「ポール・マッカートニー 告白」を読む

個人的なことながら、ビートルズと、その解散後にソロになった4人の音楽は、もう半世紀以上聴いてきました。発売されたレコードはほとんど全て買い揃えました。マニアックな海賊盤や、本国英国盤だけでなく、米国キャピタル盤、日本の東芝EMI盤などもです。

特に若い頃は、1日16時間も聴いていた時期もあり、彼らの音楽を聴いたり、コピーバンドで演奏したり、彼らに関する本を読んだりしたりした時間をトータルに換算すると、数年間にもなるかもしれません(笑)。

思えば、彼らには随分貴重な時間を捧げたものです。ファンというより、フリークでしょう。関連本もかなり収集したので、まあ、ほとんどのことは知ってるつもりです。

でも、さすがに、最近はたまに聴く程度になりました。本もレコードもコレクションはやめました。

だから、このポール・デュ・ノイヤー著、奥田祐士訳「ポール・マッカートニー 告白」(ディスクユニオン、2016年6月18日初版、3824円)もあまり期待していなかったのですが、読み進むうちに楽しくなり、終わり近くになると、読み終えたくない気持ちにさえなってしまいました。

著者は、音楽専門週刊誌「NME」(1960年代、「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」と呼ばれ英国最大部数を誇る音楽誌だった。同誌が選ぶファン投票でコンサートも開催された)の音楽ライターや月刊誌「MOJO」の創刊編集長などを歴任したことぐらいしか書かれておらず、詳しいプロフィールは書かれておりませんが、彼が初めてポールと会ったのは、1979年で、「まだ23歳の若造だった」と書いております。ということは、小生と同い年になります。彼が同時代人として、子どもの時から受け入れてきたビートルズの音楽と解散してソロになった音楽を、私も同時に極東の島国で体験していたので、あの時代の雰囲気についてはよく分かります。職業としてポールにインタビューしているのに、「今、あのポール・マッカートニーに会っているのが嘘みたいだ」という舞い上がってしまう感覚を正直に書く辺りは共感できます。ただし、彼はリバプール育ちなので、歌詞の意味の深みまで理解でき、ポールと対等にリバプールの隠れ場所などの話までできるので、全然違いますが。

ポール・マッカートニーは、恐らく人類史上世界で最も成功した、巨万の富と輝かしい名声を獲得した、最も有名なアーチストでしょう。まず知らない人はいないでしょう。「イエスタデイ」を一回も聴いたこともない人も現在でも少ないかもしれません。

ポールなら、何処に行っても「顔パス」で、VIP扱いで、欲しいものなら何でも手に入る。サーの称号も受けたし、何処の国に行っても国賓級として優遇される人だと思っておりました。

そして、ビートルズ時代から、ジョン・レノンと比較されて、ジョンの「陰」に対して、ポールは「陽」。マスコミ受けが良く、グループの明るいスポークスマンでPRマン。そのせいか、逆にポールに付きまとった悪評は、「狡猾で如才がなく、計算高い」。恐らく半分は当たっていることでしょうし、私も、少し、うんざりするぐらいポールはそういう男だと思ってました。特に、純粋で皮肉屋のジョン・レノンと比べれば。

しかし、この本を読むと、そうでもない人だと少しずつ分かってくるのです。まず、決して「計算高い」人間ではないようです。まあ、堅実な宮仕えを選択せずに、芸術家になった人ですから、かなりの無鉄砲。1973年に、アルバム「バンド・オン・ザ・ラン」のレコーディングでアフリカのナイジェリアに滞在していた際、周囲から危険だからと忠告されていたのに、夜道にリンダと二人で外出して、6人の強盗に襲われ、金品、カメラからレコーディングのデモテープまで奪われてしまっていたのです。強盗は、ポールのことを知らなかったようです。

ビートルズ解散後の1970年には、ニューヨークのハーレムで、黒人の女の子が公園で歌を歌っているのを眺めていたら、黒人の男から「おまえは先生か?えっ、違う?旅行者か。それなら、このブロックから出て行け!さもなきゃ俺が追い出してやろうか。国へ帰れ!」と脅迫されたこともあったそうです。えっ?ポールを知らない人もいるんだ、と驚いた次第。同時に、天下のマッカートニー様も、いつもどこでも、決して、VIP待遇でもなかったということが初めて分かりました。

