長春 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
(つづき)
永井龍男著「東京の横丁」とその文庫版の解説を書いた川本三郎氏からは色々と教えられるところがありました。
「東京の横丁」は、もともと、昭和59年(1984年)、作家が80歳の時に、日経新聞の「私の履歴書」に連載していたものを後に加筆等をして、1991年に単行本として発行されました。講談社文庫は昨年9月に第1刷となっています。
明治37年に東京市神田区猿楽町で生まれ、関東大震災も満洲生活も敗戦も体験した永井の貴重な歴史的な証言録で、彼が書き残さなかったら、誰にも知られることなく、忘れ去られたことでしょう。
また、興味深かったことを換骨奪胎で列挙します。
●震災後の大正13年2月、荻窪に借り住まいしていた錦華尋常小学校(夏目漱石も在籍した)の同級生波多野完治(神保町古書店「巌松堂」の子息で、後の心理学者)を訪ね、そこで、波多野とは一高東大の同級生だった小林秀雄と出会う。(永井は、後に小林とは同人誌「青銅時代」「山繭」などに一緒に参加することになる)
●菊池寛が創業した文藝春秋社は、昭和2年当時、麹町区下六番町にあった。この建物は、作家有島武郎の住宅をそのまま借り受けたもので、長屋門を潜ってから玉砂利を敷いた径を植え込みの奥深くに行くと、車寄せが見えてくる古風な邸宅だった。有島家の先祖は、五千石取りの旗本だったとその頃聞いた。
(さすが、白樺派!)
●当時の文藝春秋編集長は菅忠雄と云って、小説も書く人だった。父君は一高独逸語教授、夏目漱石の親友として知られた菅虎雄。少年時から鎌倉文士に愛されて物書きに顔が広く、大佛次郎、佐々木茂索などとも交渉が深かった。(永井は菅に連れられて鎌倉の「湘南クラブ」=麻雀、ポーカーなどができる風変わりな社交場=に出入りし、ここで、里見弴や久米正雄、国木田独歩の息子である国木田虎雄らに紹介され、生涯鎌倉に住むことになる)
その頃(昭和2年)、文藝春秋に就職したいがために、菊池寛に会うために麹町区の社を訪問した永井龍男は(当時の新聞社も出版社も入社試験はなく、ほとんどがコネ入社だった)、菊池から「人は余っている」と、入社を一度は断られる。しかし、帰り際、菅忠雄と会い、その場で菅から紹介された初対面の横光利一(菅は横光、川端康成らとともに新感覚派の「文芸時代」の同人だった)から、結果的に菊池寛に掛け合ってもらい、入社が実現することになる。
長春 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
永井が文藝春秋に入社した最初の配属先は「小学生全集」編集部だった。そこには、誌上で募集した「文筆婦人会」のメンバーで、女子の最高学府を卒業した才媛ばかりだった。しかも美人ぞろいで、「青二才だった私は居たたまれず、二日目で菊池氏に部署の変更を願い出た」
この美人の才媛の中には、岸田国士、森岩雄氏らに望まれてその夫人となった女性や、「ノンちゃん雲に乗る」で知られる石井桃子ら文壇史に名を留めた女性もいた。
長春 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
川本三郎氏の解説によると、この他に、今井正監督「また逢う日まで」(1950年)や成瀬巳喜男監督の「おかあさん」(1952年)、それに映画史に残る名作「浮雲」(1955年)などの脚本を手がけた水木洋子も昭和10年頃、菊池寛の主宰する「脚本研究会」に所属していたといいます。
(何と、ここで、また成瀬巳喜男と出会うとは!)
昭和2年春、永井は、堀辰雄の紹介で、ともに田端の芥川龍之介の自宅を訪れ、文藝春秋誌への寄稿を依頼し、快諾される。しかし、芥川はその2カ月後に、自裁する。ただ、永井は、芥川については「いつも才気が先行して愛読し切れなかった」と正直に告白している。