12月8日は、本来なら、という言い方も変ですが、「真珠湾攻撃の日」なのですが、私にとっては、ジョン・レノンが暗殺された日、といった方がしっくりします。
1980年のことでしたから、もう四半世紀も経つのですね。
当時をはっきりと思い出します。私はまだ20代の若者でした。
暗殺者のマーク・チャップマンとほとんど年齢は変わりませんでした。
しかし、その衝撃といったら、何物にも変えがたい深さと重さがありました。
25年前のその日。今の時代のように、インターネットや携帯などが発達していない時代です。それでも、一般の人より、比較的というより遥かに早く、その「事実」を知ることができました。
当時、私はあるマスコミに勤めていました。私が熱狂的なビートルズ・ファンであることを知っているある人が、速報をみて、私にそっとではなく、大声で知らせてくれたのです。
「大変、ジョンが暗殺されたわよ!」
時間は覚えていませんが、昼ごろでした。夕刊帯に入らなかったので、2時ごろだったのかもしれません。まだ、どこのテレビもラジオもニュースとして報じていませんでした。
最初、聞いた時、半信半疑でした。しかし、時間が経つにつれて、事実関係が刻々と報じられ、それが事実だと、認めざるをえなくなりました。
その日、どうやって家に帰ったのか覚えていません。
いや、家に帰りませんでした。
当時、つきあっていた彼女の自由が丘のアパートに直行しました。その彼女が第一報を伝えてくれたのです。その夜は、記憶がなくなるくらい酔いつぶれました。
しかし、翌朝はちゃんと起きて、スポーツ新聞からジャパン・タイムズまで、駅のキオスクに売っていたすべての新聞を買いました。
元ビートルズのジョン・レノン暗殺されるー享年40歳
ニューヨークの自宅前で
狂信的なファンの犯行か?
新聞はスクラップブックに貼り、今でもあると思います。
今でも覚えているのは、オノ・ヨーコさんに手紙を出したことです。
「私をベースギタリストとして、ジョンのバンドに入れてください」などと書いたのです。ということは、ジョンが暗殺される前に書いたのかもしれません。
当然、その手紙は封も切られずにゴミ箱入りだったでしょが、若気の至りで、今から考えると馬鹿なことばかりやっていたものです。しかも、真顔で。
当時の時代背景を思い出すと、ジョンは1975年2月発売の「ロックンロール」以来、音楽活動から遠ざかっていたのでした。その年のジョンと同じ誕生日である10月9日に息子ショーンが生まれてからは尚更でした。「ハウスハズバンド」を宣言して育児に専念し、表舞台から去ってしまっていたのです。当時、私は学生でしたが、先輩の友人が軽井沢のホテルでアルバイトしていたら、目の前にお忍びで来日したジョン・レノンが通り過ぎ、思わず直立不動してしまった、という話を聞いたことがあります。
音楽活動に復帰したのは1980年。アニメ「イエローサブマリン」を見たショーンが「パパはビートルズだったの?」と聞いたのが、きっかけだったというのはあまりにも有名です。
1980年11月17日にアルバム「ダブル・ファンタジー」をリリース。私はもちろん、出たその日に買いました。「ついに復活したのか」と、感極まりました。正直、ヨーコの「叫び」はいただけなく、いつも、ジョンの曲ばかり、針を飛ばして聴いていました。(そういえば、まだLPの時代でした)荘厳な鐘の音で始まる「スターティング・オーバー」は最初のシングルカットされ、みるみるベストテンのトップに上がりましたが、私は「ウーマン」が一番好きでした。
そんな矢先での唐突な暗殺ですから、ショックは大きかったのです。
私の口から最初に出てきた言葉は「ジョンは、たかが芸能人なのに…」でした。
もちろん、馬鹿にした言葉ではありません。60年代はジョン・F・ケネディを筆頭にキング牧師、マルコムX、ロバート・ケネディ…と暗殺といえば政治がらみでした。
もちろん、ジョンは政治活動をしていましたが、本質的には人を楽しませるエンターテイナーでした。
人から怨みを買うような仕事ではなかったのです。
暗殺者のチャップマンが洗脳されていたとか、CIA暗殺説など、いろいろとトンデモ本が出ていますが、同じ狂信的なジョン・レノンファンとして、チャップマンの気持ちを私なりに斟酌してみると、要するに、彼はジョンの「復活」が許せなかったのです。チャップマン一人のためのジョンとして独占したかったのです。復活してまた「万人のための」ジョンになることが許せなかったのです。
根底に嫉妬心があるのです。
今日は、長々と御託を並べてしまいました。
許し
在る意味自分以上に誰かを愛しすぎるのは危険ですね。。
心理は渓流斎さんの言うとおりのような気がします。
人は人のものなのですよね。
命も肉体も心も その人だけのものですね。
だからこそ 自分を大切にしなければなりません
ね。