ついにパソコンよ、さらば?

JR浦和駅

不動産情報サイトが実施した「住みたい街ランキング 2018関東版」で、あの吉祥寺が首位から陥落して、横浜がトップになったそうで、おめでとう御座います。

しかし、私が注目したのは、埼玉県の大宮(9位)と浦和(10位)がトップ10にランクインしたことです。

へーと思ってしまいました。

でも、昨年辺りから、東海道線などと乗り換えなしで運行されるようになり、大宮、浦和から直接、横浜や熱海、小田原、伊豆まで、直行できるようになったので、便利と言えば便利です。

以前は、埼玉と言えば「ダサいたま」と言われ、住むのが恥ずかしいイメージがありましたが、そんな偏見も無くなったようです。

これから読もうかと思っている谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書)によると、古代、埼玉は、武蔵国の中心どころか、東日本の中心だったようです。そして、何と言っても、埼玉(さきたま)の由来は、幸御魂(さきみたま)から来ているらしいですね。「人に幸せを与える心」という意味らしい。武蔵国には、古代には、出雲の人たちが渡ってきて、氷川神社などを建てたり、高句麗や新羅からの渡来人が移住したり、古代からなかなかのロマンと歴史があったようです。

この本を読むのも楽しみです。

 

さて、長年使っていたパソコンを処分することに決めました。メーカーが無料で引き取ってくれるという記事を新聞で読んだからです。

私の個人パソコンは、ウインドウズ7で、どうやら昨秋あたりから、マイクロソフトさんの戦略でサポートをやめたらしく、潮時となりました。

保証書と一緒に保管していた領収書を見たら、購入は2011年3月6日でした。東日本大震災の直前だったんですね。ちょうど、7年経ちますが、途中、入院したりして1年間殆ど全く使わない時もありました。

まだ、使えそうですが、バッテリーが劣化して、途中で電源が落ちたりして困ったことがありました。それに、動作が遅くてイライラしたりします。

もうパソコンも文房具みたいなもんですね。これが何台目だったのか、もうすっかり忘れてしまいました。

それに、今は、iPhoneとiPadがあるので、自宅でパソコンを使わなくても済んでしまいます。何しろ、iPhoneの最新機種のiPhoneⅩなんか、10万円以上するのに、パソコンは7万円ぐらいでも新品が買えるんですからね。パソコンもどうせ、5、6年持てばいいでしょうから、そして、ソフトもハードもそのように作られているのですから、それで十分です。

ただ、今のところ、この《渓流斎日乗》を執筆するにしろ、自宅ではパソコンを使わなくても用が済んでしまいますので、また新たに買い換えるかどうか迷ってしまってます。

ハムレットの心境です。

「15時17分、パリ行き」は★★★★★

クリント・イーストウッド監督作品「15時17分、パリ行き」をロードショーで観てきました。

実は、この映画、某新聞の映画評で「途中で中だるみする」と書かれていたため、今年のアカデミー賞で最多部門でノミネートされている「シェイプ・オブ・ウォーター」にしようかな、と迷いましたが、「作り物の半魚人よりも実話の方がいいか」と思い、こちらにしたわけです。

正解でした。

2015年8月21日にアムステルダムからパリへ向かう高速列車の中で、銃で武装したイスラム過激派の男による無差別殺傷未遂事件を材に取った映画です。実は、この頃、私自身は入院中で、ほとんど黄泉の国に行っている状態でしたので、この事件については、実話と言っても、全く知りませんでした。未遂に終わったので、日本のマスコミも大きく取り扱わなかったのかもしれません。

事件の遭った列車にたまたま乗り合わせていたのが、米空軍兵のスペンサー・ストーンとオレゴン州兵のアレク・スカラトスとその友人である青年アンソニー・サドラー3人で、男を取り押さえて、忽ちヒーローになるのです。

驚くことに、イーストウッド監督は、この3人の俳優にご本人を起用したというのです。しかも、この3人は、俳優でもないのに、プロの役者以上の自然の演技なのです。本人たちが体験したことをまた繰り返し演じているわけですから、自然になるのは当たり前かもしれませんが、男優賞をあげたいくらいの演技なのです。

彼らは、ローマやベニスやベルリンなどを旅行しますが、そこに登場する無数の観光客も、恐らく、エキストラでしょう。1本の映画を作るのに、本当に多くの人間が関わり、大変だなあ、と思いました。

映画では、彼ら3人が、仲良くなった小学生の時の場面が差し挟まれます。それが、2005年なんですからね。私から見れば、2005年はつい昨日のように思えますが、当時、小学生だった子どもが、成長して軍隊に入り、欧州旅行中に事件に遭遇して大手柄を立てるんですから、まるで映画の出来事のようです。

最後は、本物のオランド仏大統領(当時)も出演していて、これは、恐らく、テレビ報道のフィルムとうまく画像調整してコンピュータではめ込んだようです。フランスからレジョン・ドヌール章を叙勲されるのも、「出演者」である彼ら自身ですから、なんか、映画なのか、合成フィルムなのか、区別がつかなくなってしまいました。

オランド大統領は、かなりゆっくりとした発音だったので、字幕を見なくても、フランス語が理解しやすかったですねえ。

3人のアメリカ人はどうもフランス嫌いで、いかにもハリウッドらしいハッピーエンドとアメリカ万歳的な鼻に付く覇権主義も感じましたけど、オランド大統領による叙勲シーンには思わず感極まってしまいました。

それに、登場する女優さんは、名前は知りませんけど(笑)、映画だからでしょう、みーんな、洗練された聡明そうな美女ばかり!

