関ケ原の合戦で何故、西軍は負けたのか?

 本来ですと、今頃は夏休みで、温泉宿でゆっくりしていたことでしょうが、コロナ感染拡大のため、宿泊旅行はキャンセルしたことは、以前、このブログで書いた通りです。

 となると、やることは、他になし。書斎に積読状態になっている本を手当たり次第に読むしかありません。てな調子で、「歴史道」(朝日新聞出版)16号「関ケ原合戦 東西70将の決断!」を読了しました。

 関ケ原関連書の「決定版」とまで言えないかもしれませんが、少なくとも、最新歴史研究の成果がこの1冊に網羅されています。関ケ原の戦いとは、言うまでもなく、慶長5年(1600年)9月15日午前8時(もしくは10時の説も)に開戦し、わずか半日で東軍の徳川家康が勝利を収めた天下分け目の戦いのことです。通説では東軍7万4000兵に対して、西軍は8万4000兵。それなのに、何故、石田三成の西軍が敗退したのか?ー小早川秀秋の裏切り、吉川広家・毛利秀元や島津義弘の日和見のような不戦が帰趨を決める決定打になったと言われ、私も色んな本を読んでそう納得してきました。

 でも、この本を読んで感じた「決定打」は、五大老の一人で西軍の総大将になった毛利輝元のせいだったことが分かりました。毛利輝元は、総大将という最高司令官なのに、合戦が始まっても、大坂城から一歩も出ることがなく、まるで安全地帯で様子見している感じで、「変な総大将だなあ」と以前から思っていましたが、合戦の前日に徳川方(本多忠勝と井伊直政の連署)から起請文が吉川広家(毛利輝元の従兄弟)らに送られ、輝元もこれを受け入れて、家康と和睦し、東軍に寝返っていたんですね。これでは、毛利方が動かないはずでした。

 いくら、「幻の城」玉城を築城し、西軍が豊臣秀頼を迎える画策があったとしても、総大将が寝返ってしまえば、負けるに決まってます。西軍で頑張ったのは、石田三成と島左近、大谷吉継、小西行長、そして、毛利方の和睦を知らされていなかった安国寺恵瓊ぐらいでした。残りの有力大名は、日和見か、黒田長政を始めとした徳川方から調略されて寝返ったわけですから、結果は火を見るよりも明らかでした。

 本当に「なあんだ」という感じでした。

 でも、図解、写真付きのこの本は、本当に分かりやすい。合戦当日の東西70武将の参戦の顛末が表になっていますが、徳川家康は251万石の武蔵江戸城主で58歳。一方の石田三成は21万石の近江佐和山城主で40歳。最初から格が違っていたことが一目瞭然です。それに老獪な家康は、早くから豊臣家恩顧の大名と自分の娘や養女を政略結婚させて、自分の味方に付ける策略を着実に進めていました。福島正則、加藤清正、前田利長、黒田長政、山内一豊といった秀吉子飼いの諸大名が、何故、西軍ではなく、徳川方の東軍に付いたのか、よく分かりました。

 北政所や淀君が、はっきりと西軍に肩入れせず、旗幟鮮明にしなかったことも西軍の敗因でした。関ケ原の合戦から15年後の大坂の陣で、豊臣家は滅びるわけですから、慶長4年での判断の間違いが元で、豊臣家は滅びるべきして滅びたと言えるでしょう。

 いずれにせよ、この本には、誤植もありますが、日本史上最大の合戦の経緯が学べる必読書でしょう。

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