含羞の人ボブ・ディラン

伊太利亜ヴェニス

人から受けた恩を仇で返すようなことをしたら、必ず罰が当たります。お天道様が見ています。(今は監視カメラか?)

心の狭い人間は、不幸に遭うと打ちのめされて、打ちひしがれてしまうものだが、偉大な人間は不幸を乗り越えていくものだ。(ワシントン・アーヴィング)

◇◇◇◇◇

ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランが、「先約」を理由に授賞式に出席せず、代理人に任せていましたが、ノーベル賞より大事な用が一体何だったのか、そっちの方が気になりますねえ(笑)。

たとえ、先約があったとしても、先約した人の方が遠慮して、日にちをずらすことでしょう。「えっ?ノーベル賞の授賞式ですか? そりゃ大変。そちらを優先してください」と普通の人がなら断りますよね?

ということで、「先約」というのは口実で、ディランらしい弁解だったと私なんか睨んでます。

彼は、ノーベル文学賞そのものに関心がないのか、喉から手が出るほど欲しいわけではないと思っていたのですが、彼の「代読スピーチ」を新聞で読んで、「いやあ、まさか、賞が獲れるなんて思ってもみなかったが、そりゃあ、欲しくて欲しくてたまらなかった」といったことが行間に滲み溢れていました。

この代読スピーチは、ボブ・ディランの知性の塊の集大成みたいで、感服しますね。

彼は、ミュージシャンが文学賞に値するかどうか疑問を呈する輩に対して、シェークスピアを引き合いに出して、シェークスピアは、文学として読まれるために書いたのではなく、自分の劇団で発する言葉として書いた、と弁明します。

つまり、ディランは、歌われる言葉として書いたとはいえ、読まれる文学としての価値を認められてもいい、と言いたかったのでしょう。

兎に角、最初に、過去にノーベル文学賞を受賞した偉大なる文学者の名前を挙げて、自分も彼らに多大な影響を受けてきた。そして、自分も彼らと一緒に名前を連ねることについて、大変光栄だと正直に打ち明けています。

彼らとは、英国人のバーナード・ショー、ドイツ人のトーマス・マン、フランス人のアルベール・カミュ、米国人のアーネスト・ヘミングウェイらです。国境を越えた文学の力を言いたかったのではないでしょうか?

以前にも、彼の自伝を読んで、ディランの読書量は異様なほど半端じゃない、といったことをこのブログで書きましたが、この代読スピーチにも、彼の読書経験が反映されておりました。

当初は、ディランは沈黙して、ノーベル賞を拒否するのではないかという憶測さえ生まれました。

しかし、彼は偏屈な性格で自分の感情をストレートに出せない含羞の人で、本当は、心の底から大喜びしていたことが、この代読スピーチを読んで初めて分かりました。

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