相補的なものの見方

ラオコーン

相補的なものの見方とは、量子物理学者のニールス・ボーアの言葉から来ていると、芥川賞作家で、僧侶の玄侑宗久氏が書いています。(1月30日付東京新聞)

微小な量子の振る舞いが「粒子」に見えたり、「波動」に見えたりすることは、相対立することではなく、お互いに相補って全体像を見ていくことだというのです。

難しい言葉をはしょって、簡単に要約すると、実験は、観察者の使う器具の性能や観察者自身の思惑にも左右されるので、世の中に客観的な観察などというものはないというのです。

玄侑氏は「現実に即して云えば、どんなモノサシも絶対化してはいけないということではないか」と結論づけています。

仏教が、死について、病を治す力を象徴する「薬師如来」に任せてばかりいては苦しいので、極楽浄土を願う「阿弥陀如来」を作ったのも、空海が発想した「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」を並置したのも、相補性を尊重しているからではないか、と玄侑氏は言います。ちなみに、金剛界は、ダイヤモンド(金剛)のように輝く真理を求める意志で、胎蔵界は、母親の胎内のように現状を温かく容認する態度だといいます。

国家というモノサシ、学力というモノサシ、老人や福祉というモノサシ…。現代は、あまりにも一つのモノサシで測り過ぎているのではないか。演繹的な見方と帰納的な見方の両方が必要ではないかと同氏は力説しています。演繹的とは、普遍的なことから、特殊なことを導き出すこと。その逆に、帰納的とは、それぞれの具体的なことから、普遍的な法則を導き出すことです。

「物事に絶対はない」という考え方は賛成です。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも、唯一の絶対神を信仰する宗教です。日本人のように草花や路傍の石にも神が宿るというアニミズムとは、相容れません。山や日の出に向かって、頭を垂れて祈る日本人の姿は、一神教の人々から見て不思議に思われることでしょうね。

しかし、相補的なものの見方は、一神教の世界からでは発想できません。明らかに東洋思想の影響が見られますが、西洋の科学者であるボーアが「発見」したというのも面白いです。

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