加計学園問題で追い詰められた?安倍首相は、マルタへ

目黒不動尊

やはり、一連の加計学園問題で、「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」などと盛り込まれた文書は、ホンマもんだったんですね。

前の文部科学省の最高責任者である事務次官だった前川喜平氏(62)が、新潮曰く汚れた銃弾「文書砲」と、読売巨人軍嫌いの「朝日新聞」の独占独白インタビューに応えて、「(怪文書ではなくで、正式の文書として)あるものを、ないことにするわけにはいかなかった」「行政が歪められた」などと吐露しております。

よほど勇気がいったことでしょう。今の御時世では、国家機密保護法、国防保安法でしょっ引かれるかもしれませんからね。

しかも、前川氏は、天下り問題で文部科学事務次官を辞任して、今や素浪人の身の上。何の後ろ盾もないわけですから、生命の危険に晒されるかもしれません。

よほど、今の安倍首相独裁政権に対して義憤に駆られたのでしょう。

目黒不動尊

その一方で、官邸サイドからの援護射撃は止まることを知りません。

菅官房長は「怪文書」とすっとぼけました。この事実は、「続々日本書紀」に明記しておかなければなりません。

また、前川氏が、新宿・歌舞伎町のデートクラブとかいう、いかにもいかがわしい場所に出入りしていた事実を、電波芸者のスシローや、政府広報機関紙讀賣新聞にリークして、この男がいかにも薄汚くて、信頼に欠ける人間か、一大キャンペーンを張っているんですからね。

それにしても、何で、前川氏がデートクラブに出入りしていたことが分かったのでしょうか?

決まってるじゃあ、あーりませんか。共謀罪法があるので、堂々とGPSやドローンや密偵や忍び、隠密剣士を使って前川氏の一挙手一投足すべてを監視していたわけですから。

何?まだ、共謀罪法は成立してない?そんなもん、あろうがあるまいが、現実はとっくに先に行ってますまんねんがな。

組合幹部、市民運動家、基地反対者、原発反対派といった反政府主義者、それに、身内の政党幹部、公務員、そして、念には念を入れて情報を一番掴んでいる料理屋の女将やミルクホールのマダム、料亭の下足番…みーんな、抜かりなく、張ってますまんねんがな。

治安維持法のおかげです

クレマチス

治安維持法は大正14年(1925年)、普通選挙法と引き換えに「飴と鞭」政策の一環で制定されました。

ときの内閣総理大臣は、憲政会の加藤高明(尾張藩士~東京帝大法首席卒~三菱~外相~貴族院議員)でした。

背後には、大逆事件で、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑し、東大新人会壊滅に功績があった枢密院副議長で後に首相も務めA級戦犯にも指名された平沼麒一郎ら司法界の後押しがありました。

治安維持法は、「國體護持」を目的として、私有財産を否定する共産主義者らを取り締まることを主眼に置かれました。

ですから、当局は、帝国議会答弁でも「一般の人に捜査が及ぶことはない」と一貫として説明しておりました。

それが、GPSを駆使して怪しいと思われる個人や結社を尾行し、時にはドローンを飛ばして、24時間365日監視体制の確立に成功しました。

もう特高などという人海戦術では古いですからね。

その収穫が、悪しき思想をばら撒いた北海道拓殖銀行員から作家に転向した小林多喜二や哲学者の三木清です。築地署で拷問を加えた多喜二の写真が密かに出回り、世間を震え上がらせました。これは、実に「一罰百戒」の効果がありました。

この前の国際諜報団ゾルゲ事件では、首魁のリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実を、治安維持法、国防保安法、軍機保護法違反などで処刑しました。

国際社会からは「よくやった」とのお褒めのお言葉を預かりました。

こうして、我々一般人は、枕を高くしてゆっくり眠られるわけです。

マスコミは懲らしめなあかん

ゴーヤチャンプル定食

衆院議員の大西英男様です。

1946年、東京都江戸川区生まれ。70歳。國學院大学法学部出身。

最近、マスコミによく登場するようになりました。「マスコミは懲らしめてやらなきゃいけない」と、つい口が滑ったのではなく、本音の本心を漏らしたことで、マスコミの連中から逆怨みを買っているのかもしれません。