なので、満点!

倉本一宏著「蘇我氏 古代豪族の興亡」は悲運一族の名誉回復書か?

倉本一宏著「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中公新書、2015年12月20日初版)。この本は面白い。実に面白かった。

著書は1958年、津市生まれ。国際日本文化研究センター教授。昨夏(2017年8月29日配信)に「戦争の古代史 ―好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)を読んで、大興奮しましたが、その同じ著者でした。はずれがありませんね、一般向けにこの学者の書くものは。今度は、目下発売中の「藤原氏―権力中枢の一族」(中公新書、2017年12月20日初版)も読んでみようかなと思ってます。

倉本氏は恐らく、現代日本を代表する古代史の泰斗ではないでしょうか。

最近、ネット上では、古代史については、誰も分からないだろうからということで、「講釈師、見てきたような嘘をつき」といった内容の素人によるいい加減な記述投稿が目立ち、腹が立っていたのですが、倉本氏の著作は信頼できます。「古事記」「日本書紀」はもちろん、国内の「藤氏家伝」「元興寺伽藍縁起 流記資材帳」から、「呉志」「礼記」「晋書」といった漢籍、朝鮮の「三国史記 百済本紀」などに至るまで多くの原資料に当たって執筆しているので、国際的な視野も広く、敵対する両方の立ち位置まで俯瞰して、できる限り公平性を保っています。

この本は、いわば、これまで天皇絶対史観によって、「蘇我氏=専横=悪玉」「討伐されて当然」として歴史的に決定付けられていた悲運の一族の名誉回復書と言えるかもしれません。

また、大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)で初めて知った(2018年1月17、18日配信)のですが、蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿の蘇我本流の宗家は滅んでも、いわゆる傍流、分家は、あの藤原氏よりいち早く、天皇家の外戚になったりして、現代の皇室に血脈がつながっていたんですね。

この本の大団円は、やはり、蘇我本宗家が滅んだ皇極4年(645年)6月12日の「乙巳(いつし)の変」でしょう。乙巳の変といっても、半世紀もの昔に学生だった私の世代は誰も知らないと思います。教科書にも参考書にも出てきませんでした。ただ単に「645年 大化の改新」のみです。

しかし、乙巳の変というのは、血生臭いクーデター事件のことで、その後、実権を握った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって行った、公地公民制などによる中央集権国家建設を目的とした一連の政治改革のことを大化の改新と言うのが歴史的にも正確な言い方でした。

天皇王権の正統性を詳述した「記紀」によると、乙巳の変は、天皇家から実権を奪って独裁政権を樹立しようとした専横な蘇我一族を天誅により罰したというもので、それがこれまでの「正義」「正当」であり、「歴史」でしたが、この本によると違います。乙巳の変は、複雑な政争だったということです。

当時は、ちょうど唐の覇権主義が朝鮮半島から日本列島にまで及ぼうとしている東アジアの激動期でした。これを向かい討つには、高句麗のように権力集中を目指して、傀儡王を立ててでも独裁権力を振るおうとする蘇我入鹿。(この時、合議制のマエミツキ会議のトップである大臣=オオマエミツキでした)彼は、厩戸王子(聖徳太子)と蘇我蝦夷の妹である刀自古郎女の間の皇子、山背大兄王子を亡きものにしてしまいます。

その代わり、舒明天皇と蘇我蝦夷の妹法提郎媛との間の皇子、古人大兄王子を次期天皇に祭り上げようと画策します。

これに対抗したのが、蘇我一族の血が一滴も入っていない舒明天皇と宝女王(皇極天皇)との間の皇子、葛城王子(=中大兄皇子、後の天智天皇)でした。彼は、唐から最新の統治技術を学んだ留学生や学問僧からの意見を取り入れ、官僚的な中央集権国家建設を目指します。

中大兄皇子の側には、中臣鎌足が付き、鎌足は、蘇我一族の内紛に目に付け、蘇我氏の氏上(うじのかみ)と大臣(おおまえみつき)の座を餌に、蘇我倉氏の石川麻呂と阿倍氏の内麻呂を誘い込んだのではないかというのが、倉本氏の説です。

