奥武則著「幕末明治 新聞ことはじめ」(朝日新聞出版、2016年12月25日初版、1650円)を読了しました。
幕末、維新前後に新聞というこれまでになかった媒体(メディア)を我が国で創始した9人の物語です。ジョセフ・ヒコ、アルバート・W・ハンサード、ジョン・レディ・ブラック…。私自身は、40年以上もメディア業界で禄を食みながら彼らの名前さえ知りませんでした。もしくは、いつぞや日本新聞協会の横浜ニュースパークに見学に行ったというのに、すっかり忘れていました(苦笑)。不明を恥じるしかありません。登場する9人の中で、辛うじて、存じ上げているのは柳河春三(「中外新聞」)、岸田吟香(「東京日日新聞」)、成島柳北(「朝野新聞」)、福地源一郎(桜痴)(「東京日日新聞」)…でしたが、池田長発(ながおき)は知りませんでした。
9人以外で章立てしていない重要人物も欠けていましたね。明治3年に日本で最初に創刊された日刊邦字紙「横浜新聞」の子安峻(こやすたかし)、明治5年、「郵便報知新聞」を創刊した前島密と編集主任を務めた栗本鋤雲、明治15年に「時事新報」を創刊した福澤諭吉らです。でも、まあ、これはあら探しに過ぎないでしょう。ここまで調べ上げた著者の力量に感服するしかありません
著者の奥氏(1947~)は、毎日新聞社学芸部長などを歴任し、一面コラム「余禄」も執筆されていましたが、公募で法政大学教授に採用され、「大衆新聞と国民国家」「露探」など多くの書を著した方でした。私自身の関心興味範囲が重なるので他にも読んでみたいと思いました。
この本の「あとがき」で、奥氏の早大政経学部時代のゼミの師で、58歳の若さで亡くなった政治思想史研究家藤原保信先生のことに触れていましたが、この藤原ゼミからは、森まみゆ、原武史といった今第一線で活躍する学者や作家を多くを輩出していたことを知りました。藤原氏は名伯楽だったんですね。
あらあら、こんなことを書いているうちにこの本の内容について、まだ一言も触れていませんでしたね(笑)。実は、全員といっていいくらい、この本に登場する新聞創始者たちは波乱万丈の人生で、一言では紹介しきれないのです。
◇日本の新聞の父、ジョセフ・ヒコ
例えば、横浜で「海外新聞」を発刊し「日本における新聞の父」と呼ばれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)は、13歳になった嘉永3年(1850)に炊事係として乗船した船が暴風雨で遠州灘で遭難し、米商船に助けられ、米国ではボルチモアの銀行家に庇護されて同地のミッションスクールで教育を受け、安政5年(1858年)に神奈川の米領事館通訳として帰国を果たします。
ジョセフ・ヒコはその後、再び米国に戻るなどして紆余曲折の人生行路を歩んだ末、元治元年(1864年)、「海外新聞」の前身である「新聞誌」を横浜で創刊します。これは現物が残っていないので実際にどんな新聞だったのか今では分かりませんが、この新聞に協力したのが、岸田吟香と本間潜蔵です。
岸田吟香は天保4年(1833年)、美作国の酒造を営む旧家(現岡山県美咲町)に生まれ、江戸の昌平黌で学び、28歳にして三河挙母(ころも)藩の儒官に採用されるも数カ月で脱藩し、その後は左官の手伝いや湯屋の三助など型破りな生活をした後、これまた紆余曲折の末、東京日日新聞(現毎日新聞)の主筆(台湾出兵取材で日本初の従軍記者に)になった人です。(庶民が読んでも分かりやすく、自分のことを「おいら」と書いたりしました)岸田吟香の四男は、「麗子像」で有名なあの岸田劉生です。岸田吟香の墓は東京・谷中墓地にあり、私も一度お参りしたことがあります。
本間潜蔵(のちに清雄)は天保14年(1843年)、掛川藩の藩医の家(現静岡県菊川市)に生まれ、海外渡航を夢見て英語を学ぶために、横浜に来て、(恐らく)ヘボン塾(ヘボンは、米宣教師、医師で、日本初の和英辞典「和英語林集成」を岸田吟香の助力で編纂。明治学院を創設。ヘボン式ローマ字で有名)で岸田吟香と知り合い、ジョセフ・ヒコが外国新聞を翻訳・口述したものを筆記して日本語の文章の体裁に整えたりします。彼は、徳川昭武のパリ万国博派遣の随行団の一員に選ばれ、海外渡航の夢を果たします(となると、渋沢栄一とも面識を持ったはず)。維新後は外務省に入り、オーストリア代理公使などを歴任します。
でしょ? 9人全員を取り上げていては、キリがないので、最後にジョン・レディ・ブラックだけを取り上げます。この人も波乱万丈の人生を歩んだ人で、スコットランドの資産家に生まれ、ロンドンで教育を受けるも15歳でドロップアウトし、仲買人になり、28歳でオーストラリアに移住し、輸出入業・保険代理店業を営み、一時成功するものの、破産して廃業し、シドニーを拠点に何と、歌手として活動します。その後、歌手としてインド、中国で公演活動し、1864年には横浜にも足を延ばします。その横浜で、「ジャパン・ヘラルド」を1861年に創刊した アルバート・W・ハンサード と知り合い、2人は意気投合し、ブラックも歌手から新聞人へと転身します。「ジャパン・ガゼット」「ファーイースト」などの英字紙を創刊し、明治5年にはついに念願の日本語新聞「日新真事誌」を創刊します。ブラックは、日本も英国と同じような立憲君主の議会政治をするべきだという思想の持ち主で、明治7年1月には、板垣退助らの「民選議院設立建白書」をスクープ掲載します。
日新真事誌は、結局、反政府的姿勢が明治政府に睨まれ、新聞紙条例と讒謗律でブラックは追放され、ブラック去った後は政府寄りの論調に変わったことから読者の支持を失い、廃刊を余儀なくされます。なお、明治の一時期、大人気を誇った落語家「快楽亭ブラック」はブラックと妻エリザベスとの長男ヘンリーでした。
この本には書かれていませんでしたが、日新真事誌の本社は、今の東京・銀座4丁目の和光にありました。日新真事誌廃刊の後、成島柳北の朝野新聞社が本社を建て、その後、服部時計店が本社を構えるわけです。ちなみに、銀座4丁目の現在の三愛の場所には東京曙新聞社、三越の場所は、中央新聞社、日産ショールームのある銀座プレイスには毎日新聞社(「東京日日新聞」ではなく、沼間守一の「横浜毎日新聞」の後身)がありました。
明治時代、文明開化の象徴的な街だった銀座は、実に新聞社のメッカだったのです。