ダーウィン「種の起源」の余話です。
6月16日の渓流斎ブログで、「『種の起源』を読まずして人生を語ることができない。」という同書を翻訳した渡辺政隆氏の言葉を引用させて頂きました。極論しますと、人生とは、必然ではなく、偶然の産物で、運命もない。生存闘争と自然淘汰の末、何世代にも渡って変異が重なり、進化していくーというのがダーウィンの考え方になります。
これに対する「反ダーウィン主義」となると、この正反対の考え方ということになるでしょう。つまり、人生とは偶然ではなく必然で、あらかじめ、宿命によって決められている。その線で行きますと、運勢や占いは信じられる、ということになります。
一体、どちらかが正しいのでしょうか???
私自身は、「種の起源」を読む前は、人生とは、遺伝が6割、運が2割、縁が2割だと思っていました。単なる当てずっぽうです(笑)。これまで人生経験からそう思わせるものがあった、というだけです。ですから、この比率は変わります。時には、遺伝が8割、運が1割、縁が1割だと思うことがあります。でも、運や縁の比率が遺伝のそれを上回ることはありません。人生の大半は遺伝によって左右されるという考え方です。蛙の子は蛙です。
英語の格言に、nature or nurture があります。人は遺伝によって決まるのか、それとも育った環境によって決まるのか、という意味です。日本語で言えば、「氏か育ちか」です。上述したことを真似しますと、氏が6割、育ちが4割という印象になりましょうか。これはケースバイケースで、例えば、最近「世襲制」だの「ファミリービジネス」などと大いに批判されている政界なら遺伝が9割、育ちが1割でしょう。首相公邸でおふざけパーティーなんか開いたりすると、育ちが審査され、世襲議員になれるかどうか危ぶまれます。
芸能界、特に梨園の世界ともなると、氏が10割です。幹部になれるのは世襲のみです(養子になれば別ですが)。国立劇場の研修生では主役は張れません。
話を元に戻しますと、動物行動学者リチャード・ドーキンスが1976年に発表した「利己的な遺伝子」は衝撃的でした。私的には、ダーウィンの「種の起源」よりも衝撃的でした。特に、「生物は遺伝子DNAに利用される乗り物vehicle に過ぎない」という一言に還元される言葉です。こうなると、人生を左右するのは、100%遺伝子DNAです。生まれた時から全てプログラミングされて宿命だけ背負わされます。偶然なんかありません。闇バイトに手を出して強盗犯になったのも、偶然ではなく、遺伝子に組み込まれていたことになります。
本当かなあ? もう一度、自問します。
人生は偶然か、必然か?
人生は育ちか、生まれか?
管見によれば、あれかこれかの二者択一でも二元論でもなく、やはり、折衷なのではないかと思っています。人生とは偶然であるが、因果応報の必然もある。人生は氏素性で左右されるが、人一倍の努力で運命を開くことが出来る。ーそう思わなかったら、やり切れないのではないでしょうか。人間は、単なるDNAの運搬人で、両親や祖父母や曽祖父母たちと全く同じことを繰り返すことだけが人生だとしたら、つまらなくて生き甲斐もなくなってしまうでしょう。(商家や職人さんなら違うかもしれませんが。)
つまりは、考え方次第なのでしょう。
例えば、経験者なら分かるでしょうが、それが「運命の出会い」と確信しなけりゃ、結婚なんかできないでしょう(何が起きても責任取れませんよ!=笑)。
今、東京都美術館で、20年ぶりにアンリ・マチス(1869~1954年)の大回顧展が開催されています。このマチスは若い頃、野獣派の旗手として、色彩の魔術師として大活躍しますが、晩年になって病気を患い、身体が不自由になります。それでも最後の力を振り絞って、南仏の小さなヴァンス村のロザリオ礼拝堂の建築設計から内部のステンドグラス、壁画に至るまで完成させます。それは、入院した時に看病してくれた看護師が後年になって、修道女となり、マチスに会って、教会の再興を御願いしたことがきっかけでした。マチスは、看護師と修道女が同一人物だったことに驚き、「偶然」ながら、そこに「運命」を感じて仕事を引き受けたといいます。つまり、運命(を自覚すること)は、人に行動を起こさせる動機づけになることは確かです。
これを機会に、皆さんも人生について、色々と考えてみては如何でしょうか? ただし、ダーウィンの「種の起源」を読んでからですよ(笑)。