軽井沢
文藝春秋8月号で「昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜」を特集しています。6月号の「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」に次ぐ第2弾です。座談会の形で、出席者は、半藤一利(作家)、秦郁彦(日大講師)、戸高一成(海軍史研究家)、福田和也(慶大教授)、平間洋一(元海将補)の5氏です。実によく微に入り細に入り調べつくしたものだと感心してしまいました。
前回の陸軍に比べて、登場人物が少ないのですが、それもそのはず、太平洋戦争終結時の数字を試算すると、残存兵力と死没者を合わせて、陸軍は680万人、海軍は290万人だったそうです。陸軍と海軍では、2倍以上の開きがあったのです。
日本の陸軍の原点は、高杉晋作の奇兵隊で、その後、山縣有朋、児玉源太郎、桂太郎、田中義一と長州閥がリードし、海軍は西郷従道で、以下、山本権兵衛、東郷平八郎と薩摩閥が続く…。成る程なあ、と思いました。一読して、人間、過去の栄光や成功からは教訓を学ぶことはできないと再認識しました。
「成功体験の驕りと呪縛」がズルズルと、身内から錆びが生じて、愚かな負け戦と分かっていながら、国民を戦争に引き込んでいったのです。
海軍は、大正十年(1921年)の軍縮問題で、軍縮の「条約派」(加藤友三郎海軍大臣)と軍備拡大・対米強硬論の「艦隊派」(加藤寛治中将)に分裂して、激しい内部抗争が生じます。結局、艦隊派の背後に、日露戦争のヒーローだった「軍神」東郷平八郎と、伏見宮博恭(ひろやす)王(連合艦隊「三笠」の分隊長)らがいたため、艦隊派の勝利で、太平洋戦争に突き進みます。
特に、伏見宮は、陸軍の参謀総長に当たる軍令部総長に就任し、人事面などで都合の良い人間のみを抜擢します。昭和8年(1933年)から9年にかけて、大角岑生(おおすみ・みねお)海相の時に、加藤友三郎(7期)の薫陶を受けた「条約派」だった山梨勝之進(25期)と軍務局長の堀悌吉(32期)らが追放されます。堀は、山本五十六と海軍兵学校の同期で、海軍始まって以来の英才と謳われたといいます。結局、この人事が決定的になります。
伏見宮は、昭和十六年四月まで軍令部のトップに君臨しますが、あと1年総長の座にとどまっていたら、開戦の責任を問われて戦犯になっていたはず。そうなると、皇室の責任と天皇制の存続の是非にも波及したかもしれない、と秦氏は言います。
昭和十四年に日独伊三国同盟締結に反対した米内光正海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長を「良識派三羽ガラス」と言われています。しかし、福田氏は「海軍善玉論でよく語られているように、『米内は常に非戦論だった』『海軍は常に平和的解決を望んだ』というわけではない」と断言しています。昭和十四年二月、「海の満洲事変」と呼ばれる海南島の占領を、海相だった米内はかなり強引に推し進めた(平間氏)そうです。
結局、海軍のエリートと言っても、官僚なのです。東京の安全地帯で作戦会議を開いて、指図していたに過ぎません。死ぬのはいつも庶民の兵隊さんです。だから、敵の暗号解読で、搭乗した飛行機が撃墜されて戦死した山本五十六がヒーローになるのかもしれません。