スペイン南部ミハス
長屋の八つあん ご隠居さま、お暇なところ、お邪魔します。
ご隠居さま おお、ハチ公か。お暇とはいい挨拶だな。ま、上がれ。今日は何の用だ。
ハチ公 ま、聞いてください。最近、アメリカの大恐慌とやらに興味を持ってるんですがねえ。でも、阿部老中が勧める讀賣新聞を読んでもさっぱり分からねえ。ご隠居さま、簡単に教えてくれやしまいかと思いましてね。
ご隠居 おお、お前も最近、経済に興味を持っているらしいことは噂では聞いておった。1929年のニューヨーク株式の暴落に始まる大恐慌のことかい?それにしても、大した魂消たね。お前さんがそこまで嵌っていたとは。
ハチ はあ、そうなんすよ。あんまし、意地悪言わねえで、サクッと教えてください。
隠居 サクッとか?儂はスマホじゃないがね。これでも、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで、ミック・ジャガーと肩を並べてMBAを取得しようとしたぐらいだから、儂の得意分野じゃ。あの尾畠春夫さんを見習って、スーパーボランティアで教えてあげよう。
ハチ お、大統領! そう、こなくちゃね。
スペイン南部ミハス
隠居 世界的な大恐慌の始まりは「暗黒の木曜日」、1929年10月24日のニューヨーク証券取引所での大暴落のことだと言われておったが、そうではないというフリードマンらの学説もある。ま、ややこしくなるので、このまま進める。とにかく、翌週の「暗黒の月曜日」「暗黒の火曜日」などを経て、1920年代の株投資ブームで上昇傾向にあったダウ工業平均株価は29年9月3日に最高値381.17ドルを記録し、それが暴落に続く暴落で、1932年7月8日には41.22ドルと実に89%も大幅に下落したわけじゃ。(損失価値総額約840億ドル。米国の第一次大戦時の戦費の約3倍に相当)10年前のリーマン・ショックのときは61%の下落じゃったから、どれだけ凄いか分かるじゃろ。1929年のピークの水準を回復したのは、戦後の1951年。それまで22年も掛かったことになるのぉ。回復のきっかけは、1941年の日本の真珠湾攻撃っちゅうから皮肉なもんじゃよ。はい、これで終わり。
ハチ えっ?もう、終わりっすか?
隠居 もうええやろう。とにかく、経済学ちゅうもんは、口が裂けても「いい加減」とまでは言えないが、数学のようにはっきりと解答があったり、スポーツのように勝ち負けがはっきりするもんじゃないんだよ。いまだに、大恐慌の原因について、論争があるし、実は決着が付いていない。ああ言えばこう言う。ああ言えば上祐(古い!)未来永劫分からんじゃろ。経済学とはそんなもんじゃよ。
ハチ 何だ、随分、テキトーな学問なんですね。
隠居 ま、儂の口からは言えんけどな。両論併記と言ってもらいたい。それより、意外なエピソードの方が面白いんじゃ。例えば、株が大暴落したときの米大統領は共和党のフーバーだ。この人は、無為無策で、不況対策を取らなかったと誤解されて人気がない。片や、民主党のルーズベルト大統領、有名なニューディール政策を行い、とにかく、25%、つまり4人に1人が失業というどん底から救ったという救世主のような扱い方をされてる。しかし、実際はその逆で、例えば、ニューディール政策の中でも最も有名なテネシー川流域開発公社(TVA)によるダム建設、電力開発も、大した雇用創出にはならず、経済効果もなく、失敗だったという説を唱える学者もおる。
ハチ へー、そうなんすか。教科書に書いてあったこととは違いますな。
隠居 ハロルド・フーバーは8歳で両親を亡くした孤児で、叔父に引き取られて、熱心なクエーカー教徒になるんじゃ。スタンフォード大学を卒業して、鉱山技師となり、世界中の鉱山を渡り歩いて、開発して巨万の富を築くのじゃ。フーバーの偉いところがこの先だ。第1次世界大戦で欧州から帰国できなくなった10万人以上の米国人に金銭的に支援したり、食料や寝る場所を確保したりしたんじゃ。また、周囲の反対を押し切ってロシア革命後の飢餓で苦しむソ連の人々を援助したりもした。そんな「偉大な人道主義者」という名声から、時のハーディング、及びクーリッジ大統領から商務長官に選ばれるわけだな。そして、株の大暴落の直後、何もしていなかったわけではなく、失業対策として復興金融公社をつくったり、「フーバーモラトリアム」を制定するなど景気対策はやってたわけじゃ。フーバーは劇場に行かず、スポーツ観戦にも行かず、散歩にもドライブにも出ず、人の噂もせず、日曜も休日もなく只管働いた。クリスマスでさえ、メリークリスマスと一言言っただけで、すぐ仕事に取り掛かった。儂のような超真面目人間。ただ、輸入関税を平均33%から過去最高水準の40%に引き上げた悪名高いスムート・ホーリー法を成立させたことは汚点だった言われておる。
ハチ あら、今のトランプさんみたいな保護主義っすね(笑)。
隠居 歴史は繰り返す、とはよく言ったもんじゃ。アメリカは「移民国家」だというのに、移民制限だって、今のトランプさんに始まったわけじゃない。1921年のジョンソン法とそれを改訂した 24年の移民法では、完璧に、排斥の狙いは日本を含めた東洋人だった。黄禍論が盛んに論議されとったからな。
ハチ なあるほど。
スペイン南部ミハス
隠居 だから、歴史を学べば、未来も手に取るように分かり、心配することはないっちゅうことかな。一つ付け加えれば、アメリカの大恐慌のお蔭で、ケインズに代表されるようにマクロ経済研究が始まった。だから新しい学問なわけ。ルーズベルト大統領は、ケインズの「雇用、利子および貨幣の一般理論」(1936年)は理解できなかったらしいけんど、スタインベックの「怒りの葡萄」(1939年)ぐらいは読んだんじゃないかな。お前さんだって、LM曲線だのIS曲線だのを説明しても分からんだろ。せめて、シュンペンターの「景気循環の理論」ぐらいは理解できるかもしれんけど。まず、この時代を知りたければ、フレデリック・ルイス・アレンの「オンリーイエスタデイ」が一番。20年代の繁栄時代はフィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」、それに「武器よさらば」などヘミングウエイなんかも面白いんじゃないかな。
ハチ さすが、博学のご隠居さまだ。
隠居 いや、実は儂は、まだ全部は読んでないんだ…(笑)。
▼参考文献=林敏彦「大恐慌のアメリカ」(岩波新書)など。