またまた写真と本文が全く合っていないので、クレームがつきそうですが、先日、東京駅から和田倉門、桔梗門、本丸跡あたりを散策しました。都心の雑踏の中で、唯一「江戸」を感じる場所で、と同時の徳川の権力の膨大さを感じる所です。ほんの少し歩いただけで、疲れちゃいましたからね。
あの壮大な石垣を積んだ職人や作業に借り出された労働者たちはどれくらいいただろうかと考えただけで、目が回りそうです。和田倉門にしろ、桔梗門にしろ、そこには番兵というか門番が居て、人生のすべてをそこで費やして終わったんだろうなあ、と思うと、我々現代人は旅行や住居の移動の自由があって幸せだなあ、と感じました。
なぜ、散策したのかと申しますと、法政大学の田中優子教授が、江戸城のことを東京新聞(2007年12月15日)に書いていたからです。
換骨奪胎して引用するとー。
『見どころは天守閣だろう。天守閣は高さ44メートル、地下1階、地上5階の高層ビルだった。1657年に明暦の大火で焼けてしまうと、もう不要だということになって再建しなかったのは偉い。
城は戦争のためにあるのだから、不戦の体制を作り上げた江戸幕府にとって、天守閣はなるほど不要なのである。
また、明暦の大火前から江戸幕府は森林伐採の制限を打ち出し、1666年には「山川掟」を発令する。大規模開発、土木工事の時代がついに終わったのだった。天守閣を再建しなかったのは、そのような方針転換も関係している。日本の環境対策の始まりであった。
不戦と環境、それが江戸城跡を歩く時のキーワードだろう。間違っても「天守閣を再建すべき」などと思わないことだ。』
私なんぞは、戊辰戦争のあおりとゴタゴタで天守閣は消失したと思っていましたからね。大いに恥じながら、歴史を学ばなければいけないと再確認して歩いていたのです。