志村城〜赤塚城巡り 東京都板橋区に城跡があるとは…

昨日4日は、「山城歩き同好会」の皆様と一緒に、「志村城・赤塚城ハイク」に参加し、実に万歩計で2万5000歩も歩き、いい運動になりました。

場所は、東京都内の板橋区なのです。こんな都会に、まだ手付かずの自然が残されている(というか、保護されている)とは思いませんでした。そして、こんな所に戦国時代の武将が城を構えていたとは全く知りませんでした。我々は、室町、戦国時代といえば、京都や奈良など関西での出来事ならよく知っておりますが、同時代の関東地方で起きたことはほとんど無知です。

この時代でよく知られている武将は、 せめて、太田道灌ぐらいでしょう。だから、恐らく、応仁の乱の前哨戦とも言える享徳の乱(1455〜1483年)を知る人は、余程の歴史通です。

享徳の乱は、室町幕府8代将軍義政の治世で、鎌倉公方(足利尊氏の四男基氏の子孫が世襲)の足利成氏(しげうじ)が、関東管領(鎌倉公方の補佐として将軍が任命。上杉氏が世襲)の上杉憲忠を暗殺したことをきっかけに、関東地方で28年間も続いた内乱のことです。

このグチャグチャの大内乱の最中に、今回の赤塚城に入城したのが、千葉自胤(よりたね、1446〜94年)だと言われています。

残っている資料や史料が少ないので、諸説ありますが、千葉氏とは桓武平氏の流れを汲み、代々、下総周辺を支配していた守護で、今の千葉県の名前の由来になったようです。しかし、最終的に今の千葉県に住み着いて残ったのは、千葉自胤の子孫ではなく、千葉氏の正統性を主張した岩橋氏ですが、話が混乱するので省略します。

千葉自胤は、享徳の内乱では関東管領の上杉氏(つまりは、室町幕府)方でしたが、鎌倉から古河(茨城県)に本拠地を移した足利成氏(初代古河公方)に呼応した原胤房(たねふさ)らに千葉城を攻撃され、市河城に落ち延びますが、その間に、父、伯父、従兄弟らは自害。結局、上杉氏の支援によって、自胤とその兄実胤兄弟だけは、関東平野にまで逃げ延びます。

康正2年(1456年) のことで、兄実胤は、石浜城(東京都台東区)へ、自胤は、赤塚城(板橋区)に入城します。(単純計算すると、この時、自胤はまだ10歳ですから、長老が補佐する家臣団ということでしょう)

以上が前触れです。今回の探訪ハイクでは、この千葉自胤を中心に彼と所縁がある城や寺社仏閣、そして、彼ら一族(武蔵千葉氏)と自胤の菩提寺「松月院」にまで訪れることができたのです。

一行5人は、 都営地下鉄「志村坂上」駅で集合。駅前にある志村一里塚(国指定史跡、都内で残されている江戸時代の一里塚は、ここと北区西ヶ原の2カ所のみ)、その隣の斉藤商店(明治22年創業の竹細工屋さん)に寄った後、延命寺へ。

この寺は、千葉自胤死後30年も後の時代の話ですが、大永4年(1524年)、小田原の北条氏綱と扇谷上杉朝興とがこの地で戦闘となった時に、志村城主篠田五郎の家臣見次権兵衛が自邸を寺にしたものだといいます。(近くに立派な池のある見次公園もあります)江戸時代は、8代将軍吉宗が鷹狩に来た際、休息所になったとか。

続いて向かったのが、志村城跡。千葉自胤が赤塚城に入城した際に、前衛拠点として千葉一族の信胤が築いたとも、この地の志村氏が築いたとも言われ、不明だそうです。本丸跡には、今は400世帯も入る大型マンションが建っていて、そのマンションは、まるで天守閣のようでした。ここには、今回参加したNさんの実姉家族が住んでいるということで、一同吃驚仰天でした。

熊野神社

この隣の熊野神社は二の丸跡のようで、しっかり、「志村城跡」の石碑が立っておりました。

途中省略して、南北朝時代(1334〜40年)は、七堂伽藍を備えた大寺院だった(1561年の戦乱で上杉謙信によって焼失した、とも)といわれる「松月院大堂」と、神仏習合により隣接した「八幡神社」をお参りして、この近くの「松月院」へ。今回の主人公の千葉自胤のお墓もありました。自胤は、最後まで下総=千葉に戻りたかったようですが、願い叶わず、失意のうち、この「異国」の武蔵の土地で亡くなったということかもしれません。(しかし、小田原の北条氏に滅ぼされるまで、武蔵千葉氏の基盤を作りました)

この後、着いたのが、「東京大仏」で知られる浄土宗乗蓮寺。応永年間(1394〜1427)、今の板橋区仲宿に創建されましたが、道路拡張のため、1973年にこの赤塚の地に移転してきたばかりらしいのです。

大仏さまは大変風格ありました。生まれて初めて訪れましたが、ミャンマー人の旅行者と会い、「日本人より情報通だ」と感心。わざわざ鎌倉にまで行かなくても大仏様の御尊顔を拝することができると思ってしまいました(笑)。

ここは、実は、千葉自胤が構えた赤塚城の二の丸があった所だったらしく、境内にはしっかりと「二の丸跡」の石碑が建てられ、感激してしまいました。

実際の赤塚城本丸跡は、ここから歩いて10分ほど離れた赤塚溜池公園の高台にあり、今から562年前に千葉自胤らが、今の千葉県市川市での戦乱を逃れてここまで来たのだと思うと、感無量になりました。

この近くには、自胤が、赤塚城の鬼門除けのために、信州諏訪大社の分霊を勧請した赤塚諏訪神社があり、勿論、ここもお参りしました。

このほか、立ち寄った所はまだまだありましたが、主に歴史散歩中心に記述しました。

ご意見、ご感想をお聞かせください!

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください