中国から招いた無学祖元(後の仏光国師)が開山しました。その2年後に亡くなった時宗と九代貞時、最後の十四代執権高時をお祀りしています。

 
鎌倉五山第二位 円覚寺 舎利殿(国宝)

 円覚寺といえば、何と言っても国宝の舎利殿(仏陀の歯牙をお祀りしている)ですが、お正月三が日など特別な期間以外は拝観制限されているとのことで、遠くから写真を撮るのみでした。

 この舎利殿は、三代将軍源実朝が、宋の能仁寺から請来したもので、鎌倉の太平寺(尼寺・廃寺)から仏殿(鎌倉末~室町初期に再建)を移築したものだといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺 鎌倉では珍しい唐様の鐘楼門
鎌倉五山第四位 浄智寺

 次に向かったのが、 鎌倉五山第四位の浄智寺 (拝観志納金200円)です。円覚寺から迷わなければ、歩7,8分というところでしょうか。途中、駆け込み寺として有名な東慶寺がありましたが、我慢して通り過ぎました。

 浄智寺の正式名称は、臨済宗円覚寺派金宝山浄智寺です。第五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために1281年頃に創建されました。開基は宗政夫人と諸時親子。開山は、建長寺第2代住職も務めた中国僧兀庵普寧(ごったん ふねい)ら3人です。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 御本尊は、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の木造三世仏坐像(神奈川県重要文化財)です。

 これは、後で知ったのですが、映画「ツィゴイネルワイゼン」や「武士の一分」などが境内で撮影され、映画監督の小津安二郎や日本画家小倉遊亀らがこの寺域で暮らし、墓所には作家澁澤龍彦らが眠っております。

鎌倉五山第一位 建長寺
鎌倉五山第一位 建長寺

 次に向かったのが 鎌倉五山第一位の建長寺(拝観志納金500円)です。やはり、第一位だけに迫力が違いました(笑)。かつて、一度は参拝したことがあったのですが、これまた全く記憶にありません(苦笑)。

 100年の歴史がある進学校「鎌倉学園」(加藤力之輔画伯、サザンの桑田佳祐の出身校)が隣接していたことも今回初めて知りました。

 正式名称は巨福山(こふくざん)建長興国禅寺。上の写真の 巨福山 の「巨」の字に点が付いているのは、十代住職一山一寧(いっさんいちねい)が筆の勢いに任せて書いてしまったといいます。しかし、結果的にその点が全体を引き締めて百貫の値を添えたことから「百貫点」と呼ばれるようになったといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 三門

 建長寺は、建長5年(1253年)、五代執権北条時頼が建立した我が国最初の禅宗専門寺院です。開山(創始者)は、中国の宋から33歳の時に来日した蘭渓道隆(後の大覚禅師)です。

 上の写真の「三門」は国の重要文化財に指定されています。三門とは、三解脱門の略で、「空」「無相」「無作」を表し、この三門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれることを意味するといいます。

 神社の鳥居のような役目を果たしていたんですね。

鎌倉五山第一位 建長寺

 この梵鐘は国宝です。重さ2.7トン。開山した大覚禅師の銘文もあります。

 この梵鐘から、夏目漱石が「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」という句をよみました(明治28年9月)。これに影響されて、漱石の親友正岡子規が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作ったと言われます。漱石が子規の影響を受けたのではなく、その逆です。

鎌倉五山第一位 建長寺 仏殿 地蔵菩薩坐像

仏殿は、国の重文で、 地蔵菩薩坐像 が安置されています。

 現在の建物は四代目で、東京・芝の増上寺にあった二代将軍徳川秀忠夫人お江の方(三代家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けたといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 法堂 千手観音菩薩 雲龍図(小泉淳作画伯)

  法堂は、僧侶が住持の説法を聴き、修行の眼目とした道場です。388人の僧侶がいたという記録もあります。現在の建物は、文化11年(1814年)に再建されたもので、御本尊は、千手観音菩薩です。天井の「雲龍図」は建長寺創建750年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。

 小泉淳作画伯は、京都の建仁寺の「双龍図」も描かれています。

 小泉淳作画伯の美術館は私もかつて仕事で赴任したことがある北海道十勝の中札内村にあります。確か、小泉画伯は、このような壮大な雲龍図などは、廃校になった小学校の体育館をアトリエにして描いていたと思います。

鎌倉五山第一位 建長寺 葛西善蔵之墓

 境内には、太宰治も敬愛した無頼派の元祖とも言われる私小説作家の葛西善蔵の墓がある、とガイドブックにあったのでお参りしてきました。

 案内表示がないので、結構迷いましたが、階段を昇った高台にありました。葛西善蔵は、極貧の中、昭和3年に42歳の若さで亡くなっていますが、今でも新しいお花が生けてありました。忘れられた作家だと思っていたので、いまだに根強いファンがいらっしゃると思うと感激してしまいました。

