「ノモンハン事件 責任なき戦い」を見ての印象記

昨晩はNHKスペシャル「ノモンハン事件 責任なき戦い」を見てて、本当に嫌になってしまいました。

作家司馬遼太郎が、ノモンハン事件を題材にして小説を書こうと膨大な資料を集め、関係者にもインタビューしながら、あまりにも無謀で無責任な陸軍首脳部に幻滅して、「日本人であることが嫌になった」と作品化を断念した経緯があることは、つとに有名です。

ノモンハン事件は、「事件」とは言いながら、実態は戦争でした。「ハルハ河国境戦争」という歴史家もいます。1939年5月から9月に起きた、当時日本が実効支配していた満洲とソ連の衛星国だったモンゴル国境のノモンハンで起きた紛争です。日本の関東軍は2万5000人。対するソ連軍は5万7000人。しかも戦車(200両)や航空機まで引き連れてきました。

4カ月に及ぶ戦闘で日本の死傷者は2万人(ほとんど全滅)。ソ連は2万5000人。ノモンハンは今でも人が住んでいない広大な草原地帯で、約300平方キロメートルという大阪市に匹敵する広さに何千、何万という塹壕がいまだに残っており、ソ連の戦車や薬莢、手榴弾などが散乱し、日本兵と思われる遺骨まで残っていたことには驚かされました。

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番組では、恐らく日本初公開のロシア国立映像アーカイブのフィルムのAIによるカラー化した記録動画や、米南カリフォルニア州立大学で保管されていた150時間に及ぶ関係者インタビューテープや、ノモンハン事件の生き残り兵士で、今年101歳になる柳楽林市(なぎら・りんいち)さんらのインタビューなどがあり、見応えがありました。

21歳でノモンハンに参戦した柳楽さんの部隊166人はほぼ全滅。「兵隊を鉄砲の弾だと思っていたのだ」と、柳楽さんは79年経って今でも悔しさを滲ませていました。

「兵隊は鉄砲の弾」と思っていたのは、無謀なノモンハン戦争を立案した関東軍参謀の辻政信少佐かもしれません。周囲の上官の反対を押し切って、十分に敵の戦力を知ることもなく無謀な戦争を遂行します。司馬遼太郎が書けなかったノモンハンを、彼の編集者として取材にも同行し、遺志を継いで「ノモンハンの夏」を書き上げた作家の半藤一利氏も、辻政信を実際に取材して「絶対悪」という印象記を書いたほどでした。

番組では辻政信の次男が取材に応じて、辻政信の「父は断じて卑怯なことはしていない」という手紙を見せながら、「父は(当時)少佐ですよ。中佐や大佐や少将や中将や大将がいるので、少佐が好き勝手なことできますか?」と弁明してました。この親にしてこの子ですな。確かに卑怯なことはしていないでしょう。でも、軍人としてノモンハン2万人の戦死者の責任は誰が取るのでしょうか。

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150時間の肉声インタビューには、東京の大本営の作戦課長だった稲田正純参謀(大佐)、関東軍参謀だった島貫武治少佐らが登場します。「辻の声がでかくて、あいつの主張が通ってしまった」などと戦後回顧してますが、まるで他人事で責任があいまいです。ソ連軍の戦車がシベリア鉄道で大量に国境近くまで運び込まれているのを目撃したソ連駐在武官の土居明夫大佐が、辻政信に「やるべきではない」と忠告したにも関わらず、辻政信を買っていた関東軍司令官の植田鎌吉大将も、東京の板垣征四郎陸軍大臣までも黙認してしまいます。

唖然としたのは、大元帥の昭和天皇が、国境紛争にまで拡大するな、と叱責したというのに、関係者の処分もあいまいだったことです。昭和3年の満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)、昭和11年の二・二六事件では、昭和天皇の怒りを買い、関係者の処分がされたのに、この時点ではもう軍部独走で、天皇陛下の権威が失墜していたことが分かります。これで、2年後の太平洋戦争に突入し、結果的に戦争責任があいまいになってしまうのです。

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番組では井置栄一中佐の悲劇も明らかにしてました。井置支隊800人は、北方フイ高地で奮戦していましたが、水食料から弾薬まで尽き、通信も遮断されたことから、残った200人余りが撤退を余儀なくされます。しかし、「無断撤退」ということで、井置中佐は、第23師団長の小松原道太郎中将や辻少佐らによる「暗黙の了解」で目の前に拳銃を置かれ、自決を余儀なくされます。

井置中佐の妻は、夫の最期が知りたくて関係者に問い合わせますが、ほぼ全員が「知らぬ、存ぜぬ」と逃げてしまいます。

作戦を立てるだけで、弾丸が飛び交って死屍累々となる最前線には行かずに安全地帯にいた辻政信ら関東軍参謀の責任はなぜ問われなかったのでしょうか。彼らは、ソ連のスターリンは、西に仇敵ドイツを控えているので、これほど大量の兵器と装備をノモンハンにまで注力できるわけがないと高をくくって、情報さえ収集せず、しかも、土居武官の忠告まで無視するのですから無謀です。

辻政信は陸軍大学を首席級で卒業した超エリートで、天才と言われたそうですが、もし、そうなら、天才というのはいかに人迷惑なのでしょう。

軍人とは言いながら、所詮、兵隊に命令するだけで、人と人が殺しあう最前線に行くことがない陸軍省の文書お役人だったということでしょう。

見てて途中で嫌になってしまいました。

“「ノモンハン事件 責任なき戦い」を見ての印象記” への2件の返信

  1. 私の父親は、ノモンハンには初年兵で参戦したようです。私が現在71歳で生存しているということは、生き残り兵で帰ったんでしょう。その父は、16年前に病死しましたが、ノモンハンのことは、一度も話は聞いたことがありませんでした。しかし、壁には、神武天皇即位紀元2600年昭和15年4月29日付で大きな表彰状が掲げてあります。アルバムには撃墜された飛行機の前で、父親ともう一人の兵士との写真があり「ノモンハンにて」と記されていました。表彰年とノモンハン事件との関係を見ていくと、ひょっとしてノモンハン生き残り表彰だったのでは・・・・?と・・・この中に出てこられた柳落林市さん101歳を観て、是非、この人にお会いしたいと強く思いました。わかる人があれば、連絡ください。

  2.  私も見ました。大本営の作戦課長風情が、畏くも、恐れ多くも、天皇陛下、大元帥様を「天ちゃん!」と呼んでいましたね。「不敬罪」であり、獄舎にぶち込み、そして「大逆罪」で銃殺にしないといけません人物でした。つまり、それくらい、戦前、戦時中も、天皇は「飾り物」だったという事です。「戦争責任」は、いつも曖昧、不明にするのが日本と日本人です。今も同じです。NHK部内では今頃「あんな番組を放送しちゃあいけない」と、安倍首相及び安倍政権に忖度する商社OBの会長及び周辺が騒いでいるでしょう。酷い世の中です。

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