この他、「へー」と思った点。

・英国では、ビートルズ全盛期、レコードのLPの値段は2ポンドだった。平均賃金が週20ポンド程度だったので、かなり高かった。(日本は2500円ぐらいだったので、それでも日本の方が安かったのかもしれない)

・ポールはあまり宗教について語りたがらない。熱心なカトリック(アイルランド系なので)でもプロテスタントでもないようだ。しかし、不可知的な、魔法については信じているようだ。曲づくりも、「何か天から降りてくるようなもの」といった表現さえする。

・ポールは今でも、地下鉄やバスに乗って「人間観察」するそうだ。生前のジョージ・ハリスンは「信じられない」と言ったとか。

・アヴァンギャルドと言えば、ジョン・レノンの方が印象が強いが、ポールの方が前衛的だった。シュトックハウゼンを聴いたり、前衛的な展覧会に行ったり、自宅に詩人や前衛芸術家を招いたり。

・特にベルギーのシュルレアリスト、マグリットのファンで、価格が高騰する前に手に入れた数点のコレクションがある。

・ポールがティーンエイジャーの時に、ロックンロールに夢中になり、ロックバンドを始めるが、マッカートニーの父親ジム(若い頃は消防士、中年から綿花の卸売業)はアマチュア音楽家で、自宅に親戚や友人らを集めて1930年代のジャズやムード音楽を演奏していたので、子どもの時はロックなどなく、そちらの影響が強かった。だから「ハニーパイ」などの名曲が書けた。

時事通信が大誤報

昨晩は、名古屋にお住まいの篠田先生から「時事通信が大誤報したようですね。駄目ですよ、コロしては」と、電話がありました。

私に言われてもねえ…。

同社は、19日早朝に俳人で文化功労者の金子兜太さん(98)の死去を報じる記事を配信し、約1時間後に誤報として記事全文の削除を連絡したというものです。大手紙当日の夕刊や翌日朝刊、ネットでも同社の謝罪文が掲載されました。

担当記者も著名な俳人という情報もありますが、恐らく、結社仲間か誰かからのあやふやな噂を聞いただけで、金子氏本人や家族に直接接触して確認しなかったのでしょう。基本がなっていない。記者としては失格ですね。

かつて大手新聞社の幹部も務めた篠田先生は「私も18年前に金子さんにインタビューしたことがありますけど、エライ迷惑でしょうね。食品メーカーなら、食中毒事件を起こしたようなものですよ。マスコミなんて、信頼だけで仕事をしているようなもんでしょう?その信頼関係が崩れてしまえば、取り返しがつかなくなります。社長さんが、金子さんの自宅に行って謝罪するべきではないでしょうか」と言います。

確かにそうかもしれませんね。

雪室熟成黄金豚特製タレカツ丼(築地・うおぬま)850円

時事通信社といえば、同社出身の政治評論家田崎史郎氏が、先週発売の「週刊文春」の「嫌いなコメンテーター」アンケートで、堂々の第2位を獲得しましたね。同誌に寄せられた投書のほとんどが「ジャーナリストとしての信念を感じない」「政権広報が必要なら与党政治家を呼べ」といったもので、安倍政権べったりの「御用記者」ぶりが批判されております。

オペラのテノール歌手並みの美声を武器に、銀座・泰明小学校の和田校長も驚きのイタリア製の高級スーツで身を包み、スシローの異名の通り、銀座の高級寿司店をはしごし、お茶の間の奥様方のウケがいいものとばかり思っておりましたが、ここまで嫌われているとは思いませんでしたね。

「週刊文春」は、「週刊新潮」と並ぶ安倍政権寄りの高級右翼雑誌だと思っていたので、これまた吃驚です。あんなアンケートなんかしなければよかったかもしれませんね。

【追記】

現代俳壇を代表する金子兜太氏は20日、埼玉県内の病院で逝去されました。御冥福をお祈り申し上げます。

「仁和寺と御室派のみほとけ」展では思わず手を合わせてしまいました

最近、文化事業に力を入れている天下の読売新聞主催の特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」を帝都・上野国立博物館まで朝一番で観に行ってきました。

