「慶喜が敵前逃亡しなければ」「孝明天皇が急死しなければ」「錦の御旗が偽造されなければ」=松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」

(7月13日のつづき)

 松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社)が異色の幕末史となっているのは、これまで「薩長史観」で洗脳に近い形で教え込まれていた常識や史実が、百八十度、ひっくり返ってしまうことです。

 例えば、「松下村塾」を開き、維新の原動力となり、精神的支柱になった長州藩の吉田松陰のことです。偉人です。神格化され、明治になって本当に神になって松陰神社(東京都世田谷区)に祀られた人です。吉田松陰は安政の大獄で刑死となりましたが、文久3年に高杉晋作、伊藤俊輔(博文)らによって、毛利藩主の別邸に改葬され、明治15年になって、そこにそのまま松陰神社が建てられたのです。

 同神社の由緒では、「吉田松陰先生は、世界の中の日本の歩むべき道を自分自身が先頭となり、至誠、真心が人間を動かす世界を夢見て弟子たちと共に学び教えていきました。新しい時代の息吹が松下村塾の中に渦巻き、次の時代を背負う多くの俊才、逸材を生み出したことは、広く世界の人々が讃える所であります」などと稀に見る立派な教育者で、思想家となっております。しかし、松田氏の「斗南藩」では、彼は、黒船のペリー提督や南紀派中心人物である水野忠央(ただなか=紀州藩江戸定府家老)、老中間部詮勝(まなべ・あきかつ=越前鯖江藩主)ら要人暗殺を企てて若者を煽動したテロリストだったと書かれています。

 松田氏は「神社の創建以降、松陰の顕彰に最も熱心だったのは、山縣(有朋)だった。…軍拡にまい進した『日本陸軍』の父である。対外戦争の時代、国家が『愛国』『殉国』の権化としての松陰像を称揚していったが、まさか、暗殺、テロで政権に歯向かおうとした人を子どもに修身で教えるわけにはいかない。松陰の負の横顔は隠され、軍国主義に都合のいい側面だけを利用したのである」と書いていますが、彼が参考にした文献は、萩博物館特別学芸員・一坂太郎著「吉田松陰ー久坂玄瑞が祭り上げた『英雄』」という本でした。萩の人が、地元の英雄を批判していたのです。松田氏は「松陰のお膝元の人が刊行したので、一坂氏に有形無形の圧力がかかるようになったという」ことまで明かしています。

 ということで、この「斗南藩」を読了しましたが、やはり、敗者からの視点で描かれているとはいえ、読んでいて、腹立たしくなったりして「切歯扼腕」状態でした。歴史に「イフ」はない、とはよく言われますが、(1)「鳥羽伏見の戦いの最中、もし徳川慶喜が、大坂城からわずかな側近だけを連れて逃げ出さなかったら」(2)「もし、孝明天皇が急死しなければ」(3)「もし、岩倉具視らが『錦の御旗』を偽造しなかったら」歴史は全く違ったものになっていたことでしょう。

 (1)については、「徳川慶喜が大坂城を脱走したのは慶応4年1月6日の夜9時ごろ。随行は松平容保(会津藩主)とその実弟松平定敬(桑名藩主)、老中板倉勝清ら数人。慶喜に『一緒に来い』と命じられた容保は、庭でも散歩するのかと思い、ちり紙も持たずに従ったという」。総大将が敵前逃亡してしまえば、前線の兵士は梯子を外された格好で、これで敗戦が決まったようなものです。

 (2)の35歳の若さで崩御された孝明天皇については、著者は岩倉具視を黒幕としたヒ素による毒殺説を支持しています。孝明天皇は、会津藩に対する信任が厚く、その証拠として本書では宸翰(しんかん=天皇の直筆の文書)まで掲載しています。反幕府の公家や薩長にとって、会津シンパの孝明天皇が邪魔だったのかもしれません。

(3)の「錦の御旗」が偽造だと知らずに、「賊軍」には与したくはないと、戊辰戦争の最中、土佐藩、淀藩(初代藩主稲葉正成の妻は三大将軍家光の乳母春日局)、津藩、彦根藩…と次々と官軍、実は薩長軍に寝返ってしまいます。畏るべし。

 その後、「朝敵」「賊軍」となって孤軍奮闘とした会津藩は、最期は有名な白虎隊の悲劇などがあり壊滅し、明治になって23万石の領地を没収されます。作物も碌に育たない火山灰地の北僻陸奥の極寒地3万石の斗南藩に追放されます。会津藩の表向きの石高は23万石ですが、幕府預け領などを合わせ、一説には67万9000石だったといいます。当然のことながら、多くの餓死者を出し、漁業や林業、そして酪農業などで活路を見出していくのです。

 いずれにせよ、「維新の英傑」と言われている西郷隆盛も大久保利通も木戸孝允も「五百円札になった」岩倉具視も本書では「善人」として描かれていません。歴史にイフがなく、敗者側からの歴史では、どうしても、「たら」「れば」の話になってしまいますが、これまで、「定説」となっていた誤謬を多くの史料・資料から訂正していることは本書の功績でしょう。

蛇足ながら、著者の松田氏が特別論説編集委員を務める東奥日報社につながる青森県初の言論機関「北斗新聞」を明治10年に創刊したのは、小川渉という斗南藩士だった人でした。

また、秋篠宮紀子妃は、会津藩士で斗南藩に移植し、大阪市長などを歴任した池上四郎の曾孫に当たるといいます。となると、将来、天皇になられる悠仁さまも、会津・斗南(藩士)の子孫になります、と著者は最後に結んでいました。

 この本を贈ってくれた畏友小島君には感謝申し上げます。

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