足立神社

確かに、先週(2017年5月15日)、受動喫煙対策に関連した自民党厚生労働部会で、三原じゅん子議員が「働くがん患者に対応した対策を強化するべきだ」と発言したことに対して、「がん患者は働かなければいい」と野次を飛ばしました。はい、野次を飛ばしたのはワシです。はい、はい、はい、そうですよ。でも、謝罪したじゃありませんか。

足立神社

えっ?まさか、ここで昔のワシの発言を掘り起こしてくるわけじゃないでしょうね?

2014年4月の衆議総務委員会でのセクハラ野次?

上西小百合議員に対して、ワシが「早く結婚して子供を産まないとダメだぞ」と野次を飛ばしたって?

そんなことあったかなあ?…

えっ?まだある?巫女発言?ああ、ああ、ああ…あれは確かに言いました。言いましたよ、言いました。

2016年3月、衆議院北海道第5区補欠選挙の応援で札幌に行った時、神社の巫女から、急に「自民党はあんまり好きじゃない」と言われたもんだから、派閥の会合で、「巫女のくせに何だと思った」と発言しましたよ。はい、はい、はい、しましたよ。

でも、その巫女は、20歳くらいで、今回投票が初めてだというから、「夜のススキノにでも誘って、ひとつ口説いてやろうと思った」などと言ったとか、そこまでマスコミは書くんだからね。

如何なものか!

やはり、マスコミは懲らしめてやらなあかん。

あれっ?何で東京出身のワシが関西弁なん?

第6回戦国滝の城まつりと柏の城跡

滝の城まつり

昨日は、すっかり初夏の陽射しとなった天候の中、埼玉県所沢市の第6回滝の城まつりに行って来ました。

知名度が今一つないせいか、程よい人の集まりで、東京のように混んでいたわけではなく、ゆっくり堪能できました。

三の丸跡

場所は、渓流斎さまが御幼少の砌、野山を駆け巡っていたところに近いと言えば、近く、小学校の音楽担当の荻野先生がお住まいになっておられた東京都清瀬市の旭ヶ丘団地の裏手にあります。

昔の記憶でも、確かに「城跡」「城址」と言っていた小高い丘が、旭ケ丘団地の裏手を流れる柳瀬川1本挟んだ向こう側の県境の埼玉県所沢市にあった気がします。勿論、当時は今のように城巡りがブームではなかったので、まさに野ざらし状態で、誰にも顧みられることがなかった覚えがあります。

戦国武将行列

「滝の城(たきのじょう」は、木曽義仲の末裔と言われる信濃守大石氏(関東管領山内上杉氏家臣、武蔵守護代)が15世紀後半に築城したという説と、小田原三代北条氏康の次男で、十三代大石定久の娘婿北条氏照が、岩附領と滝山領の境目の番城とした、という説と、江戸城と河越城を築いた(1457年)太田道灌(扇谷上杉氏の家宰)が、両城を結ぶ清戸道の中間地点に築城したという説など複数あります。

およよ

いずれにせよ、全盛期は、相模の小田原城と関東の岩附城(さいたま市岩槻区)、河越城(川越市)を結ぶ中間地点の北条氏の要衝としての役目を果たし続けますが、最後は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで落城し、その後、廃城となってしまいます。

武将行列

大正14年(1925年)に、埼玉県の史跡文化財に指定され、その後、調査が進み、北条氏が多用した「障子堀」や滝の城の名前の由来となった滝跡、三の郭(くるわ)から10メートルの深さの井戸などが見つかったりしています。

いざ出陣!