乙巳の変の刺客に選ばれたのは、中臣鎌足が推挙した佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)。

「石川麻呂が上奏文を読み上げ終わりかけていた頃、中大兄皇子が入鹿に突進し、剣で頭と肩を斬り割いた。入鹿が立ち上がると、子麻呂が片脚を斬った。皇極天皇が宮殿に入った後、子麻呂と網田が入鹿を斬り殺し、入鹿の屍は雨で水浸しになった前庭に置かれ、蓆や障子で覆われた」と書かれています。

とても今から1373年前の大昔に起きた出来事とは思えないほど生々しい描写です。

ペイフォワードの精神

あらあら、「ウマズイいめんくい村」の赤羽彦作村長さんから「盗作の疑いあり」と抗議のコメントが入ってきましたね(笑)。

いやいや、あたしは「うまいめんこい村」の白羽村長ですから、全く似ても似つきません(笑)。どーか、どーか、ひとつ、ながーい目で見てやってください。

さいたま市岩槻区諏訪神社

さて、通訳案内士の国家試験を受験をした人で、恐らく「300選」を知らない人はいないかもしれません。

通訳案内士受験のための専門予備校「ハロー通訳アカデミー」(観光庁が事実上、無資格者でも業務ができるよう法律を改悪したため、資格が紙切れとなり、そのトバッチリを受けて廃校してしまったようです)が発行している「日本的事象英文説明300選」というのが正式タイトルで、文字通り、300件の日本の文化や宗教、政治・経済などを外国人に説明するために簡単に英語で列記されたものです。

例えば、●おでん=Oden is a dish in which a variety of ingredients such as tofu, eggs, white radish, fried fish paste, and potatoes are boiled together in a large pot of seasoned fish broth. Hot mustard is served as a condiment.
(おでんは、豆腐、卵、大根、さつま揚げ、じゃがいもなどの様々な材料を、味をつけた魚のだしが入った大鍋で一緒に煮込んだ料理である。からしが薬味として出される。)

といった感じです。

私もかつて、アカデミーの通信教育を受け、「300選」にはお世話になりました。でも、3年前に引越し、入院という人生最大の落ち込みを体験した際に紛失してしまったので、今回改めて購入を申し込んだのです。

そしたら、驚き、桃の木!この本以外に「粗品」が、斯界では有名なあの植山学院長が送ってくださったのです。

これは、恐悦至極どころか、恐縮、恐縮です。

本来ですと、植山学院長に直接恩返ししなければならないのですが、ふと「ペイフォワード」という言葉が思い浮かびました。2000年に「ペイ・フォワード」(ケヴィン・スペイシー主演)というタイトルの映画が公開された時に、私も初めてこの言葉の意味を知りましたが、あえて翻訳すれば「恩送り」ということになります。

日本語では「小さな親切運動」に近いかもしれませんが、そこまで大袈裟ではなく、もっと他に、何か、日本人らしい言葉があるんじゃないかなあ、と朝から考えていたら、先ほど、「おすそ分け」という素晴らしい言葉が見つかりました。

日本人は昔から、奥さん方のレベルでお隣同士で醤油や砂糖の貸し借りをしたり、お歳暮をもらったら、「おすそ分け」したりしたではありませんか。

そっかあ。

最近は近所付き合いもなくなり、西日本のどっかの市長のように、私腹を肥やすようなつまらない輩が増えている感じです。しかし、人様から恩義を受けて、自分のところで止めてしまっては、私腹を肥やすことになります。それではいけない。いくらお金を貯めても死んで墓場に持っていけないでしょう?

景気循環にもよくありません。確かに誰にも老後の不安はありますが、ほどほどの生活ができればいいでしょう。

私もこの御恩のおすそ分けとして、今、年老いたお袋さんの介護で大変な古い友人に何か美味しいものでも送ってあげようかなと思いました。

ペイフォワードの精神です。

うまいめんこい村通信 イタリア食堂「のら」の巻

こんにちは。うまいめんこい村の白羽村長です。

東京一の繁華街、花の都の銀座を南下しますと、東銀座、築地になります。この辺りに意外と多いのがイタリアンのお店です。全部で50軒以上、100軒近くはあると思います。

私も30軒以上は行ったことがありますが、気に入っていた中で、Dというお店がありました。格安ながら味は抜群でしたが、いつの日かを起点にして急に味が落ちてしまいました。恐らく、料理人さんが変わったのでしょう。それしか考えられません。

ですから、グルメ店の紹介というのは大変難しいものです。その時点でいくら美味しくても、板さんや、コックさんが変われば、やはり味は落ちてしまいますからね。

さて、ここ2年ほど、気に入ったイタリアンがあります。イタリアンというよりも、下町のイタリア食堂です。築地にある「のら」という内田百閒も吃驚の名前です。サラダとパンが付いたパスタランチが900円ですから、庶民的な値段です。

今日もお昼に行ってきて初めて気が付いたのが、上記写真です。

天下の読売新聞の副社長さんが、「推薦文」を書いており、それが壁に貼ってあったのです。普通、飲食店で見られる「推薦文」てゆーか、「寄せ書き」は、芸能人か、もしくは著名作家か、画家が多いものです。私も、宮崎で入った居酒屋に、壇一雄の揮毫があったので、感激したものでした。どうやら壇先生の馴染みの店だったようです。

