いまだに「古河公方~古河城址」歴史散歩の興奮が冷めやらず、前回書き切れなかったことを書いてみます。
◇古河公方は生き延びた
康正元年(1455年)、鎌倉府から古河に移った第5代鎌倉公方足利成氏(しげうじ)は、古河公方と称し、この地に館を構えたため、古河は関東の政治文化の中心地となります。
この古河公方は、第5代の足利義氏(よしうじ)が1582年に没するまで、100余年続きます。義氏には女子1人おり、名前を氏女(うじひめ)と言いました。小田原北条氏を平定して関東を制圧した豊臣秀吉は、古河公方の名跡が途絶えることを惜しみ、腹心の小弓義明の孫國朝に氏女を娶らせて、喜連川(きつれがわ)の地5000石を与えます。
國朝は病死したため、その弟の頼氏が喜連川家に入り、氏女は義親を生み、その後、江戸時代になっても、喜連川家は小藩ながら幕末まで生き延びるのです。
最初、喜連川藩の名前の読み方も分からず、ましてや、古河公方の血筋をひく由緒ある藩だとは知りませんでした。
◇熊沢蕃山
熊沢蕃山(1619~91)といえば、江戸初期に活躍した備前国(岡山県)出身の陽明学者ですが、古河藩で亡くなっていたとは、今回の歴史散歩の下調べで初めて知りました。
山川出版社の「日本史小辞典」を引用しますと、熊沢蕃山は、農本主義を唱えて、岡山藩主池田光政に仕えて、治水・治山による米の増産を実践し、岡山藩の財政立て直しに寄与します。しかし、晩年の著書「大学或問」で、参勤交代や兵農分離策などを批判したため、幕府の命により古河藩お預かり処分となったというのです。
彼は、古河城内に幽閉され、72歳で没し、城外大堤にある鮭延寺に葬られました。
◇古河藩の飛び地
先月4月7日に現在の千葉県野田市にある関宿(せきやど)城址に行ったことは、このブログにも書きました。後に第2次世界大戦終戦のポツダム宣言を受諾した際の首相を務めた鈴木貫太郎が、この関宿藩出身だったことも書きました。でも、鈴木貫太郎は、関宿生まれではなく、今の大阪府堺市生まれなのです。関宿藩が、堺に領地(飛び地)を持っていたからでした。
このように、幕府は、雄藩に対して、飛び地を所有することを、むしろ推奨する形で認めていたんですね。幕府も天領という領地を全国各地に所有していましたし、特に、大坂城代や京都所司代などを務める譜代藩に対しては、財政支援上、飛び地を所有することを認可していました。これには、外様大名を牽制する目論見もあったそうです。
で、古河藩ですが、同藩家老の鷹見泉石の資料の中に、この飛び地からあがる石高などを記した貴重な文書も展示されていました。大坂城代や京都所司代を輩出した古河藩は、大坂、兵庫だけでなく、遠く離れた岡山県津山にまで領地(飛び地)を持っていたことを知り、少し驚きました。江戸時代は、現代人が想像する以上に人の行き来があったんですね。
◇有馬氏は転勤族?
先程の喜連川藩などを調べている時、下級武士だった我が祖先の九州の久留米藩のことが気になって調べてみましたら、意外なことを「発見」しました。
豊臣秀吉の九州平定後、小早川(毛利)秀包が筑後7万5000石を与えられ、久留米城を近代城郭に大改築して居城とします。しかし、関ケ原の戦いで西軍についた秀包は改易となり、代わって石田三成を捕縛する戦功を挙げた三河岡崎10万石の田中吉政が筑後32万石を与えられ、入城します。しかし、その後、田中氏は無嗣改易となり、筑後の北の久留米藩21万石は、丹波福知山から有馬豊氏が入ります。(筑後南の柳河藩10万9000石には、立花氏が20年ぶりに帰還します)
久留米藩主の有馬氏は、幕末までずっと続きますが、第15代当主に当たる有馬頼寧は、農林大臣(第一次近衛内閣)などを歴任し、戦後は、競馬の「有馬記念」に名前を残しています。そうそう、作家の有馬頼義も、臨済宗相国寺の有馬頼底管主も、藩主有馬氏の末裔でした。(殿様には決して頭が上がりません)
初代久留米藩主(二代という説も)有馬豊氏は、丹波福知山から移封されてきたということですから、有馬温泉と関係があるのかなあ、と思っておりましたが、丹波福知山(もともと明智光秀の領地)の前は、何と、豊氏は、遠江の横須賀を居城としていたというのです。遠江横須賀とは、現在の静岡県掛川市です。えっ?どういうこと?
これまた調べてみますと、有馬氏のルーツは14世紀に有馬義佑が摂津国有馬郡の地頭に補せられた時にまで遡ることができます。その後、豊臣秀吉に従った有馬則頼とその子である豊氏が、「秀次事件」で改易された秀次の家老渡瀬繁詮の領地だった遠江横須賀3万石を与えられたんですね。関ケ原の戦いでは、有馬父子は東軍として活躍したため、豊氏は丹波福知山藩6万石に封されます。そして、大坂の陣でも大いに戦功を挙げたことから、豊氏は久留米藩21万石の初代藩主になったということです。(豊氏の父則頼が初代久留米藩主という説も)
戦国時代も江戸時代も、現代人が不勉強なだけであって、このように、かなりの大名が改易されたり、移封されたりしておりますから、今と変わらない転勤族だらけだったんですね。