オレオレ詐欺師に重罰を!

明治18年創業 新橋「むさしや」

早速、京都方面から飛脚便がやって参りました。

「渓流斎さんとやら、酒卸の岡永も知らなかったのですか?! 自称探訪記者も失格ですね」

はあ、おっしゃる通りです。

「岡永とSECOMとの関係も有名ですよ。その昔、飯田亮セコム最高顧問にお会いして、色々お話を伺ったことがあります。彼は若気の至りで最初は色んな商売に手を出して、ご尊父から『馬鹿野郎、商いは儲かればいいというもんじゃない。商いは信用が第一だ。一度、信用を失うともう二度と取り返しがつかないんだぞ。この恥さらしが!』と散々怒られて、今の警備会社を始めたのですよ」

はあ、なるほど、そうだったのですか。

「酒卸とはいっても、口銭商売ですから、一つ一つ積み重ねて、地道の努力で販路を広げて、信用第一で商いを広げてきたわけです。今のIT長者とはわけが違いますよ」

なるほど、なるほど。

「セコムの飯田最高顧問も、当時お会いした頃は、青年実業家として日の出の勢いで業績を伸ばしていた頃でした。若くてバイタリティーに溢れていました。いわゆる太陽族世代ですからね。それが、今や八十半ばになるのですからね。時間が経つのは早いもですよ」

なあるほど。

三軒茶屋 教学院

先日会った友人の岩本君から、とんでもない話を聞きました。

いわゆるオレオレ詐欺です。最近の犯罪はさらに巧妙化して、老人をコロッと騙してしまうのです。

彼の70歳代後半の老母に、ゆうちょ銀行員を名乗る男から電話がかかってきました。「最近、カード犯罪が多発して、パスワードが盗まれている。オタクもパスワードを変更した方がいいですよ」と優しくアドバイスしてくれたそうです。

すっかり、慌てて動揺してしまった岩本君のご母堂は、これで完全に犯人の罠にはまってしまいます。

犯人は、「こちらで、操作してパスワードを変更しますから、言ってください」と誘導尋問をするのです。ご母堂は正直に答えてしまいました。

続いて犯人は「預貯金は、ウチのゆうちょ銀行だけではないでしょう?この際、他の銀行の方もパスワード変更の手続きをしますから、お伝えください。これは、貴方様だけの特別サービスで無料でさせていただきますから大丈夫です」と言うではありませんか。

すっかり、相手の親切心に感動したご母堂は、犯人に言われるまま、全部の銀行のパスワードを教えただけでなく、この後、犯人が自宅にまで派遣した銀行員の格好をした手下に銀行カード5枚も渡してしまったというのです。

これで、後で分かったのですが。その日のうちに合計500万円も降ろされてしまいました。

夜遅く帰宅した岩本君が話を聞いて、夜中なのに、全ての銀行に電話して、カードをストップしてもらいましたが、500万円は手遅れでした。

もちろん、警察に届けましたが、詐欺にあった金額が丸々返ってくるかどうか…まず、泣き寝入りになってしまいそうです。

オレオレ詐欺のニュースは度々目にも耳にもしますが、こんな身近で起きるとは思いませんでした。犯人集団は、恐らく、騙されやすい老人の自宅住所と電話番号のリストを持っているということなのでしょう。

政治家の皆さんには、人権侵害するような変な法律を作る前に、こんな身近な、何年経っても減らないオレオレ詐欺の取り締まり強化と重罰化する法律改正に力を入れてほしいものです。

不逞の輩は、良心の呵責に駆られることなく、皆さんのすぐ隣で歩いているわけですから。

岡永を知らないなんて潜りですよ、渓流斎さん

水上勉記念館「若州一?滴文庫」 Copyright Par 京洛先生

 昨晩は久しぶりに酩酊してしまい、どうやって帰ったのか、覚えていません(笑)。お相手は、杉並区で出版社をやっている中学時代の同級生石田君。何か、彼だけは不思議と縁がつながっている友人で、何年ぶりかに会っても「おう、久しぶり」と言える仲なので有難い。

 場所は天下の東京駅近くの大衆居酒屋「加賀屋」。ここは、もう10年近くも昔に調布先生から教えてもらい、そこで雑誌編集者の小豆生田君とその後奥さんになった美人弁護士さんと初めてお会いした所でした。ここは、あの京セラ創業者の稲盛さんがちょくちょく顔を出すということで、「そう言えば、あれ以来行っていないなあ」ということで、石田君との待ち合わせをそこにしたのでした。

 いやあ、結論から先に言いますと、うるさかった(笑)。予約客で超満員でした。少し早めに行ったので、ギリギリ席を確保できた感じでした。あまりにも人が多いので、注文しても言葉が通じないのか、全然持って来ないし、他の人に頼むとすぐお代わりを持ってきてくれるので、コツを覚えたりしました。

