古代律令制の崩壊と中世武家社会の誕生=荘園を通して考える

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響で、鎌倉幕府、延いては、中世史に興味を持つようになりました。NHKの影響力は恐ろしい。

 と思ったら、博報堂系列会社の調査(今年1、2月、15~69歳男女652人回答)によると、生活者の1日当たりのメディア接触時間の平均が、2006年の調査開始以来初めて、スマホがテレビを抜いたというのです。スマホは1日、146.9分、テレビは143.6分だったとか。テレビよりも、スマホの影響力の方が大きくなった、ということです。(6月15日付日経朝刊)詳細は分かりませんけど、若者は圧倒的にスマホで、高齢者は、まだまだテレビかもしれませんけど。

 いずれにせよ、テレビの影響で、鎌倉幕府を勉強し直したら、これが滅法面白い。中世は、日本史の中でも特異な時代で、思っていた以上に大変革期の時代でした。でも、源頼朝が鎌倉幕府を開いたとか、承久の乱で、天皇の権威が失墜して武家政権の時代が確立した、といった政治面の話だけでは満足できず、たまたま会社の近くの書店で立ち読みして面白そうだった武光誠著「荘園から読み解く中世という時代」(KAWADE夢新書、2022年1月30日初版)という本を購入しました。(この書店は、築地の東劇ビルにあった「リブロ東銀座店」でしたが、5月末で閉店してしまいました!こうした偶然的な本との出合いがなくなってしまい、誠に残念です)

 この「荘園」の本は、古代から中世にかけて、日本人の経済的基盤となった荘園について詳述したもので、荘園というキーワードで日本の歴史を読み解いていくと、表に出てきた紛争や戦乱、政権交代などの原因がよく分かるのです。所詮、人間というものは、経済(=石高や金)によって動く生き物だということなのでしょうね(笑)。

 まず、702年に大宝律令が施行され、朝廷(=天皇)に租庸調の税金を納める律令制度が始まります。が、743年に墾田永年私財法が制定されたことで、租税だけで済むようになり、貴族や寺社が原野を切り開いて「初期庄園」(平安時代半ばから荘園)を始めるようになります。

 この庄園で働いていた農民の中には、農作物を貯め込んで裕福になり、「富豪層」と呼ばれ、その多くが10世紀に最下級の武士になったと考えられるといいます。同時に中央の上流貴族(公卿=左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議)社会から排除された中流貴族が地方に移住し、朝廷とのつながりを保つために自領を荘園にします。また、上流貴族から「卑しいもののふ」と蔑まれていた桓武平氏、清和源氏などの軍事貴族も郡司に代わって村落の小領主を束ねるようになったといいます。一方、朝廷から任命された国司は、現地に赴任せず、地元の小領主らに租税を納めさせ、その領収書を受け取るだけだったことから、「受領」と呼ばれたりしました。

 いわゆる摂関政治は、藤原道長、頼通親子でピークを迎え、頼通は日本最大の荘園の領主となります。しかし、この頼通とその弟の教通(のりみち)が皇室に送り込んだ后に、皇女しか生まれなかったことから、天皇の外戚として権勢を振るっていた藤原氏による摂関政治は崩壊します。この機会を逃さなかった後三条天皇は、息子の白河天皇に譲位して、自らは上皇として院政を敷こうとします。つまり、摂関家という母方から、上皇という父方によって、天皇の権威と影響力を取り戻そうとしたというのです。いやあ、この著者の武光氏の解説は、目から鱗が落ちるように、院政がスッと理解できました。後三条上皇は院政を始める直前に病没してしまいますが、この後三条天皇から日本の中世が開始するという学説が今は最も支持されているようです。

 院政を始めた白河上皇は、院領荘園の設置に取り掛かります。この時、源義家や平正盛・忠盛親子らは、警備を務める北面の武士の一員として白河院に接近し、その院の引き立てによって国司(受領)となり、財力をつけたことから、荘園は、武士台頭の経済的基盤になったわけです。そして、彼らの子孫である平清盛や源頼朝が、天皇や上皇を差し置いて、政権を握るようになります。

