「闘う講談師二代目松林伯円」と「太平洋戦争初の善通寺捕虜収容所」=インテリジェンス研究所主催第8回特別研究会

1月29日(土)は、第8回特別研究会(インテリジェンス研究所主催)をオンラインで聴講しました。ZOOMのオンラインなので、なるべく目立たないように、自画像はオフにして、音声はミュートにし、息もせず、瞬きもせず、伊賀の忍者か隠れキリシタンのように自分を消していたつもりでしたが、ある方から、(名前は口が裂けても言えませんが)、「本日の講演はいかがでしたか?」と聞かれてしまい、「ありゃま、こりゃ逃げられないわいなあ」と観念したわけです。

 観念した、というのは、正直、講演の内容が難しくて、もしくは、自分の認識力がついていけなかったからでした。何と言っても、講演の画面の切り替えが早かったり、講師のお話が聞きとれなかったりして、メモを取るのができなかった箇所がいくつもあったからでした。「とても、ブログにはまとめきれないなあ」と観念したわけです。

 と、クドクドと前書きを長く書いたのは、とにかく、逃げ切れないので、この特別研究会のことを書くことにしますが、本文が短くなると予想されるので、行数を稼ごうという魂胆があったことを告白しておきます(笑)。

 さて、報告者はお二人の特別研究員の方でした。最初は、昨年、「たたかう講談師: 二代目松林伯円の幕末・明治」(文学通信)を出版された目時美穂氏で、演題は「明治政府の国民教化政策に対する大衆芸能の対応―講談を例として」。続いて登壇されたのは、昨年「『善通寺俘虜収容所』ハンドブック : 太平洋戦争初の捕虜収容所と人々の記録」(私家版)を上梓された名倉有一氏で、演題の副題は「新資料『吉田文書』を中心として」でした。

 最初の目時氏の講演に登場した講談師二代目松林伯円という人物は、不勉強で私は全く知りませんでした。

 伯円は、明治期に、一般大衆から大物政治家に至るまで絶大なる人気を誇った講談師ということですが、私が知らないだけかもしれませんが、歴史に埋もれてしまった人物といえるでしょう。明治の講談は、木戸銭が二銭五厘(現在の250円ぐらい)と安価で庶民が気楽に楽しめる娯楽だったといいます。

 当時の講談の演題は「鼠小僧治郎吉」といった伝説物だけでなく、新聞に掲載された時事ネタや犯罪、そして自由民権運動など政治的な話までも題材にして創作されたといいます。その講談などの人気に目を付けた明治政府は、国民の道徳の涵養や天皇を中心とした国家神道を奉じる中央集権国家であることを国民に知らしめる目的で、大衆芸能を利用します。山縣有朋が伯円の大ファンで、彼に接近したといいます。

 明治政府は民権運動を弾圧するために、新聞条例や讒謗律(明治8年)、集会条例(明治13年)などを発布して監視体制を強化し、講談も少なからず影響受けたといいます。

 そのため、伯円は、講談小屋が閉鎖されたりしてはたまりませんから、山縣有朋ら大物政治家については、お客さんとして歓迎はしても、権力者側になびくことはなく、自分の考えや芸道に邁進していたのではないか、というのが目時氏の見立てでした。(伯円の政治信条は分かりませんが、と付言されましたが)

 もう一つ、今回勉強になったことは、明治政府は幕末に欧米と締結した不平等条約改正の一環として、日本を「文明国」として諸外国に認めてもらうために、新聞の普及を推進したという話です。その具体的な政策の中には、「聚覧所」と呼ばれる新聞が読める場所を設置したり、講談師に新聞を読み聞かせる「訓読会」を浅草で開催したりしたといいます。「郵便報知新聞」など当時の大新聞と呼ばれる政治色が強い新聞はインテリ向けで、漢籍の素養がある人しか読めなったからです。(現代人も、とても読めませんよ!)

 お二人目に登壇した名倉有一氏の「太平洋戦争初の善通寺捕虜収容所:新資料『吉田文書』を中心として」は、非常にマニアックといいますか(良い意味で)、これまで誰も成し遂げることができなかった善通寺捕虜収容所の歴史と実体をまとめた労作の話でした。

 善通寺捕虜(当時は俘虜)収容所とは、昭和17年1月14日、香川県善通寺町(現善通寺市)に太平洋戦争中に国内外を通じて初めて開設された米、英、豪州人らの捕虜収容所で、当初は355人で、終戦間近には720人いたといいます。「吉田文書」というのは、善通寺捕虜収容所に関わった陸軍の吉田茂主計中尉が残した資料のことです。

 名倉氏は、捕虜の扱いについて、日本は当初、国際法に遵守して厳格に守ってきたのですが、敗戦色が濃くなると、将校に関しては労働に従事させないという国際法を破って労働に参加させたりした実態も明らかにされていました。

 この捕虜の利用については、名倉氏は、陸軍省は主に労働力として、海軍軍令部は情報源として、情報局は、日本の立場を海外に主張するプロパガンダ(宣伝)として、陸軍参謀本部(第2部第8課恒石重嗣少佐)も、敵兵や敵国民に厭戦や反戦気分を高める宣伝として使った、などと図解で区分けされてましたが、非常に明瞭で分かりやすい説明でした。

 これらのプロパガンダは、内閣と情報局と大本営の代表が集まった「連絡協議会」で方策を決定し、実務は日本放送協会と国策通信社の同盟通信社が主に実践部隊として担ったという話でしたが、私もメディアの片隅に棲息する人間として興味があり、もっと詳しく聴きたかったでした。

 あれっ?結構長い文章になってしまいましたね。最後までお読み頂き洵に有難う御座いました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

旧《溪流斎日乗》 depuis 2005 をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む