京都にお住まいの京洛先生からのお薦めで、出掛けたのですが、京洛先生の仰るように「帝都の臣民は、篤い信仰心もなければ、教養が高い人は少ないので、並ばずに直ぐに入れますよ」というわけにはいかず、下記写真のように、「待ち時間40分」の表示。

実質時間を測りましたら、22分で入場することができ、「国宝」や「重要文化財」の前では、二重、三重、四重のとぐろ状態で、かなり盛況でした。

京都・真言宗御室派総本山仁和寺の秘蔵お宝だけではなく、その御室派の筋に当たる大阪・金剛寺、福井・明通寺、香川・屋島寺、大阪・葛井寺、三重・蓮光院などからも惜しげもなく国宝や重文が出展され、それはそれは見事でした。

日本の展覧会では、まず、録音や写真撮影は禁止されておりますが、仁和寺観音堂を再現したこの場所だけは、どういうわけか撮影オッケーでした。

表現が不適切かもしれませんが、圧倒的な迫力で、まるで、仁和寺の伽藍にいるかのような錯覚に陥り、思わず、手を合わせてしまいました。

昔は、展覧会に行く度に、必ず、カタログを買っていたのですが、最近は、やめてしまいました。重く嵩張り、自宅で置くスペースもなく、死んであの世に持っていけるわけでもなく(笑)、蔵書も含めてあらゆる意味で、コレクションの趣味をやめてしまったからです。

それでも、撮影禁止の国宝「千手観音菩薩坐像」(奈良時代・8世紀、大阪・葛井寺)は、ことのほか感銘してしまい、思わず、カタログか絵葉書でも買おうかとしましたが、結局、やめてしまいました。

(リーフレットから葛井寺の千手観音坐像)

このご本尊様は本当に凄い秘仏でした。大阪・葛井寺でも滅多に公開されないようです。公開されたとしても、今回の特別展のように、背後まで見られるようなことはないでしょう。

千手観音の名前の通り、実際に手が千本以上あるのは、この葛井寺の「千手観音坐像」以外、日本では他にないらしく、ここだけは、人だかりが半端じゃありませんでした。

入口に置いてあった「出品目録」で数えてみたら、国宝は、空海の「三十帖冊子」など24点、重文は、徳島・雲辺寺「千手観音菩薩坐像」(経尋作、平安時代・12世紀)など75点もありました。

仁和寺は仁和4年(888年)、宇多天皇により創建されました。ということは、皇室皇族の寺院というわけです。秘仏や国宝が揃っているわけです。

そして、天皇は一人しかなれないことで、他の皇子や皇族は代々、このような寺院の門跡(住職)を務めるようになっていたのです。よく考えられたシステムです。

正直言いますと、私自身、博物館での仏像展示は、何ら功徳も御利益もなく、邪道ではないかと訝しむ気持ちがかつてはありましたが、信仰心さえあれば、そんなことはない、と心を改めることにしました。

この特別展がそのきっかけを作ってくださった気がします。

「仁和寺展」は、東博の「平成館」で開催されていて、見終われば、いつもなら、そのまま帰路に着いていたのですが、今回は、久し振りに「本館」にも立ち寄ってみました、数十年ぶりかもしれません(笑)。

多くの展示品の中で、徳川四天王の一人、榊原康政(上野国館林藩主)の甲冑に魅せられました。本物だと思われますが、意外と小さい。兜には1本太刀がスッと装飾されていました。

ランチがてら、上野から御徒町の「寿司幸」まで足を伸ばしました。博物館から歩けないことはないのですが、以前、アメ横を通ったら、人混みでほとんど前に足が進めない状態で、ウンザリしてしまったので、電車に乗って行きました。

そこまでして食べたかったのは、ここの名物のネギトロとコハダの握り。

昼間っから、オチャケで喉を潤しました。

いやあ、極楽、極楽(笑)

「唐代 胡人俑(こじんよう)」特別展

大阪の浪華先生です。ご無沙汰しております。

東京は此処へきて気温が上昇、暖かくなっているようですが、関西は寒さがおさまりそうではありませんね。少し温かくなったか、と思うと、すぐ、小雪が舞い散り、春はやはり奈良の「お水取り」が終わらないとやはりダメです。「梅は咲いたか、桜は、まだ、かいなあ!」とは、よく言ったものです。

