「復帰後世代に伝えたい『アメリカ世』に沖縄が経験したこと」と哀川翔のファミリーヒストリー

街頭にて Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 いつもお世話になっている沖縄にお住まいの上里さんが、また本を贈ってくださいました。 

 琉球新報の元記者の池間一武さんの書かれた「復帰後世代に伝えたい『アメリカ世』に沖縄が経験したこと」(琉球プロジェクト)というムックです。貴重な歴史的な写真が満載されています。

 米軍による占領期間は、日本本土が1945年8月15日~1952年4月28日の約7年でしたが、沖縄返還・本土復帰は、1972年5月15日でしたから、約27年間続いていたわけです。

 この間、勿論、「外国」ですから、本土との行き来にはパスポートが必要とされ、新聞社の場合、沖縄駐在記者は「特派員」でした。

 この本では、戦後直後、米軍が「B円」なる法定通貨を発行していたことや、米軍公認の飲食店・風俗店に「Aサイン」なる営業許可証を発行していたことを知りました。記述が学術的なのですが、私のような俗物は、例えば、このAサインなるものは、一種の「みかじめ料」みたいなものだったのかどうか、もう少し踏み込んで書かれていてもよかったかなあと思いました。

 路傍の餌 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 もう一つ、沖縄占領期の27年間では、「朝鮮戦争」と「ベトナム戦争」があり、沖縄の基地から相当多くの爆撃機が飛び立ったはずですが、そのことに触れていないのは、何故だったのか、ちょっと疑問を感じました。

 思い返しますと、上里さんは、これまで、大島幹雄著「満洲浪漫 長谷川濬が見た夢」(藤原書店)をはじめ、中島岳志著「血盟団事件」や、沖縄出身のゾルゲ事件で連座した宮城与徳の画集、詩人の山之口獏の全集などまで贈ってくださり、私の蒙を啓(ひら)かせるきっかけをつくってくださった恩人でもあります。

 長谷川濬のことや血盟団事件に関しましては、えらく感動して、渓流斎ブログにも書かさせて頂きましたが、そのブログは消滅してしまい、今では幻となってしまいました。でも、しっかり、私の身体の中で流れる血や肉になっております。

 土地はいくらでも Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 長谷川濬と聞いただけで、本当に懐かしく、満洲のことや、甘粕正彦満映理事長のことなどが思い起こされます。

 これまた、ブログの写真などでお世話になっている松岡氏は子供の頃に満洲の首都新京(現長春)で育っていたりして、どうも、私は、満洲のことについては御縁があるようで、残りの人生も関心を持ち続けていきたいと思っています。(満洲に関係があるとしたら、私の徴兵された伯父が満州で戦い、シベリアに抑留されたことぐらいです)

  NHKの「ファミリーヒストリー」は意外な人物が驚くほど凄い御先祖様を持っていたりして、大変面白い番組です。先日は、俳優の哀川翔さんが登場していて、あまり興味がある人ではありませんでしたが(失礼!)、彼の祖父が満洲に関係があるということを番組欄で知り、その時間帯は見られなかったので、昨晩、録音したものを見てみました。

 いやあ、壮絶でしたね。
 
 哀川翔さん(55)の本名は、福地家宏といい、福地家は佐賀鍋島家の家臣(重職で300坪の屋敷を拝領していた。向かいは、あの大隈重信の大隈家だったとか)で、1637年の島原の乱(あの平林寺に葬られている松平伊豆守信綱が総大将になりましたね)に参戦し、大いに戦功を立てたらしいのです。
 
 そして、話は飛びますが、哀川翔さんの祖父福地家久氏は大秀才で、大正15年に東京帝大法学部に入学します。昭和4年に卒業しますが、当時は昭和恐慌の真っ只中で、就職難に見舞われます。そこで、家久氏は活路を見出すために、大陸満洲に出かけます。警察官僚となり、最後はソ満国境の興安省の警察トップ(県警本部長に当たる)に就任しておりましたが、ソ連の日ソ中立条約を破る参戦によって、戦死してしまいます。享年40。

 家久氏は、ソ連参戦による混乱の中、妻子を先に新京にまで避難させます。こうして、妊娠中の妻益家(ますえ)さん(哀川翔の祖母)と幼子3人の逃避行が始まり、途中、ソ連軍に捕まったりしますが、最期は1歳の娘則子さん、生まれたばかりの娘ふさ子さんと益家さんの3人は、避難していた坦途という所で亡くなります。残された嶺子さん(12)と三郎さん(4)さんは、後から駆けつけてきた家久氏の警察の部下によって救助され帰国します。

 いやはや、言葉が出ないほど壮絶なのに、哀川翔さんは、冷静にVTRを見ているので、随分肝が据わった人だなあ、と思いました。その肝の据わった性格は、後で分かります。

 哀川さんの父親の福地家興さんは、肋膜炎を患っていたため、長男ということもあり、家興さんの父家久氏の考えで、満洲には連れて行かず、佐賀の祖父母の家に預けられます。

 家興さんは、父親との手紙のやりとりで、「お国のためになる立派な大人になりなさい」という言葉を胸に秘めて、早稲田大学入学のために上京します。猛勉強した卒業後は周囲の反対を押し切って、今の海上自衛隊に入隊して念願のパイロットになります。しかし、これまた壮絶な人生で、1966年に訓練帰還中、37歳の若さで事故死してしまいます。哀川翔さんはこの時、まだ5歳ながら、身持ちだった母親に代わって、叔父とともに父親の遺体と面会したりしています。度胸の根源はここにあったのですね。

 この番組は何と、ユーチューブで観られるので、ご興味のある方はご覧ください。

 哀川翔のファミリーヒストリー ←こちらどす

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

旧《溪流斎日乗》 depuis 2005 をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む