 承久の乱で、天皇らの荘園も没収されて、関東の御家人に分配されたので、鎌倉武士が獲得した領地を荘園とは呼ばないと思いますが(いや、御家人たちは、戦利品で獲得した荘園を所領地とした、という言い方の方が正しいので)、この荘園制度は、細々ながらも鎌倉、室町、戦国時代と引き継がれ、豊臣秀吉による「太閤検地」で終焉を迎えました。この古代から長い歴史のある荘園制度を終わらせた秀吉は、所領を守るために武装化した農民から「刀狩り」もしたわけですから、やはり、革命的な凄い人物だと改めて思いました。

【追記】2022・6・16

 鎌倉時代初めまで、京都の朝廷が最新の技術と学問と文化を独占していたといいます。それが、地方にまで技術や文化が浸透していったのは、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗など鎌倉新仏教の僧侶のお蔭だった、と著者の武光氏が書かれていたことを追記するのを忘れておりました。

 これまでの旧仏教(南都六宗)は、あくまでも、天皇皇族や貴族のための宗教で、国家鎮護が目的でした。それを、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、苦行をしなくても、庶民でも救われるという革命思想を唱えたのが法然でした。地方に布教した僧侶たちは、読み書き、算盤まで庶民に伝えたのではないでしょうか。

 日本にお茶を伝えたのが、臨済宗の開祖栄西だといいますから、それに伴う生け花やわびさびなど現代にまで伝わる日本文化を広めたのも新仏教の僧侶だったわけです。

 

肝心なことが抜けるテレビの歴史番組=内藤湖南、北条時頼…

 会社の同僚で歴史好きのAさんが「俺、凄いこと発見した」と鼻をピクピクと震わせました。

 どういうわけか、歴代の将軍(執権)は15代で終わってしまうというのです。そして、中でも初代、3代、5代、8代、15代がいずれも「名君」として呼ばれているという「法則」を発見したというのです。

 例えば、江戸時代は、初代徳川家康、三代家光、五代綱吉、八代吉宗、十五代慶喜です。「生類憐みの令」の綱吉が名君かというと、異論がある人がいるかもしれませんが、確かに1-3-5-8-15は画期的な、特に需要な将軍ばかりです。

 室町時代を見ると、初代足利尊氏、三代義満、五代義量、八代義政、十五代義昭です。金閣寺の義満、銀閣寺の義政と比べ、やはり五代義量となると知名度では劣りますが、まあ、いいでしょう(笑)。

ムスカリ

 では、鎌倉時代はどうでしょう。将軍源頼朝は別格ですが、実質支配権を握ったのは北条氏です。初代執権北条時政、三代泰時、五代時頼、八代時宗、十五代貞顕…あれっ?最後の執権は十五代貞顕ではありませんね。鎌倉が陥落した際に、貞顕の嫡男北条貞将が十六代守時の死を受けて、十七代執権に任じられたとする説があるようです。

 それに、今はNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響で、今では北条義時が最も注目されていますが、彼は二代執権です。

 三代泰時は御成敗式目を制定、八代時宗は元寇を撃退と、知名度は抜群ですが、いつも問題の(笑)五代目は如何でしょうか?北条時頼です。この人、やはり知る人ぞ知る通好みといった名君だったようで、先日、NHK-BSの「英雄たちの選択」で取り上げられていました。

 この「英雄たちの選択」は、かなり勉強にはなる番組なのですが、わざとだと思われますが、たまに肝心なことが抜けていたりします。例えば、先日は、東洋史学者の「内藤湖南」を特集していましたが、師範学校出の湖南を京都帝国大学教授にスカウトした彼の人生にとって最も重要な人物である狩野亨吉(安藤昌益の研究家、夏目漱石の親友で、京都帝大の初代学長)の「か」の字も出て来ないのです。幻滅しましたね。