東京は東京国立博物館で「仁和寺」特別展が開かれているようですが、こちらは、大阪・中之島の大阪市立東洋陶磁美術館で、日中国交正常化45周年記念と開館35周年記念と題して「唐代 胡人俑(こじんよう)」特別展(3月25日まで)が開催中です。

2001年に甘粛省慶城県で、唐の時代の遊撃将軍と言われた穆秦(ぼくたい)のお墓(730年)が発見されました。お墓から出土、発見されたのは、極めてリアルでエキゾチックな、胡人や交易に使われたラクダ、馬などを描いた陶製の副葬品で、今回、それらのうち、慶城県博物館所蔵の貴重な、60点が中国から運ばれて、特別展として展示されています。

「胡人(こじん)」は、漢民族にとっては異民族であり、中央アジアを中心に活躍したソクド人らを指します。
唐(618年~907年)の時代、シルクロードを使って、唐の都である長安と、西方文化の交易に大きな影響を与えたわけですが、これらの作品を見ると胡人が漢人からどう見られていたか、よく分かります。

実物を直かに見ると、何とも言えない、ユーモアや人間味が感じられ見惚れました。大胆に異民族をデフォルメして、今、見ても、唐代の人が、胡人に感じた怖れや違和感、彼らのバイタリティを巧みに表現、それらをひしひしと感じ取れました。人物だけでなく、駱駝や馬も、活き活きと描かれていて、渓流斎さんも、ご覧になると、きっと「極端に誇張されているようにみえて、本質を迫っていますね」と礼賛されると思います。

残念ながら、東京では開催されません。もし、ご興味があれば「大阪市立東洋陶磁美術館」のホームページを検索されて、その中で動画の「黄土の魂 唐代 胡人俑の世界~生を写して気満ちる」(約15分)をご覧になると歴史的な経過などが分かることでしょう。

この展覧会では、フラッシュさえ使用しなければ、写真撮影もOKでした。珍しいですね。
小生は、紅色が鮮やかな「加彩女俑(唐 開元18年 西暦730年)」と、泣いているようにも見え、両手、両膝を地面に付けている「加彩跪拝俑」(同)の二点をデジカメで寫してきました。ご覧ください。

佐川国税庁長官への手紙再び

「知らぬ」「存ぜぬ」「資料はない」「捨てた」のたった四語で国家に忠誠を尽くしたとして、論功行賞で国税庁長官にまで昇り詰めた佐川君。福島県いわき市出身、花籠部屋?

いまや、確定申告たけなわの時期で、全国で「納税者一揆」の狼煙が上がって逆風が吹いているようです。

何と言っても、国税庁は、納税者には「領収書などの資料は五年間保存しろ」と命令しているのに、佐川長官は率先して資料を廃棄しているか、または、廃棄したことにしているわけですから矛盾してます。

それに、佐川君自身は後ろめたいのか、昨夏に国税庁長官に就任したのに記者会見を一度も開かぬ異例事態。歴史家に「卑怯者」の烙印まで押されてしまいました。

佐川君は、何故そこまで役職に汲々としがみついているのでしょうか。

文科省の前川喜平事務次官のことを「汲々と役職にしがみついている」と大批判した菅官房長官は、佐川長官については手の平を返したように「適材適所」と詭弁を弄しております。

では、あっさり事務次官を辞めた前川氏と、役職に汲々としがみついている佐川君との違いは何処から来るのでしょうか?