 残念ながら、稲盛会長とお会いすることはできませんでした(笑)。 

Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 それにしても、天下の中心、東京・八重洲周辺もすっかり面影がないほど変わってしまいました。石田君も「東京もとうとう新宿化してしまったね」と言ってましたが、その通りでした。昔はもっと節度がある大人の街だったのに、いかがわしい客引きがいたり、いやに多くのつるんだ連中が歩道を横並びで歩いてふさいだりして、嫌になりました。

 その前に、東京駅構内も歩きましたが、異様な人ごみで、向こうからぶつかってきても平気な男でなく女が増えましたね。大きなボストンバッグを抱えた外人も増え、足の踏み場もなくなってきました。

 さて、「加賀屋」でしこたま呑んだ後、日本酒評論家の石田氏が是非とも行きたいと言っていた「ふくべ」にもお連れすることにしました。この店は、とにかく、日本酒の種類では東京都内でも1,2位を争うぐらいの品揃えがある居酒屋として、通の間では有名です。店内には日本各地の地酒の小さな酒樽が飾ったりしていて雰囲気があります。ここも、久しぶりでしたが、昔と比べて、妙にOL風の女性客が増えた感じでした。

 私は、石田君に「どうだ、この店は雰囲気いいだろ?」と言って、彼から褒めてもらえるかと思ったら、彼は浮かない顔です。

 店内に50本ぐらい並ぶメニューの全国の酒の看板を見ながら、「Aクラスの酒は置いてないな」と言うのです。そして、「Bクラスならある」とスラスラ言うのです。

 読者の皆さんも興味があると思いますから、特別にそっと、石田先生の仰るそのBクラスの日本酒をお教えしませう。得しましたね(笑)。

「出羽桜」(山形)、「一ノ蔵」(宮城)、「浦霞」(宮城)、「開運」(静岡)、「菊姫」(石川)、「五橋」(山口)、「梅錦」(愛媛)

 看板には私も愛飲している有名な「菊正宗」や「桜正宗」や「久保田」などもありましたが、もはやBクラスではないそうです。それらはもう大量生産で、「水増し」したりして、かなり味が落ちてしまっているというのです。特に蔵元で、先代が亡くなって、代替えすると、新しい頭領にやる気や利発性(思慮深さ)、味覚の拘りがなければ、どんどん味が落ちてしまうというのです。

 その中に、昔は銘酒の中の銘酒と言われていた「剣菱」(広島)も入るそうです。残念ですね。奮起を期待したいです。

 日本酒評論家石田先生のお勧めの「Aクラス」は、この店になかったので、後日教えてもらうことにしました。

 そして、彼はこう呟くのです。「この品揃えからすると、岡永だな」

 何、それ?岡永って何?

 石田先生にせがんで聞くと、岡永とは、東京、いや日本を代表する明治から続く老舗の酒の卸会社なんだそうです。要するに酒の流通の総元締めみたいなもんです。

 知らなきゃ潜りなわけです(笑)。

 そして、この岡永の創業者は飯田一族で、会長は、あの警備保障会社のセコム社長の飯田さんと兄弟だというのです。えっ?何? それも知らなかった。

 そこで、翌日、二日酔いの頭で調べてみました。

Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 そしたら、こんなサイトを発見しました。
 
 「実はあまり知られていない社長になった兄弟たち」http://the5seconds.com/brothers-president-984.html

 このサイトによりますと、飯田兄弟と言えば、業界ではかなり有名で、長男飯田博は酒卸問屋の「岡永」社長、次男保は居酒屋チェーン「天狗」で有名なテンアライド社長、三男勧はスーパーマーケット・オーケーストア社長、末弟亮はホームセキュリティのセコム社長(四男の方は事業家にならず)だというのです。

 へー、知りませんでしたね。岡永と天狗とOKストアーとセコムが兄弟だっとは!

 あの物識りの京洛先生もご存知でしたかねえ…(笑)。

 ま、非凡なる凡人(国木田独歩)は何の取り得もありませんから、長生きはするもんですね(笑)。パズルが解けたような気分で爽快です。

小選挙区制は独裁国家にする

亀戸「升本」

この度、帝国市議会選に立候補した仲里依紗男で御座います。

今節の森朋学園、家計学園問題等を見ましても、火のないところに煙は立たないのでありまして、安部心臓首相がいくら否定しても、縁故によるものであることは明々白々で御座います。

縁故とは「決められる政治」であり、決められる政治とは、まさに独裁政治であります。

21世紀の日本で、何故、独裁政権が誕生したのかと言いますと、その原因は20世紀末に細川衛熙政権が地味党の河野妖平総裁とタッグを組んで成立させた小選挙区制にあることは、選挙権のないお子様にでも分かる明々白々の事実なのであります。

