「日本橋七福神めぐり」に行って参りました

江戸三森の一つ、椙森(すぎのもり)神社

1月6日は、まだお正月松の内で、3連休の最初の日でもあり、あまり家に閉じこもっていても何ですから、以前から行きたかったお江戸「日本橋七福神めぐり」に一人で行って参りました。

私のご先祖は、九州は久留米藩のお舟出役という身分(下級武士)で、恐らく、参勤交代の際は、筑後川を伝わり、瀬戸内海から大坂辺りに出て、陸路で江戸に向かい、上屋敷のあった現在の港区赤羽橋に滞在し、その藩邸にあった水天宮にもお参りしたことでありましょう。

水天宮(弁財天)学問・芸術

水天宮は、文政元年(1818年)、久留米の国元(現福岡県)にあったものを、九代藩主有馬頼徳(よりのり)が江戸上屋敷内に分祀したもので、塀越しに賽銭を入れる人が後を絶たなかったため、日を決めて庶民にも公開され、広く信仰を集めたそうです。

維新後は、赤羽橋の久留米藩邸は、薩長連合軍の新政府に摂取されたため、水天宮は青山を経て、明治5年に今の場所(日本橋蠣殻町)に落ち着いたそうです。

「日本橋七福神めぐり」のスタートは、ご先祖様に敬意を表してここから出発することにしました。

水天宮は、安産の神様として知られておりますが、芸能・学問の神様である宝生弁財天も祀られております。宝生弁財天は、先述の久留米藩主有馬頼徳が、加賀藩の11代藩主前田斉広(なりなが)と宝生流能楽の技を競った時に、弁財天に願をかけて、見事に勝利を収めたため、久留米藩としても弁財天の信仰も篤くなったそうです。

2 茶ノ木神社(布袋)笑門来福

下総佐倉藩主で、幕末に大老も務めた堀田家の上屋敷があり、守護神として祀られていた。

社の周囲に巡らされた土手芝の上に茶の木が植え込まれていた。今でも防災・生産の神様として信仰されている。

 3小網神社(福禄寿)幸福・長寿・立身出世

文正元年(1466年)、悪疫鎮静の神として創建され、太田道灌が名付けたと言われる。

昭和4年建立の社殿が戦災を免れ、神社の御守り受けた兵士も無事帰還したことから、「強運厄除けの神」としても信仰を集めている。

4松島神社(大黒天)五穀豊穣・財運・子孫繁栄

下総の柴田家が、鎌倉時代の元亨(1321年)以前に、この地(当時は小島だった)に移り住み、諸神を勧請して創建と言われている。

御祭伸は、大国主神をはじめ、14柱と他社に比べて多い。

5末廣神社(毘沙門天)厄除け・財運・大願成就   多聞天

慶長元年(1596年)以前に稲荷祠として鎮座。吉原の氏神として信仰された。

延宝3年の社殿修復の際に中啓(末廣扇)が見つかり、末廣神社と呼ばれるようになった。

6笠間稲荷神社(寿老人)健康・長寿・病気平癒

安政6年(1859年)、笠間藩主牧野貞直が、国元の笠間稲荷神社(日本の三大稲荷神社の一つ)を江戸下屋敷(この地)に御分霊し、奉斎したのが始まり。

日本橋魚河岸の守り神として、五穀・水産・殖産興業の守護神として庶民の間でも信仰された。

7椙森神社(恵比寿)商売繁盛・大漁豊作

天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門の乱を鎮圧するために、武運を祈願して創建したと言われる。

文正年間の頃、太田道灌が旱魃の雨乞い祈願のため詣でて、山城国稲荷山五社大神を祭祀するようになった。

五社稲荷の一社なる大己貴大神の御宣託により、恵比寿大神を奉斎し、江戸時代の富興行を記念した富塚あり。

また、江戸時代は道灌の選んだ三森の一つと数えられるようになった。三森とは、ここ日本橋堀留町の椙森神社、新橋の烏森神社(昔、江戸三森とは知らずこの辺りの居酒屋さんでよく飲んだものです)そして、神田須田町の柳森神社のことです。

【七福神】

七福神の信仰は、室町時代から始まったと言われています。 弁財天、大黒天、毘沙門天はインドの神様。福禄寿、寿老人、布袋は中国の神様。七福神で唯一日本の神様は、恵比寿様だけです。恵比寿は手に鯛を持っておられます。「めでたい」に通じます。しかし、中国では、鯛はあまり好まれず、食されることもなく、おめでたい魚ではないそうです。恵比寿は日本の神様だからこそ、鯛だったんでしょうね。