前川氏は、世界的な産業用冷凍機のトップメーカー前川製作所の創業者一族。銀のスプーンを咥えて生まれてきた大金持ちです。官僚の中でも、奇人変人が多い麻布出身(笑)。

一方の佐川君の実家は、それほどでもないようです。目立つ肩書きは、「いわき応援大使」ぐらい。最悪でも1年間の長官任期は全うしたいのでしょう。

しかし、この後の彼の天下り先がどうなるのか気になります。「引き受けろ」と打診される民間企業も、敬遠してしまうのではないでしょうか。(今季から、プロ野球界では敬遠は申告制となり、なくなってしまうそうな)

北朝鮮張成沢氏の粛清、「密告が原因」は妙に納得させられます

2月14日付の共同通信が、米国を拠点とする中国語情報サイト「博訊」などを引用して伝えた「北朝鮮の実力者だった張成沢元国防副委員長が2013年に『国家反逆罪』の汚名を着せられて粛清されたのは、中国側からの密告が原因だった」などといった報道は、大変驚くと同時に、何となく、疑問が氷解するような感じを受けました。

もっとも、中国外務省の耿爽副報道官は14日の記者会見で、即座に「全くのでたらめな話」と否定しましたけどね。

報道は今回が初めてでもないらしいのですが、北朝鮮ナンバー2だった張成沢氏は2012年に胡錦濤国家主席(当時)と会談し、故金正日総書記の後継として、金正恩朝鮮労働党委員長ではなく、異母兄の金正男氏を就任させたいとの意向を伝えたというのです。この内容を、中国の最高指導部メンバーだった周永康氏が金正恩氏側に伝えたことから、金正恩氏の怒りを買い、13年の張氏粛清につながったというものです。

ナンバー2の実力者の張氏が「国家反逆罪」として処刑された理由が、当時さっぱり分からなかったのですが、「この話」は辻褄が合います。しかも、最高権力者になろうともしなかった、ディズニーランドとエリック・クラプトンが大好きだった金正男氏が、なぜ、ちょうど1年前の昨年2017年2月にクアラルンプール国際空港で暗殺されなければならなかったのか、平仄が合う気がしました。

恐らく、私の勝手な想像ですが、張成沢氏は、金正恩氏より、金正男氏の方が、御しやすいというか、自分の権力を行使しやすいと考えたのかもしれません。

密告したとされる、当時の中国の最高指導部の一人、周永康氏は、最近、収賄罪などで無期懲役の判決を受けたばかり。これは怪しい。「池に落ちた犬はたたけ」なのか、「濡れ衣」なのか、真相は不明です。

中国当局は否定していますが、中国とのパイプ役だった張成沢氏処刑後、中国と北朝鮮の関係が悪化したと言われてますから、何らかの形で、件の話が金正恩氏の耳に入ったのではないか、と思われます。

ダーウィン的進化論主義者の皆さんなら、科学も歴史も常に進歩していくものだと考えがちですが、もし、話の内容が事実なら、異母兄を暗殺するような北朝鮮は、日本で言えば、いまだに戦国時代です。

14日には米フロリダ州の高校で、またまた銃乱射事件があり、17人が犠牲になりました。これでは、アメリカはいまだに、秀吉の刀狩り以前の国だと思われても仕方がないのではないでしょうか。

皇室醜聞報道は不敬罪か?

 「眞子さま 傷心と不信!宮内庁隠す[結婚延期]真相と大失態」(「女性自身」光文社)―。

 最近の週刊誌の報道を横目で薄目で見ていると、「昔だったら、『不敬罪』じゃないかなあ」と思いつつ、自分自身もついつい、「一体どうなっているのか?」と関心が全くないわけではないので、今日は、文春砲を買ってしまいました(笑)。

おめでたい結婚式を、どんな事情があったにせよ、2年も延期するとは、ただ事ではない。一体何があったのか?国民のほとんどが疑問を持ち、その理由について、公式発表通り、そのまま額面通りに受け取った人は少なかったと思います。

土鍋ごはんランチ 850円

そんな時、国民の知りたい気持ちを見事に代弁(?)してくれたのが、「週刊新潮」です。「ご結婚延期でも誰も言わない『眞子さま』サヨナラの胸の内」と、ズバリ「破談」が決まったような見出しを書いてしまっています。(戦前なら不敬罪?)