先生御案内の通り、小選挙区制は1区に1人しか当選できません。わずか100票差で2位となっても落選し、死に票が累々と蓄積されるわけで御座います。

近頃の地味党政権を見ましても、得票数がわずか4割なのに8割もの議席を確保しているのが現状であります。

これが、小選挙区制の恐ろしさであります。

この仕掛け人は、今は「終わった人」地味党の小沢二郎幹事長でありました。彼は、自分の意のままに「決められる政治」をしたいがために、中選挙区制に固辞する政治家を「守旧派」と名指しで批判して、マスコミまで巻き込んで一大キャンペーンを張り、ついに地味党を飛び出して、細川連立政権を樹立することに成功したのです。

「政治改革」の美名の下で、小選挙区制に賛成したのは、朝日新聞はじめ全ての大手マスコミだけではありません。政治学者の佐々樹毅、山口一郎、それに田藁総一朗ら「リベラル」というお面を被った詐欺師集団もこれに同調して、こういう事態になったのです。

当時、小選挙区制に反対した政治を熟知した地味党、社外党の議員は、戦時中の大政翼賛会と「選挙」を戦った非推薦政治家と同じです。今なお、「リベラル」とかアホみたいな念仏を唱えて、反省もしていない山口一郎なんてのは姜尚大、藤原帰二らと同根です。彼らは「新体制運動」と呼んで東条英機独裁政権を生んだ近衛文麿(戦後自殺)とやったことは同じです。

アホなリベラルと違って、小選挙区制に断固として反対した政治家は、意外にも石原慎次郎と野仲広務ぐらいで、政治学者は佐伯思想という保守本流ばかりです。

帝国民ファーストなどといういかがわしい連中ではないのであります。

独裁安部政権は北朝鮮を批判していますが、今の日本は北朝鮮とまったく同じで、「誰が話を聞いてスパイしているか?」と戦々恐々としている時代なのであります。

もうすぐ「共謀罪」も成立しますから、さらに酷くなり、早晩、日本は密告社会になります。トントントンカラリンと隣組です。あっ?知らない?これまた、失礼いたしやんした!

渓流斎ブログとやらにも、さらに監視を強化して、反体制派の危険思想の取り締まりには、昨日打ち上げに成功したGPS衛星「みちびき」の精度を上げて参る所存で御座います。

以上、清き一票、宜しくお願い申し上げます。

清戸道、十文字学園、蒲田温泉、豊島氏、松崎煎餅

銀座

せっかく、泉麻人著「東京いい道、しぶい道」を読了したので、備忘録を残しておきます。(一部換骨奪胎)

 ●西武池袋線の推名町駅から江古田駅までを並行して走る通称「トキワ荘通り」。この辺りに、若き頃の漫画家手塚治虫や赤塚不二夫、藤子不二雄らが共同生活をするように住んでいたトキワ荘があったので、後になって付けられたものですが、ここは中世は「清戸道」と呼ばれていた。そう、清戸道は、賢明な読者諸氏の皆さまなら、2017年5月22日付の渓流斎ブログ「第6回戦国滝の城まつりと柏の城跡」の中に出てきたことを覚えていらっしゃると思います。

 清戸道とは、大田道灌の築城した江戸城と河越城を結ぶ道路でした。(その両城の中間に滝の城を築城し、豊島氏の石神井城を攻略したわけでした)

 なるほど、清戸道は、江戸城から北西方向に進み、目白を通って、西武池袋線沿いに推名町から清瀬まで行き、埼玉県の所沢を経由して川越に抜けていたんですね!

滝の城まつり

 ●豊島区北大塚にある十文字学園。大正11年(1922年)に、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)を出た十文字ことが設立した学校(当初は、文華高等女学校)です。ことの夫十文字大元がこれまた凄い。明治37年(1904年)に、日本で最初のガスメーターや水道メーターを製造販売する金門商会を設立し、学園はその工場の跡地らしい。十文字大元は、実業家だけでなく、活動写真弁士の創始者の一人とも言われます。長年神経痛に悩み、大正5年(1916年)に手技治療師だった中井房五郎(1878年 ~1931年)によって創案された健康体操によって、その神経痛が治ったことから、これを自彊術(じきょうじゅつ)と命名して普及に努めました。十文字学園も、この体操を身体教育として取り入れました。

 ●京浜急行「雑色」駅辺りから北上して環状八号線に近い蒲田郵便局辺りを走る蒲田本町通りは、「蒲田温泉街道」と呼んでもいいくらい黒いナトリウム系の温泉銭湯が集中している。南から「照の湯」「隆の湯」「ヌーランドさがみ湯」「蒲田温泉」など。締めは、京急蒲田駅近くの餃子屋「ニーハオ」で冷えたビールと一緒に。渓流斎、蒲田生まれながら、何も知らなかった…(笑)。

江戸城

 ●練馬区石神井公園にある道場寺は、14世紀後半から15世紀後半にかけて一帯を支配した豊島氏の菩提寺(太田道灌により滅亡)。この道場寺の奥に控えるのが、石神井公園の池の名前(三宝寺池)でも知られる三宝寺。門脇にある串焼きだんご「池田屋」は明治35年創業。三宝寺の山門は、御成門と名付けられているが、これは鷹狩り好きの三代将軍徳川家光がしばしばここを休憩地として使った「御成りになった」から由来するという。

