江戸城参内仕り候

江戸城址

昨日は大雨がどしゃばしゃ降る中、特別講師の引率の下で、江戸城を視察旅行してきました。

長らく、人間生活を営んできておりますが、恥ずかしながら、江戸城に参内するのは今回が生まれて初めてでした。いつでも行けると思っていたら、いつの間にか百歳の老人になっていました(笑)。

いやあ、本当に色々と勉強になりました。参加費3500円也を収めたことですので、備忘録として、その勉強になったことを列挙してみたいと存じます。普通の概説書には書かれていないことから、異説、意外説までありました。

ご興味ある方だけ、この後の関所をお通りください。

大手門

まず基本から。

江戸城を最初に建てたのは、戦国武将太田道灌だと知られています。長禄元年(1457年)のことです。

私が自宅の広大な書斎に常備している山川出版社の「日本史辞典」には、それ以前は、「平安時代に江戸重継が居館を構え、15世紀まで江戸氏が本拠としたと推定される」と書かれています。

あれっ?「江戸」とは「入江の戸口」から、つまり地形から取られた地名と物の本に書かれていたのを読んだことがありますが、江戸という豪族の名前から取られたわけですか?

ま、これは置いといて、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰だった太田資長(すけなが=出家して道灌)は、岩附城、河越城も築城するなど武蔵、相模まで支配しますが、暗殺されます(下手人は諸説あり)。

この後、江戸城を支城として手中に収めたのが、小田原の後北条氏、北条氏綱(北条早雲を始祖とする二代目戦国武将ですが、早雲は北条氏を名乗ったことがなく、伊勢新九郎と称し、入道して早雲庵宗瑞)で、大永4年(1524年)のことです。

そして、ご存知のように、後北条氏は、豊臣秀吉による小田原攻めで滅亡し、秀吉の命で江戸城を治めることになったのが徳川家康です。天正18年(1590年)のことです。1600年の関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は、江戸に幕府を開きますから、徳川氏は明治維新(1868年)まで278年間、居城とするわけですね。つまり、江戸城=徳川城=幕府ということになります。

皇居東御苑

肝心の江戸城ですが、現在、天守台だけはありますが、お城(天守)はないのはよくご存知だと思います。1657年の明暦の大火、いわゆる「振袖大火」で天守も焼け落ち。それ以降、明治になってからも再建されていないのです。驚くことに、江戸城に天守があったのは、江戸時代の最初の50年間だけで、残りの200年間以上はなかったのですね!

皆さんお気づきのことかもしれませんが、天守閣のことを何で天守かと言いますと、こちらの方が正確だからです。天守閣と言うようになったのは、明治以降で、江戸時代は天守とだけ言いました。その前に織田信長は安土城を天主と呼んだそうです。

さて、その明暦の大火では、当時も世界一の大都市だった江戸の人口100万人のうち、何と10万人も焼死しました。天守再建の話があった時に、四代家綱の重鎮で会津藩主保科正之(二代家忠四男)の「天守再建より、江戸市中の復興を優先するべき」との進言で取りやめになったそうです。

外国人観光客

その後、天守再建話が出たようですが、実現しなかったのは、泰平の世の中になって、「別になくてもいいじゃん」ということになったんでしょう。現在残る天守台は八代将軍吉宗の頃のもので、しっかりと神田上水から引いてきた金明水井戸まで設置されております。

さて、幻の徳川氏の江戸城は3回築城されています。

(1)慶長12年(1607年)by 徳川家康
(2)元和 8年(1622年)by二代秀忠
(3)寛永14年(1637年)by三代家光

家康は源氏の末裔を自称していたので、源氏の象徴である白色の天守。家忠の天守は、ピンク色(銅板の色が輝いていた)、家光の天守は白と黒のツートンカラーだったそうです。

これらは、徳川家が出費したのではなく、浅野家や黒田家などに財政、荷役負担させて、大名の財力を落とすために散財させたのでした。

天守だけでなく、石垣もそうです。遠く瀬戸内の小豆島や伊豆半島から切り出された石が多く使われたそうです。これらも、大名の仕事で、石に大名家の刻印もあります。

石垣

江戸時代は、大きなもので7回の地震で、幕末の戦禍を入れると計8回も大火に見舞われました。

その度に石垣も崩れますが、不思議なことに古い石垣ほど崩壊することが少なかったそうです。それだけ、昔の人の方が技術があったということで、隙間があって雑なように見えても、うまく、揺れを吸収する耐震構造になっていたわけです。時代が新しくなればなるほど、整然と綺麗に石垣は積み上げられるようになりましたが、隙間もなく、地震には弱いのではないかと言われています。

松の廊下

現在、江戸城址は皇居東御苑として無料に一般公開されているのに、不勉強な日本人が多いのか、行ってみたら、外国人観光客ばかり、目立ちました。外人だけ、と言っても言い過ぎじゃありませんよ。

特別講師のお話で面白かったことを列挙しますとー。

●明暦の大火で亡くなった10万人は、回向院に葬られた。回向院は当時、宗派を問わなかったらしい。回向院では賭け相撲興業がおこなわれていたとか。

●「二の丸庭園」は小堀遠州作。今で言うレセプション会場で、能舞台もあったそうです。

●外国人の人気の忍者は、明治以降になって言われたもので、本来は「忍び」。ほとんど口伝なので、文献が残っていない。有名な伊賀、甲賀の甲賀は、「こうが」と濁らず、「こうか」が本来の読み。

天守台

●大手門をほどなく行ったところにある百番所。ここには、伊賀、甲賀、雑賀衆などの忍びと、同心100人、侍25人が24時間態勢で詰めていた。が、侍の7~8割が当時、人宿と呼ばれていた口入れ宿から斡旋されてきた派遣社員だったらしい。社員というより浪人か。

●このように、江戸市中は物価が高かったので、地方から参勤交代で江戸に入った大名は、西からなら品川辺りの人宿で人を雇って、行列に加わってもらったとか。江戸は時代の先をいく派遣社会だった。

●桜田門外の変で難に遭った井伊直弼の護衛の70人のうち40人が派遣社員だったとか。もっとも、主君を護衛できなかった彦根藩士は切腹となった。

●江戸城の大棟梁に任じられていたのが、甲良氏。この一家だけが、日本橋の住居に地下室をつくることが許可され、その地下室に江戸城の図面などを保管していたとか。

●幕府お抱えの絵師狩野派は、屏風絵だけでなく、地震災害の度に崩壊した江戸城内の襖絵を描くことが仕事の第一だった。

●城内「西の丸」は家康隠居の場所としてつくられた。

●城内「紅葉山」にだけが唯一、東照宮が祀られ、聖地だった。そのことを知っていた官軍は、一番最初にここを破壊した。

●江戸城は、外堀の奥までの規模を持ち、北は神田上水の流れるお茶の水、東南は海の城と呼ばれた浜御殿(浜離宮)、南は芝口見附門、西は四谷門までが外郭という日本一の広さ。

●日比谷、銀座、八重洲などは、江戸時代に神田の山を削ったり、内堀、外堀の掘削などから出た土砂や土を使った埋め立て地だった。だから、三の丸辺りまでが武蔵野台地の縁、もしくは、際(きわ)だったため、名残として断崖になっている。

いやはや、なんと言っても、江戸城は奥が深い。

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