孫悟空の火焔山 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
沖縄のUさんが、6月20日付の「沖縄タイムス」と「琉球新報」の2紙を航空便で送って下さいました。米軍属によって若い女性が殺害された事件に抗議する県民大会の模様を報じた紙面です。一面と最終面が「陸続き」で特大の写真とともに飾られています。
この2紙は、ベストセラー作家と称す傍若無人な無神経な男が「つぶさなければならない」と暴言を吐いた新聞としても、世界的に有名になりました。
さて、今日もまたまた、宣撫費をもらわずに、国策電気紙芝居協会の番組を取り上げます。ちょうど通勤時間帯のため、見られなかった「ファミリーヒストリー」を録画までして見たのですよ。最近、涙腺がかなり弱くなってしもうた、もんで、見ていて、何度も画面が曇ってしまいました。
録画したのは、キャスターの小倉智昭さんと歌手の松崎しげるさんの二人で、正直、それほど、このお二人について個人的に関心があったわけではないのですが(笑)、そのご両親の来歴に興味がありまして、見たところ、見事にはまってしまったわけです。しかし、お二人のファミリーヒストリーを録画して、2本続けて見てしまい、ごっちゃになってしまいました(笑)。
まず、小倉さんですが、祖父の五郎平さんの代まで、小倉家は、香川県丸亀市で農業を営んでいたようですが、この五郎平さんは二男だったため、(跡を継げず)一旗揚げようと、日清戦争で獲得した台湾に移住します。明治41年に台南で生まれたのが、小倉さんの父勇さんです。
祖父の五郎平さんは、早く亡くなったのか、事業がうまくいかなくなったのか、忘れてしまいましたが(笑)、とにかく、勇さんは、かなり底辺の極貧生活の中で、小学校の時から、新聞配達や雑用係などをして学費の足しにした苦学生でした。高等教育を受けたい、と学費を稼ぐために仕事を辞めて、途中3年間も働いてお金を貯めて、努力を重ねて、台湾の理系では超難関・台北第一工業学校(現台北科技大学)と高等工業学校(現台湾成功大学)をいずれも首席で卒業し、台湾総督専売局に再就職します。大学には、勇さんの学生時代の記録がいまだに残っており、地元の台湾日日新聞にも、勇さんが卒業式で代表して答辞を読んだことも記事になったりしていました。
その後、勇さんは日本鉱業に転職し、太平洋戦争が勃発すると、石油技術者の責任者として海軍に徴用され、オランダから日本が独立させたインドネシアのボルネオに行きます。敗戦が濃厚になった昭和20年4月、勇さんの運命を決める日がやってきます。日本に帰還できる阿波丸に乗り込む予定でしたが、乗員がオーバーとなり、勇さんは、現地責任者としてボルネオに居残ることになります。
ところが、その阿波丸は、民間船にも関わらず、しかも、緑十字の旗を掲げていたにも関わらず、勝てば官軍、国際法違反の憎っき米軍の魚雷によって撃沈されてしまうのです。乗員2000人は海の藻屑と消えます。タイタニック号の惨事より犠牲者が多かったと、番組ではやってました。
一命を取り留めた勇さんら、残った一行も連合国軍の爆撃で、逃避行を余儀なくされます。終戦で捕虜になり、翌昭和21年に日本に帰国を果たし、戦後は、帝国石油の技術者として職務を全うします。
小倉智昭さんは、小さい頃は吃音に悩んでいたそうですが、父親から「目標を持ち、頑張った分だけ願い事は自分のものになるよ」と言い聞かされ、河原で発声練習し、成人してから、ついに狭き門の東京12チャンネルのアナウンサーに合格するのです…。
一方、小倉さんの母親玉利妙子さんは、父勇さんが結核の疑いで台北病院に入院し、そこで看護師をしていたときに巡り合い、二人は結婚するのです。この母方の祖父玉利伝十さんという人がまた凄い。鹿児島出身で、東京の慶応大学に進学し、そこで同級生だった同じ九州出身の野依秀市と知り合い、一緒に雑誌「実業之世界」などを発行し、ジャーナリストとして活躍するのです。あの革命家孫文に突撃インタビューしたりします。その後、フリーの作家となり、鹿児島出身の郷土の政財界の大物に取材した本を出版したりします。しかし、病気のため、44歳の若さで死去。