 ●銀座並木通りにある「松崎煎餅」は文化元年(1804年)、魚藍坂(東京都港区三田~高輪)で創業。幕末の慶応元年(1865年)からこの場所にずーとある老舗中の老舗のせんべい店。

東京渡辺銀行が破綻しました

目黒不動尊の鷹居松

この渓流斎ブログを、現在病気療養中ながら、病院にスマホやタブレットを持ち込んで、読んでくださっている方もいらっしゃいます。

レハビリ中の方もいらっしゃいます。本当に有り難いことです。

ですから、本来なら、もっとしっかりした少しはまともなことを書かなければならないとは思っておりますが、ま、こればかりは仕方のないことであります(苦笑)。

江戸切絵図

で、最近、江戸五色不動尊巡りをするなど、すっかり江戸散歩に嵌っております。

そんな中、次期首相心待の石破茂さんと同級生の泉麻人さんが書いた「東京いい道、しぶい道」(中公新書)を面白く拝読してます。

この人の場合、江戸散歩とは違い、せめて明治大正、大体は昭和30年代という比較的新しい時代の地図を片手に散歩しているため、少し物足りなさを感じますが、それでも、この渓流斎さえも知らなかったことまで出てきます(笑)。

例えば、彼は慶応ですが、よく野球の早慶戦が終わった後、早稲田は新宿へ、慶応は銀座へ繰り出す、という話を聞いたことがあります。私は、部外者なので、慶応のおぼっちゃまは、あの銀座の何処に繰り出すのか疑問に思ってました。

それが、泉さんが慶応の学生時代によく倶楽部(あの有名な広告学研究会)の仲間と行っていたのが「Brick」だと書かれていて、「なあんだ、あそこならよく行ったことがある」と安心したものです。比較的安いショットバーです。

著者が散歩中に、よく元結不動だの、小岩不動だの、結構不動尊が出てきて、「嗚呼、江戸市中には、五色不動尊以外にかなり不動尊があったんだ」と今さらながら思い出した次第。

彼によると、成田不動尊と幡ヶ谷不動と高幡不動が江戸郊外の三大不動尊らしいですが、高幡不動は日野市にあり、かなり有名です。日野は新撰組の近藤勇と土方歳三の出身地であり、彼らも高幡不動を信仰していたはず。この本を読んで、いつか行ってみようかと思いました。

伊達上屋敷が日比谷公園の中だったとは知らなかった!

また、この本では、西日暮里の開成学園辺りの俗に言う「渡辺町」を取り上げております。ここは、「東京渡辺銀行の渡辺治右衛門が宅地開発した由緒あるお屋敷街」とだけ著者は解説しているので、実に歯痒い。かゆいところに手が届かない、と言いますか、浅薄。ここまで書くのなら何故、もっと東京渡辺銀行のことに触れないのか、がっかりしてしまいます。

東京渡辺銀行は、昭和金融恐慌の引き金となったそれこそ由緒ある銀行でした。

実際は優良経営だったのに、何を血迷ったのか、片岡直温大蔵大臣が、昭和2年(1927年)3月14日の衆院予算委員会で、「渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。誠に遺憾です」などと発言し、預金者の取り付け騒ぎが起きて、本当に破綻してしまったのです。

まあ、歴史の教科書に出てくる話ですが、教科書には決して出てこない話として、歌舞伎評論家の渡辺保氏がおります。

彼は、何とこのこの渡辺財閥の御曹司で、まだ物心つかない幼い時分から、芝居好きの祖母に抱っこされて歌舞伎座に通っていたようです。

勿論、六代目も十五代目も生で観ていたことでしょう。(これで分かれば、貴方も歌舞伎通)。

逆に言いますと、歌舞伎は庶民の物見遊山ではなく、財閥の御曹司でなければ観られないような高価な芸術だったわけです。

ローマは一日にしてあらず。渡辺保氏の書く歌舞伎評がパンピーと違うのは年季が全く違うからです。

家計学園物語

滝の城まつり

斉川龍之介 創作「家計学園物語」

阿部関白太政大臣 あたくしは、お友達のことを依怙贔屓したり、公僕に圧力をかけたり、口利きしたりした事実はありません。もし、発覚したら関白を辞めてやろうじゃあ、(一呼吸置いて)ありませんか。

前の事務次官後川 「関白の御意向」「神祇官の最高レベルが言っている」との竹簡文書は本物です。不当な圧力で、行政が歪められました。

滝の城まつり

須賀官房長官 文書は、今東が言うところの「怪文書」であり、式部省の聞き取り調査では存在の確認はできなかった。そもそも、後川次官は、不祥事を起こして既に式部省をお辞めになった方で、悪所に通い詰め、夜鷹と遊び、内裏の御意向に背いて恋々と地位にしがみついていた下衆野郎です。何でそんな男の言ってることが信用できようぞ。