週刊ダイヤモンド「2018年総予測」

実は、この手の本は、かつては「眉唾もの」として、敬して遠ざかっておりましたが、最近、すっかり「下部構造が上部構造を規定する」ことに目覚め、社会科学の知識なくしては世の中のことが分からないと悟り、倒(こ)けつ転(まろ)びつ、色々と手を出して吸収することにした次第。

ダイヤモンド社は昔々、1979年のことになりますが、学生向け放浪旅の嚆矢とも言える「地球の歩き方」の説明会で、東京・虎ノ門の本社にまで行ったことを懐かしく思い出します。

今では、「地球の歩き方」は世界中の旅行ガイド本として何冊も世に受け入れられてますが、当時はこれほど有名になるとは全く思いませんでしたね。今はダイヤモンドの本社は虎ノ門にはなく、現在の週刊ダイヤモンドの編集部は神宮前にあるようです。

最初に「この手の本」と書いてしまいましたが、年末に翌年を「総予測」する特集を組んだのは、25年前に「1993年総予測」特集をしたダイヤモンド誌が初めてなんだそうです。今ではいわゆる経済誌と呼ばれる雑誌は何処でもやってますけど、そうだったのですか。

Italie

私が今回、この雑誌を買ったのは、大手百貨店高島屋の社長に出世した高校時代の同級生木本茂君がインタビューに載っていたからです。というのは後づけです(笑)。インタビューには、この他、日本電産の永守重信会長兼社長、伊藤忠商事の岡藤正広社長、KDDIの田中孝司社長ら日本を代表する超一流企業の代表が綺羅星の如く登場しておりますが、皆様一様にお召しになっている背広からワイシャツ、ネクタイに至るまで、ダンヒルかアルマーニ製と見られ、超一流。

やっぱ、着る物が全く違います。

インタビューの内容を翫味しないで、他人様の着る物ばかり物色するなんて、浅はかな渓流斎は駄目ですねえ(苦笑)。

頭脳明晰な経済アナリストの大予測が必ずしも当たるとは限りませんが、彼らの希望的、もしくは悲観的観測が分かるだけでもこの雑誌を買った甲斐がありました。

今年2018年は、2月のパウエルFRB新議長就任、4月の黒田日銀総裁任期切れ、9月の自民党総裁選、秋の中国・三中全会、11月の米・中間選挙ぐらいしか大きな予定はないようですが、来年2019年の方が、今上陛下退位と新天皇即位、消費税10%値上げ?など大きなイベントが目白押しです。

今日、久しぶりにフランスのテレビニュースを見ていたら、マクロン大統領がフェイクニュースを発信するメディアに対して、断固たる処分を課すと宣言しておりました。

フェイクニュースは、フランス語で、Fausse nouvelle (フォスヌーヴェル)と言うんですね。英訳そのまんまです(笑)。

皆様も、Fausse nouvelleに惑わされることなく、真実を読み解く智慧を養ってくださいね。この《渓流斎日乗》を読んで、とは口が裂けても言えませんけど(笑)、今年も宜しくお願い申し上げまする。

【動画】新年一般参賀に伺候仕り候

大晦日の日、極右超国家主義者の栗林先生から、極左無政府主義者、実は単なる日和見主義者の渓流斎に「果たし状」が舞い込んできました。

「新年一般参賀に伺候仕り候。つきましては、1月2日戌の刻、東京驛舎附近にてお待ち申し上げ候」

一般参賀は昨年もお伺いしましたので、どうしようかと思いつつも、逃げの小五郎では男が廃る、男の恥ということで果たし状を受けることに致しました。

2018年の新年一般参賀 見えない

来年は今上陛下がご退位されるということで、世間の関心がいや増したせいなのか、前年と比べてかなり多い人手に見えました。

宮内庁の発表によると、昨日は平成最多の12万6720人が参賀したそうです。道理で。

大、大、大行列で、実に一時間半並び、確保できた場所も、昨年と比べてかなりかなり遠方で、上部にアップした動画の如く、小旗で前方がほとんど見えない状況でした。

再挑戦

頑張って、再挑戦してみましたが、ほとんど変わりがなく、昨年も大変でしたが、昨年は場所的に如何に恵まれていたのかということが初めて分かりました。

そこで、改めて、下部に昨年、小生が捉えた一般参賀をアップすることに致しました。

2017年の新年一般参賀

栗林先生と小生は、思想信条が全く真逆ですが、歴史好きで、「伝統文化を重んじる」という意味では共通点があります。

何時間も一人でジッと並ぶことは精神的に耐えられませんから、二人で並んでいる間中、小生は一人で、徳川四天王のその後移封された藩のことや、ヴェルサイユ体制のことなど、この《渓流斎日乗》に一度書いた「受けおり」の話などを一方的に喋って、並ぶ苦痛を軽減することができました。