写真のような戦国武将の格好をした人たちは、1週間前に埼玉県寄居町の鉢形城(文明8年=1476年、関東管領山内上杉氏家臣、長尾景春の築城と言われている)跡で行われる「鉢形城まつり」に出演した人たちを借り受けたものと、地元の人がそっと内緒で教えてくれました(笑)。

暑いなあ、疲れたなあ

その前に、滝の城の所沢市の皆さんが、寄居町の鉢形城まつりにお手伝いに行っているので、その返礼ということらしいです。

志木市柏の城跡

滝の城から数キロ離れた埼玉県志木市に柏の城跡があります。この看板の説明にある通り、ここは大石氏の居館でした。

大石氏は、小田原の北条氏の軍門に下る前に、八王子の滝山城を中心に、所沢市、志木市と今で言う東京三多摩と埼玉県南部を支配下に置いていたことが分かります。

柏の城は、今は小学校になっていて、全く面影も片鱗すらありませんでした。看板もほとんど目立ちませんし、地元の人でさえ知らない人が多いことでしょう。

女優を2号にした映画会社社長

天守台

東京の調布先生です。

たまに渓流斎ブログを見ますが、いつも詰まらないですね。それに、長い!

いつぞやは、gooブログのランキングで第22位に輝いたと自慢しておられましたが、昨日は第7232位に転落してるじゃないですか。実にぶざまですねえ。

共謀罪は所詮、他人事。カジノで100万円の損をして一家離散しようが所詮、他人事。北朝鮮からミサイルが飛んでかようが…あ、これは他人事じゃないか。(笑)

江戸城趾

渓流斎さんはまだお若いから知らないかもしれませんが、今では「ピンク映画」の代名詞になっている大蔵映画の大蔵貢が、新東宝の社長に就任して嵐寛寿郎主演で「明治天皇と日露戦争」(1957年4月29日公開)を製作して大ヒットしたことがあります。当時としては破格の7億円もの興収をあげました。

この大蔵貢(1899~1978)社長、実はもともと活動映画弁士だったんですよ。歌い手の近江俊郎の実兄ですから、声もよかったんでしょう。無声映画時代の大正~昭和初期は、活動弁士は花形で、スター俳優よりギャラがよかったそうです。

時代はトーキー映画となり、花形の活動弁士も職を失います。

先見の明があった大蔵貢は、弁士の多くが漫談家などに転向したのを横目に見て、映画小屋を買収して、興行主の道に進みます。

木曽の極貧の家庭で育ったため、大蔵はお金の大切さは身に染みていました。弁士時代から血の涙が出るほどの節約に努めます。以下は、電脳空間から拝借した大蔵の伝説談話です。

●金を貯めるにはまず使わない。
●女買いはしない。
●煙草は呑まない。
●骨身を砕いて働き、一分の暇があれば読書をして勉強する。
●生活に必要な金以外はすべて貯蓄する。
●貯蓄したら下ろさない。

こうして貯めたお金を元手にして、次々と映画小屋を買収し、実業家としての地位を固めていき、映画会社の社長にまで登りつめるのです。

大手門

大蔵貢の最大のエピソードは、女優の高倉みゆきを愛人にして、先の「明治天皇と日露戦争」での皇后陛下役など数々の映画に主役級で出演させたことでした。

これに対して、大蔵は「女優を2号にしたのではない。2号を女優にしたのだ」と言い放ち、周囲を煙に巻きました。

昭和35年のことです。この逸話は、もう知る人が少なくなってきましたね。

東大新聞のシンクロと共謀罪は一般人には関係ないというお話

東大新聞

 皆さんご存知の松岡総裁こと松岡將氏からご覧の通り、「東京大学新聞」(5月16日付)をその日に送ってこられました。

 ご自身の著作「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)と「王道楽土・満洲国の『罪と罰』」(同時代社)の2冊もが、同時に東大新聞の広告を飾ったということで、送って下さったのです。