前の事務次官後川 私は下衆野郎ではありません。須賀長官こそ大嘘つきです。私は、泉洋人関白補佐官から「関白の口から直接言えないから、俺が代わって言う。関白のお友達の家計学園ために、伊予国に班田収受法を施行して、動物大学をおっ建てなさい」ときつく厳命されました。

滝の城

京都工業大学 それは面妖な。我らは、もう30年も昔から動物大学設立の申請を式部省に毎年してきたのになしのつぶて。これでは、関白のお友達の家計学園を依怙贔屓したことは明々白々の事実じゃあーりまへんか。

須賀官房長官 そういった事実は御座いません。既に正式な手続きを踏んで班田収受法は施行されました。

森朋学園児 こうして安心して暮らせるのは阿部関白のおかげです。阿部関白、万歳!阿部関白、万歳!

つづく

慈眼大師南光坊天海大僧正の都市計画

目黒不動尊

昨年百歳の天寿を全うされた志田忠儀さんの著書「ラスト・マタギ 98歳の生活と意見」(角川書店)を読了しました。

志田さんは大正5年(1916年)、山形県大井町生まれ。戦中は三回も召集されて、足掛け10年間も中国で軍隊生活を送り、戦後は磐梯朝日国立公園の管理人や朝日連峰の救助隊なども務めた方です。

こういう生活をした人がいたとは、私のようなシティーボーイには全く想像もつかず。奇跡のような感じがしました。

目赤不動尊

さてさて、以前から宿題となっていた慈眼大師南光坊天海大僧正による江戸都市計画について、まとめておきましょう。

天海上人(1536?~1643)は、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、107歳の天寿を全うしたとか、130歳まで生き伸びた聖人だのという伝説の持ち主です。

江戸は、家康が天正18年(1590年)に入府して以来、沼地で人が住めない土地を埋めたり、利根川の水流を変えたりして、100万人が住めるような大都市に変革させていきます。

(江戸城の三の丸辺りで崖地になってますが、そこが武蔵野台地のキワだったようです。日比谷も銀座も築地も全て江戸時代からの埋立地です)

人間に最も大切な飲み水である神田上水や玉川上水を郊外の井の頭や多摩川から市中に引きます。

目黒不動尊
そして、江戸の都市づくりに、風水、陰陽道、五行説、四神相応などを取り入れて将軍に助言したのが、この天海上人です。

風水によると、北には山、南には池や海、東には川、西には道がある街は、邪気を跳ね除けられ、運気が高まると言います。

これを江戸に当てはめると、江戸城を中心にして、北に「山」である麹町台地とその先に富士山がある。南には「海」である江戸湾、東には「川」である平川、隅田川が、西には「道」である東海道があるーといった具合です。

そして肝心なのが、祟りや悪を封じるために鬼門(東北)と裏鬼門(西南)の方角に神社仏閣を設置して怨霊を鎮めるという思想です。

そこで、江戸城の鬼門には、徳川家の菩提寺である上野寛永寺を創建し、大手町にあった平将門の霊を祀った神社を移転して、神田に神田明神(神田祭り)として創建する。中世からあった浅草の浅草寺(三社祭り)も鬼門の範囲内とする。

鬼門の東北の方角には、さらに遠方の日光に家康を祀る東照宮を設置することで完成させます。

西南の裏鬼門には、太田道灌の河越城の山王権現を移転して祀る日枝神社(山王祭り)を創建し、やはり、徳川家の菩提寺である増上寺も設置する。裏鬼門の南西の方角には目黒不動尊も入れる。

そしてはるか遠方ながら静岡県の久能山東照宮で完成させるといった感じです。

目黒不動尊

これら天海上人による都市づくりを真っ向から否定する人たちもおります。そもそも天海上人は107歳も生きていないと異議を唱えます。江戸城の北に富士山が見えるわけがないので出鱈目だとも言うのです。

また、鬼門に浅草寺を入れたり、裏鬼門に増上寺や目黒不動尊を入れたりするには方角的に無理があると言います。

確かに一理あります。こじつけが散見されますから。

他に外堀の奥の四谷門、牛込門、浅草橋門などにも平将門の手や足を祀った神社もありますが、これらも眉唾ものだと批判する人がいます。

しかし、私はよしんば真実とは遠く、違っていても、天海上人による街づくりは、江戸庶民が信じた「共同幻想」のような気がしてます。

五街道に配した五色不動尊も、鬼門封じの神田明神、裏鬼門封じの日枝神社も非科学的で、効力も何もないのかもしれません。

亀戸「升本」

でも、少なくとも江戸の庶民は、いや武士や殿様も信じようとし、確かに信仰したことは事実です。それが伝統文化というものです。

何でも非科学的だと言って、排除してしまっては、その時代、時代に生きた人々の生活を否定するものだと、私は思っています。

江戸五色不動尊巡り(下)