この後、皇居〜千鳥ヶ淵戦没者墓苑〜靖國神社参拝と昨年と全く同じコースを辿り、これまた昨年と同じ神保町のサイゼリヤで、イタリア製ワインのボトルを2人で2本も開けて懇談致しました。

この日は、1万5000歩近くも歩いたので、私は疲労困憊でしたが、栗林先生は日頃から鍛えているので、疲れなど何処を吹く風。

栗林先生は、恩給を受けられているほどの御年ながら、御自宅近くの身躰向上倶楽部で週に7里も泳ぎ倒し、超美人の淑女とは週数回交際されているという噂の超人的身躰機能の持ち主です。羨ましい限りです(笑)。

先生は、今、人生で最も充実しておられるということを、熱く語る政治思想の話とは違って、滔々と話しておられました。

御馳走様でした。

年賀状あれこれ

Italie

年賀状というものは、出すのは大変ですが、もらう、頂く、となると、やはり大変嬉しいものです。もう何十年も会っていない旧友の近況が分かり、懐かしくなります。

私の場合は、もう隠居に近い状態ですから、お返事は必ず書くにしても、交際の方は音楽用語で言うところのデクレッシェンドすることにしました。つまり、今後は、前年お返事のなかった方は遠慮させて頂き、徐々に50枚ぐらいに減らして行こうかなあと思っております。(前年なかった方から、今年は来たりして慌てましたけど)

パソコンのプリンタを所有していないので(笑)、住所は手書きなので、なかなか大変だからです。現役で最高の時は、350枚ぐらい出したことがありましたが、今では120枚ほど。あの経済評論家の阿部さんなんか、毎年3000枚も出しておられるそうで、ここまで来ますと、職人芸の領域ですね(笑)。

小生の所には、かつての仕事の関係で有名女優さんからも毎年、年賀状が届きます。が、今では、いつ、何処で、何のことで取材させて頂いたのか、すっかり忘れております(笑)。有名女優さんの方も、「毎年来るのでしょうがないから出している」「この人誰だったかしら」といった感じかもしれませんね(笑)。

Italie

今年の年賀状で最も印象的だったのが、関西在住で、読売新聞運動部に勤めていた先輩記者の俵本さんからでした。昨年、無事古希を迎えられ、「余生を考え、身軽であることが必要と思い至り、誠に身勝手ながら本年をもちまして新年の御挨拶を辞退させて頂くことに致しました」との宣言。私のようなデクレッシェンドではなく、スパッと切り替える雄々しさと清々しさを感じましたね。

もう一人は、朝日新聞の敏腕学芸記者で昨年、満期定年退職された白石さん。どういう経緯か知りませんが、米国の小惑星センターが、火星と木星の間の軌道を5年ほどかけて1周する小惑星に彼の名前を付けてくれたというのです。

その名前は「(20096)Shiraishiakihiko」。そのまんまじゃん(笑)、てな感じです。18等級と暗く、普通の望遠鏡では見えにくいそうですけど、「これからの人生の支えになりそうです」とか。

白石さんは、小生も尊敬する文芸記者ですが、今は菅江真澄とドイツ語の勉強に勤しんでおられるとのこと。菅江真澄? もちろん、皆様もよく御存知のはずです。

平成三〇年(2018年)新年明けましておめでとう御座います!

La vue de Mont Fouji du balcon du immeuble situé dans le centre de Tokio copyright par Duc de Matsouoquasousoumou

アケオメ

コトヨロ

La vue de Mont Fouji de Higashikouroume copyright par Osamoutakada

《渓流斎日乗》のご愛読の皆様

最近の日乗は「長い」「つまらん」「読むのがかったるい」とお嘆きの読者諸兄姉の皆様方

平成三〇年の元日を無事迎えられまして、恐悦至極に存じ上げ奉ります。

新年の執筆始めとしまして、今年は皆様方のご要望にお応えしまして、二言のみと致しました。

ですので、今年も宜しゅう頼んます…(笑)。

大晦日と「京都学派酔故伝」

鎌倉街道

◇1年間御愛読有難う御座いました

今日はもう大晦日です。今年も本当に色んなことがありましたが、1年間はアッという間でした。年を取ると、年々幾何学級数的に歳月の流れが早くなりますね。

今年も一年間、わざわざ検索して、この《渓流斎日乗》を御愛読して頂きました皆々様方には感謝申し上げる次第で御座います。

今年は何と言っても、《渓流斎日乗》が新規独立して、オフィシャルサイトが開通したことが最大のイベントとなりました。これには、東京・神保町にあるIT企業の松長社長には、大変お世話になりました。改めて御礼申し上げます。