 小生は松岡氏の私設応援団長ですから、宣伝になればと存じます(笑)。

 しかし、今時の学生さん、たとえ、名門有名国立大学とは言っても、学生の本分である本さえ読まないと言われていますからチョベリバ(死語)ですね。心もとない限りです。

 松岡將氏の御尊父二十世(はたよ)氏は、特に親しいわけではなかったようですが、あのゾルゲ事件の元朝日新聞記者尾崎秀実とは東大法学部~大学院での同級生。御本人の將氏は、命からがらの満洲引き揚げ者ながら、東大経済学部卒の霞が関官僚。御子息の聡氏は、東大理学部~博士過程修了で、スーパーコンピューターの世界的権威として知られている東工大教授です。

 親子孫の三代続いての東大ですから、遺伝もあるのかもしれません、と無責任にも書いておきます(笑)。

Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 写真の通り、その東大新聞の一面トップを飾っていたのが、大手広告会社に就職しながら過労自死された東大OGの特集で、思わず本文まで読んでしまいました。

 そしたら、昨日のNHKの夜7時のニュースで、亡くなった娘さんの母親が登場され、この東大新聞まで出てきて、編集長さんまで取材を受けていたので、妙なシンクロニシティを感じてしまいました。

 また、今朝の新聞を読んでいたら、没後39年経ってもいまだに注目されている「暮らしの手帖」の創刊者だった花森安治の展覧会の記事があって、気になって、調べたら、花森安治も東京帝大の学生の時、帝国大学新聞の編集記者だったとか。これもシンクロニシティですねえ。

 花森は戦中に大政翼賛会の外郭団体で、戦意高揚のコピーライターをやっていたという反省から、商品テストが売り物の「暮らしの手帖」を創刊する話は有名ですね。

 亡くなって39年も経つとは、こちとらも歳を取るはずです。

Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 戦後の治安維持法とも言われる「共謀罪」は、昨日の5月19日午後1時13分に強行採決されました。

 「一般人は対象にはならない」ということなので、皆さん安心しましょう。

 この法案の最高責任者の秋田県出身、高砂部屋かどうか知りませんが、金田勝年法務大臣は、まるで悪代官のようで、実に目付きも人相も悪いですね。それにアル中のような答弁。あくまでも個人的感想ですが、そう思っている人は、自民党の中にもいるかもしれません。私が東映の監督ならスカウトしたいぐらいです。

 まあ、日本一の頭脳集団である大蔵官僚出身ですし、法相不信任決議案を否決された優秀な人ですから、前言は撤回した方がいいかもしれませんが…。

 でも、今、政権を握っている皆さんは、いつまでも権力を手中にしていられると堅く信じて、共謀罪など自分には関係ないと、これも堅く信じ切っていることでしょう。

 しかし、今の権力者も、政権が倒れたり、歳を取って引退して一般人になった時、自分たちの蒔いた種が、火の粉となって我が身に降りかかってくるかもしれません。

Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 「そんなはずじゃなかった…」と言っても、もしかして、遅いかもしれませんよ。

大相撲の赤房、白房…て何?

江戸城趾

稀勢の里ブームで、大相撲人気が再燃して切符が手に入らないそうなので、専らテレビ観戦。

江戸の明暦の大火で、市中20万人の人口のうち、10万人(ほとんどが町民)が亡くなったことは以前書きました。

亡くなった方々は、本所の回向院に葬られたそうです。宗派に拘らない寺だったからだったようです。

その回向院では、資金捻出のため(?)、お上から勧進相撲が許可されていました。闇か、大っぴらか知りませんが、賭け相撲だったようですね。

現在も、相撲興行には顔役さんが欠かせないとか、相撲部屋同士で星取勘定のやり取りがあるとかないとか、といった話は、茲では触れません(笑)。

今日は相撲の土俵の上にある櫓の下の房のことを書きます。

江戸時代の浮世絵を見ると、相撲興行は戸外で行われ、屋根が付いた土俵で、ちゃんと4本の柱があったことが分かります。

この柱は、観客の見る角度では死角となって見にくいせいか、室内興行になると、いつから始まったのか定かではありませんが、屋根は吊り屋根となり、柱はなくなりました。その代わりに、4本の房がぶら下がっています。