しかし、読売という名の知れた新聞社とはいえ、マスコミの、しかし、無名の副社長さんの揮毫を飾るとはよっぽどのことです。あまり聞いたことはありません。笈河記者も知らないはずです。もしかして、店の主が、熱烈な読売巨人軍のファンなのかもしれません。

それに、ここは築地ですから、わざわざ大手町から遠征に来ているんですかね?もしかしたら、ご自宅が傍なのかもしれません。あのネベツネさんに断っているのかなあと、余計な心配にもなります(笑)。

本日のランチも美味しく頂きましたが、帰り際、小生だけ、パンが付いていなかったことに気が付きました。サラダは付いてましたけど。

勘定するときに、「パンなかったですね?」と念を押したら、お店の人は「えっ?!」と驚いてましたが、それっきりでした。

ということで、この店はもう行かないかもしれませんので、宣伝ではないので、取り上げることにしました(笑)。

それにしても不思議。

今の日本人は教養がない!講談と浪曲の違いも分からないとは!

六義園
 演劇評論家の安東亀男です。東京・四谷の「わかば」の「鯛焼き」を世間に広めた方は、安藤鶴夫先生です。お間違いのないように。
 何か、渓流斎とかいう青二才が「最近、神田松之丞という講談師がえらい評判で、最近上梓した『絶滅危惧職』という本もよく売れていて、何と言っても、彼の講演切符はいつも完売で、前売り券もなかなか手に入らないと評判じゃないですか」と騒ぎまくってます。駄目ですねえ。「恐れ入り屋の鬼子母神」ですよ(大笑)。松之丞は、まだ三十そこそこの二ツ目ですよ。
 そんなんで、驚いていたら、株が下がるというもんです。
 毎日、立ち食いの回転寿司ばかり食っていて、「うまい、うまい」と言ってては、人間の品格が落ちるというもの。たまには、「すきゃばし次郎」や「久兵衛」にでも行って大枚をはたくのが、江戸っ子の粋ってもんですよ。
 松之丞なんぞは、まだまだレベルの酷い講談のチンピラです。最近は、「講釈師の名人」を知らない、違いの分からない若者、いや似非老人が実に増えていて、本当に困ったものです。
築地・中村家弁当ランチ 850円

 何はともあれ、渓流斎とやらも、まずは「服部伸」の講談を聞いてみたらどうですかねえ。

 彼は、浪曲師だったのが、「瞼の母」の作者長谷川伸の一字をもらって、昭和11年に講談師に転向した人です。明快な語り口で引き込まれますよ。「は組小町」「忠臣蔵」などを聞いてみてください。
 今は、「ゆふちうぶ」とかいう活動写真で見られますよ。
 最近の日本人は教養がないので、浪曲と講談の区別もつきやしない。まあ、諸説ありますが、講談は、室町時代の「太平記読み」が嚆矢という学者もいれば、江戸時代という学者もいる。浪曲は、800年の歴史を誇ると協会の方々は胸を張りますが、浪曲が成立したのは明治期という説が有力で、意外と新しい芸能なのです。
 講談は、読み(語り)専門ですが、浪曲は、「曲師」と呼ばれる三味線の伴奏者が付きます。
 明治時代の芸人は、「遊芸人」の免許状がないと語れなかった史実をご存知でしょうか。だから、自由民権運動とも繋がりが出てくるのですね。講談師、浪曲師はジャーナリストでもあったわけです。「政治講談」の伊藤痴遊なども講釈師の先駆けというか、講談社(講談の速記録を出版したのが始まり)、平凡社の礎をつくったようなものです。
 当時の浪曲人気は絶大で、大正時代になって日本放送協会(NHK)のラヂオ受信機が普及したのは「浪曲を聴きたい」人が多かったからで、貧しい庶民でもなけなしの金をはたいて買っていたのです。だから、NHKは、今でも浪曲には足を向けて寝られないのです。
 昭和初期は、広沢虎造の興行を巡って、神戸の山口組と下関の籠寅組が対立し、結局、山口組二代目が、浅草で刺された(後に死亡)事件は語り草になっておりますね。
六義園
 今は、浪曲協会は東西二つに分かれていて、「浪曲親友協会」は関西の浪曲師の団体組織です。二代目京山幸枝若が会長ですね。
 東京は「日本浪曲協会」です。こちらの現在の会長は富士路子です。別に対立というより、その浪曲自体が消滅の危機を迎えているのが実情です。
 渓流斎とやらも一度、浅草の「木馬亭」に足を運んでみてください。玉川奈々福という上智大学出身で若手の浪曲師がいます。彼女は浪曲界の期待、成長株です。沢村豊子という80歳の「浪曲三味線の名人」とコンビを組む時があるので、その日時を事前に調べて聞きにいくと良いでしょう。
 浪曲、興行の世界は、渓流斎とやらの専門分野である「永田貞雄」先生が牛耳っていました。永田先生は、浪曲、講談、寄席、演歌など、戦前、戦後の興行界の顔役でした。渓流斎とやらが「不愉快だった」と書いていた「東洋文庫」の石田幹之助先生みたいなものですよ。東洋文庫に行っても、案内に三菱岩崎の功績は書かれていても、石田先生の「い」の字も出てこないらしいですけどね。
 芥川龍之介の親友の石田幹之助と興行師永田貞雄を、同じ土俵で論じられるのは、迂生安東亀男くらいでしょうね。(大笑)。
六義園
 それに、今では何でもネット社会とか言っておりますが、服部伸にしろ、伊藤痴遊にしろ、アナログの知識がないと、そんな人の名前すら知らないので、検索すらできないのですよ。
 これは、新聞や本を読まず、ひたすらネットでしか二次情報を得ることしかしない若者や似非老人が陥る過ちですね。
 はっきし言って、講談、浪曲を知らずに日本文化を語ること勿れですよ。