◇戦勝国史観だけでは世の中分からない

日々のことは、毎日この《日乗》に書いた通りですが、 個人的な今年の最大の収穫は、数々の書籍を通して、物事も、歴史も、色々と多面的に眺めることができたということでしょうか。世の中は、数学のようにスッキリと数字と割り切れるわけではなく、スポーツのように勝ち負けで勝負がつくわけでもなく、哲学のように論理的でもなく、小説や映画の世界のように善悪で割り切れるわけでもなく、社会倫理のように正義と不正義に峻別されるわけでもないことがよおーく分かりました。

来年のことを言えば、鬼も笑うかもしれませんが、個人的な抱負としましては、引き続き、健康には気をつけますが、「何があっても気にしない」(笑)をモットーにやって行きたいと存じます。

あと、毎日電車の中でスマホでこの《渓流斎日乗》を更新し続けてきましたら、今年9月下旬に急に体調を崩してしまい、「これはいけない」ということで、「スマホ中毒」からの脱出を図ることに致しました。

以前のように、毎日更新できないかもしれませんが、今後とも御愛読の程、宜しく御願い奉ります。

京都にお住まいの京洛先生のお薦めで、櫻井正一郎著「京都学派 酔故伝」(京都大学学術出版会、2017年9月15日初版)を読んでいます。著者は英文学者の京大名誉教授。残念ながら、あまり読みやすい文章ではありませんが、「京都学派」という知的山脈の系譜が「酔っ払い」先生をキーワードに描かれています。

京都学派というと、私のような素人は、湯川秀樹博士のような物理学者を思い浮かべましたが、著者によると、初めて京都学派という言葉が使われたのは1932年で、戸坂潤が「西田=田辺の哲学ー京都学派の哲学」という著書の中で使ったもので、哲学の分野が最初だったといいます。

そこから、京都学派の第1期は、哲学者の西田幾多郎、田邊元、九鬼周造、東洋学者の内藤湖南、中国学者の狩野直喜らが代表となります。第2期では、中国文学の吉川幸次郎、仏文学の桑原武夫(実父は第1期の東洋学者桑原じつ蔵)、生物学の今西錦司、梅棹忠夫、作家の富士正晴、高橋和巳らとなり、本書では彼らを取り上げて詳述しています。

京洛先生は、三高と京大の名物教授だった英文学者の深瀬基博(織田作之助も三高生のとき習った)が贔屓にしていた祇園ではなく「場末」の中立売通のおでん屋「熊鷹」(今はなき)が、お近くのせいか、えらくお気に入りになって、「現場」まで足を運んだそうです。

この本の中で、赤線を引いたところはー。

・仏文学者の桑原武夫は、小林秀雄に対して厳しく、「小林君というたら無学でっせ」と言ったとか。同じ仏文学者の生島遼一も小林には厳しく、後輩の杉本秀太郎が生島の家で小林を褒めると、生島は「君たちは小林小林と言うけど、彼は僕や桑原君みたいにはフランス文学は知りませんよ」と言うなり、杉本に出していたカステラを取り上げて、窓を開けてカステラを犬に食わせたとか。

・「海潮音」の翻訳で知られる上田敏は、京大英文科の初代主任教授だった。

・中国文学者の吉川幸次郎が、東京・銀座の金春通りにあった料亭「大隈」に飾ってあった、客として来た画家の岸田劉生が書き残した画賛が読めなかった。生真面目な吉川は「これは語法に合うとらん」と言った。そこに書かれていたのは、

鶯鳴曠野寒更新

金玉瓶茶瓶茶当天下

後日店を訪れた中野好夫は、吉川とは三高時代の同期だったので「吉川はこういうもんは読めんよ」と素っ気なく言ったとか。

これは、謎かけや隠し言葉を楽しんでいた江戸文化がまだ残っていたもので、「長らくご無沙汰していた年増女の懇願する内容」ということで、後は皆様御自由に解釈くだされ(笑)。