目黒不動尊

前回の続きです。

【五色不動】
・目黄不動尊(最勝寺・江戸川区平井)⇒奥州道
・目赤不動尊(南谷寺・文京区本駒込)⇒上州道
・目白不動尊(金乗院・豊島区高田)⇒中山道
・目青不動尊(教学院・世田谷区太子堂)⇒甲州道
・目黒不動尊(瀧泉寺・目黒区下目黒)⇒東海道

でしたね。それでは一つずつ辿って行きましょう。

1番【目黄不動尊】

上記のように、現在の目黄不動尊=天台宗最勝寺は、東京都江戸川区平井(総武本線平井駅)にあります。もう一つ、台東区三ノ輪の天台宗永久寺にも目黄不動尊があります。「本家本元」争いをしているわけではないようですが、目黄不動尊は、明治以降に出来たという説もあり、私もよく分かりません。

でも、上記写真の縁起によると、最勝寺は貞観2年(860年)に、慈覚大師円仁(794~864年)が墨田区の本所で開山したようです。

最勝寺

古代中世から寺社仏閣は、荒川掘削や震災、火事など色々な理由で、度々移転するか、させられているようで、江戸川区平井には、他に天台宗の成就寺、浄土真宗の善通寺、日蓮宗の大法寺などが移転してきて、さながら寺町となっています。成就寺には、清元延寿太夫や越知ニ楽(兵学)らの墓もありました。

最勝寺

一説では、家康が鷹狩りした際に、本所にあった最勝寺に立ち寄り、そこで見たお不動様を「目黄不動尊とせよ」と仰せつけられたとか。

最勝寺は、程よい広さと言いますか、目黄不動尊に参拝するにはちょうど良い寺かもしれません。

目黄不動尊

目黄不動尊は、1メートル27センチで、江戸川区の文化財に指定されております。

2番【目赤不動尊】
目赤不動尊

文京区本駒込の天台宗南谷寺(なんこくじ)にあります。上記の縁起を読んで頂ければ、解説することは一つもありませんが、もともと動坂(本駒込)にあった伊賀国の赤目不動尊を、三代将軍家光が、「これからは目赤不動尊とせよ」と命じたらしいですね。

目赤不動尊

目赤不動尊、本来の赤目不動尊は1尺2寸(50センチ)程度の大きさだったらしいので、今の目赤不動尊がいつ頃鎮座されたのかよく分かりません。また、境内も恐らく、江戸時代はもっともっと広かったと思われますが、猫の額ほどの狭さとなっておりました。

目赤不動尊

本駒込もいわゆる寺町で、南谷寺の近くには、十一面観音像で有名な浄土宗定泉寺や、武蔵野市吉祥寺の方が有名な曹洞宗吉祥寺があります。

今回、時間がなくて残念ながら吉祥寺にはお参りできませんでしたが、吉祥寺に関する面白い逸話があります。もともと、吉祥寺は駿河台にありました。それが、例の江戸市中100万人の人口のうち10万人も犠牲になった明暦の大火で被災し、寺の焼失は免れたものの、門前の住人は焼け出されて、武蔵野に移住し、そこで開発した新田に吉祥寺村という地名を付けたそうです。だから、武蔵野市にお寺はないのに、吉祥寺の地名が現代にも残っているわけです。

目赤不動尊

駿河台の吉祥寺は、その後、焼失して、今の本駒込に移転します。そして、もう一つ面白い逸話は、駿河台吉祥寺境内に文禄元年(1592年)に寺子屋に近い「学寮」が設立されたことです。吉祥寺が本駒込に移転されると、それは「栴檀林」と命名され、これが、「曹洞宗大学」などと名称を変えて、現在の駒澤大学とつながるというのです。

ですから、駒澤大学は今年、創立425年と言ってますから、世界でも最も古い大学の一つと言えるでしょう。

3番【目白不動尊】
目白不動尊

目白不動尊は、豊島区高田の真言宗豊山派の金乗寺にあります。JR目白駅からだと歩くと30分ぐらいかなという感じです。バスに乗っていたので、推測というより感覚に近いですけど(笑)。

でも、正直、ここが一番がっかりしました。境内は狭いし、不動尊も秘仏らしくよく見えませんでしたから。

寺の周囲は超高級マンションなどなどが立ち並ぶ高級住宅街でしたから、時代を経るごとに境内の敷地が狭くなっていったと想像します。

金乗寺も、文京区関口から移転してきたようです。

倶利伽羅不動庚申塔

境内にある「倶利伽羅不動庚申塔」(くりからふどう こうしんとう)が大変有名で、寛文6年(1666年)に建てられたそうです。不動明王の法形(ほうぎょう)を現しているらしい。

