宿坊「天徳院」の朝食
「高野山の修旅」も3日目、今回が最終回です。
3日目最終日は7月13日(土)、再び壇上伽藍に行きました。初日のナイトツアー、2日目は個人的に夕方歩いて回りましたので、これで3日連続3回目です。
すっかり慣れました。自分の庭のように歩き回ることができました(笑)。
静謐で厳かな雰囲気は何事にも代え難いものがあります。
上の写真の金堂は、もともと2階建てでしたが、大正天皇の法事の際に、ろうそくの不始末が原因で焼失してしまいました。
昭和7年(1932年)に再建され、高村光雲作の薬師如来像が本尊として安置されました。
内部の菩薩などの壁画は、木村武山の筆によるものです。
高野山の象徴的存在となった根本大塔は、高さ48.5メートル。日本最高の成田山新勝寺の塔50メールに次ぎ、2番目の高さです。
大塔内部は、初日の回(上)で書いた通り、金剛曼陀羅を具現化したもので、本尊は、手指を輪にする胎蔵大日如来です。一方、西塔は胎蔵曼陀羅を具現化したもので、本尊は、印を結ぶ金剛大日如来と逆でしたね。
胎蔵大日如来は優しい母性を、金剛大日如来は厳しい父性を表すと言われています。
大塔内壁に描かれた真言八祖像や花鳥は、堂本印象画伯の筆によるものです。
六角経蔵の基壇付近にある把手を持ちながら一回りすると、一切経転読の功徳があると言われています。
もちろん、ツアー参加者全員が一周しました。
壇上伽藍参拝の後、清浄心院に向かいました。ここの住職は円満院住職も兼ねているので、門には二つの寺院の名称が掲げられていました。
この寺には、豊臣秀吉自ら植えた傘桜があり、この樹の周囲で酒宴が開かれたそうです。
この酒宴の後に、興に乗った秀吉が書いた詩文が上の写真です。
この直筆が、本物か複製か分かりませんが、実に独特な筆致で芸術の域に達していることが分かります。天下を取るはずです。
本尊は運慶作の仏像で、国宝級でしたが、寺では申請していないようです。申請して国宝と認定されると、温度と湿度の管理、それに盗難防止用のセキュリティもしなければならず、結局、経済的にできないと、博物館に召し上げられてしまう恐れがあるからだそうです。
高野山の寺院巡りはこれで終わり。標高900メートルの山を下りました。
山を下ってツアー最後のコースの寺院が慈尊院でした。何でこの寺に立ち寄るのか、最初分からなかったのですが、空海の母親が息子の安否を気遣って、讃岐から出てきて滞在した寺だというのです。
高野山は女人禁制ですから入山できません。
慈尊院を創建した空海は、母親に会いに、片道9キロの道程を月に9回出掛けたので、この辺りを九度山と呼ばれるようになったといいます。
また、高野山参りの道しるべとして、「町石(ちょういし)」と呼ばれる石造りの卒塔婆が、山麓から奥之院にかけての約24キロを、1町(約109メートル)ごとに置かれましたが、その山麓の基点がこの慈尊院だったのです。
鎌倉時代に慈尊院から伽藍の大塔まで180基、大塔から奥之院まで36基の町石が造れたといいます。
当時は神仏習合ですから、空海は慈尊院の隣といっても、急な階段を100段近く上らないければなりませんが、丹生官省神社も同時に創建しました。
空海の庇護者として金塊を与えてくれた例の丹生氏を神さまとして祀った神社です。
空海は、6月15日生まれで、唐に留学した時の師、恵果和尚(けいか・かしょう)のそのまた師である印度の不空上人が6月15日に入滅したことから、恵果は、空海が不空師の生まれ変わりと認め、20年掛かる留学期間をわずか2年で許しました。
しかし、空海は日本に帰国しても、20年の約束だったため、京の都に戻れず、数年間は九州に滞在することになります。
この時、空海は、宗像大社近くに鎮国寺と福岡市博多区に東長寺を創建します。高野山より古いので、これらの寺は、今でも「日本で一番古い真言密教の寺」として任じています。
ということで、今回の旅行会社が立案した高野山の寺社仏閣巡りはすべて重要な拠点ばかりで、大変素晴らしい内容でした。感謝申し上げます。
最後に、気になっていたのが、三鈷杵(さんこしょ)です。
古代インドでは確かに武器として使われていましたが、仏具としては、邪気や悪や、己の弱き心まで打ち祓うために使うのだそうです。
何だか、私も欲しくなってしまいました。
南無大師遍照金剛