野依秀市とは、電脳空間から消滅した旧版・渓流斎ブログで以前取り上げた佐藤卓己著「天下無敵のメディア人間」(新潮選書)のあの野依です!「特務機関長 許斐氏利」(ウェッジ)の著者牧久氏が、学生時代に、野依がつくった大分県人会の東京寮に住み、「実業之世界」でもアルバイトをしたことがあるというので、驚きを持って今はなきその旧・渓流斎ブログに書いたこともありました。
小倉さんの祖父が、あの野依と一緒に政財官界を駆けずり回っていたとは、これまた卒倒するほど驚いてしまいましたよ。
ベゼクリク克千仏洞 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
もう一人の歌手松崎しげるさんのファミリーも凄かったです。
父邦泰さんは、あの悪名高きインパール作戦に従軍し、自らもマラリアに罹るも、一命を取り留めて帰国していた人でした。
松崎さんの先祖は、取材班の必死の捜査で、新潟県上越市柿崎区で農業を営む家系だったことをつきとめます。冬の農閑期には、群馬県の伊勢崎市で「菊屋」という屋号で造り酒屋もやっていたようです。
松崎さんの曽祖父に当たる長作さんは、明治38年に新潟から東京・深川に移り住み、その息子である松崎さんの祖父泰三郎さんの代から「菊屋」の屋号で、靴屋を始めます。松崎さんの父邦泰さんは、大正9年にここで生まれますが、大正12年9月1日の関東大震災で、父の兄弟3人が火災に巻き込まれて亡くなります。松崎さんは「父親から聞いたことはなかったし、知らなかった」と驚きます。
父邦泰さんは、18歳になって葛飾区の製鉄所に就職しますが、当時としては珍しく、顕微鏡を使った鉄の分析の仕事をしていました。その後、陸軍に召集されて、顕微鏡が使えるということで衛生兵となり、マラリアなどの感染症の研究を任されます。
昭和19年3月に、牟田口廉也司令官の指揮による無謀なインパール作戦に従軍し、後に「白骨街道」と呼ばれるほど、多くの餓死者や感染症死亡者を目の当たりにし、衛生兵としての無力感を感じながら、自らもマラリアに罹り、仲間からの薬の提供によって一命を取り留めるのです。
昭和21年、5年半ぶりに日本に帰国し、学校の同級生だった福島芳江さんと再会し結婚。翌年、松崎さんが生まれますが、父邦泰さんは、飢えで苦しんでいた従軍中にミャンマー人が分け与えてくれた黒砂糖の味が忘れられず、小さな製糖会社を立ち上げます。
父邦泰さんは昭和58年に63歳で他界しますが、それまで戦友会に参加し、いつか亡くなった多くの戦友が眠る「白骨街道」に行って供養したいと願っていましたが、当時のビルマは軍事政権では簡単に外国人が入国することができず、とうとう、その望みは叶いませんでした。
砂漠の交河故城 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
いやあ、非常に泣ける話でした。
司会進行役のお笑いの今田耕司さんも、思わずもらい泣きしていました。
周囲の反対を押し切ってインパール作戦を断行した牟田口将軍は、さっさとラングーンの現場から帰国して、全く兵站を考えない神州大和魂の精神論のみを強調した杜撰で無謀な「ジンギスカン作戦」などで、4万人とも、6万人とも言われる兵卒を戦死(ほとんどが餓死か、感染病死)させ、自分だけは安全地帯に逃げて責任を取ることなく、戦後は生き残り、軍人恩給とブラックジョークとも言えるジンギスカン料理店の経営者になって、ビートルズが来日した1966年まで長寿を全うします。
その生き様は、「帝国軍人の鏡」と揶揄されるほど、今でも語り継がれています。
要するに、今でも昔でも、どんな組織にでも存在する自己中心的で、せこい、確信犯的なずる賢い人間として。