目白不動尊

がっかりしましたが、五色不動尊の中で、金乗院だけは一番立派な「しおり」をくださいました。

4番【目青不動尊】
目青不動尊

目青不動尊は、世田谷区太子堂の天台宗最勝寺教学院にあります。

山本さんがお住まいの三軒茶屋の駅の直ぐ近くにありますが、ここに目青不動尊が鎮座されていたとは全く知りませんでした。境内に入ると喧騒から遠ざかり、罰当たりな言い方かもしれませんが、なかなか雰囲気のある静かなお寺でした。

目青不動尊

縁起にありますように、教学院は応長元年(1311年)、玄応大和尚により江戸城内の紅葉山に創建され、その後、度々移転してから慶長9年(1604年)、青山南町に移転し、明治42年に現在の三軒茶屋に移ったようです。

目青不動尊

目青不動尊は、もともと麻布谷町にあった正善寺の本尊でしたが、廃寺となり、教学院に遷されたということです。

像は、慈覚大師円仁の作と言われ、1メートル余。青銅製で、五色不動尊の中で、唯一、牙歯がないそうです。

大久保家歴代の墓碑

境内には相州小田原城主大久保家の歴代の墓もありました。

5番【目黒不動尊】
目黒不動尊

目黒不動尊は、目黒区下目黒の瀧泉寺にあります。

ここは凄い。今まで巡った不動尊の欠点を全て帳消しにしてくれました。

目黒不動尊

何しろ、熊本市と千葉県成田市と並ぶ「日本の三大不動尊」の一つと言われていますから、ここだけは、境内の広さと言い、趣といい、誰に見せても恥ずかしくありません(笑)。

目黒不動尊

逸話では、江戸時代、目黒一帯は、丘陵や滝や川などの自然に恵まれ、風光明媚で、旅籠屋や飯屋などもあり、江戸の庶民の遠足、いわば小旅行地だったらしいですね。富くじも幕府から認められていたとか。

富くじは1本3両(3万円)。やはり、高いので、長屋の連中が何人か集めて共同で買っていたらしい。当たりは千両(1000万円)だったそうな。

目黒不動尊

三代将軍家光も鷹狩りで、8回も目黒を訪れたという記録があるらしい。となると「目黒のさんま」とは、家光公の話だったのかしら?

大日如来

瀧泉寺には大日如来様も鎮座しておりました。

【追記】

五色不動尊は、最寄駅からでも結構距離がありましたので、バスツアーで一挙に廻ってしまうことは正解でした。

江戸時代、五色不動尊がある本所=墨田区(目黄)、動坂=文京区本駒込(目赤)、関口=文京区(目白)、青山南町=港区南青山(目青)、下目黒=目黒区(目黒)を歩いたとしても、3日もかからなかったでしょう。

バスツアーには、お昼に亀戸大根の老舗(明治38年創業)「升本」の定食(1980円ぐらいか)が付き、ガイドさんの説明もあり、これで7980円なら安かったかもしれません。

御朱印は一件300円でしたが、私はもう何も収集する趣味も意志もなくなりましたので、御賽銭をして、思い出だけを残しました。

前川喜平様は正義感に溢れた人です!?

東京タワー 赤羽橋

渓流斎ブログの5月25日付「加計学園問題で追い詰められた?」に、unknownさんから「大手マスコミの本性」というタイトルで鋭いコメントを頂きました。どうも有難う御座いました。

いやあ、よく目配りされてますね。私は、朝も昼もワイドショーを見る時間はありませんけど、テレビはすっかり洗脳マシーンになっているようですね。

加計学園問題もいよいよ佳境に入ってきました。

殿外遊中の留守を預かる秋田県出身、法政部屋所属の留守居番菅義偉(すが・よしひで)官房長官も火消しに必死です。

そこで、またまた、火消し役人菅さんに乗り移って、霊言を聞いてみたいと思います。

亀戸「升本」

ー何しろ、殿のイデオロギーに心酔した森友学園の負け賃が8億円。殿の鷹狩り仲間の加計学園は土地代と建設費込みで132億円と桁があまりにも違い過ぎる。どうせ、庶民の税金だから、殿のご意向でどう使おうが知ったこたあ、あらへんけど、何しろ、野党や市民運動家の連中が煩すぎる。早く共謀罪ができないものか!

殿は「俺の意向が働いたという証拠があれば、いつでも殿を辞めてやるわ」なんぞと啖呵を切ってしまったから、これは何としても隠匿せなあかん。こちらのクビも危うくなるからな。

せっかく、文科省に手を回して、「見ざる、聞かざる、言わざる」の箝口令を敷いて、有耶無耶にすることに成功したと思ったら、何だ、文科省の前事務次官という野郎が、文春砲と朝日新聞に垂れ込むだけでなく、記者会見までしやがって!せっかく、穏便に済まそうかと思ったら、首相広報機関紙讀賣新聞や我らが同朋産経新聞まで書きやがって!

この前事務次官、前川清か後藤喜平か知らんけど、あ、前川喜平て言うの?官房機密費を使って、あ奴の下半身を全て調べて、歌舞伎町の出会い系クラブに足繁く通い詰めていた事実を発掘して、マスコミにリークさせてもろたのに、振り出しに戻ってしまったわいな。

あ奴は、記者会見で、まるで何でも鑑定団のように、「あの文書は本物だ」「内閣府に押し切られた」なぞと抜かしやがって!