チューリップ

 今回の北条時頼特集でも、農民たちには撫民政策を施し、私利私欲でしか動かない暴力集団である武士をまともな行政官として育成し、禅宗を篤く保護して建長寺(鎌倉五山第一位)を建立した時頼の功績はよく分かったのですが、やはり私としては肝心だと思われることが抜けていました。

 時頼は、赤痢にかかって執権職を義兄の長時に譲り、最明寺に出家します。しかし、実権は相変わらず時頼が握っていて、「最明寺の入道」と呼ばれていました。最明寺の入道といえば、思い出しました。日蓮が「立正安国論」を提出したのが、鎌倉幕府の最高権力者だった最明寺入道宛てだったからです。(佐藤賢一著「日蓮」)鎌倉仏教の代表の一人である日蓮と北条時頼は同時代人だったのです。

 なあんだ、番組の中で「最明寺入道」の一言説明があれば、日蓮のことも思い出し、北条時頼の理解力が深まったと思います。時頼は、台風で崩壊した高徳寺の木造の大仏を青銅に作り直した際の執権でもありました。鎌倉といえば大仏さまじゃありませんか。番組で鎌倉大仏のことが一言出てくれば、時頼の偉大さが深まったと思いました。

 何が言いたいのかと言いますと、テレビの歴史番組というのは、かなり恣意的だなあ、ということです。歴史番組に限らず、そもそも、テレビとは「枠組み」に沿って作られた恣意的なものだとも言えますが。

勝ち馬に乗って武力だけが頼みの世界=細川重男著「頼朝の武士団」を読了して

  細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を読了しました。

 当初、一昨日の渓流斎ブログ「鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?」に【追記】として添え書きしようかと思ったのですが、少し長くなってしまうかもしれませんので、章を改めることに致しました。

 この本の前半の3分の2ほどは、2012年に洋泉社歴史新書yの1冊として刊行され、絶版となっていたのを改めて、朝日新書として後半3分の1ほどを書き加えて9年ぶりに再発行したものでした。前回も書きましたが、前半はちょっと人を喰ったような書き方でしたが、後半は、そういった筆致は改められて結構真っ当に学術的に書かれています。版元が変わるとこうも違うのでしょうか?

 前半は、源頼朝の生い立ちから薨去まで。書き加えられた後半は、頼朝薨去から承久の乱を経て伊賀氏の変の結末に至るまで描かれ、著者の言うところの頼朝の武士団の「完全版」となっています。前半も後半と同じようにあまり羽目を外さずに記述されていれば、これから800年は読み継がれる名著になっていたでしょうから、惜しまれます。

 それでも、非常に面白く、勉強になりました。

 私は学生時代に「平家物語」は、途中で挫折してしまったのですが、一番印象深かったのは、熊谷直実の逸話です。一ノ谷の戦いで、平敦盛を討ち取りますが、息子ほどの年齢の若武者の命を奪ったことで無常観を感じて、出家する動機となり、法然上人に弟子入りする話はあまりにも有名です。この話はその後、能や人形浄瑠璃、歌舞伎でも題材として取り上げられました。

 私は、この熊谷直実の軍団は数千規模の大きなものだと思っていたのですが、熊谷氏は直実と子息直実と家臣(旗差し)のたった3人しかいなかったんですね。「平家物語」巻九「一二之懸」にあるらしいのですが、忘れておりました(笑)。

 何と言っても、頼朝の御家人のトップ3といえば、相模の三浦氏(義澄、義村)、下総の千葉氏(常胤)、下野の小山氏(政光)だといいます。総勢2万騎と日本一の軍団を誇った上総広常は、頼朝が脅威を感じて、恩人だったはずなのに、結局、梶原景時に暗殺させています。(当時は、文字通り、多くの家臣も「鞍替え」して裏切ったりして、皆、疑心暗鬼で、親分・子分との間の抗争は激しかったことでしょう。)

 このビッグ3の三浦、千葉、小山、それに足利、新田、比企などは現在でも残っている地名ですが、どうやらこれらの苗字は、所領、つまり地名から来ているようです。でも、鶏が先か、卵が先か、どちらか分かりませんが、恐らく、地名から苗字になったということなのでしょう。他に、渋谷重国、江戸重長、葛西清重、海老名秀貞、河越重頼ら地名のような東国武将が登場しますが、こちらも所領名と関係がありそうです。

鎌倉 畠山重忠邸跡

◇源氏政権は平氏がつくった?

