如是我聞①怖れ

私は斯くの如く聞きました。

怖れとは、幻です。

怖れとは、勝手に自分で作っているものなのです。
「こうなったら、こうなる」「こうすれば、こうなる」と自分がこれまで捉われていた過去の体験を反映しているのです。
つまり、過去に執着しているだけなのです。
怖れとは、過去、もしくは未来に捉われている時のものであって、人は皆、今、茲に、生きていさえすれば、愛され、許され、導かれているのです。

今しかない、と言われれば、人は必ず幸せになれるのです。
つまり、怖れとは、まだ手放していない過去の体験にすぎないのです。
過去の体験の中で悲しかったことを感じきっていないから、また、怖れとしてやってくる。怖れを引き寄せてしまうのです。その繰り返しです。
それは、中途半端に、怖れや悲しみを「感じない」ことによって、自分を守り、壁を作ってきたのです。
しかし、もう、その繰り返しは止めた方がいいのです。

いつまでたっても、怖れは消えません。

だから、怖れは幻であると認識して、そこから逃げようとはしないで、怖れを感じきって、突き抜けるのです。そしたら、怖れは、雲のような幻だと気づいて、消えていきます。

人は、今を生き切れば、怖れている暇もないはずです。

“如是我聞①怖れ” への2件の返信

  1. 手放す許す誓う
    今日ここに私は 被害者意識、全てのネガティブな過去の想念 「こうしてほしかった。
    こうしてくれなかった」などなどの
     過去の要求を 手放すことを誓います。
     過去の体験 全てを許します。
     私は 今、全ての過去から 自由になることを自分に許します。
     そして 今日一日 今を喜びの中生きることを 内なる神に誓います。
     全ては 自分の心、平安から 始まることを信念とし 外側を変えようとせず 自らのこころをピュアに保つことのみに 専念して生きてゆきます。
                 合掌
     

  2. 過去現在未来
    やりきったら手放せると思います。
     なぜなら体験するために 生まれたからです。
     しっかり味わって はじめて次の体験が出来るのではないでしょうか。
     何事中途半端はいけないのですね。
     
     苦しみ悲しみあらゆる苦悩も、「もういい!!」というとこまでいったら、
     神様はそうかそうかと 次の体験にいかしてくれる気がします。
     で 神様は内なる神でも あるわけです。
     自分が自分に 許すのです。
      幸せを味わうことを。
      喜びを味わうことを。
      愛を味わうことを。
      成功を味わうことを。
       などなど 全てを恩恵を受け取っていいのです。
     自分の許す限り。
      それほど 人は自由を与えられているのですよね。。。。。。  
            

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