そもそも、あ奴は、文科省天下り問題で、OBの再就職のあっせんに直接関与していた張本人でっせ!それなのに、責任者として自ら辞める意向を全く示さず、地位に恋々としがみついていた。まさに恋々とね。そんな奴の言うこと、信用できまっか?

ま、殿がいない間、ワシの役目はあ奴の信用を谷底にまで失墜させて、証人喚問を絶対阻止することだもんね。それさえ、うまくいけば、馬鹿な庶民はすぐ忘れるよ。

滝の城まつり

えっ?あ奴が何で、あそこまで虚勢を張っていられるかって? …知らないなあ。事務次官をクビになって、食うに困って、路頭に彷徨っているから、気でも違ったんじゃないの?

えっ? あ奴は、冷凍会社では世界三大メーカーの一角を占める日本最大手の前川財閥の三代目だから、仕事なんかしなくたって、食うに全く困らない?

えっ? 何? あ奴は、今日99歳の誕生日を迎えた大勲位中曽根康弘元総理の御子息中曽根弘文元外相の義兄ですって?

なあんだ、早く言ってよ!誰だ、前川喜平様に悪態を吐く奴は!許しませんよ!わたくしは、最初からあんな正義感に溢れた義侠心のある士(おとこ)はいない、とさっきから、そう申し上げているわけで御座いまする。はい。

(事実をもとにした創作です)

江戸五色不動尊巡り(上)

明治38年創業 亀戸大根の老舗「升本」 予約なしでは入れないとか 大根ステーキは超格別、しかし…

5月24日(水)、お休みを頂いて「江戸五色不動尊巡り」のバスツアーに参加してきました。36人の参加者の平均年齢は75歳かなあ…(笑)。5分の4が女性と圧倒的。教養のない下衆男は、文楽の助成金を減らしたりするから、これで日本の伝統文化も安心だあぁ…

目白不動尊

 御説明するまでもないでしょうが、不動尊とは不動明王の尊称で、大日如来がお姿を変えて悪を討ち払うためにこの世に現れた化身のことです。如来とは、悟りを開いたお釈迦様のことです。ちなみに、このブログでよく登場する赤坂不動尊は暗号なので違います。

目黒不動尊 独鈷の滝

 そして、五色不動尊とは、陰陽五行説などの影響で、目の色の違いで、五つに分かれます。すなわち

 【五色不動】とは

・目黄不動尊、目赤不動尊、目白不動尊、目青不動尊、目黒不動尊

 このうち、目白と目黒は、現代でも東京の地名や駅名に残っていますから馴染みが深いことでしょう。

三代将軍家光の頃、慈眼大師天海大僧正の発案などもあって、江戸5カ所に五色不動が建立されたといいます。

大日如来(目黒不動尊)

しかし、「五色には 二色足りない江戸不動」という川柳があるぐらいですから、実は、目白、目赤、目黒の三色は確かにあったものの、目黄と目青は、明治以降につくられたものだ、という説もあります。目黄不動は、他に2カ所あるという説もあります。

とはいえ、江戸庶民の信仰の対象となったことは事実であり、私は、各寺の掲げる「縁起」とガイドさんの説明をもとに、これからお話を展開していくつもりです。

名所江戸百景

まず、これらの五カ所の不動尊は出鱈目につくられたわけではなく、江戸五街道に合わせて置かれたといいます。五街道というと、本来なら、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道のことを指しますが、上の五色不動は以下の街道沿いにあったと思われます。

【五色不動】の場所

・目黄不動尊(最勝寺・江戸川区平井)⇒奥州道
・目赤不動尊(南谷寺・文京区本駒込)⇒上州道
・目白不動尊(金乗院・豊島区高田)⇒中山道
・目青不動尊(教学院・世田谷区太子堂)⇒甲州道
・目黒不動尊(瀧泉寺・目黒区下目黒)⇒東海道

イラストで地図を書けないのが実に残念ですが、バスツアーは、この通り、上から順番に北から南へ降りてきた感じで廻りました。

バスだと半日、いや早足なら数時間で全部の五色不動尊をお参りできますが、江戸時代は徒歩ですから、3日かかったそうです。

蛙さん(目黒不動尊)

しかし、この話は眉唾ものです。なぜなら、目黄不動尊のある最勝寺は、大正2年に移転したもので、もともと墨田区本所にあったそうです。目白不動尊は、文京区関口にあったようです。目青不動尊の教学院も、かつては江戸城内紅葉山に創建されたそうです(となると、庶民がお参りできないじゃん=笑)。

あっ?堅いことは抜きにしますか?私の今回のお参りの最大の目的は、長い間患った病気平癒の御礼でしたからね。
それでは、各寺の縁起と私の印象記については次回また―。