「友愛がなければ幸福ではない」とはどういうことなのか?=「アリストテレス ニコマコス倫理学」

 昨日の「哲学によって救われたお話=『アリストテレス ニコマコス倫理学』」の続きです。こうして毎日のようにお読み頂いております皆さまには大変感謝申し上げます。

 前回と同じように、NHKのEテレの番組とテキスト「アリストテレス ニコマコス倫理学」によって救われたお話をします。それは番組最終である第4回の「友愛とは何か」です。

 アリストテレスの倫理学では、人生の究極の目的とは、賢慮、勇気、節制、正義などの「徳」を身に着けて幸福を追求することでした。そして、この徳を身に着けるには単独で、自力だけで身に着けることは難しい。「友愛」がその助けになるとアリストテレスは説きます。そして、自分の殻に閉じこもって孤独でいるよりも、「友愛がなければ幸福ではない」とまでアリストテレスは言うのです。

 その友愛こそが、私自身、個人的に、ここ何年も何年も悩み抜いてきたことだったので、この番組を見て、またテキストを読んで、目から鱗が落ちるような感覚でした。悩みが解消したとか、なくなったというわけではありませんが、その悩み=友愛とは何か、といった難問の正体が分かったのです。(以下は、テキストの用語をそのまま使うのではなく、テキストから少し離れた自分独自の解釈や見解も展開しております。)

 アリストテレスによると、友愛には3種類あり、それは①人柄の善さに基づいたもの②快いものに基づいたもの③有用性に基づいたものーだと言います。また、友情ですから、その条件として、相手に善を願ったり、暗黙の了解でもいいですから、お互い認め合う「相互性」がなければなりません。

 この伝でいきますと、あれほど仲良くしていた友人と疎遠になったり、没交渉になったりする理由がよく分かりました。一番分かりやすいのは、③の有用性に基づいたものです。分かりやすく言えば、友人とはいえ、(しょうがなく)打算的に付き合っていたに過ぎなかったということになります。具体的に言えば、仕事関係の友人が挙げられます。何でもいいのですが、仕事上の付き合いで情報交換したり、一緒にお酒を呑んだりしてかなり親密になります。しかし、仕事(や担当)が変わったり、退職したりすれば、疎遠になります。「有用性」がなくなったからです。こちらが幾ら、仕事を離れてもプライベートでも友人だと思っていても、相手が「こいつはもう使い道がない」と思えば、年賀状やメールの返事も敢えてしなくなったりして、交際を絶ち切ります。つまり、理由は、こちらの落ち度とか何か相手に不愉快なことをしたわけではなく、相手が有用性がないから断ち切ったに過ぎなかったのです。こちらが誤解していただけで、最初から打算的な付き合いだったということになります。

 ②の快いものに基づいたものも、同じようなことが言えます。一緒にいて楽しいとか、バンド演奏して楽しいとか、話をしていて面白いといった刹那的な快楽にだけ基づいた友情では長続きしないということです。そのうち、ちょっとした意見の食い違いとか、相手の冷たい態度に接したりすると、もう顔も見たくないという状況になるわけです。友愛とは壊れやすいものなのです。

磐田市香りの博物館

 そこで、アリストテレスは「完全な友愛とは、徳において互いに似ている善き人々同士の友愛である」と述べ、①の人柄の善さに基づいた友愛に最も着目します。人柄はそう簡単には変わらないので、人柄に基づく友愛には持続性がある、とまで言っています。このテキストを執筆し、番組にも出演していた山本芳久東大大学院教授によると、アリストテレスの言う人柄の善い人というのは、単なる「お人好し」ではなく、人間として充実した在り方をし、そのことに「喜び」を抱きつつ日々の生活を送っている人だといいます。そういう人同士が親しい関係を結べば、相手への信頼関係の中で心が開かれ、自ずと楽しい時間を過ごすことができるといいます。

 なるほど。快楽や有用性に基づいた友愛とは全く違うものでした。つまり、相手が困っている時は、「有用性」がなくても、打算抜きで助けてあげるとか、お互いに認め合って、慰め合って、喜びも悲しみも共有することこそが「人柄の善さに基づいた友愛」だと言えるのです。

新富町

 しかし、アリストテレスに言わせると、このような友愛は稀なものだとも言います。何故なら、様々な徳を兼ね備えている人なんてそもそも少なく、そのような友愛を形成するには長い時間と吟味が必要だからだといいます。

 ただ少なくとも、個人的には、何人かの友人が疎遠になった理由が分かったことは大変な収穫になりました。「何でだろう?」「自分は何か悪い事でもしたのだろうか?」などと、これまでその理由が分からず悩んでいたのです。結局、彼らにはそんな複雑な理由があるわけではなく、単に飽きたとか、利用価値がなくなったから、という理由だったのです。

 うーむ、これもなるほどですね。SNSで、実際に会ったこともないのに、「お友だち」なった人が友愛と言えるかといえば、これは真の友愛ではないでしょう。友人の数の多さだけを自慢するための「ネタ」に過ぎないからです。

 アリストテレスの言う「友愛は稀なものだ」という主張もよく分かりました。有難いことに、こんな私でも、いまだに付き合ってくれている何人かの友人がおります。彼ら、彼女らを大切にして、これからも幸福を追求して生きていく所存で御座います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

旧《溪流斎日乗》 depuis 2005 をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む