「政府は財閥の出張所たる商事会社」とは血盟団事件の池袋被告もよく言ったものでした=立花隆著「天皇と東大」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 相変わらず、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)第2巻「激突する右翼と左翼」を読んでいます。

 後半の大部分は、血盟団事件に記述が割かれています。私自身は、これまで昭和史に関する書籍だけは読み込んできたので、特に驚くような、自分自身が知らなかった新事実はなかったのですが、色々な繋がりが分かり、点と点がつながって線になった感じです。

 例えば、戦前に「右翼」と呼ばれた国家主義者たちは、玄洋社の頭山満と東京帝大教授の上杉慎吉を軸につながりがあった、つまり、面識があったり、話し合う機会があったり、結社をつくったりしていたということです。当たり前と言えば、当たり前の話なのですが。

 血盟団事件の首魁井上日召は、前橋中学時代に、あの高畠素之と同級生だったことから、中学時代(とは言っても旧制中学ですよ)にマルクスやエンゲルを読んでいたといいます。高畠素之は、前回も書きましたが、日本で初めてマルクスの「資本論」を完訳した人で、後に「右翼」の国家社会主義者に転向して上杉慎吉と経綸学盟を結成しています。

 井上日召自身も大正15年に、上杉慎吉、赤尾敏、頭山満らがつくった国家主義団体「建国会」(建国祭を提唱し、共産党撲滅、天皇政治の確立を叫ぶ)に参加しています。この運動には、井上は、建国祭のお祭り騒ぎに嫌気がさして、ほどなくして離れ、仏道の修行を深めるために沼津の松陰寺に入り、禅宗の高僧山本玄峰に師事したというのです。これはすっかり忘れていたことで、聊か興味深かったです。

  山本玄峰といえば、東大新人会から日本共産党再建書記長になった田中清玄(1906〜93年)を、逮捕されて11年間の入獄後に「保証人」のように引き受けた臨済宗の怪僧です。大須賀瑞夫インタビュー「田中清玄自伝」によると、山本玄峰は、共産主義から天皇主義に転向して下獄した田中清玄をつかって、昭和天皇と極秘に面会させたり、鈴木貫太郎首相に無条件降伏を進言させたりしたといいます。

 昭和初期には、浜口雄幸首相狙撃事件、三月事件、十月事件、血盟団事件、五.一五事件、二.二六事件など右翼や軍部によるテロやクーデタ未遂事件が相次ぎます。その社会的背景には、ロシア革命に影響を受けた左翼による政府転覆の恐れ、それに反発する「国体護持」が大命題の右翼の台頭がありますが、金融恐慌による不景気や東北冷害などによる娘の身売り、そして何よりも地主や資本家ら特権階級による搾取に対する反感反発がありました。右翼も左翼も、華族や高級軍人や財閥や政党政治を批判していました。(立花氏は「当時の極右と極左は、天皇をかつぐかどうかの一点を除くと、心情的にはかなり近いところにいたのである」(416ページ)と断言しています)

 私は不勉強ですから、地主や資本家批判なら分かりますが、つい数年前まで、何で昭和初期の右翼も左翼もこぞって政党政治を糾弾するのかよく分かっていませんでした。でも、当時のインテリにとっては、全く自明の理だったんですね。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 血盟団事件の学生リーダー池袋正釟郎(東京帝大文学部東洋史科)は公判で次のようなことを供述しています。

 厳密に言へば、(元老の)西園寺公望が首相を任命するに非ず、実は政党の消長の鍵を握る三井三菱の財閥が任命するやうなものであります。されば現代の政治家は三井三菱の番頭であり、政府は財閥の出張所たる商事会社であり、国策は商策であり、政治は商売であります、…西園寺はじめ、牧野(伸顕)や鈴木(貫太郎)侍従長の元老重臣は財閥政党に結託して一身の利害のみを顧慮して、右の措置を敢えて取らず、常に腐敗堕落したる政党政治家のみを推薦して、上聖明を覆い奉り、下人民を失望せしめて居るのであります、ここに於いて此れ等元老重臣を除き、君側を清める必要があります。

 このように、当時のインテリ学生にとっては、憲政会が三菱と政友会が三井と結託していることは公然の秘密ではなく、自明の理だったんですね。それにしても、「政府は商事会社」とはうまいこと言ったものです。

 そして、明治時代から、政界での汚職や疑獄事件は絶えることなく、血盟団は、昭和初期に起きたさまざまな疑獄事件を糾弾しています。室伏哲郎著「実録 日本汚職史」(ちくま文庫)にもあまり出てこなかったので、ここに再録しますが、小川平吉・前鉄道相による五私鉄疑獄、小橋一太・文部相による越後鉄道疑獄、山梨半造・朝鮮総督による朝鮮総督府疑獄、天岡直嘉・前賞勲局総裁による売勲疑獄。そして何よりも、池袋らが糾弾したのは、田中義一・陸軍大将(後の首相)が政界進出する当たり、神戸の億万長者・乾(いぬい)新兵衛から300万円の政治資金を受けた疑獄事件です。田中は、自分が政権を握ったら乾を男爵にするとともに、満洲に利権を与え、仲介者に300万円の1割を報酬として与える約束をします。ところが、田中は政権獲得後も仲介者に一銭も払わなかったので、怒った仲介者が訴訟を起こしたことからコトが明るみに出たといいます。漫才みたいな話ですが、当時はそれほど政界は腐敗していたのですね。

 とはいえ、現代日本人の中で、政党政治を批判する人は皆無でしょう。誰一人、自民党と大財閥との結託を糾弾する人はおりません。その代わり、血気盛んな青年将校も、テロに走る若者もいなくなりましたが…。何と言っても、海の向こうの大国では、「政府が商事会社」どころか、不動産王を大統領に選出するぐらいですからね。昭和初期の事件に関与した人たちが今の社会を見たら驚いて腰を抜かすことでしょう。

【追記】

・昭和7年(1932年)2月〜3月に起きた血盟団事件とそれに続く5月の五・一五事件で、日本の政党内閣の時代は終わり、これ以後、軍人内閣ないし軍部と妥協した内閣が続く。

・五・一五事件で無期懲役の判決を受けた農本主義者の橘孝三郎・愛郷塾塾長は、立花隆氏(本名橘隆志)の父の従兄に当たり、立花氏が子どもの頃会ったことがあるが、本に埋もれるようにして生活していた白髪の老人という記憶しかないという。

・血盟団グループと五・一五事件の海軍青年将校らに最も影響を与えた精神的支柱ともいうべき理論家は権藤成卿だった。権藤は、日本ファシズムの急進的指導者というより、農本主義の反国家・反資本主義、反都会中心主義、郷土主義者だった。黒竜会にも参加し、日本の政財官界だけでなく、中国革命の孫文ら中国人や朝鮮独立運動家らとも親しく幅広い人脈もあった。主著「自治民範」「南淵書」。

権藤家は、代々久留米藩の藩医を務めた家系。権藤成卿の実弟震二は、東京日日新聞、二六新報記者を務め、日本電報通信社を設立した。

以上 第2巻を読了。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

旧《溪流斎日乗》 depuis 2005 をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む