 この本の巻末の系図は大いに参考になりました。よく見ると、鎌倉幕府を成立させて源氏再興に貢献した北条氏も、三浦氏も、鎌倉党の梶原氏も、秩父党の畠山氏も、上総氏も千葉氏も、ほとんど皆、桓武平氏の流れを汲んでいるのです。

 あれっ?という感じです。天下を取った平清盛は、桓武平氏の中の「伊勢平氏」という一分派で、この分派が権力を独占したため、他の分派が反旗を翻したように見えます。前回にも書きましたが、源氏と平家との間の策略的な婚姻関係があり、源氏だろうが、平氏だろうが、各々お家のために、勝ち馬に乗ることが先決だったのでしょう。こういうことは現代人もやってますよね?(爆笑)。

 よく、鎌倉時代は、暗殺と粛清が横行し、言葉が通じない野蛮な世界というレッテルが貼られますが、当時は憲法もなく、法律も形骸化された、いわば無法地帯で、武力だけが頼みの世界でしたから、本能の赴くまま、太く短く生きるしかなかったのかもしれません。

 著者も書いている通り、頼朝の挙兵に参加した坂東武士たちは、一か八かの大博打に賭けたというのは、真実でしょう。

鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?= 細川重男著「頼朝の武士団」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法に洗脳されて、「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読破しましたが、どうしても、これだけでは少し物足りなかったので、細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を購入し、読んでみました。

 著者の細川氏は、立正大学で博士号を取得され、現在、國學院大學で非常勤講師をされている方だと略歴に書かれていますが、随分、人を食ったような書き方をされています。御本人はウケを狙って、劇画チックに書かれているようですが、一応、学術書気分で読み始めた読者からみれば、滑りますね(笑)。鎌倉時代の話なのに、例証としてマフィアやキャバクラ嬢やAKB48などが登場したり、大胆にも「今様(当時のポップス)」「白拍子(アイドル歌手)」などと解説?されたりしておられます。

 勿論、それらは一部の話で、「猶子(ゆうし=財産相続権の無い養子。子供待遇)」「衆徒(しゅと=いわゆる僧兵だが、僧兵は江戸時代の言葉)」などと極めて真面目に説明はされていますが…。

 何で、1962年生まれの著者は、こんな斜に構えたような書き方しかできないのか? この本の224ページに著者はわざわざこんなことを書かれております。

 卒業した大学を「弱小私大」「三流大学」と嘲笑われ、研究者として実力とは無関係に、卒業した大学を理由に、「一流大学」とやらを出たヤツらから見下され、ハラワタが千切れそうなほど悔しい思いを、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、…して来た私には(以下略)

 どうやら、私のように、著者は性格が捻くれてしまったようですが、それは読者にとって預かり知らぬことで、特に、知らなくてもよかったこと。ブログならともかく、せっかく素晴らしい著作なのにその評価を酷く、酷く、酷く、酷く、酷く、…貶めてしまった結果になってしまいました。

東銀座「大海」とり天カレー950円

と、多少、文句を書き連ねてしまいましたが、非常に勉強になる本でした。恐らく、「鎌倉殿の13人」の脚本を書かれている三谷幸喜さんが最も参考にした本だと思われるからです。内容は、鎌倉時代の正史と言われる「吾妻鏡」を時系列にほぼ正確に追って記述しております。

 ですから、私が「歴史人」と「歴史道」でせっかく覚えた鎌倉殿の13人の一人、安達盛長は本当は小野田盛長だったことや、二階堂行政も中原親能も藤原姓を名乗ったりしていたことなどをこの本で知りました。