この新潮の記事も読みたかったのですが、結局、他の記事も読みたかった「週刊文春」を買ってしまったわけです。こちらの見出しは「眞子さまの恋と秋篠宮家『危機の50日▼婚約スクープ直後に行われた杜撰な宮内庁調査▼小室圭さんの話題に顔を曇らせた秋篠宮殿下▼430万円トラブル元婚約者にはいまだに連絡なし」といったもので、中身を読まなくても、そのまま同じことが書かれ、結局読んでも、あんまし、衝撃的ではありませんでした(笑)。

むしろ、最初から飛ばしているのは、女性週刊誌の方でしょう。小室家の金銭トラブルをすっぱ抜いたらしい「週刊女性」(主婦と生活社)2月6日号には、こんなことが書かれています。

さいたま市岩槻区

 …(眞子さまの婚約者小室)圭さんが成人した際に、東京・帝国ホテル内の写真店で記念写真を撮影することになり、(後に金銭トラブルになった)Aさんがホテルまで車で連れて行ってあげたそうです。

しかし当時Aさんは、婚約中だったのにもかかわらず、小室さん親子だけで写真撮影をすまされて結局、無料の“タクシーがわり”に使われたのです。

そういった小室佳代さんの身勝手な行動が積み重なり、愛想を尽かしたAさんは2012年9月に婚約を解消して、今まで貸してきたお金を返済してほしいという旨を佳代さんに伝えたのだが……。(ネットから転載し、ほんの一部補足、換骨奪胎)

うわ~~凄いですね。怖いですね、怖いですね。女性週刊誌は凄いこと、凄いこと…。

このような報道は、昔の不敬罪ギリギリの線かもしれませんが、やはり、私自身は、「国民の知る権利」は憲法で保障されてますし、守らなければならないと思ってます。

宮内庁は権威を嵩に威張ってるように見えますが、今日、文春を読んで、「結構いい加減なお役所なんだなあ」と思ってしまいました。

【追記】

秋篠宮家の家族会議で、「問題は、お金がないことではなく、分不相応の生活をしていること」といった趣旨の発言があったらしい。実に真っ当な考え方です。

また、週刊ポスト・セブンの小学館報道によると、圭さんの母親は、宮内庁に「皇室で(借金の)サポートしてもらえませんか」と打診したらしい。

これが、秋篠宮家の耳に入り、態度を硬化させる遠因になったらしいですね。

うーん、私も単なる噂好きのおばさまに堕してしまった気がします(笑)。

銀座・泰明小学校のアルマーニ騒動について

「アルマーニ制服」で話題沸騰の東京・銀座の泰明小学校に行ってきました。フットワークが軽い?いえ、いえ、単に勤務先から近いので、昼休みがてら行ってきただけです(笑)。

振って沸いたこの大騒動。泰明小学校の和田利次校長(62)が独断と偏見(?)で、今年4月から上下スーツからワイシャツ、靴下等に至るまで1セット8万円以上もする超高級ブランド「アルマーニ」製を「標準服」として採用すると発表したことがきっかけです。

標準服なので、強制ではありませんが、保護者会やPTAで話し合われて決定したわけではなく、校長の独裁。8万円はいかにも高過ぎる。「いかがなものか」となったわけです。しかも、子どもさんは成長が早いですからね。1年で着られなくなるかもしれませんから、在学中は数回、セットを買い換える必要もあるでしょう。

和田校長は採用の理由について「銀座という土地のブランドを大切にしたいから」といった趣旨の発言をしたようです。

確かに泰明小学校は名門です。創立は明治11年(1878年)。校門に「島崎藤村 北村透谷 幼き日 ここに学ぶ」という石碑もあります。このほか、卒業生には、首相も務めた近衛文麿をはじめ、詩人の金子光晴。芸能人に朝丘雪路、加藤武、中山千夏、殿山泰司、歌舞伎の澤村田之助丈もおりますね。

以前、銀座暖簾会の「銀座百点」で、田之助丈と加藤武さんが対談されて、泰明小学校の思い出を語ってましたが、加藤武さんは2015年に亡くなっていたとは…。

さて、問題になったのは、泰明小学校は、中央区立、つまり公立だからです。私立だったら、別に、児童に宗教上の理由で100万円もする首飾りを着用させようが、勝手ですが、あくまでも税金の補助がある公立ですからね。

「アルマーニ採用は撤回しない」と胸を張った和田校長の素性について、既にネット上で色々書かれております。東京学芸大出身だとか、アルマーニと癒着して相当マージンをもらっているのではないか、といった類です。いずれも憶測の域を出ておらず、私も色々眺めているうちに、色々書かれているにしてはネタ元が一つのような気がして興味を失いました(笑)。