「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」は人類必読書ではないでせうか

東北学の権威である赤坂憲雄・学習院大教授が、「必読書」として多くの人に勧めておられた石光真人編著「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」改版(中公新書2017年12月25日)を読了しました。初版は、1971年5月25日発行とありますから、もう47年も昔。遅ればせながら、死ぬ前にこの記録を読んで本当によかったと思いました。

私がこれまで読んだ本の中でもベスト10に入るぐらいの感銘を受けました。この本を読むには、居住まいと襟を正して、正座しなければならないという境地になります。

武士道の本質が初めて分かったような気がしました。巷間あふれる小説や講談の類いは嘘臭く興醒めしてしまいます。「葉隠」でさえ、頭の中で考えられた口先だけの論法にさえ思えてしまいます。

この本については、この《渓流斎日乗》でも以前に触れたことがあります。柴五郎は、陸軍大将にまで昇り詰めた英雄的軍人でした。明治33年に起きた義和団事件の際、北京駐在武官(中佐)だった柴は、その冷静沈着な行動で列強諸国から一目置かれる存在でした。義和団事件の詳細については、あの不愉快な(笑)東洋文庫所蔵の「北京籠城」(平凡社)に講演速記として掲載されております。

しかし、この栄光なる柴大将の過去は、実に悲惨で、壮絶な艱難辛苦の連続だったのです。それが、この「遺書」に書かれています。安政6年(1859年)、会津藩士として会津若松に生まれた柴五郎は、薩長革命軍による東北征伐=会津戦争という動乱の中、祖母と母と姉妹らは、会津城下で、「薩長の手に掛かるのなら」と自害して果ててしまうのです。柴五郎、時に満九歳。五郎だけは、いずれ戦力となる武士の男として成長せよ、と田舎に預けられていた時でした。柴五郎は、その時を回顧してこう書きます。

…これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし。…

その後、降伏した会津藩士らは、下北半島にある極寒の、しかも火山灰地の不毛の斗南に追放され、作物が取れず、ぼろ家は襖も障子もなく吹き曝しで、赤貧洗うが如くという以上に餓死寸前にまで追い込まれます。

時に犬の肉しか食べるものがなく、柴少年は嘔吐を催している中、父から「やれやれ会津の乞食藩士どもも下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまで生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と厳しく叱責されたことなども書き残しております。

その後、柴少年は、細い伝手を辿って東京に出て、下僕といいますか、奴隷のような生活をして辛酸を舐め、幸運なことに陸軍幼年学校の試験に合格して、何とか生き抜き、「遺書」は陸軍士官学校の3年期で終わっています。陸軍大将柴五郎は、自分の手柄については語りたがらない人物だったようです。

この「遺書」を編纂し、第二部として柴五郎の評伝を書いた石光真人は、近現代史や満洲関係に興味がある人なら誰でも知っている露探(ロシア情勢の情報専門家)石光真清の御子息だったんですね。この真清の叔父に当たるのが、「遺書」にもよく出てきた、柴五郎を陸軍幼年学校の受験を勧めた恩人野田豁通(青森県初代大参事)で、その関係で、二人は親交を結んでいたわけです。

子息の石光真人は、東京日日新聞の記者などもしていたことから、晩年の柴五郎は、「遺書」の編集等を任せたようです。

柴五郎は、「日本は負ける」と予言していた敗戦直後の昭和20年12月3日、死去。享年87。実兄の柴四朗(白虎隊の生き残り)は、東海散士の筆名で政治小説「佳人之奇遇」書いたジャーナリスト、政治家。

この本で、維新の動乱に翻弄され、賊軍の汚名を着せられた会津藩士の武士道の魂に触れました。「武士は食わねど高楊枝」のような痩せ我慢の精神かもしれませんが、どんなにどん底に堕ちても、絶対に不正は働かず、あくまでも真摯に誠実に生き抜くといった精神です。