・古代ローマで一般教育「リベラルアーツ」の習得は自由民だけに限られ、奴隷、職人はタテ社会の一員として親方から専門教育だけを伝授された。リベラルアーツの初級は、「文法」「修辞学」「論理学」の3科目。上級は、「算術」「天文学」「地理学」「音楽」の4科目だった。

・筑摩書房の創業者古田晃は、東大出だったが、国文学の唐木順三、独文学の大山定一ら京都学派の本をよく出版した。かなりの酒豪で、最期は東京・神保町の「ラドリオ」で酔い潰れ、帰りのタクシーの中で帰らぬ人となった。

「マネー戦争としての第二次世界大戦 なぜヒトラーはノーベル平和賞候補になったのか」にもかなりの記述あり

◇戦争を始めるのは誰か

先日、「国際金融アナリスト」を自認している浜本君とランチをした時、読了したばかりの渡辺惣樹著「戦争を始めるのは誰か」(文春新書)の受けおりで、「君は知っているかい?今の国際情勢を知るには第一次世界大戦と戦後のヴェルサイユ体制を知らなければならない。あの時、ドイツが如何に天文学的賠償金を押し付けられたことか。あのケインズが卒倒して精神に異常をきたしたほどなんだよ。あのヴェルサイユ体制のお陰で、その後の世界金融恐慌も、第二次世界大戦も起きた遠因になったんだよ。ルーズベルト米大統領は、ニューディール政策を失敗したから、戦争したくてしょうがなかった。チャーチル英首相も戦争によって、大英帝国の権益を守りたかったんだよ。満洲事変だって、世界史的視野で見なければ、本質が分からないんだよ」などと、受けおりの「歴史修正」史観を開陳したのでした。

すると、彼は、国際金融アナリストらしく「そんなこと今頃知ったの?(笑)ヒトラーがズデーテンやポーランドに侵攻したのは、単なる侵略だけではなくて、第一次大戦前のドイツ民族が多く住む元領土の失地回復だったし、ドイツが第一次大戦後にハイパーインフレに襲われて、リヤカーいっぱいにマルク紙幣を積んで行っても、パン1斤しか買えなかった逸話があるくらい。そんな時に賢いユダヤ人だけは、先を見込んでマルク紙幣ではなく他の通貨に代えたり、ダイヤや金などに投資したりしていたので、大儲けした。これが、ドイツではユダヤ人が恨まれて、ヒトラーのホロコーストにも繋がった、という説もあるんだよ」など言うではありませんか。

「随分よく知っているなあ」と私も感心してしまったところ、翌日、彼はある本を貸してくれました。「なあんだ」。彼の説も受けおりでした。この本に全部書いてありました。

それは、武田知弘著「マネー戦争としての第二次世界大戦 なぜヒトラーはノーベル平和賞候補になったのか」(ビジネス社、2015年8月18日初版)という本です。

ヒトラーは「侵略者」であり、「大量虐殺者」だということで歴史的評価は既に決定していますが、今でも、ヒトラーについては振り返る事さえ忌み嫌われ、タブーになっており、ヒトラーに触れただけで「トンデモ本」の範疇に括られてしまいがちです。

◇英米戦勝国史観を否定

しかし、この本は違いますね。著者の武田氏は1967年生まれで、大蔵省に入省しながら退官して作家になった経歴の持ち主らしいですが、かなりの書籍を渉猟し、これまで書かれた英米戦勝国史観を徹底的に洗い流しております。

彼は、戦争について、政治やイデオロギーからではなく、もしくは侵略とか自衛とかいう範疇でもなく、行き着くところの原因は「経済だ」と、元大蔵官僚らしい冷静な目で分析しております。彼は、その辺りを色んな統計を引用して説得力を持たせようとしております。

例によって、換骨奪胎で引用させて頂くとー。

・第二次世界大戦の原因はさまざまあるが、もし最大の原因を一つ挙げろと言われれば、ドイツの経済問題にあると言える。…第一次大戦の敗戦国ドイツは、ヴェルサイユ体制で、植民地は全て取り上げられ、人口の10%を失い、領土の13.5%、農耕地の15%、鉄鉱石の鉱床の75%を失った。この結果、ドイツ鉄鋼生産量は戦前の37.5%まで落ち込んだ。

・英国の経済学者ケインズは、仏ヴェルサイユ講話条約交渉の英国代表として参加したが、あまりにもの理不尽さに精神を病み、帰国後、「平和の経済的帰結」を発表する。この中でケインズは「ドイツの賠償金は実行不可能な額で、…それはいずれ欧州の将来に必ずよくない結果をもたらす。ドイツは近いうちに深刻なインフレに陥るだろう」などと予測、もしくは警告していた。