ただ、ほとんどの世間の人は知らないでしょうが、公立学校の校長は、よほどのスキャンダルがない限り、国から叙勲されるという事実です。

例えば、88歳の米寿を迎えた元公立の小・中学校の校長先生は、「瑞宝双光章」、高校長なら「瑞宝小綬章」を授与されるのです。

または、その前か、その後に死亡すれば、小学・中学校長なら「正六位・瑞宝双光章」など、高校長なら「従五位・瑞宝小綬章」など、大学(名誉)教授なら「従四位・瑞宝中綬章」などが叙勲されるのです。

ということで、公立学校の校長は立派な公人です。

そのうち、いつの日か、和田利次校長先生も「アルマーニ標準服を導入し、経済を活性化した」として、正六位どころか、大学教授並みに「従四位・瑞宝中綬章」を叙勲されるかもしれません。

ま、その頃は、和田校長先生も忘れられ、世間の関心は全く失せていることでしょうが…(笑)。

五輪日程はふざけている!

ふざけていると思いませんか?

平昌冬季五輪が佳境に入り、メダル候補の日本選手の活躍も始まりました。

そしたら、例えば、昨日12日、高木美帆選手が銀メダルを獲得したスピードスケート女子1500メートルの決勝の開始時間は21時30分、高梨沙羅選手が胴メダルを獲得したジャンプ女子ノーマルヒル決勝は21時50分からですよ!

何で決勝をこんな夜遅くにやんなきゃならないんですか?韓国・平昌と日本は時差がありません。本来なら気温が上がってくれる午後に決勝をやっていいじゃないですか。屋内リンクはともかく、マイナス20度にもなる平昌の戸外で行われるジャンプなぞは観戦する観客も大変です。

その理由は、莫大なテレビ放送権を払った欧州連合の時間帯に合わせたのではないかというのが、専らの噂です。

平昌とロンドンの時差は9時間。平昌が夜中の零時なら、英国は午後3時です。パリ、ベルリン、ローマは8時間。ちなみに、ニューヨークは時差14時間で、韓国が夜中の零時なら米東海岸は午前10時です。

それでも、真夜中に表彰式を見るよりマシってことでしょう。

小生は、最近疲れがたまって夜は早く寝てしまいます。夜11時過ぎまで起きていることはほとんどなし。先日は9時半に寝てしまいました(笑)。よゐこのお友だちなら皆んな早く寝床に入っているはずです。

真夜中になってやっと試合結果が分かるということは、新聞の締め切り時間には間に合わず、私のように田舎に住んでいる人間どもは、朝刊で、日本人の大活躍を読むことができないのです。

おかしいと思いませんか?時差がない国で五輪をやってるのに。。。米国で人気が高いフィギュアスケートも米NBCが放送権を獲得したお陰で、決勝は午前中にやるらしいですね。

こんなこと、朝から晩まで1日中、五輪中継している天下のNHKなんかは決して批判しません。朝日、毎日、読売、日経、東京などの大新聞も、五輪は、販促の良い機会で、飯の種になるので、スポンサーになり、国際オリンピック委員会(IOC)なんかを批判しません。

読者や聴視者には、疑問を持たせないようにすらしています。グルですよ(笑)。

2020年の東京五輪も7月24日から8月9日までと日程が決まっています。よりによって、何で、猛暑の真夏にオリンピックを開催しなけりゃならないんですか?こんな湿度の高い猛暑の東京の街中を走らされる選手もたまったもんじゃないでしょう。生命の危機すらあるかもしれません。

真相は分かりませんが、春や秋のスポーツシーズンには、大リーグやプロバスケットボールなどまさに「ドル箱」競技がひしめき、空いているのは真夏のオフシーズンしかなかったから、というブラックジョークがあります。

何でも欧米中心ですね。

これでは、まるで、15世紀の大航海時代から始まる白豪植民地主義ではありませんか?

