相変わらず、ダーウィンの「種の起源」を読んでおります。先日は「自然淘汰」が頭にこびりついて離れない、とこのブログに書きましたが、まだまだありました。「生存闘争」もそうでした。struggle for existence の訳ですが、私の世代は「生存競争」と習い、そう覚えていました。かつての「競争」より新訳の「闘争」の方がどこか熾烈な争いの印象があります。
生存闘争とは、自然界で、動物も植物も、弱肉強食のジャングルの中で、生き残りを懸けて、熾烈な闘いを繰り広げるということです。それによって、弱者は自然淘汰され、絶滅していくのです。勝ち残った強い者だけが生き残るのです。そこには、ダーウィンの造語ではありませんが、「適者生存」という法則で絶滅を免れたものだけが子孫を残すことが出来て、生き延びていくわけです。
同じ種や仲間同士でも、雌(もしくは雄)を巡っての闘争があります。勝ち抜いた強者しか自分の子孫が残せないのです。
このように、自然界は、動物も植物も、絶滅せずに、生存闘争に勝ち抜いて生き延びることが、唯一の目的であり、意味のように見えてきます。それは、動物界霊長目ヒト科ヒト属の人間にも同じことが言えるのかもしれません。つまり、人生には目的も意味もない、ということです。もし、唯一、人生に意味と目的があるとしたら、それは、「生き延びる」ということになります。
人生に意味も目的もない、と言われれば、誰でも戸惑い、ニヒリズムに陥りますね。しかし、それは現実です。一生には限りがありますから、何をやっても一緒です(個人的にはひたすら善行を積みたいと思っていますが)。人間はニヒリズムに陥って絶望したくはないからこそ、芸術や制度をつくったり、宗教や神を創造したりしているのではないでしょうか。
個人的にそういう思想といいますか、考えに到達しましたので、「迷える子羊」の友人から悩み事の相談メールがあったので、以下のような話に転化してお応えしておきました。
ところで、小生は最近、宗教書を乱読しておりましたが、宗教とは「壮大なフィクション」だということを確信しました。
キリスト教の場合、イエス・キリストが人間として存在したことは歴史上の事実ですが、イエスが神の子であり、磔刑されて死んだのに復活し、最後の審判が下されるということは、壮大なフィクションです。それらを信じることが出来る人だけが、信者です。
つまり、信仰とは壮大なフィクションを信じることなのです。そして、「信じれば救われる」という教えです。(確かに法悦の中で救済を得た人もいます)
仏教も同じことが言えます。
紀元前5世紀のインド(今のネパール)に釈迦という王子がいて、出家して覚りを開いたことは歴史的事実です。ただし、釈尊は「真の自己に目覚めよ」と覚りを開くことを説いただけで、それ以上の話は壮大なフィクションです。「阿弥陀様を拝めば救済され、極楽に行ける」というのも壮大なフィクションです。特に日本では法然を中心に西方浄土に住む阿弥陀如来を(「選択本願念仏集」などの著作で)「選択」しました。となると、東方妙喜世界にいる阿閦(あしゅく)如来や薬師如来を切り捨てたわけです。同時に北の不空成就如来と南の宝生如来も切り捨てたのです。だから日本人は、阿弥陀如来以外の切り捨てられた仏様についてはほとんど何も知らないのです。しかし、その一方で、阿弥陀如来の脇侍に過ぎなかった観音菩薩も独立して、日本では多くの像が作られるようになりました。広大無辺の慈悲を持つ「観音様」は、「救いの神」として広く信仰されるようになったのです。観音信仰がこれほど篤いのは世界でも日本ぐらいではないでしょうか。
ただし、阿弥陀如来も観音菩薩も、それに加えて、釈迦入滅後、56億7000万年後に現れるという弥勒菩薩も、もともとペルシャ(イラン)の神様だったと言われます。ゾロアスター教の神ともいわれます。
仏教は、うわばみのように、あらゆる宗教を取り入れて変容していきます。ジャイナ教、バラモン教、ヒンズー教…等です。挙句の果てには、後期密教では人間の煩悩まで肯定します。性欲も肉食妻帯もライバル同士の仲違いも殺人までも呪術として容認します。とてもついていけません。(後期密教は、日本には伝わらず、チベットに残っているだけです)
インドは複雑で、とても、一言で言えませんが、根っ子には、インダス文明を築いた南インドのドラヴィタ人を征服したアーリア人がバラモン教を創始し、現在、カースト制度を含めヒンズー教に引き継がれていることがあります。このアーリア人というのは、諸説ありますが、イラン系という説が有力です。嗚呼、それでインドなのにイラン神の影響があったのか、と小生は納得しました。
話が長くなるので、一つだけ補足します。
釈迦は、衆生を救済する神を創造したわけではありません。釈尊はただ「真の自己に目覚めよ」と説いたのです。それは、究極的に、「他者に依存せず、独立して生きよ」ということなのです。釈迦入滅間際に、不安になった弟子のアーナンダが、「師がいなくなったら、我々はどうやって生きていったら良いのですか?」と尋ねた時に、釈尊がそう答えたといいます。
「他者に依存せず、隷属せず」ということは法華経の思想ですが、小生はそれに「他者を支配せず」を付け加えたいと思います。
後期密教は、とても信仰出来ませんが、この「他者に依存せず、隷属せず、他者を支配せず、独立独歩で生き延びる」という仏教から派生した思想だけは、私自身、信仰したいと思っています。
不安や悩みは、六波羅蜜の忍辱(にんにく)や諦念などのメンタルヘルス・ケアで克服出来ます。性悪説に近いかもしれませんが、他者に隷属せず、他者を支配せず、「真の自己」を目指して、小生は残りの人生を生き延びていくつもりです。