・ドイツ賠償金については当初、「ドーズ案」により、マルクで支払うことができるように「トランスファー保護規定」が決められていた。それが1929年の「ヤング案」によりこの規定が廃止され、ドイツ経済が破綻する原因となった。これが結局、米国の株式市場暴落をもたらす。

・ナチスは合法的に台頭し、ドイツ国民は選挙でヒトラーを選んだ。ドイツ財界も、ロシア革命が起きて間もない時でもあり、共産党への恐怖と強い警戒感があったため、ナチスを容認した。

・ナチスは、1933年に政権についたが、600万人いた失業者をその3年後に100万人程度に減少させた。36年には、実質国民総生産を28年より15%も上昇させた。

・1930年代は、日米対立の前に日本は英国と熾烈な経済戦争を繰り広げていた。貿易戦争の要因は、これまでの日本の主力輸出品だった生糸や絹に陰りが見え、綿製品だった。世界大恐慌の前の1928年、日本の綿輸出は英国の37%だったのが、1932年には92%となり、33年にはついに英国を追い抜いた。これに対して、英国は輸入規制を行い、特に植民地だったインドへの綿製品への関税は法外になる。インド政庁に働きかけ、英国製品は25%に据え置くが、日本製品には75%もの高関税を課した。このほか、当時の日本の主力輸出製品だった自転車にも高関税を課して日本をいじめた。

・欧米の植民地市場から締め出された格好となった日本は、勢い満洲や中国大陸に向かうことになった。有り体に言えば、満洲国の建国も南満州鉄道の利権争いが発端になっている。

・格差社会が軍部の暴走を招いた。昭和6年の山形県最上郡西小国村の調査では、村内の15歳〜24歳の未婚女性467人のうち23%に当たる110人が家族によって身売りを強いられた。警視庁の調べでは、昭和4年の1年間だけで、東京に売られてきた少女は6130人だった。2.26事件などを起こした青年将校らは農村の荒廃を動機に挙げている。

・昭和2年度の長者番付では1位から8位まで三井、三菱の一族で占めた。三菱財閥三代目総帥の岩崎久彌の年収は430万円。大学出の初任給が50円前後、労働者の日給が1〜2円の頃なので、普通の人の1万倍近い。現在のサラリーマンの平均年収が500万円前後なので、1万倍となると、岩崎は500億円近い年収だったことになる。2004年度の長者番付1位は約30億円。戦前の財閥が如何に金持ちだったことが分かる。(昭和初期は血盟団事件など財閥人へのテロが相次ぐ)

・1923年末、世界の金の4割を米国が保有。その後、第二次大戦まで増え続け、最終的に世界の金の7割を保有するに至る。

・1929年の大恐慌により、米国は、米国への輸入品2万品目の関税を大幅に引き上げる「スムート・ホーリー法」を成立させる。これにより、各国も関税を引き上げ、世界貿易は大きく縮小し、世界経済は混乱、疲弊していく。英国はカナダ、豪州などイギリス連邦以外には高い関税をかける。こうしたブロック経済化により、新興国日本は、中国全土に兵を進め始め、ドイツではナチスが台頭することになる。

・第二次大戦前まで、日本の最大の輸出相手国は米国だった。しかし、1938年に日本が「東亜新秩序」を発表すると、米国は日本に対して強硬策を取ることになり、翌年、米国は日本との通商条約破棄を通告。1941年の日本の仏印侵攻後は、米国は日本に対して「在米資産の凍結」を実行し、横浜正金銀行ニューヨーク支店を破綻に追い込んだ。これは日本の国際貿易が終わることを意味し、この時、日本は「日米開戦」を決断する。


まあ、凄いお話でしたこと!

ムック「江戸三百藩 全史」を衝動買い

藤沢周平の小説に登場する海坂藩は、架空の藩ながら、藤沢の出身地である鶴岡の庄内藩がモデルになっていると言われています。

こんなことは藤沢周平のファンとしては常識中の常識でしょうが、この庄内藩は、「徳川四天王」の一人と言われた筆頭家老酒井忠次の子孫が代々治めていたことは、不勉強な小生は最近知ったのでした。嗚呼、恥ずかしい。

(大河ドラマ「おんな城主直虎」では、この酒井忠次役としてみのすけという俳優が演じておりました。)

どうも、我ながら「藩」の知識がなさ過ぎます。

最近、テレビで、佐々木蔵之介主演の映画「参勤交代」と「参勤交代リターン」を続けて放送していたので見たのですが、あまりにも荒唐無稽で、お子ちゃま向けの時代劇で、「嗚呼、劇場公開で見なくて良かった」と思ってしまいました。失礼ながら。

あまりにも、漫画チックな内容で、舞台になっている湯長谷(ゆながや)藩だとか、磐城平(いわきたいら)藩など、聞いたこともないし、どうせ勝手に考えたもんだろう。どうせ作り話なら、もう少し、格好良い藩の名前にすればよかったのに、と観終わって思ったわけです。

そしたら、ギッチョンチョンの大吃驚。湯長谷藩も磐城平藩も、ほんまもんの実在した藩だったんですね!