鎌倉市山ノ内 カフェ「Sakura」 ビーフカレー(珈琲付)1300円

 時刻も午後1時近くになり、お腹も空いてきたのでランチを取ることにしました。本当は、ガイドブックに出ていた「去来庵」という店で名物のシチューでも食べようかと思ったら、コロナの影響で、喫茶のみの営業でしたので諦め、建長寺近くにあったカフェに入りました。

 量的には少なかったのですが、大盛にすると1500円です(笑)。でも、お店のマダムはとても感じが良い人だったので、また機会があれば行きたいと思わせる店でした。

浄土宗 東光山英勝寺
浄土宗 東光山英勝寺

次に向かったのが、最後に残った 鎌倉五山第三位の寿福寺 です。

ランチを取ったカフェの目の前の亀ヶ谷坂切り通しを通りましたが、「切り通し」というくらいですから、中世に谷間を削って出来た人工的な道ですから、かなりの急勾配でした。

 建長寺辺りは「山ノ内」で、この 亀ヶ谷坂切り通し辺りから「扇が谷」という地名になります。歴史好きの人ならすぐピンとくるでしょうが、室町時代になると、関東管領の山ノ内上杉家と扇が谷上杉家とが熾烈な争いをします。両家の勢力圏がこんな近くに隣接していたとは行ってみて初めて分かりました。

 寿福寺に行く途中で、全く予定のなかった「鎌倉五山」ではない英勝寺を通り過ぎようとしたところ、上の写真の「太田道灌旧邸跡」の碑があったので吃驚仰天。予定を変更してこの浄土宗東光山英勝寺(拝観志納金300円)もお参りすることにしました。

 英勝寺自体は、太田道灌から数えて4代目の康資(やすすけ)の娘で、徳川家康の側室、お勝の方(英勝院)が1636年に創建した鎌倉唯一の尼寺です。

 太田道灌は江戸城や河越城などを築城した武将ですが、扇ケ谷上杉氏の家宰だったので、ここに邸宅があったのですね。

浄土宗東光山英勝寺の御本尊、阿弥陀如来三尊像は運慶作ということですが、国宝に指定されていないのでしょうか?

 でも、太田道灌で驚いていてはいけません。

 英勝寺の「拝観のしおり」には、ここは平安時代末期に、源頼朝の父義朝の屋敷だったというのです。「えーー、早く言ってよお」てな感じです。

 源義朝と言えば、保元・平治の乱で活躍した人で、義朝は平治の乱で平清盛らに敗れて敗走し、途中尾張で部下に殺害されたと言われます。行年36歳。お蔭で、嫡男頼朝は幼かったので伊豆に流され、その後、その土地の北条政子と結婚し、鎌倉幕府を築いていく話は誰でも知っていることでしょうが、頼朝の父義朝が鎌倉に居を構えていたことを知る人は少ないと思います。

 源頼朝の生地は、母の実家がある尾張の熱田神宮の近くと言われますが、父義朝が鎌倉に所縁があったので鎌倉に幕府を開くことにしたのでしょうか? 幼い時に、この鎌倉の義朝邸に頼朝も住んだことがあったのでしょうか?

鎌倉五山第三位 寿福寺
鎌倉五山第三位 寿福寺

 今回、最後に参拝したのは、英勝寺に隣接していた鎌倉五山第三位の寿福寺でした。

 ここは山門から堂宇にかけては非公開なので、拝観志納金もないのですが、そのためパンフレットもありません。

 でも、上の看板にある通り、とても重要な寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 中門

 何と言っても、正治2年(1200年)、頼朝の妻政子が開基し、日本の臨済宗の開祖栄西が開山した鎌倉五山最古の寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 北条政子之墓

 境内には北条政子と、政子の次男で暗殺された三代将軍源実朝ののやぐら(墓地)もあります。

鎌倉五山第三位 寿福寺 源実朝之墓

 標識があまりないので、恐らく、一番奥まったところにあるのだろう、と勝手に想像して、やっと探し当てました。

 実朝は、将軍ながら「金槐和歌集」でも有名な歌人でもありました。大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも なんて良いですよね。

鶴岡八幡宮で、甥の公暁に暗殺されたのは1219年。今から800余年前のことです。やぐらの写真を撮らさせて頂いたところ、何か、無念のまま亡くなった右大臣実朝将軍の霊がこちらに迫ってきたような感じがしました。

鎌倉時代は難しい…=何だぁ、京都との連立政権だったとは!