少し言い過ぎかもしれませんが、日本人は「国際」が付くと相変わらず、「善の権化」と誤解してひれ伏し、何でも有難いと受け入れがちです。

日本のマスコミもどこも批判しません。

オリンピックの金儲け主義と搾取構造を批判されても、IOC貴族はビクともしないことでしょうけどね。

岩付城趾を訪ねて幾百里

最近はまっている太田道灌が築城したと言われる岩付城趾を見たくなり、生まれて初めて東武野田線に乗って、念願の岩槻まで行ってきました。

以前は、岩槻市でしたが、浦和の軍門に下って(笑)、今はさいたま市岩槻区です。

岩付城は、太田道灌が築城したと思っていたら、地元の看板を見たら、築城したのは、道灌の父太田道真とも、後に忍城主となる成田氏とも言われているようです。

海城ゼミナールとは?

東武野田線岩槻駅を降り立って、メーンストリートを歩きましたが、賑やかなのは最初の百メートル程度。後は、シャッター商店ばかり目立ち、すっかり寂れていました。

岩槻は「人形の町」と言われ老舗が多く軒を並べていますが、雛祭りが近いというのに、人通りが本当に少ない。まさか、皆さん、雛人形もネットで購入ですか?

同じ太田道灌が築城した河越城の城下町、今の川越市は観光都市「小江戸」として賑やかに繁栄しているのと大違いでした。

この日の観光客は、私一人だったんじゃないでしょうか(笑)。

たまたま、最初に訪れたのが「時の鐘」でした。

川越の「時の鐘」に勝るとも劣らないのに、観光客が私以外誰もいませんでした。

時の鐘の説明は、上の写真を読んでください(笑)。

実は、岩槻を訪れたもう一つの目的は、久伊豆神社への御参拝でした。

この神社は、首都圏の神社仏閣紹介サイト「猫の足あと」を主宰する松長氏から教えてもらい、その存在を初めて知り、いつか御参拝したいと思っていたのです。

私は、埼玉県の神社と言えば、「武蔵国一宮」大宮の氷川神社系統ばかりだと思っていたら、松長氏から「同じ埼玉県でも、岩槻、越谷辺りは、氷川神社は一つもありません。久伊豆神社系統ばかりですよ」と言われ、驚いてしまったのです。

久伊豆神社は、上の写真の説明の通り、約1300年前の欽明天皇の時代に出雲の土師氏が創建したと言われております。

土師氏というのは、古墳時代に埴輪を製作した一族と言われ、その子孫が伝説の武内宿禰であり、さらにその子孫が菅原氏と言われています。

菅原氏というのは、あの「学問の神様」菅原道真を輩出した一族です。

ですから、このように、久伊豆神社の隣には末社として北野天満宮が祀られているのです。(京洛先生も吃驚!)

昔のように、それほど神社仏閣に関して知識がなかった頃でしたら、何で久伊豆神社なのに、北野天満宮なの?と疑問に思っていたでしょうが、「土師氏創建」と見て、私は全く違和感を覚えなかったのでした。

このような話は、神社の案内では説明されていませんよ、エヘン(笑)。

久伊豆神社は、江戸城の鬼門(東北、丑寅)方角にあることから、徳川家康が鬼門除として信仰したそうですね。

神社内では孔雀が飼われていて、これらは、朝香宮殿下がこの神社を1938年に訪れた際に記念に贈った孔雀の末裔なんだそうです。

奉納されて、今年は80年祭ということになります。

この後、岩付城趾を目指して、岩槻城址公園に行きましたが、今は、お子ちゃま用の公園や野球場、テニスコートなどになってしまい、全く面影すらなくなってしまいました。

せめて、本丸跡に、石碑ぐらい設置しておいてほしかったのに、それすら見当たりませんでした。

ガッカリしました。

岩槻城址公園から隣りの諏訪神社まで行きました。

信濃国の諏訪神社から軍神を祀っていると説明されてました。

この辺りは、岩槻藩の武家屋敷があったところらしいですが、その跡形も全くありませんでした。

歴史のある街ですから、もう少し、観光客を誘致するよう工夫したらいいのになあ、と残念に思いました。(そういえば、川越の鰻のように、岩槻には、これといった食の名産品がなかったでしたね…何と言っても、川越や秩父のように大掛かりな有名なお祭りもなかった!)

浄土真宗浄源寺(西本願寺)

随分歩きました。

が、スマホの万歩計を見たら、1万5000歩程度でした。