本屋さんで、何気なく立ち読みしたムック「江戸三百藩全史」(スタンダーズ社)をパラパラ捲っていたら、湯長谷藩が出てきたので、思わず衝動買いしてしまいました。本当に百姓一揆があったらしく、藩主が、映画のお話ほど民百姓思いで、善政を敷いていたのかどうか疑わしくなってしまいました。

いや、実は、前々から藩についてもっと知りたいと思っていたので、このムックはちょうどよかったと言えばちょうどよかったでした。

このムックは、家紋から居城、石高に至るまで簡潔にまとまって読みやすいことは確かですが、残念なことに、庄内藩の藩主は「酒井家」なのに、見出しが「酒田家」に誤記されてます。本文に地名の酒田が出てくるのでそれで間違ったのか。しかし、こんな初歩的ミスは編集か校正段階ですぐチェックできるはず。他にも間違いがあるのかもしれません。最近の出版物は、どうも編集者のレベルが低下しているなあ、と残念な気持ちになってしまいます。

「増補改訂版」とあるので、よく売れている本なのでしょう。このムックの発行日は、まだ先の2018年1月1日となっておりますが(笑)、次回の「改訂版」ではしっかり間違いは直してくださいね。

「三流の維新 一流の江戸」を読んで考えさせられて…

最近、どうゆうわけか、「歴史修正主義」的な著書に巡り合っております。

先日読了した原田伊織著「三流の維新 一流の江戸 『官賊』薩長も知らなかった驚きの『江戸システム』」(ダイヤモンド社・2016年12月8日初版)もそうでした。かなりの「修正主義」が入っておりました。

◇維新の英傑は本当に英雄だったのか?

来年は「明治維新150年」で、NHKの大河ドラマ「西郷どん」が始まるというタイムリーな時期ですが、著者は、維新の英傑と言われた西郷吉之助(隆盛)も大久保一蔵(利通)も桂小五郎(木戸孝允)も、伊藤俊輔(博文)も山縣狂介(有朋)も井上聞多(馨)もコテンパンに批判し、斬りまくります。

残念ながら、あら捜しをすると、「伊達正宗」と誤記したり、「記紀が史実としたら、神武天皇以下、日本開闢初期の天皇は、二百歳、三百歳という長寿の天皇が何人も存在したことになる」などと事実誤認したりしており、同書の質と信頼性を損なってしまう恐れがありますが、本書で展開された著者の主張するある部分は、私も納得し、賛成したいと思っております。

(伊達正宗は、⇒伊達政宗。初代神武天皇は127歳、最長は第十二代景行天皇の147歳で、200歳以上はおりません。この神話の世界の天皇は当時、二毛作で1年に2回年を重ねて勘定していたという説があり、127歳と言っても63.5歳となる、と唱える識者もいる)

◇司馬史観を乗り越えて

われわれは、いわゆる「司馬史観」と呼ばれる作家司馬遼太郎が書いた小説を、フィクションなのに、歴史的事実として捉え過ぎているのではないか、と著者は主張します。例えば、幕末史最大のヒーローである坂本竜馬については、こんなことを書きます。

「我が国最初の株式会社といえば、坂本竜馬の『亀山社中』という全く根拠のない俗説が根深く生きているが、典型的な”死の商人”として幕末日本の殺し合いを演出したグラバー商会の単なる下請けとして薩摩と長州の間を、密輸入した武器を中心とした物品を運んでいただけの亀山社中の実態については、拙著『大西郷という虚像』で述べた通りである」(76ページ)と、司馬先生が怒るほど竜馬をコテンパンに虚仮おろします。

著者によると、築地ホテルの建設や兵庫商会設立など日本で最初の株式会社のシステムを導入したのは、幕僚の小栗上野介忠順(ただまさ)だったといいます。幕末の小説の中では無能扱いされている徳川幕府の官僚の中には、他に岩瀬忠震(ただなり)、川路聖謨(としあきら)ら「一流の」人間が綺羅星の如くいたというのが著者のスタンスです。

◇維新の英傑はテロリストだった!