 日本史の中で、鎌倉時代とは何か、一番、解釈が難しいと思っています。貴族社会と武家社会の端境期で、三つ巴、四つ巴の争い。何だかよく分からないのです。私自身の知識が半世紀以上昔の高校生レベルぐらいしかない、というのも要因かもしれませんが、歴史学者の間でも、侃侃諤諤の論争が展開されているようです。(武士の定義も、「在地領主」と考える関東中心の図式と、京都で生まれた殺人を職能とする「軍事貴族」と考える関西発の図式があるそうです=倉本一宏氏)

 第一、源頼朝による鎌倉幕府の成立が、1192年だということは自明の理だ、と私なんか思っていて、語呂合わせて「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と覚えていたら、

(1)治承4年(1180年)12月=鎌倉殿と御家人の主従関係が組織的に整えられた。

(2)寿永2年(1183年)10月=頼朝の軍事組織による東国の実効支配を朝廷が公認。

(3)文治元年(1185年)11月=守護・地頭の設置が朝廷に認可された。

(4)建久元年(1190年)11月=頼朝が右近衛大将(うこんのえたいしょう)に任官。

(5)建久3年(1192年)7月=頼朝が征夷大将軍に任官。

 と、成立年に関しては、こんなにも「諸説」があるのです。

 驚くべきことには、もう鎌倉時代という時代区分の言い方は実態に沿っていないと主張する学者も出てきて、2003年の吉川弘文館版「日本の時代史」では、「京・鎌倉の王権」と表記するほどです。つまり、鎌倉時代は、江戸時代のように京都の朝廷の権力が衰えていたわけではなく、京都と鎌倉で政権は並立していたという解釈です。

 源頼朝が、鎌倉に幕府を開く前後に、平家との戦いだけでなく、同じ身内の源氏の叔父やら実弟らとの間で権力闘争や粛清があったりしますが、京都や北陸では木曽(源)義仲(頼朝の従兄弟)が実効支配していたり、朝廷は後白河法皇が実権を手放さず、譲位後も34年間も院政を敷いたりしておりました。

◇「歴史人」7月号「源頼朝と鎌倉幕府の真実」特集

 といったことが、「歴史人」7月号「源頼朝と鎌倉幕府の真実」特集に皆書かれています(笑)。この雑誌一冊読むだけで、鎌倉史に関する考え方がまるっきり変わります。「今まで勉強してきた鎌倉史は一体、何だったのか?」といった感じです。

 登場する人間関係が色々と複層しているので、家系図や年表で確認したりすると、この雑誌を読み通すのに、恐らく1カ月掛かると思います。私もこの1冊だけを読んでいたわけではありませんが、1カ月経ってもまだ読み終わりません。仕事から帰宅した夜に1日4ページ読むのが精いっぱいだからです。この中で、一番、目から鱗が落ちるように理解できたのが、近藤成一東大名誉教授の書かれた「日本初の武家政権『鎌倉幕府』のすべて」(58~59ページ)です。

 それによると、1180年に頼朝が鎌倉に拠点を定めた時点では、頼朝は朝廷から見れば依然として反逆者であり、頼朝の勢力圏は東国に限られていました。西国は、安徳天皇を擁する平家(平宗盛)の勢力圏に属し、北陸道は木曽義仲、東北は藤原秀衡の勢力圏に属していました。(…)その後、このような群雄割拠している状況で、東国における荘園、国衙領の支配を立て直すのに、朝廷は頼朝の権力を必要としたというのです。「鎌倉時代」と呼ばれてきたこの時代を鎌倉の政権と京都の政権が共存し相互規定的関係にあった時代だと定義し直すと、この時代の始まりは、鎌倉幕府と朝廷との共存関係が成立した寿永2年(1183年)と考えるのが適当であろう。

 へー、そういうことだったのですか。…となりますと、鎌倉時代は今風に言えば、

1183年、鎌倉・京都連立政権成立

 といった感じでしょうか。

紫陽花

 来年のNHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が放送される予定ですが、この本は、この番組を見る前の「予習」になります。

 鎌倉殿13人とは、源頼朝の死後、二代将軍頼家ではなく、頼朝の御家人ら13人が合議制で支配した機関のメンバーのことですが、凄まじい内部での権力闘争で、最後は執権になった北条氏が他のライバルを粛清して権力を独占していったことは皆さま、御案内の通りです。

 13人のメンバーの中で、まず、北条時政(初代執権)と北条義時(二代執権、頼朝の妻政子の弟でドラマの主人公、鎌倉に覚園寺を創建)は実の親子。元朝廷の官人だった中原親能大江広元(政所初代別当、長州毛利氏の始祖とも言われていますが、この本では全く触れず)は兄弟で、侍所の別当和田義盛三浦義澄の甥。また、安達盛長の甥が、公文所寄人足立遠元といった感じで、13人は結構、縁戚関係が濃厚だったことを遅ればせながら、勉強させて頂きました。

 また、鎌倉殿13人の一人で、頼朝の乳母だった比企尼(びくに)の養子となった比企能員(ひき・よしかず)は、二代将軍源頼家の岳父(比企の娘若狭局が頼家に嫁ぐ)となったお蔭で、権勢を振るうことになりますが、北条時政の謀略で滅ぼされます。比企一族の広大な邸宅の敷地跡は、私も昨年訪れたことがあり、「今では日蓮宗の妙法寺になっている」と昨年2020年9月22日付の渓流斎ブログ「鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺」に書いたことがありました。比企一族の権力がどれほど膨大だったのか、その敷地の広さだけで大いに想像することができました。

【追記】

 三重県津市に「伊勢平氏発祥の地」の碑があるそうです。ここは、平清盛の父忠盛が生まれた場所だということです。刀根先生は行かれたことがあるんでしょうか?