ベテランの中継アナウンサーだと、「赤房下で…」とか、「白房下で…」とか解説してくれます。房に色が付いているわけです。

これは出鱈目に付けたわけではなく、風水、陰陽道、四神相応などから決まりがあります。これらは大陸から伝わりましたが、和風にアレンジされるようにもなりました。

何と言っても、相撲は神事ですからね。

まず、テレビ画面の手前を「正面」と言い、行司さんが立っている向こう側を「向正面」と言います。左が「東」、右が「西」です。東の方が西より上位で、番付によって変わりますが、同じ横綱でも東の方がその場所は格上になるわけです。

で、「房」の話でしたが、正面が「黒房」、向正面が「赤房」、東が「青房」、西が「白房」となります。(正確に書きますと、黒房が北西、赤房が南東、青房が北東、白房が南西)

これは、方位学によるもので、北が黒、南が赤、東が青、西が白だからです。

江戸城趾

これには「四神相応」と言って、その方角に四神が当てはまります。

北が玄武(亀みたいな神様)、南が朱雀、東が青龍、西が白虎です。そうです、奈良県明日香村のキトラ古墳にも描かれていたあの四神です。

相撲の話に戻しますと、正面が北、向正面が南…ということになるのです。そして、それぞれが四季にも相当します。色が四季の色だとも言えます。つまり、青は「あはし」赤は「あかし」、白は「しるし」、黒は「くらし」から来ていたのです。

整理しますと、
【東】左側(北東)=青房(青龍)・春
【南】向正面(南東)=赤房(朱雀)・夏
【西】右側(南西)=白房(白虎)・秋
【北】正面(北西)=黒房(玄武)・冬

奈良の平城京、京の平安京も、江戸城を中心にした江戸市中もこのような風水や陰陽道、四神相応などで街づくりされていたことがよく知られています。

特に、家康、秀忠、家光の三代将軍のブレーンだった南光坊天海大僧正が、江戸の都市設計計画に大きく関わったことは有名です。

しかし、その一方で、これら天海上人がつくったと言われる街づくりは、実はこじ付けで、後世の人による作り話だったという説もあるようです。

小生は、来週、休暇を取って、「江戸の五色不動尊巡り」をする予定ですので、自分なりに調べてみました。

かなり知っていたことでしたが、結構面白かったです。

この話はいつかまた。

本丸の加計学園問題は国民の血税が関わっている

大手門

「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」ー。ワオ!まるで、江戸時代か、一党独裁の中国か北朝鮮か、はたまたロシアになったような我国です。

首相が拡張販売員となっていると噂されている讀賣新聞を熟読しても、さっぱり分からなかったのですが、スクープした朝日新聞や、後追いした毎日新聞や東京新聞等を読むと、日本も殿様を頂点にした独裁縦社会に回帰したかのように見えます。

獣医大学の創設をタダで面倒みてもらっている加計学園の話ですが、大学の敷地は愛媛県今治市の市有地で36億7500万円。建設費が96億円。これら全てが助成金と称して、私学だというのに無料で払い下げられ、建物までつくってもらえるのですから、笑いが止まらないことでしょう。

わずか(?)8億円程度で土地を値引きしてもらった森友学園の籠池さんがこの話を聞いて、「ウチとこんなにもレベルが違うのに、何でウチだけ叩かれなきゃあきまへんね」と愚痴ったとしたら、大阪なら有権者の同情票が集まるのではないでしょうか?

どうやら、加計学園の理事長さんは、官邸の最高レベルさんの「刎頸の友」だというのですから、「良きにはかれ」と命令したのかもしれません。

この話は、もう三カ月も前から日刊ゲンダイや週刊誌で報道されていたのに、有耶無耶になっておりました。かつては加計理事長の名前は「首相の一日」に何度も登場して、酒を呑んだり、ゴルフをしたりするお仲間だということは世間に知れ渡っていました。