一方の、明治新政府によって書かれた歴史で「英傑」になっている西郷や大久保や桂や岩倉具視らは、徳川慶喜が「大政奉還」をして、朝廷に恭順の態度を示したにも関わらず、テロで社会に混乱を巻き起こして、暴力革命で政権を奪取した「三流の」テロリストだったと断罪するのです。特に、西郷は「赤報隊」(隊長の相楽総三は、後に「偽官軍」として処刑される)というテロ組織を動かして、江戸市中を攪乱し、幕府を挑発したことになっていますが、来年の大河ドラマは、英雄物語なので、そこまで触れることはないでしょうね。

まあ、この本を読むと、我々が学生時代に習った「江戸時代=封建的=因襲的身分社会=悪」「明治維新=英雄=正義=善」という図式がまるっきり崩れ去ってしまうのです。

【追記】

・江戸時代、世界に先駆けて、幕府は定期的に人口調査をしており、享保6年(1721年)の総人口は3100万人。幕末の総人口は3200万人とほとんど変わっていない。(飢饉や疫病なども影響か)(184ページなど)

・寛政4年(1992年)、長州藩の総人口は約47万7000人、会津藩の総人口は、その4分の1の約11万8000人だった。(191ページなど)(幕末もそれだけの差があって、両者は戦ったのだ)

・16世紀の安土桃山、戦国時代、戦場で略奪された人間は、東南アジアに人身売買された。その数は10万人を超えるという。彼らを東南アジアに運んだのは主にポルトガルの黒船だった。初期の頃は、イエズス会が神の名をかたり、奴隷売買に加担したことが判明している。この事実が、日本人に、時の日本の政権に、ポルトガル人=切支丹の恐ろしさを焼き付けることになった。(227ページなど)

・薩摩長州は、徳川政権を倒すために、天皇を道具として利用したに過ぎない。(95ページ)

・明治政府が行った廃仏棄釈は、醜い仏教文化の殲滅運動で、奈良興福寺では、2000体以上の仏像が破壊されたり、焼かれたりしたことが分かっている。五重塔は25円(一説には10円)で薪にするために売りに出された。我が国四大寺の一つと言われた内山永久寺は、徹底的に破壊され尽くし、今やその痕跡すら見られない。姿を残していないのだ。(96ページ)

石橋正和さんって誰?「白いばら」が閉店とは!

新聞の片隅に出ていた石橋正和さんがどんな人なのか気になりました。

田村正和に似たいい男?それとも、ブリヂストン財閥の親戚の方?

正解は、寿司職人さんのようです。

昨晩、日本の国家最高権力者で、御自身のことを「リベラル」と自称されている安倍首相が、アッキー夫人同伴で大物国会議員夫妻らとディナーに訪れたのがこの東京・銀座のお店だったのです。

「銀座通」を自称する私も知らなかったので、気になって少し調べてみました。

クリスマスイブ

所は銀座三丁目。正式名称は「鮨一 石橋正和」。あの地方別出身のホステスさんを取り揃えて、「貴方のご出身の女性を御指名下さい」と看板に書かれているグランドキャバレー「白いばら」の真向かいにあるそうです。

あたしは、東京生まれの東京育ちなもんで、この店に行ったことはありませんが、京都にお住まいの「地獄耳」の京洛先生から、「『白いばら』はもうすぐ閉店してしまいますよ」という極秘情報を先日聞かされたばかりでした。

こちらも調べてみますと、「白いばら」は何と昭和6年創業。満洲事変があった年ではありませんか!(ちなみに、同じ年に、松屋浅草店と新宿ムーランルージュが開業してます)来年1月10日に87年の歴史の幕を閉じるそうなのです。

何とまあ、歴史と伝統があるキャバレーだったんですね。昭和初期ですから、ミルクホールの流行ったモボモガの時代です。太宰治(青森)や檀一雄(福岡)、坂口安吾(新潟)ら地方出身の無頼派も通ったかもしれません。恐らく、全盛期は昭和30年代、石原裕次郎や浅丘ルリ子を気取ったナウいヤングが、ごゆるりと集ったことでせう(笑)。

あ、石橋正和さんのことでした。この鮨一という店は、ミシュランの星を取ったり、外されたりしたそうで、高いようで、そうでもないようで、美味いという人もいれば、それほどでもないという人もあり、「白いばら」の凄さと比較したら、何かどうでもよくなってしまいましたよ…(笑)。