自分も襟を正したくなります。同時に、今年の「明治維新150年記念式典」も手放しで喜んで祝いたい気持ちもなくなってしまいました。

少なくとも、60歳の佐川宣寿国税庁長官(旧会津藩出身。都立九段高〜東大〜大蔵省)のように「差し押さえ物件を格安で仕入れて東京・世田谷区に大豪邸を建てた生涯収入8億円の官僚」(週刊文春)のような恥辱に満ちた名前を歴史に残して死にたくないものです。

【追記】

会津戦争で編成された隊の編成は以下の通り。四方位神に則ってます。

【東】青龍隊(36歳〜49歳)国境守護

【西】白虎隊(16歳〜17歳)予備(悲劇として語り継がれます)

【南】朱雀隊(18歳〜35歳)実戦

【北】玄武隊(50歳以上)城内守護

戊辰戦争で、会津藩士の戦死者は約3000人、自害した女性は233人といわれてます。勿論、柴五郎の祖母、母、姉妹も含まれていることでしょう。

これほど、会津藩が蛇蝎の如く敵視されたのは、藩主松平容保が京都守護職に就き、新撰組、京都見廻組を誕生させ、「池田屋事件」や禁門の変などで、長州藩士や浪士を多く殺害したことが遠因。長州桂小五郎(木戸孝允)はその復讐の急先鋒で、宿敵会津藩の抹殺を目論んでいたといわれます。

靖國神社には、戦死した会津藩士は祀られていません。

「東洋文庫」は不愉快、実に不愉快でした

真冬の最中に少し陽気がよかったので、本日は前から是非とも行きたかった東京・駒込の「東洋文庫」に行って来ました。

後から書きますが、ここは酷かった!不愉快でしたので、もう二度と行くもんか!と思いましたよ。

ちょっと寄り道をする所がありましたので、JR京浜東北線の上中里駅で下車しました。

日本文学者のドナルド・キーンさんがお近くにお住まいになってる旧古河庭園には入らず、目の前を通り過ぎて…。

探しに探して、やっと「聖学院」の門前に到着しました。

小学校時代の友人のお孫さんが、見事この学園に合格して四月からご入学されるというので、見学に行ったわけです(笑)。

ここから、駒込駅まで、徒歩10分ぐらいでしょうか。

駒込駅の側の六義園を目指し、やっと東洋文庫を見つけました。

この東洋文庫、博物館を称して入館料900円も取るんですよね。

それは我慢して、入館しました。

そうです。この念願のモリソン文庫が見たかったのです。

三菱財閥三代目の岩崎久彌が、上海在住の豪州人ジャーナリスト、アーネスト・モリソン(ロンドン・タイムズの通信員)の蔵書4万5000冊を、今のお金に換算すると70億円ぐらいもの大金で買い取って、この東洋文庫の基礎を作ったというのです。

現在の東洋文庫の蔵書は、100万冊に及び、どれくらい凄いかというと、上写真に書いてある通り、国内最大で、世界的にも、米、英、仏、露の中国関係の専門文庫と肩を並べるぐらいなんだそうです。

フラッシュをたかなければ、館内の撮影ができ、このように動画も取ることができました。

ここまではいいのです。

何故、不愉快だったかと言いますと、【第1弾】中庭にちょっと出て、館内に戻ると、係員が血相変えて近寄って来て、「入館料払ったのなら、証明のシールを提示しろ」と詰問するのです。

確かに、入館する時、シールを貼るよう言われたので、肩掛けバッグに付けておきました。

心の中では「これが見えぬかあ!」と、水戸黄門様の助さんか格さんの気持ちで見せたら、「は、は、はあ、先程、係員が変わったもんで失礼しました」だと。確かに、こちらは怪しいおじさんではありますが、人を獄破り扱いするとは!許せねえなあー。

【第2弾】3階が閲覧室だというので覗きに行ったところ、出入り口に「見学なら禁止」「閲覧者は身分証明書提示し、閲覧申込書に記入のこと」「入場前に持ち物はロッカーに入れること」とあるではありませんか。

面倒なので、少し迷いましたが、せっかく来たので、その通りにして、中で登録して五つほどあった大テーブルの一つに腰掛けて、開架室から本をパラパラとめくってました。

少し経って、今何時かなぁ、と思い、ポケットに入れていたスマホの時計を見ることにしました。

そしたら、また、係員が血相変えて、こちらに突撃して来て、「ちょっと携帯の持ち込みは困ります」とくるではありませんか。

おっとろしい!遠くからこの席は見えないはず。あちこちに監視カメラを巡らされていて、常に監視されてたんですねえ。非常に不愉快になり、5分ほどで出ることにしました。

【第3弾】ロッカーから持ち物を取り返して、そのまま階段を下りていたら、またまた、係員が血相変えて追いかけてきて、「お帰りになるんですか?それなら、先程お渡しした閲覧書をお返し下さい」だと!