週刊誌等で報道され、殿様もさすがにヤバイと思ったのか分かりませんが、加計理事長さんのお名前は、その後一度も登場しなくなったのです。逆に怪しい。

官邸は「火消し」に必死で、「どこの文書とも分からぬもの。怪文書にとやかくコメントする筋合いはない」と開き直っておりますが、文書は文部科学省が作成したホンマもん。

文科省の誰かが、「文春砲」より影響力の強い朝日新聞に垂れ込んだのでしょうが、文科省もあれだけ「天下り問題」で朝日新聞から叩かれたというのに、見上げたもんですよ。

しかし何と言っても、助成金とは、国民の税金なんですからね。不正に対して国民が黙っている筋合いはないのです。

いくら無産階級でも、殿様から「貧乏人は麦を喰え」などと言われればさすがに怒りますよ。

マリー・アントワネットが「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃん」と言ったおかげでフランス革命が起きたという逸話を信じたくなりますよ(笑)。

100歳の精神科医が見つけた心の匙加減とは?

寿能城跡

最近は、電車の中でスマホばかりやっているため、読書の時間が疎かになってしまっておりまする(笑)。

書く方と読む方をどちらを優先するかー。どうも、最近は書き残しておきたい事項の方が多く、読むことよりも優先してしまいます。

それでも、最近読了したのが、 高橋幸枝著「100歳の精神科医が見つけた こころの匙加減」(飛鳥新社)です。タイトルの通り、百歳の現役精神科医が書いた本です。

100歳超の大先輩に聖路加病院の日野原さんという大御所がおられますから、あまり目立ちませんが、百歳の現役医師なんて本当に凄いことです。

寿能城主潮田忠之の墓

簡単に著者の略歴に触れますと、1916年11月2日新潟県生まれ。県立高田高等女学校を卒業後、海軍省でタイピストとして勤務。退職して中国に渡り、北京で日本人牧師の秘書。この牧師の勧めで27歳で医師を目指し、帰国。福島県立女子医学専門学校に合格して念願の医師になった人です。1966年に神奈川県秦野市に秦野病院を開設して、院長に就任して今も現役の精神科医として頑張っています。

この本は、著作としては何冊目なのか分かりませんが、自分の経歴や普段のお仕事で患者さんらと接触した感想や、自分自身の老いの問題などを随筆としてまとめたものです。

例えば、こんな調子です。

大宮公園

●人間とは暇があるからさまざまなことを考えてしまうのです。
「悩みがある」ということは、言い換えると「悩むほどの時間に恵まれている」という状態に他なりません。

●他人を気にし過ぎると結局損をします。

●80代でも新しい趣味は始められますよ。

●幸せに生きるためには、周りと仲良くすること。

●「誰かに喜んでもらえた」と感じたとき、人は充実感を感じるようにできています。

●見返りは期待せずに、誰かの幸せをひたすら乞い願う。ちょっと大袈裟に思われるかもしれませんが、そんな姿勢で過ごせることこそ、人として本当に幸せなことです。(著者の実弟高橋由喜雄氏は農水省の官僚を途中でやめて、秦野病院の事務長になった人。目の不調で65歳で事務長を辞め、回復してから市営駐輪場の自転車整理の仕事を続けました)

氷川神社

普通のOL(?)だった高橋さんが、医者を目指すことになったのは、中国で出会った日本人の牧師の勧めによるものだった、ということを経歴で触れました。

本文でも、その日本人の牧師は清水安三先生という名前だけ書いていますが、この人がどういう人なのか一行も書いていません。知らない人は知らないでしょう。高橋さんの人生で最も影響を与えた人のはずなのに、一言だけでも付け加えたらよかったのに、と少し残念に思いました。

私は、山崎朋子著「朝陽門外の虹」(岩波書店、2003年初版)を読んでいたので、清水安三のことを知っていました。この方は、北京のスラム街で、娼婦にならざるを得なかった貧しい少女らのために手に職が付くように女学校をつくった人でした。日本の敗戦で無一文になって帰国しながら、再起を図って、桜美林学園を創設した人です。

あれっ? よく読むと、最後の著者の略歴の中に、「1953年に東京都町田市の桜美林学園内に診療所を開設」とだけ書いてありましたね。これは恐らく、いや、必ず、清水安三先生からの依頼だったはずです。

藤田伝三郎を知っとるどすかえ?