 何と言っても、巻末に「系図」が付いているので、人物関係がすっきりと分かります。当時は、高貴の身分の子どもは実の親ではなく、乳母(めのと)によって養育され、乳母の子供たちは乳母子(めのとこ)とか乳兄弟(ちきょうだい)などと呼ばれ、成長すると最も信頼する家臣になることが分かりました。(源頼朝には比企尼、寒河尼、山内尼、三善康信の伯母の4人の乳母がいた。例えば、小野田盛長と比企能員は、頼朝とは比企尼つながり、八田知家、小山政光らとは寒河尼つながり、など)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 この本を購入したのは、頼朝の家臣団や御家人のことをもっと知りたかったからでした。生き残った彼らは、後の室町、戦国、江戸時代(いや、現代)まで活躍するからです。

 源頼朝は、清和天皇の流れを汲む「清和源氏」の一派である「河内源氏」の系統であることはよく知られています。それ以外はほとんど滅んでしまいますが、摂津源氏の流れから美濃源氏が生まれ、そこから室町時代の守護になる土岐氏が出てきます。河内源氏から常陸の佐竹氏(江戸時代に出羽・久保田藩に移封され、現在、秋田県知事を輩出!)、それに甲斐源氏である武田氏(勿論、戦国時代の武田信玄が有名)が出てきます。

浄土宗 東光山英勝寺

 以前、私が昨年、鎌倉を取材旅行した際、太田道灌ゆかりの英勝寺がもともと源義朝(頼朝の父で、平治の乱で敗退し家臣によって殺害される)の屋敷跡だったことを知り驚いたことを書きました。

 頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、父祖の地だったからでしたが、それはいつ頃だったのか、この本に回答がありました。河内源氏の祖は平忠常の乱を平定した源頼信ですが、その嫡男の頼義(前九年の役を平定)が、その義父に当たる平直方から鎌倉の領地を拝領したというのです。(頼朝にとって頼義は四代前の祖先に当たる)

 平直方は桓武平氏です。源平合戦になる前は、結構、源氏と平家の姻戚関係は濃厚だったんですね。何と言っても、北条時政も北条義時もこの平直方の子孫なのです。時政は平直方の曾孫と結構近い。

 石橋山の合戦で頼朝軍を敗退させた大庭景親は、伊勢平氏の「東国ノ御後見」でしたが、景親の兄の大庭景義は源義朝の家臣で保元・平治の乱にも参戦し、そのまま頼朝の家臣として仕えてますから、親子、兄弟の間で、源氏と平氏と別れて戦った例が数多あったことでしょう。

 石橋山の合戦で敗れて安房に敗走した頼朝に対して、2万騎もの兵を引き連れて参戦した上総広常は、後に頼朝の命で梶原景時によって暗殺され、その梶原景時も北条義時らによって滅亡され、この他、頼朝の御家人だった和田義盛も、畠山重忠も、比企能員も、三浦義村の嫡男泰村もほとんど粛清されていきます。スターリンも真っ青です。

 何と言っても、河内源氏も三代将軍実朝の暗殺で滅んでしまうわけですから、いやはや、著者が引用するマフィアも吃驚です。平氏滅亡の殊勲者である源義経も、兄の頼朝の命で殺害されたわけですし、鎌倉幕府は、暗殺とテロと暴力と陰謀が蔓延った世界だったというのは大袈裟ではないかもしれません。

「承久の乱」は「承久革命」なのでは?=「歴史道」の「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」を読んで

 「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)をやっと読み終わりました。やはり、2週間ぐらいかかったでしょうか。

 でも、実に面白かった。鎌倉時代のことをもっともっと知りたいと思いました。800年続く武家社会(私説)の礎が築かれた時代ですからね。渓流斎ブログ2022年1月24日付「源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞」でも書きましたが、その前に読んだ「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と切り口が違うので、まるで違う本を読んでいる感じでした。(当たり前でしょうけど)