何だ!もう二度と来るもんかあぁぁぁー。(心の中の叫び)嗚呼、実に不愉快でした。

「お口直し」に近くの六義園に行くことにしました。

六義園については、以前に何度も書きましたが、五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保の別邸でした。

それを、明治維新後、武力で権力を握った薩長革命政権が、大名屋敷から別邸まで没収し、その後、六義園は、三菱財閥に払い下げられたようなもんです。

六義園内には岩崎邸も作られ、それだけでなく、近くに東洋文庫も作り、それに巣鴨辺りまで、三菱財閥の広大な敷地だったことは以前にも書きました。

六義園には、学生時代は無料だったのでよく行きましたが(今は300円)、数十年ぶりに入るとすっかり忘れておりました。

かなり広大だったんですね。ゆっくり回ると一時間以上かかります。

柳沢吉保がこの六義園という別邸を作ったのは、まだ、川越藩主の頃だったといいますから、「たかが、川越城主程度で」と言うものなら殺されるかもしれませんが、当時の権力者と言われる人間の財力にはほとほと舌を巻きました。

六義園から巣鴨方面に歩いて行ったら、コリント式か、イオニア式かよく分かりませんが、ローマ帝国のような異様な巨大な建造物に遭遇しました。

今は便利な世の中で、検索するとすぐ分かり、某新興宗教の本部で、竹中工務店が建設したようです。

巣鴨駅も久しぶりですが、すっかり変わってしまいました。

私が学生時代に通っていたのは、もう40年以上もの大昔ですからね。変わって当たり前です。

懐かしくなって、そのまま、昔のように、大学まで歩いて行くことにしました。実は、もう大学は府中に移転してしまい、跡形もないのですが…。

巣鴨駅近くにある三菱養和会のスポーツセンターは健在でした。

三菱財閥の敷地が、駒込から巣鴨まで及んでいた証拠です。

ケンちゃんが筆を下ろした巣鴨駅近くにあったお店も、名前を変えて今もありましたよ(笑)。

巣鴨の高級住宅街を抜けると「染井霊園」に着きます。

上写真のように、著名人がたくさん眠っておられます。

せっかくここまで来て、私自身も掃苔趣味がありますので、「懐かしい」人のお墓参りをしてきました。

このように、二葉亭四迷こと長谷川辰之助の墓はかなり大きく立派です。

勿論、慈眼寺の芥川龍之介の墓参も忘れてはいけません。

側の芥川家の墓には、妻文、長男比呂志(俳優)、三男也寸志(音楽家)らも眠っておられました。仏文学者を嘱望されていた次男多加志は、ビルマで戦死したため、一緒に眠っているかどうか、石碑の字が読みにくく確かめられませんでした。

やっと、かつて学んだ大学キャンパス跡に辿りつきました。

今は老人ホームが建てられ、「みんなの公園」になってました。

幻を見ているようです。哀しい気持ちになりました。

この西ケ原の辺りは坂になっていて、それが下瀬坂だということを本日初めて知りました(笑)。

ここに東京外国語大学が移転して来る前、明治から大正にかけて、海軍の火薬製造所だったようです。そして、江戸時代は「御薬園」だったらしいです。知らなかったですね。

ちなみに、染井霊園の染井村には江戸時代、植木職人が多く住み、桜のソメイヨシノの品種を作ったか、販売したとして、全国的にも知られています。

京都・醍醐寺の五大力さん

皆さんこんにちは、京洛先生です。

ここ、二、三日、洛中は気温が上昇し、春の訪れを感じさせる毎日ですが、帝都は如何でしょうか。3月の奈良の「お水取り」が終わらないと、春はやって来ない、と言われていますが、梅も咲き始め、あっという間に、桜満開、花見気分になるでしょう。

Copyright par Kyoraque Sensei

ところで、渓流齋さんは「五大力(ごだいりき)さん!」は、ご存知ですかね?

「え、五大力さん? 何ですか、それは!」「人力車の大きいのですか?」「いや、待てよ? ごだいちから、という、昔の人の名前ですかね」との反応があるかもしれませんね(笑)。

まあ、関東や東京の人は、ほとんど分からないでしょうね。

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「五大力さん」とは、世界遺産でもある「醍醐寺」が、毎年2月15日~21日までの1週間、「五大力尊仁王会」という、同寺にとって、最大の宗教儀式を執り行うのですが、それを親しみを込めて「五大力さん!」と、京都の町衆は、昔から呼んできているのです。

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「五大力さんのお札。あれは、昔から、ウチの玄関、台所に貼ってあるわ!」「あの日は、醍醐寺で、大きな鏡餅を持ち上げ、競わはるのと違いますか」というふうに、その意味や歴史は分からなくても、京都の庶民は、自然にアタマの中に入っていることなのです。