藤田美術館

京洛先生です。

渓流斎さんとやら、駄目ですねえ。関東のローカル、しかも池袋みたいな場末の盛場の話ばかり書いていては駄目ですよ(笑)。

渓流斎ブログは、関西でも、京都三条商店会の「力」の女将さんをはじめ、多くの方に読まれているのですからね(笑)。

昨日取り上げて下さった藤田美術館及び藤田財閥の創業者藤田伝三郎の由来は、もうお分かりだと思います。藤田は長州出身で大阪で活躍した実業家です。甥の久原房之助は、日立、日産等の創業者の一人で久原財閥の総帥。久原の自宅は今、東京・白金の八芳園になっています。

 藤田伝三郎の大阪市都島区の豪邸は戦災で焼け、戦後、美術館や結婚式場の「太閤園」などが出来ました。美術館は老朽化したので、今回、建て替え修復するため、当分休館になったのです。
 そこで6月11日まで、所蔵品の”虫干し”も、兼ねた「ザ・コレクション」展をやっています。
 国宝9件、重文52件を所蔵する同美術館ですが、小生が見てきたのは「曜変天目茶碗(南宋時代)」「仏功徳蒔絵経箱(平安時代)」「紫式部日記絵詞(鎌倉時代) 」「玄獎三蔵絵巻第五(鎌倉時代)」「柴門新月図(室町時代)」「大般若経(奈良時代)」「深窓秘抄(平安時代)」などで、所蔵のほとんどの国宝が惜しげもなく並んでおりました。

 東京都内の美術館のように大勢の人でごった返していないので、ゆっくり、じっくり、これら国宝が眺められるのは何とも贅沢な機会でした。
 これで入場料が800円。しかも、道を隔てた宴会場「太閤園」のカレーライス、喫茶の出来る割引券まで付いているのですから有難いですね。

 あの東京・南青山の「根津美術館」内にあるチマチマした喫茶コーナーの混み具合とは雲泥の差です(笑)。

 緑が眼に染みる「太閤園」の景観は撮りませんでしたが、恐らく、渓流斎さんなら 「凄いですね!椿山荘みたいですね。こんな大きな庭を眺めていると気持ちが安らぎます」と感嘆されることでしょう。

 御存知、元勲山県有朋の大豪邸だった東京・目白の「椿山荘」も、今は藤田と縁のある「藤田観光」が経営していますから、同じような雰囲気、景観だと思われたら良いでしょう。

 藤田は長州の酒屋出身ながら、高杉晋作の奇兵隊にも参加しています。維新後、西南戦争で被服、食糧、軍靴、人夫斡旋などで巨万の富を築き、井上馨と手を組んだ贋札事件はじめ、様々な政治・経済の裏工作に関わり、莫大な資産を手に入れた人物です。明治時代、いかに大阪が「商都」として日本の経済を動かしていたかの例証です。

つまり、藤田はこれだけの国宝を収集できるほどの財力を蓄えたということです。

 今の「維新」とか言っても、”チンピラ弁護士”風情に振り回されていただけだったとは実に情けない。昨今、大阪がいかに地盤沈下して、善悪ともにスケールが小さくなったかがよく分かります。

 タレント弁護士さんは、文楽や曜変天目など伝統藝術には全く無関心で、見世物小屋の延長の「万博」程度しか興味がないのですから酷いものです。それをまた支持投票している有権者のおつむの中身も似たようなものでお粗末です。

【追記】

松本清張は、この藤田伝三郎贋札事件を題材にして、1995年に小説「相模国愛甲郡中津村」を発表し、真犯人は大隈重信説を唱えております。

明治十四年の政変で下野し、改進党をつくるために岩崎三菱から資金を得ていた大隈重信が、当時、三菱を脅かすほど台頭してきた藤田組を追い落とすための戦略だったとか。

もっとも、この説も、偽の手紙が根拠になったので、清張自身も眉唾ものとボカしてました。