 両誌とも、目下放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法であることは間違いないのですが(笑)、私もそのお蔭で「鎌倉殿の13人」の補足知識を得ることが出来ました。まず、第一にこの「歴史道」の中で、濱田浩一郎氏によると、「鎌倉殿の13人」とは、以前は二代将軍源頼家が直接訴訟に判決を下すことを停止され、有力御家人13人の合議制による決裁に委ねられたとされて来ましたが、現在この見解は有力視されず、頼家への訴訟の取次を有力御家人13人に限定したに過ぎず、13人の宿老が一堂に会して合議した例は、文献等から確認されないといいます。つまり、「13人の合議制」なるものの実体はないというのです。へー、そうでしたか。

築地「わのふ」魚御膳定食1000円

 平安時代末期から鎌倉初期にかけて、保元・平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、そして何よりも承久の乱と戦乱・内乱が続き、おまけに飢饉、疫病、後に元寇といった国難もあり、この時代は、相当庶民が疲弊した大災難の時代だったと思います。そのために、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮らが新興宗教を起こし、民衆が縋ったのか、もしくは、あまりにも民衆が救いを求めるので、新仏教が生まれたのではないかと私は思っています。

 この時代の歴史資料の代表的なものとして、「平家物語」「吾妻鏡」がありますが、「平家物語」は、平清盛ら平氏に対してあまりよく思っていない書き方で、「吾妻鏡」は鎌倉時代の正史とはいえ、北条氏に都合の良い書き方がされているといいます。そのお蔭で、「平氏でなければ人にはあらず」に代表される言葉のように、確かに、私自身も平氏に対して悪い印象を植え付けられてきた感じがします。でも、「平氏=悪」「源氏=善」ではなく、互いに権力を争ったに過ぎないと考えるようになりました。(平清盛による開明的な経済政策は特筆に値します)

 また、「吾妻鏡」では、当初、源頼朝の乳母系として北条氏より遥かに所領も多く、権勢を誇っていた比企氏に関する履歴や記述が少ないのは、北条氏を有力御家人に見せるために、後から削除されたのではないかという疑惑もあるといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 さらに、北条氏は、平貞盛の子孫と言われます。北条頼政の義父で、北条義時の祖父に当たる伊東祐親が300騎を動員できた時に、北条氏はわずか30騎に過ぎない豪族でしたが、北条政子が源頼朝の妻になることで一気にのし上がります。その後、比企能員や梶原景時、和田義盛ら有力御家人らを次々と滅ぼし、ついには、承久の乱で勝利を収めて、武家政権を確立した北条義時は、「陸奥守平義時」と称しました。つまり、鎌倉時代は源氏はわずか三代で滅んだので、平氏政権でもあったと言えることでしょう。

 その承久の乱の後、後鳥羽(隠岐島)、順徳(佐渡島)、土御門(土佐→阿波)の3人もの上皇が流罪となり、追放されました。この時、義時と六波羅探題は、皇位継承まで介入し、上皇の荘園まで剥奪し、その権威を有名無実化することに成功しました。ということは、大袈裟に言えば「承久の乱」は、1000年続いた大和朝廷=天皇王権を覆して、武家政権を打ち立てた「承久革命」と言った方が実態に近いのではないでしょうか?

 最後に、もっと知りたいと思ったことは、鎌倉幕府の御家人たちのことです。「鎌倉殿の13人」でさえ、「生年不詳」の御家人が多いので、致し方ないのですが、少なくとも、その後の室町、戦国、江戸時代に活躍する祖先に当たる人たちの話ですから関心があります。例えば、武田信義(戦国武将武田信玄の祖先で甲斐武田氏の始祖)、大江広元(長州毛利氏の始祖)、島津忠久(薩摩島津氏の始祖)、足利俊綱(足利尊氏の祖先)らはあまりにも有名なので分かりますが、千葉常胤、三浦義澄、宇都宮朝綱、小山朝光、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越(川越)重頼、江戸重長は21世紀の現在でも地名として残っているので、土地と名前との関係(あるのかないのか)にも興味があります。えっ?自分で調べなさい、ってか?