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醍醐寺は空海の孫弟子の源大師聖宝が、貞観16年(874年)に開基したお寺です。醍醐山も、聖宝が名付けたと言われ、醍醐天皇のバックアップで、寺勢は興隆、延喜7年(907年)には、後醍醐天皇の発願で「薬師堂」も建てられ、下醍醐一帯は大きく発展しました。その後、応仁の乱で、醍醐山の麓の下醍醐は、国宝の「五重塔」を残して殆どが焼失、その後は、豊臣秀吉の手で再興され、「醍醐の花見」は有名ですね。

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この「五大力尊仁王会」は、千年以上続く、大きな宗教儀式で、同寺によると、全国各地から、この法会に、およそ10万人の信者、信徒が訪れると言われています。

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特に7日間にわたって延べ千人のお坊さんが祈祷した「五大力尊」の分身であり、あらゆる災難からも守られる、という「御影(みえい)」は、2月23日の一日に限って授与されるというので、朝から夕方まで、それを授かろうという人が、続々と醍醐寺にやって来ていました。

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愚生は、天気も良く、温かい日和でもあり、23日(金)、久しぶりに「奉納の餅ち上げ」の見物と、「御影」の授与を受けに、同寺に出かけて写真を撮ってきました。とくと、ご覧ください(笑)。

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醍醐天皇の御代から始まった「五大力尊仁王会」と違って、「奉納の持ち上げ」は、戦後、始まったもので、歴史はそれほどありません。終戦直後の食糧難、モノ不足の時代に、お米や餅米をもちよって大鏡餅を奉納し、ご利益を得ようという庶民、大衆の願いから始まったようです。

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女性は90キロ、男性は150キロもある巨大な鏡餅をどれだけ持ち上げて居られるか、時間を競うわけで、境内の特設会場には、それを見ようと大勢の人だかりができました。

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「御影」の授与には二千円が必要ですが、有難いお札を拝受しようと、長蛇の列で、同寺としては、かなりの志納金が集まったと思いますね。
来月になると、今度は桜を愛でる人で、醍醐寺はさらに、大勢の観光客でごった返します。

以上、ご報告迄。

閻魔銀行にて投資運用で困った話

渓流斎四天王の酒居忠継です。初登場です(笑)。(四天王の他の3人は、本棚只勝と榊葉安正、伊井尚政です。次回はまた名前が変わっていましたら御免なすって)。

本日は、退職金の運用の相談のため、自宅から歩いて2時間ほどの閻魔銀行に行って来ました。

軍資金は1000万円です。

閻魔銀行のカンポーとかいう簡単保険が利率が高いと聞いていたので、まずそのことについて聞いてみました。

すると、行員は「利率が高い?あ、それは、民営化する前のことですね。今は、純粋な保険と考えて頂いて結構です。事故や病気などに遭った時の入院費とか、亡くなった場合でも、保険金がおります。ケガも病気もなく満期を迎えれば、保険金は戻りますが、1000万円なら払戻金は800万円です。ですから、ちょっと投資対象にはなりませんね。あくまでも保険です。投資目的なら、投信や変額年金保険なんかは如何でしょうか」と言うではありませんか。

そこで、紹介されたのが、「長生きお得変額年金保険」と「ハッピー変額年金保険」の二つでした。米ドルやユーロ建てなどの変額保険なども勧められましたが、為替変動はプロでも見極めがつかず、怖いのでパスしたら、この二つだけが残りました。

「長生き」は、購入手数料が⒌0%掛かるので、1000万円だと他に50万円の手数料が掛かります。そして、年金は翌年から28万円もらえます。終身年金だから死ぬまで毎年28万円もらえます。でも、考えてみれば、単純計算して、28万円を30年間もらえるとしても合計840万円しかなりません!そして、30年経てば、あたしも91歳ですよ。

すると、行員は「だから、長生きすればするほどお得なんですよ」と、いけしゃあしゃあと言うではありませんか。最初に払い込んだ1050万円を取り戻すのに、37年半も掛かるじゃありませんか。99歳ですよ。笑えます。

あの俳優の大杉漣さんは昨日(21日)、66歳で急死されてますしね。

もう一つの「ハッピー」は、15年満期契約ですが、途中解約してもオッケーです。でも、投資信託の信託報酬に当たる手数料が年間3%も掛かります。1000万円を払い込んでも、株や債券で運用されてますから、上がったり、下がったりします。でも、15年満期には1000万円は最低保証するというものです。上がれば儲けもんですが、下がれば、最低保証されても手数料は取られるでしょう。15年後に元本保証されてもナンボのもんじゃいですよね。うまくできてます。

すると、行員は「今、1000万円を定期預金しても、0.01%しか利子が付きませんから、10年定期でも、10年後の利子は8000円ですよ」と言うではありませんか。

そこで、あたしも「そんなら、タンス預金しても変わらないね」と念を押したところ、行員は「それだけはやめて下さい」と言うではありませんか。

その行員は「いいカモに逃げられては困る」といった蒼ざめた顔付きでした。

渓流斎先生、この話、どう思われますか?